国際・証券部門の不振を受けたリテール重視・地元回帰への転換

「ミニ都銀化」を進めた地銀トップは、なぜ地元神奈川へ引き返したか

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時期 1991年4月
意思決定者 田中敬 頭取
論点 国際・証券戦略の挫折と地銀本来の役割への回帰
概要
1991年、地方銀行で資金量首位の横浜銀行が、バブル期に拡大した国際・証券部門の不振を受け、県内のリテール(小口取引)を軸とする地元回帰へ経営方針を大転換した判断。国内営業と並ぶ収益部門としてきた国際・証券部門を国内営業の支援部門へ位置づけ直し、田中敬頭取が自らリテール推進本部長に就いた。
背景
横浜銀行は1991年3月末の資金量が10兆円を超え、都銀の一部をも上回る地銀トップに立っていた。この資金力を背景に「すべての面で都銀なみに」と海外・証券戦略を打ち出し「ミニ都銀化」を進めた。もともと神奈川は都銀の激戦区で地元基盤は薄く、貸出シェアも都銀勢に水をあけられていた。
内容
内外の株式・債券相場の低迷と利ザヤ縮小で収益が悪化し、経営陣に強い危機感が生じた。1989年に買収した英ギネス・マーンが多額の不良債権で赤字に陥り、国際業務見直しの契機となった。横浜銀行は合併ではなく「地域に密着した堅実な中堅銀行」の道を選び、本部人員を営業店へ移し、県内を40地区に分けて店舗戦略を組み替えた。
含意
「顧客不在のディーリングを拡大しすぎた」という反省のもとで収益第一主義から地元密着へ方針を変えたが、地元では「もうからなくなったから地元重視を言っているだけ」との冷ややかな声も出た。都銀もリテールを強化するなか地銀の特色は出しにくく、地元回帰は容易でなかった。この転換は、後年のエリア戦略や地域再編へと引き継がれた。
筆者の見解

拡大の反動としての回帰

この判断の核心は、地銀トップの資金力を頼りに背伸びした「ミニ都銀化」の反動として、本来の足場である地元へ引き返した点にある。国際・証券という華やかな部門で都銀を追い、海外買収や証券ディーリングを拡大した末に、相場の変調と不良債権が収益を蝕んだ。横浜銀行はそこで拡大を止め、薄いと知りつつ地元の基盤へ資源を戻した。もうかる部門を追う経営と、地域に根ざす地銀の役割との間で揺れた末の選択だったとみることができる。

もっとも、引き返した先の地元もまた、決して安住の地ではなかった。都銀の激戦区で地元密着を深めるのは容易でなく、「もうからなくなってからの地元重視」という冷評もその難しさを映していた。地銀は規模を追って都銀に近づくのか、地域に徹して独自の価値を築くのか——横浜銀行の1991年の転換は、この問いに一度は後者で答えた。その答えは、公的資金の受け入れと完済、そして後年の広域再編を経て、地域を「面」で固める戦略へと長く引き継がれていく。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

地銀トップの資金力と「ミニ都銀化」

横浜銀行は、1991年3月末の資金量が10兆1598億円と、地方銀行のなかで断然のトップに立っていた。この規模は都市銀行の北海道拓殖銀行をも上回った。地元神奈川県の経済成長に伴い、県内唯一の地銀として規模を拡大してきた蓄積がそこにあった。豊富な資金力を背景に、横浜銀行は「すべての面で都銀なみに経営展開する」ことを掲げ、積極的な海外戦略と証券戦略を打ち出した。田中敬頭取の言葉を借りれば、同行は「ミニ都銀化」しつつあった[1]

この拡大路線は、1988年4月から1991年3月までの中期経営計画に色濃く表れていた。国際・証券部門を国内営業と並ぶ収益部門とみなし、収益重視を前面に打ち出した計画であった。総合企画部長は後に「収益重視を前面に打ち出し過ぎた」と振り返った。海外進出が都銀より遅れたことへの焦りもあった。累積債務国向けの特定海外債権が資産に占める割合は、東京銀行を除く都銀10行平均の0.37%に対し、横浜銀行は0.74%と高かった[2]

もともと薄かった地元基盤

皮肉なことに、地銀トップでありながら、横浜銀行の地元基盤はもともと厚くなかった。神奈川県は都市銀行が集中的に出店を進める激戦区で、横浜銀行の県内店舗数170に対し、都銀の支店は合計でその2倍近くあった。1970年代後半には全都銀の新設店舗の8割が神奈川県という時代もあった。県内の貸出シェアは横浜銀行22%に対し都銀勢が44%と、大きく水をあけられていた[3]

