社外委員が社長候補を審査する後継者選抜システムの構築と長島徹社長の選出

社長の椅子を誰の目にも見える手続きに載せる——安居祥策社長はどこまで人事の恣意を排そうとしたか

更新:

時期 2001年11月
意思決定者 安居祥策 社長
論点 経営体制の透明化と後継者選抜
概要
2001年11月、帝人は安居祥策社長が1999年に設けた経営諮問委員会を通じて5人の社長候補を審査し、アラミド繊維事業を育てた長島徹氏を次期社長に選んだ。社外委員が候補者のプレゼンテーションを審査する後継者選抜システムが実際に機能した最初の事例であった。
背景
間接金融からの転換で資本市場が企業に透明性を求めるなか、日本企業の多くは社長の独断で後継者を指名し、その基準は外から見えにくかった。安居社長は1997年の就任後、執行役員制度と経営諮問委員会を相次いで導入し、人事と報酬の決め方そのものを開いていった。
内容
後継候補5人を経営諮問委員会に2人1組で呼び、社外委員の前で事業をプレゼンテーションさせた。長島氏は2000年と2001年の5月に呼ばれ、米フェニックスの会合では3つの事業を15分・英語で説明し、委員から容赦ない質問を受けた。安居社長の推薦に異論は出なかった。
含意
舌の腫瘍が見つかった安居社長が任期途中で退くにあたっても、選抜の手続きが済んでいたために継承は滞らなかった。当初は財務・繊維担当の常務2人が有力とみられたが、選ばれたのは技術畑の長島氏で、社内の下馬評とは異なる結論を透明な手続きが導いた。
筆者の見解

手続きが人を選ぶということ

この決断の核心は、誰を選んだかよりも、どう選んだかにある。社長という最も属人的になりがちなポストを、社外委員の前でのプレゼンテーションと質疑という共通の手続きに載せ、現社長が自らの進退と報酬までを同じ委員会に預けた。社内の下馬評が財務・繊維担当の常務を推していたなかで、技術畑の長島徹氏が選ばれた事実は、手続きが個人の思惑を超えて働きうることを示している。透明性を経営改革の総仕上げに据えた安居祥策社長の狙いが、目に見える形で結実した場面であったといえる。

もっとも、透明な手続きが良い経営者を選ぶことを保証するわけではない。社外委員の審査は候補の資質を測る一つの物差しにすぎず、選ばれた者が背負う事業の重さは手続きの外にある。長島社長が引き継いだ208社の整理統合や不採算繊維の立て直しは、選抜の透明さとは別の次元の実行力を問うものであった。恣意を排する仕組みをどこまで作り込めば十分といえるのか——帝人の後継者選抜システムは、その問いを日本企業に投げかけた先駆けとして残っているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

資本市場が迫った経営の透明化

メーンバンクが唯一の利害関係者であった間接金融の時代から、資本市場を主体とする直接金融へと移るなかで、企業には人事や報酬の決め方にも透明性が求められるようになっていた。もっとも、多くの日本企業では主要部門の出身や海外法人トップの経験といった形式的な条件はあっても、社長の資質を正当に評価して選ぶ仕組みは整っていなかった。あるのは社長が指名した人間なら間違いないだろうという程度の了解で、選び方は外から見えにくかった[1]

1997年に社長へ就いた安居祥策氏は、就任後に取締役会の規模を縮小して執行役員制度を導入し、1999年7月には経営諮問委員会を設けた。純資産倍率が1倍を割り込んでいた株価は改革を具体化するなかで回復し、投資家からは「安居プレミアム」と呼ばれた。積極的な企業買収と透明度の高いガバナンスで業界2番手の帝人を押し上げた安居氏にとって、意思決定や人事・報酬の透明化は経営改革と一体の課題であった[2]

社内優先の人事慣例を崩す

透明化は後継者選びだけにとどまらなかった。帝人は2000年10月に女性活躍推進室を設け、その室長に外資系製薬会社で人事を担っていた田井久恵氏を迎えた。管理職級の人材を社外から直接採用するのは、同社の長い歴史のなかで初めてであった。人財部長は「社内から適材を探すのが人事の原則にはなっている。ただ、このテーマに関しては人材は不十分だった」と述べ、社内優先の原則をあえて崩した経緯を明かしている[3]

