第4次合理化と管理職への「能力賃金」導入
構造不況下の新日鉄は、日本的経営の年功・平等にどこまで手を入れたか
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- 概要
- 1987年、鉄冷えと呼ばれる構造不況のなかで営業赤字に転落した新日本製鐵が、4年間で1万9000人を削減する第4次合理化計画に着手し、あわせて管理職約1万1000人の賃金体系を能力主義へ組み替えた経営判断。
- 背景
- 石油危機後の需要減退を受け、新日鉄は1978年から約10年にわたり高炉休止と人員削減を繰り返した。1987年3月期には営業段階で200億円の赤字を計上し、社員の高齢化とホワイトカラー比率の上昇が人件費を押し上げていた。
- 内容
- 生産能力を年3400万トンから2400万トンへ縮小し、鉄鋼への依存を下げてエレクトロニクスなどへ多角化する構想を掲げた。管理職には短期業績賞与を新設し、年功給の廃止や頭打ち年齢の引き下げで能力主義を一気に導入した。
- 含意
- 日本的経営の核であった年功と平等の賃金慣行に、財務危機と合理化を大義名分として踏み込んだ点に特徴がある。危機を制度改革の契機に転じる手法は、翌年の釜石高炉停止など聖域なき合理化の流れと連なっていた。
危機を改革の梃子にできるか
この経営判断の核心は、設備と雇用の縮小という合理化にとどまらず、日本的経営の核であった年功と平等の賃金慣行にまで踏み込んだ点にある。格差を意識させない微温的な環境が社員の安心を支えてきた会社で、営業赤字という財務危機を大義名分として、優秀な層に報い滞留した層に痛みを求める制度を一気に入れた。過去には受け入れられなかった改革が、鉄冷えという危機のもとで社内の同意を得たことに、この決断の性格がうかがえる。
もっとも、危機を梃子とした改革が組織の活力へどこまで結びついたかは、その時点では見通せなかった。多角化で掲げた売上4兆円構想のうち、エレクトロニクスや新素材の一部は後に苦戦する。能力主義の導入も、鉄鋼で培った人材を性格の異なる新規事業へ移すという難題と背中合わせであった。危機を制度改革の好機に転じる手法は、痛みを伴う変革を平時には進めにくい日本企業の共通の課題を映してもいる。合理化の大義名分がなければ動かせなかった改革を、次はどう平時に続けるか——1987年の新日鉄はその問いを残したといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「鉄冷え」と10年に及ぶ合理化の系譜
1973年の第一次石油危機を契機に、世界の鉄鋼需要は構造的な減退へ向かった。国内でも建設投資の鈍化と輸出市場の保護主義によって過剰設備問題が深刻化し、鉄鋼業は「鉄冷え」と呼ばれる長い不況に入った。新日本製鐵は1978年10月に第1次合理化案を発表して高炉休止と人員削減に踏み込み、1982年に第2次、1984年に第3次、1987年に第4次の合理化案を相次いで打ち出す形で、約10年にわたって構造調整を繰り返した。拡張一辺倒だった戦後鉄鋼業の経営は、徹底した選択と集中へと切り替わっていった[1]。
1987年3月期の決算は、株式売却益などで穴埋めして経常赤字を126億円に抑えたものの、営業損益の段階では200億円もの赤字を計上した。本業の鉄が伸び悩む一方、生産コストは増える一方であった。加えて社員の高齢化が人件費を押し上げていた。男子ホワイトカラーの平均年齢は1977年3月末の34.3歳から1987年3月末には43.7歳へと、10年でほぼ10歳上昇した。本社の指揮系統に入る主務職の比率も、1976年度末の29%から1986年度末の36%へと7ポイント高まっていた[2]。
決断
第4次合理化と「疑似革命」の道
1987年2月に発表された第4次合理化計画は、今後4年間で1万9000人を削減し、粗鋼一貫生産能力を1986年度の年3400万トンから1990年度の2400万トンへ縮小する内容であった。削減対象1万9000人の内訳は技術職1万3000人、主務職6000人で、鉄鋼部門の従業員1人当たりの粗鋼生産量を年520トンから880トンへ引き上げる計画であった。同時に新日鉄は、連結売上に占める鉄鋼関連の比率を80%から50%へ下げ、エレクトロニクス・情報処理、エンジニアリング、化学・新素材などへ多角化して1970年度に売上高4兆円をめざす構想を描いた[3]。
もっとも、その手法は過激なものにはならなかった。武田豊社長は「希望退職は絶対にやりたくない」と断言し、「相手を逃げ場の無い所まで追い込んでしまえば逆にまとまるものもまとまらなくなる」と述べた。近代製鉄発祥の地である釜石や室蘭を完全に切り捨てることも避けた。痛みをできるだけ少なくとどめる「疑似革命」に近い道であった。優秀な人材が集まる超エリート集団に、小さな新規事業を細かく掘り起こすというこれまでと質の異なる挑戦を求める点に、多角化の難しさがあった[4]。
管理職1万1000人への能力賃金
合理化の焦点は、管理職の賃金制度にも向かった。1987年4月、新日鉄は参事補以上の管理職約1万1000人を対象に、脱年功・能力主義に基づく新しい給与制度を導入した。第一歩として新設されたのが「短期業績賞与」で、業績をプラス評価された管理職は約10万円近くを上乗せされ、芳しくない管理職は数万円のマイナス査定を受けた。「乏しきをわかち合う」という集団主義の美風にまで、格差の刃が入った。ある課長は「格差が大きくなるというのは複雑な心境です」と語った[5]。
制度の骨格は、年功給の縮小にあった。理事補(若手部長・室長・上級課長に該当)の給与からは年功給部分が廃止され、能力給100%となった。参事・参事補(課長・掛長に該当)の年功給の頭打ち年齢は、現行の50歳から45歳前後へ引き下げられた。いずれ管理職はすべて能力給100%へ移行する見通しで、日本企業にとって導入が難しかった能力主義人事を、構造調整・合理化という大義名分を用いて一気に導入するものであった[6]。
結果
「合理化と活性化の一石二鳥」
新給与制度の狙いは、二重であった。急増が予想される管理職の賃金原資を総額で減らしつつ、年功部分を削って能力・実績主義を強化することで、優秀な層には賃金の上乗せを可能にする。人事担当室長の後藤英生氏は「一時的な賃金カットではなく、構造的・長期的な賃金カット」と述べ、合理化と組織の活性化を同時にねらう「一石二鳥」の効果だと説明した。年功制というエスカレーターを取り払い、「これではいかん」と管理職に思わせて鉄鋼の競争力を高めることが企図されていた[7]。
こうした制度は、過去にはそう簡単には導入できなかった。日本的経営の特色である年功人事は、社員間で格差を意識させない仕掛けであり、格差を感じない環境であればこそ社員は安心して働くことができた。だが状況は一変した。社員の高齢化、定年延長、経済環境を考えれば、年功部分を削り格差が拡大するのは仕方がないという意見が社内で大勢を占めた。翌1988年2月には釜石製鉄所の高炉停止が実行され、聖域なき合理化が現実のものとなった。危機を制度改革の契機に転じる新日鉄の選択は、日本経済全体の構造調整の縮図とも受けとめられた[8]。
- 日経ビジネス 1987年3月2日号「新日鉄の選択 エリート達の“構造調整”が始まった」(日経マグロウヒル社)
- 日経ビジネス 1987年8月3日号「新日鉄の能力賃金 合理化と活性化の一石二鳥」(日経マグロウヒル社)
- 新日本製鐵 有価証券報告書【沿革】ほか社史