地元企業とのつながりも深くはなかった。崎陽軒や横浜高島屋、相模鉄道など地元の大手企業のメーンバンクは、いずれも横浜銀行ではなかった。歴代の頭取が大蔵省出身者であることも、地元とのよそよそしい関係の一因とされた。みなとみらい21などの大規模開発に横浜銀行が中心的に関わる場面も少なく、「地域開発に関する情報量やノウハウで都銀には見劣りする」という声が地元にあった。地銀としての役割を十分に果たしてこなかったという評価が、県内には根強く残っていた[4]

決断

国際・証券部門の不振という誤算

拡大路線の綻びは、まず国際部門に表れた。1989年に買収した英国の金融持株会社ギネス・マーン・ホールディングズが、事実上倒産した英コングロマリットへの貸付や不動産関連融資で多額の不良債権を抱え、1991年3月の中間決算で3550万ポンド(約83億円)の赤字を計上した。横浜銀行はこれまでに約300億円を投じ、当初65%だった持ち株比率を同年10月に100%へ引き上げて再建に乗り出したが、この買収は現状ではお荷物であることが明らかになっていた。ロンドンの金融界では、審査の甘さを指摘する声が上がった[5]

証券部門も、方針の見直しを迫られた。それまでは「とにかくもうかるところはどんどんやっていく」という方針であったが、市場環境が一変し、「顧客不在のディーリングを拡大しすぎた」という反省が生じた。内外の株式・債券相場の低迷と利ザヤの縮小が収益悪化に直結し、「抜本的な構造改革をしないと生き残っていけないという強烈な危機感が経営陣の間に出てきた」と総合企画部長は語った。田中頭取は、今後の3年間は証券ノウハウの蓄積に努め、ディーリングは減らしていくとした[6]

リテール重視・地元回帰への大転換

1991年4月、横浜銀行は県内のリテールに注力する経営方針の大転換を発表した。国内営業と同様にプロフィットセンターとみなしてきた国際・証券部門を、国内営業の支援部門に改めた。県内の営業部門にヒト・モノ・カネの経営資源を投入し、地元の銀行であることを鮮明に打ち出した。田中頭取は合併の道を退け、「地元密着型の銀行としてやっていくのに、合併しても何のメリットもない」として、大銀行を目指すより「地域に密着した堅実な中堅銀行」となる道を選んだ[7]

転換は具体的な人と組織の動きを伴った。田中頭取は自らリテール推進本部の本部長に就任し、店頭の人員を1993年3月までに約100人増員した。本部人員約1300人のうち計150人を営業店へ配置転換する計画も立てた。県内を40地区に細かく分けて各店舗を法人中心・個人中心に色分けし、評価も店舗の特徴に沿う方式へ改めた。取締役が支店長を務める役員店舗を増やし、富裕層向けのファイナンシャル・アドバイザーを300人から500人へ増やす計画も掲げた[8]

結果

容易でなかった「地元回帰」

地元回帰の道は平坦ではなかった。都市銀行各行もリテール強化に力を入れており、横浜銀行ならではの戦略を打ち出すのは難しかった。首都圏に近く、経済が首都圏の一部に組み込まれた地域で、地銀として特色を出しにくいことも確かであった。地元では「海外や証券がもうからなくなったから地元重視を言っているだけだ」という信用金庫理事長の冷ややかな声や、「地銀としての役割を十分に果たしてこなかったツケが今回ってきている」という指摘も上がった[9]

それでも、地元回帰は横浜銀行の長期の方向を定めた。田中頭取が「地元に密着し、地域の住民のためになる銀行になりたい」と掲げた路線は、1996年の地理情報システムを用いた26エリア戦略へと発展した。もっとも、1990年代後半にはバブル崩壊に伴う不良債権処理が経営を圧迫し、横浜銀行は1998年から1999年にかけて計2,200億円の公的資金を受け入れることになる。地銀トップの基盤を頼りにこれを2004年に前倒し完済し、地元回帰は県内経済へ主力を戻す長い再建の出発点となった[10]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1991年12月16日号「横浜銀行 国際・証券部門がお荷物 今さらの地元回帰に苦戦」
  • 横浜フィナンシャルグループ 02-history(高度成長期の地銀トップ到達と公的資金時代)
  • 横浜銀行 会社年鑑(連結業績)