減量経営による約2,600名の人員削減
1978年実施赤字に転じた主力・繊維事業を前に、社長・大屋晋三はなぜ「4人に1人」の人減らしに踏み切ったか
- 概要
- 1978年、合繊不況で主力の繊維事業が採算割れに陥った帝人が、大屋晋三社長の主導で半年間に従業員の約4人に1人にあたる約2,650名を減らす急激な人員削減(減量経営)に踏み切った経営判断。
- 背景
- 1973年の石油危機を境にポリエステルなど合成繊維の市況が構造的な不況へ転じ、帝人も1978年3月期の単独決算で経常損益が赤字に転落した。「主力の繊維でもうからなくなった」という認識のもと、拡大期に膨らんだ人員の圧縮が急務となっていた。
- 内容
- 1977年に導入した転職者援助制度の対象を1978年7月から全社員へ広げ、中高年を専従会社へ移籍させるなどして半年で約2,650名を削減した。内訳は制度への応募1,550名・専従会社移籍700名・自然減400名で、6人の課長が2人に減る職場も出るほど荒っぽい肩たたきが展開された。
- 含意
- 拡大を前提に増員を重ねてきた経営からの明確な転換であったが、その荒さは社内の反発を招き、社長の経営責任を問う怪文書「繊維新報」が出回った。減量で当面の危機は越えたものの、大屋社長のワンマン経営が推進した未来事業の失敗も重なり、東レ・旭化成に業績で水をあけられる結果となった。
「昔の人数に戻す」という決断の重さ
この経営判断の核心は、拡大を前提に膨らませてきた人員を、収益力に見合う規模まで一気に引き戻した点にある。「主力の繊維でもうからなくなった以上、人の数は昔に戻す」という大屋社長の言葉は、高成長期の成功体験を自ら否定するに等しい。半年で従業員の約4人に1人が職場を去るという速さは、危機の深さと、経営側が退路を断って臨んだ姿勢の両方を映していたとみられる。合繊不況という外部要因が引き金であった以上、規模の圧縮は避けられなかったものの、その進め方が現場に残した傷は小さくなかった。
もっとも、この減量が帝人を再建の軌道に戻したとは言い切れない。人員は圧縮できても、大屋社長のワンマン経営が推し進めた石油開発などの未来事業は実を結ばず、東レ・旭化成との差はむしろ開いた。減量経営が当面の赤字を止血する対症療法であったのに対し、成長の柱をどう作り直すかという本質的な課題は、大屋社長の急死後に発足した徳末社長の新体制へと持ち越された。人をどれだけ減らすかではなく、残した事業でどう稼ぐか——1978年の荒療治は、その問いを帝人へ突きつけた転換点であったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
石油危機後の合繊不況と繊維事業の失速
帝人は、レーヨンを源流とし、戦後にポリエステルなどの合成繊維へ軸足を移して成長した繊維メーカーである。しかし1973年の石油危機を境に、合成繊維の市況は世界的な供給過剰と需要の伸び悩みが重なる構造的な不況へと転じた。原燃料価格の高騰と厳しい販売環境の板挟みのなかで、ポリエステルを主力とする帝人の採算は急速に悪化し、1978年3月期の単独決算では経常損益が赤字に転落した。拡大を前提に規模を追ってきた繊維事業は、いわゆる合繊不況のもとで大きな転機を迎えていた。
こうした環境の変化に対し、大屋晋三社長は、拡大期に積み上げてきた人員そのものを圧縮する方針を鮮明にした。「主力の繊維でもうからなくなった以上、人の数は昔に戻さなければならない」というのが、その基本的な考え方であった。増員を重ねてきた高成長期の前提が崩れた以上、収益力に見合う規模まで人員を戻すという判断であり、繊維各社が相次いで減量経営へ踏み込むなかでも、帝人の方針はとりわけ徹底したものとなっていく[1]。
決断
「4人に1人」を減らす——全社員への転職援助
帝人は1977年、退職して転職する社員を金銭面などで後押しする転職者援助制度を導入していた。当初その対象は48歳以上の中高年に限られていたが、人員削減の目標を達成するため、1978年7月からは対象を全社員へと一気に広げた。あわせて中高年の社員を専従会社へ移籍させるなど、複数の手段を組み合わせて退職を促した。拡大を前提に増員してきた人員構成を、短期間で作り替えようとする施策であった[2]。
その結果、1978年9月末までの半年間で、従業員の約4人に1人にあたる約2,650名が退職した。内訳は、転職者援助制度への応募が1,550名、中高年専従会社への移籍が700名、自然減が400名である。削減のピッチは速く、6人いた課長が2人に減る職場も出るなど、現場では荒っぽい肩たたきが展開された。その荒療治ぶりは、合繊業界の関係者の関心を集めるほどであった[3]。
荒療治への反発と怪文書「繊維新報」
急激な人減らしは、社内に強い反発を生んだ。合理化が始まった1978年の初めごろから、社長の経営責任を問う「繊維新報」と称する怪文書が出回るようになった。人員を昔の水準に戻すという方針そのものは首尾よく実現へ向かったものの、思わぬ反撃を受けて経営側もたじろぐ場面があったと伝えられる。減量の必要性への理解と、その進め方の荒さへの不満とが、社内で同時に噴き出していた[4]。
結果
危機は越えたが、ライバルに開いた差
大規模な減量経営によって、帝人は当面の収益を持ち直した。ただし、体力の回復はライバルとの差を埋めるには至らなかった。1980年3月期の経常利益は、東レが帝人のおよそ2倍にあたる規模をあげ、旭化成にも水をあけられた。帝人の経常利益約140億円のうち、繊維部門が約100億円を稼ぎ、非繊維部門は約40億円にとどまっていた。石油開発をはじめ大屋社長が推進した未来事業の目玉が軒並み失敗に終わったことが、東レ・旭化成に業績で引き離された最大の原因とされた[5][6]。
さらに、減量経営のさなかの1980年3月、通算26年にわたって社長を務めた大屋晋三が急死した。後を継いだのは徳末知夫社長と渡辺清市郎会長で、両者を中心とする新体制は、長期政権のもとでよどんだ社内の空気を入れ替え、未来事業戦略の立て直しに着手した。渡辺会長は、合繊が稼げるうちに次の柱を探すという大屋社長の発想自体は誤っていなかったとしつつ、その具体的な展開に問題があったと総括した。1978年の人員削減は、この大屋社長のワンマン経営の総決算であると同時に、次の成長を担う体制づくりへの入り口でもあった[7][8]。
- 日経ビジネス 1978年10月23日号「帝人の荒っぽい人減らしに経営責任問う怪文書」(日経マグロウヒル社)
- 日経ビジネス 1980年10月20日号「帝人 未来事業戦略を再構築、攻めの経営へ」(日経マグロウヒル社)
- 会社年鑑(1979年版)