バブル不況からの再建——高島準司の現場再建と都心ビル路線の継続
孝行息子の賃貸ビルが不況に沈むなか、後発デベロッパーはどう傷を負いながら立て直したか
更新:
- 概要
- バブル崩壊後の不動産不況で業績が悪化した住友不動産が、1994年6月に社長へ就いた高島準司氏のもとで組織のスリム化と事業整理を進め、傷を負いながら都心賃貸ビル路線を継続した経営判断。1997年に第一次中期経営計画を策定し、3年単位の中期計画を軸とする経営へ切り替えた。
- 背景
- 後発デベロッパーとして安藤太郎氏の下で都心オフィスビル賃貸に集中して立て直してきた住友不動産だが、バブル崩壊で1990年代の不動産価格下落が直撃した。連結の営業収益は1993年3月期の4465億円から1994年3月期に3880億円へ縮み、最終損益は赤字に転じた。
- 内容
- 賃貸ビル事業を「孝行息子」に育てた高島氏が、現場からいきなり再建の本丸に立った。肥大化した組織をスリム化するため8本部42部3室を6本部28部に改廃し、ビル事業の不振をマンションや住宅子会社で補って3年後の飛躍を期した。会長・安藤氏は不況を「経営者の大学院」と語り、正面からの乗り切りを説いた。
- 含意
- 再建の途上でも価格下落は続き、1998年3月期に特別損失681億円を計上して最終赤字に沈んだ。それでも都心賃貸ビルの開発・取得はやめず、翌1999年3月期に黒字へ戻した。安藤氏が築いた都心ビル集中の路線は、バブル崩壊の試練を越えて基本構図として残った。
逆張りを守るという再建
この再建の核心は、危機のなかでも会社の基本路線を変えなかった点にある。バブル崩壊で賃貸ビルの収益が沈んだとき、事業構成を大きく組み替えて身軽になる道もありえた。だが住友不動産が選んだのは、肥大化した組織を削って身を軽くしつつ、安藤太郎氏が逆張りで築いた都心オフィスビル集中の路線は手放さないという再建であった。特別損失を計上して最終赤字に沈んでもなお都心ビルの開発・取得を続けた判断には、価格が下がったときこそ好立地を仕込む好機だという読みがうかがえる。
もっとも、路線を守り抜けたのは、賃貸主体で被害が比較的軽く済んだという安藤時代の備えがあってのことでもあった。不況を「経営者の大学院」と語った会長の反省と、現場からきた社長のリストラへの迷いのなさが、危機の再建を両側から支えた。傷の深さと、路線を変えない胆力とは、時に紙一重で成否を分ける。住友不動産のその後のビル賃貸収益の伸びは結果として判断を裏づけたが、価格下落がさらに長引いていれば評価は変わりえたともいえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
バブルが残したもの
住友不動産は、住友グループのなかでは後発のデベロッパーであった。1974年に住友銀行から転じた安藤太郎氏が社長に就くと、郊外宅地が脚光を浴びる時期に住宅部門を縮小し、経営資源を新宿副都心をはじめとする東京の都心オフィスビル賃貸へ振り向ける逆張りで会社を立て直してきた。ところがバブルが崩壊すると、1990年代を通じて不動産価格の下落が続き、賃貸ビルを柱とする同社にも打撃が及んだ。連結の営業収益は1993年3月期の4465億円から1994年3月期には3880億円へと縮み、最終損益は赤字に転じた[1]。
会長に退いていた安藤氏は1992年、この不況を「経営者の大学院」と呼んだ。株や土地の騰貴が永遠に続くと皆が思い込んだのがバブルであり、積極拡大論者だった自らもその途中で「これはおかしいぞ」と思い始め、金利が上がって過剰流動性が是正されれば地価も下がるはずだと社内にチェックを指示した。ところが地価は下がるどころか上がり、新しい土地を買うなという指示は緩んでしまった。賃貸が主体で被害は比較的軽く済んだものの、「買わなきゃよかった」と思う物件はいくつかあり、手綱の引き締めは中途半端だったと深く反省していた[2]。
決断
現場の切り札
1994年6月、高島準司氏が社長に就いた。東京大学法学部を出て当時花形の石炭産業へ進み、住友石炭鉱業の北海道・赤平炭坑では炭坑労働者家族のよろず便利屋として、社宅の修繕からゴミ集め、幼稚園の入学手続きまでを担った異色の経歴の持ち主である。1971年に住友不動産へ入り、新規事業の開発を担当してホテルやゴルフ場からマムシの養殖まで検討した末に賃貸ビル事業を選び、売り上げの6割以上を稼ぐ「孝行息子」に育て上げた。そのビル事業がオフィス不況で苦戦するなか、現場からいきなり再建の本丸に立った[3]。
高島氏はリストラに迷いはないとして、肥大化した組織のスリム化に着手した。8本部42部3室あった組織を6本部28部へと改廃し、ビル事業の不振をマンションや住宅子会社の頑張りで補って3年後の飛躍を期した。「イエスマンは不要」を持論に、料亭を嫌って毎週のように若手社員を居酒屋へ連れ出し、機構改革の狙いを語り合った。この再建の動きは、1997年の第一次中期経営計画の策定へとつながり、住友不動産は以降、3年単位の中期計画を軸とする経営へ切り替えていった[4]。
結果
傷を負いながら都心ビルを続ける
再建の途上でも不動産価格の下落は止まらなかった。1998年3月期には特別損失681億円を計上し、連結の当期損益は660億円の赤字に沈んだ。それでも住友不動産は、バブル期に拡大した事業を整理する一方で、都心賃貸ビルの開発・取得はやめなかった。並行して1995年に規格住宅を、1996年4月には戸建住宅の全面リフォームを建替えの半額以下の定額制で提供する「新築そっくりさん」を投入し、ビル賃貸一本に頼る事業構成を避ける布石を打った[5]。
深い傷を負いながらも都心ビル投資を続けた判断は、翌1999年3月期に連結当期純利益109億円と業績を黒字へ戻し、2000年代以降のビル賃貸収益の成長につながった。他社がバブル後にREITの活用へ方針を変えていく時期にも、住友不動産は自社でビルを保有し続ける路線を貫いた。安藤氏が築いた都心ビル集中の路線を、高島氏の現場再建が引き継ぎ、バブル崩壊という試練を越えて基本構図として残したとみることができる[6]。
- 日経ビジネス 1992年6月1日号「有訓無訓 安藤太郎 不況は経営者の大学院」
- 日経ビジネス 1995年2月27日号「新社長登場 高島準司氏 現場の“切り札”、再建に力こぶ」
- 住友不動産 有価証券報告書【業績】・社史(1998年3月期・連結、特別損失681億円)
- 住友不動産 会社年鑑(連結業績)