社内で人を回すという長年の前提を揺らす取り組みは、安居社長自身の強い意志で進められた。人事の慣例を内側から崩す一連の動きは、社長という最上位のポストの選び方をも社外の目にさらす後継者選抜システムと、地続きの改革であったとみることができる。恣意を排して評価の物差しを外へ開くという発想が、末端の管理職採用から経営トップの選定まで一貫して流れていた[4]

決断

5人の候補を社外委員が審査する

1999年7月に設けた経営諮問委員会は、社長と相談役以外の4人を社外の人間で構成し、社長の報酬や後継者選びなど経営の主要なテーマに社外の目から助言する機関であった。委員には米デュポン元会長のジョン・クロール氏やキッコーマン社長の茂木友三郎氏ら大物が並んだ。安居社長は後継者選びに際して長島徹氏を含む5人の候補を選抜し、年2回開かれる委員会に2人1組で呼んで、委員の前で事業をプレゼンテーションさせた[5]

長島氏は2000年5月と2001年5月の2回、委員会に呼ばれた。米フェニックスで開かれた2001年5月の会合では、3つの事業状況を15分で説明するよう求められ、会話はすべて英語で進み、その後に委員から容赦のない質問が飛んだ。委員の一人であった茂木氏は、長島氏が3つの事業を数字を交えて的確に説明したことを鮮明に覚えていると振り返っている。安居社長が自らのクビを預けた委員会に候補と教育計画を示す仕組みのなかで、長島氏は帝王学を学ぶように引き上げられていった[6]

推薦、そして任期途中の継承

2001年11月3日の6回目の委員会で、安居社長は自らの後継者に長島氏を推薦したいとの見解を述べ、異論を唱える者はいなかった。委員会が終わった夜、安居社長は長島氏を呼んで後継者に指名すると伝え、社長交代が1カ月に満たない11月21日になると告げた。当初は財務担当と繊維担当の常務2人が有力候補と取り沙汰されていたが、社外委員の審査を経て選ばれたのは技術畑の長島氏であった[7]

交代を急いだ理由は安居社長の健康にあった。舌に腫瘍ができて医者からすぐの入院と切除手術が必要と言われており、社長が長期間不在になるのは無責任だと判断して任期途中でバトンを渡した。安居社長は「迅速な意思決定と行動、意思決定の透明化、公平で公明な人事と報酬制度の3つを達成することなしに、経営改革はあり得なかった」と社長時代を振り返り、後継者選びの透明化を改革の総仕上げと位置づけた[8]

結果

技術畑の新社長と、残された課題

新社長となった長島徹氏は、1965年に名古屋工業大学を出て帝人へ入り、鉄の7倍の破断強度を持つアラミド繊維「テクノーラ」を一から立ち上げ、事業部長として黒字化を成し遂げた技術系の経営者であった。研究開発から営業、子会社出向や海外勤務まで幅広く経験し、2000年6月の取締役就任からわずか1年半で社長へと駆け上がった。長島氏は「会長は切れ味鋭い一刀流。切れ味は劣るが、私は二刀流で行く」と語り、成長事業の拡大と不採算の繊維事業の立て直しを引き受けた[9]

継承の年にあたる2002年3月期の連結売上高は9,234億円まで伸びた一方、事業再編にともなう費用などから純利益は前期の160億円から9億円へと落ち込んだ。長島新社長には、当時208社に及んだグループ会社の整理統合という重い課題が残された。それでも、辣腕とうたわれた安居会長の後を継ぐ人事が波乱なく進んだ背景には、社外の大物委員が候補を審査し後継人事に異論を挟まなかった選抜の手続きがあった[10]

出典・参考
  • 日経ビジネス 2001年2月19日号「帝人の安居社長、年内引退説の真偽」
  • 日経ビジネス 2002年1月21日号「後継者はこう選べ!帝人の挑戦 誰もが納得する透明なシステム構築」
  • 日経ビジネス 2002年3月4日号「長島徹氏[帝人]履歴書 経営も趣味も二刀流で」
  • 週刊東洋経済 2001年7月28日号「あなたの部下で勝てますか? 帝人人事の慣例を打破」
  • 週刊東洋経済 2002年1月12日号「帝人 辣腕・安居氏を引き継ぐ新社長」
  • 帝人 有価証券報告書(2002年3月期・連結)