未来事業本部の発足と、繊維一本足からの多角化への賭け
テトロンの次の柱をどこに求めるか——大屋晋三社長のトップダウンは50超の新規事業をどこへ導いたか
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- 概要
- 1968年、帝人は社外から約100名の専門人材を中途採用して独立性の高い「未来事業本部」を新設し、繊維以外の新規事業開発に本格的に乗り出した。大屋晋三社長のトップダウンで打ち出された、繊維一本足からの脱却を狙う多角化への賭けであった。
- 背景
- ポリエステル「テトロン」で斜陽のレーヨンから脱皮した帝人は、次の収益の柱を探していた。大屋社長は技術と経験の及ぶ範囲で資本効率の高い事業を取り込む構想を公言し、危険を引き受ける組織として未来事業本部を据えた。
- 内容
- 撤退基準を明確に定めないまま、子会社設立や海外企業との合弁を通じて情報・教育・エネルギー開発・ファインケミカルなど50を超える領域へ広げた。しかし1970年代前半のドルショックとオイルショックに見舞われ、多くの領域が撤退や縮小に追い込まれた。
- 含意
- 石油開発など大屋社長の独走で始めた事業の相次ぐ失敗が、ライバルの東レ・旭化成に業績で引き離される一因となった。残ったのは重症感染症治療剤ペニロンなど医薬品で、繊維に代わる柱を医薬に絞り込む後の事業構造転換へとつながった。
分散の代償と、残った芽の絞り込み
未来事業本部の顛末は、多角化の意欲そのものより、それを一人の判断に委ねた体制の限界を映している。技術と経験の及ぶ範囲で資本効率の高い事業をという大屋晋三社長の号令は明快だったが、撤退基準を欠いたまま50を超える領域へ広げた結果、経営資源は薄く分散し、石油開発の躓きが業績の差となって表れた。日常は分権的でありながら新規事業だけは独走するという経営の型が、危険を引き受ける組織文化の裏側で、選別の遅れを招いたとみることができる。
それでも、この賭けが無駄に終わったとは言い切れない。50超の試行のなかから残った医薬品は、後に帝人が繊維から事業構造を組み替える際の重点領域になった。数多くを試して大半を畳み、わずかに残った芽を次の柱に育てるという道筋は、失敗の記録であると同時に、絞り込みの出発点でもあった。挑戦の量と選別の規律をどう両立させるか——未来事業本部が投げかけたこの問いは、多角化を志すすべての企業に今も残っているといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
テトロンの次の柱を求めて
帝人は1957年に英ICIと技術提携してポリエステル「テトロン」に参入し、斜陽のレーヨン事業から合成繊維メーカーへと脱皮していた。ポリエステルの成功は大屋晋三社長にとって大きな自負となったが、繊維一本足の収益構造をどう広げるかが次の課題として残った。大屋社長は1963年のインタビューで「なんでもいいから、我々の技術、経験から万能な範囲にある儲かるもの、資本効率のいいものを採り入れていこうとしているのです[1]」と語り、繊維からの多角化構想を公言していた。
大屋社長は新規事業に危険がつきまとうことを織り込んでいた。1969年には「積極的な未来の可能性に挑戦するという、基本的態度がなければ、未来事業は成立し得ない[2]」と述べ、失敗を恐れずに挑む組織文化を訴えた。ただし、大屋型のワンマン経営は日常業務については極めて分権的で部下に任せ切りである一方、新規事業に関しては自分でこうと思えばどんどん推し進める性格を持っていた。多角化の意欲と、その推進を一人の判断に委ねる体質とが、未来事業の出発点に同居していた[3]。
決断
社外人材を集めた専属組織の新設
1968年、帝人は社内に独立性の高い新規事業組織「未来事業本部」を新設し、当時としては前例の少ない組織改革に踏み切った。社外から約100名の専門人材を中途採用し、専属の組織として新規事業開発の第一線に投入する取り組みであった。1970年の大阪万博をピークとする未来ブームのなかで発足したこの組織は、繊維に代わる柱を社の外から集めた頭脳とともに探そうとする、大屋社長の構想を形にしたものであった[4]。
しかし新規事業の対象分野や撤退基準は経営陣の側であらかじめ定められておらず、子会社設立や海外企業との合弁を通じて、情報産業・教育産業・エネルギー開発・ファインケミカルなど50を超える領域が展開された。各事業間の技術的な関連は乏しく、経営資源は社内で広く分散した。1976年の業界観測でも、手を染めた分野は多彩だが目立った成果は出ておらず、テトロン一本足からの脱却は後ろ倒しと見られていた[5]。
結果
石油事業の躓きと、医薬という残余
1970年代前半のドルショックとオイルショックが、拡散した未来事業を直撃した。とりわけ石油開発は大屋社長の独走で始まり、当時を知る元役員は「石油事業については、われわれにほとんど相談がなかった」と証言している。相次ぐ失敗は、ライバルの東レや旭化成に業績で引き離される最大の原因になった。1980年3月期の帝人の売上高は約4,033億円で、東レの経常利益320億円に対し帝人は140億円にとどまり、両社の後塵を拝した[6]。
数多くの領域が撤退・縮小するなかで、医薬品は例外的に実を結んだ。重症感染症治療剤「ペニロン」は薬価が2.5グラム当たり6万円近い高付加価値品で年商100億円の実力を持ち、緩下剤「ラキソベロン」とともに未来事業が放った数少ない大ヒットになった。大屋社長の逝去後に発足した徳末知夫社長の新体制は、「これまであちこちで勝手に小さな花火を上げていた点を改めて、一つの大きな花火に力を結集して行く」として未来事業戦略を再構築し、医薬品を向こう5年の重点に据えた。繊維に代わる柱を医薬に絞り込む流れが、ここから動き出した[7]。
- 成功の秘訣(大屋晋三、1963)
- 経済人 1969年5月号(大屋晋三)
- 週刊東洋経済 1976年9月4日号
- 日経ビジネス 1980年10月20日号「帝人。未来事業戦略を再構築、攻めの経営へ」
- 帝人 会社年鑑(単体業績)