円高下で値引きを拒む「プロの商法」——高付加価値部品と海外直販で輸出採算を守る
1978年実施円高に値引きで応じるか、値段だけの価値ある商品で通すか——輸出比率6割の部品メーカーが選んだ道
- 概要
- 1977〜78年の急速な円高下で、輸出比率6割の島野工業が価格競争に加わらず、値引きを拒んで高付加価値部品と海外直販を貫き、増収増益を守った経営。米国向けの小幅値上げと徹底した合理化で為替の負担を吸収した。
- 背景
- 1975年は自転車の安全規格問題で輸出が半減し売上176億円へ落ちたが、1977年11月期に売上323億円・経常利益30億円へ回復した。円相場は1975年の1ドル290〜300円台から1977年10月末に240円台、1978年3月には222円台まで進み、輸出採算は悪化していた。
- 内容
- 1958年の島野尚三社長就任時に自転車部品専業化を決め、1965年のニューヨーク現地法人を皮切りに商社を介さぬ直販網を築いた。技術開発で製品の価値を担保し、得意先の値引き要求を拒む「妥協を許さぬ商法」を海外市場で通した。
- 含意
- 円高への対応も価格転嫁ではなく、米国向け5〜6%の値上げと年11億円の合理化投資、新製品開発で吸収した。安易な価格政策を退けて製品の価値とブランドで為替を吸収する道は、後年の「世界のシマノ」へつながった。
価格で競うか、価値で通すか
この判断の核心は、円高という為替の逆風に、値引きや価格転嫁で応じるのではなく、製品の価値と海外直販の信用で吸収した点にある。家電をはじめ日本の花形輸出品の多くが価格競争力で世界へ出た道とは逆に、島野工業は値段だけの価値ある商品を掲げ、得意先の値引き要求さえ拒んだ。自己資本比率52.5%という自己責任の経営が、金融機関の顔色をうかがわずに価格競争から降りる選択を支えた。円高で採算が細るとき、量産の安値で守るのか、製品の価値で守るのか——同社は後者を選んだ。
この選択は、その後の同社の骨格になった。ロード用最上位のデュラエースに続き、マウンテンバイク向けの専用部品でも世界標準を握り、自転車部品では売上の大半を海外が占める「世界のシマノ」へ育つ。5代目の島野容三は後年、ブランド力は素晴らしい商品を提案した結果にすぎないと語っている。円高を高付加価値で吸収した1978年の商法は、価格ではなく価値でしか築けないブランドという、同社が長く守る原則を早い時期に示している。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
円高が直撃した輸出比率6割の部品メーカー
大阪府堺市に本社工場を置く島野工業は、自転車の後輪回転部品で日本と米国の約8割、欧州でも3割のシェアを握り、売上の6割を輸出に頼る部品メーカーだった。1970年代後半、この輸出依存の体質を円高が直撃する。1975年に1ドル290〜300円で推移した円相場は、1977年に円高基調へ転じて10月末に240円台へ入り、1978年3月には222円を割り込んだ。それでも同社は増収増益を保っていた[1][2]。
安全規格問題からの立ち直り
好業績は、危機からの立ち直りでもあった。1974年11月期に売上325億円へ伸びた同社は、翌1975年に自転車の安全規格問題で輸出が急減し、売上176億円・経常利益2億円へ落ち込んだ。国内の自転車生産台数も伸び悩み、内需の停滞が続く。だが1977年11月期には売上322億円・経常利益30億円へ戻して史上最高に迫り、日本経済新聞の調査では1ドル220円でも増益を保てる数少ない企業の一つに挙げられた[3][4]。
決断
自転車部品専業と海外直販網
この商法のおおもとは、1958年に30歳で社長へ就いた島野尚三氏の決断にさかのぼる。当時の同社は3000万円の累積欠損を抱える町工場で、自転車産業は衰退の兆しを見せていた。本田技研などから部品下請けへの転業を誘われても、島野は敗残兵の転進が成功するはずがないとして自転車部品専業を選ぶ。そのうえで内需を待たずに輸出でブームを先取りすると定め、1965年にニューヨークへ現地法人シマノ・アメリカンを設けた。以後ロサンゼルスと西独デュッセルドルフへ直販網を広げ、商社を通さずプロ同士で取引する体制を築いた[5][6]。
値引きを拒み、技術で価値を担保する
海外市場で島野工業が崩さなかったのは、いかなる値引き要求も拒む商法だった。島野は、相手の言うまま値引きに応じるのは自社製品の価値を自ら否定することだと考え、値段だけの価値ある商品を提供する厳しさを通した。家電をはじめ日本の花形輸出品が価格競争力で世界へ出た道とは、出発点から逆の方向だった。得意先である米国の組立メーカーが現地法人の費用は製品価格に跳ね返らないかと案じても、同社は値引きに応じなかった[7]。
値引きを拒む商法は、それに見合う製品があって初めて成り立つ。売上が半減した1975年でも同社は技術開発部門の経費だけは削らず、社長は独創的な商品をつくれと技術者を督励した。丸石自転車の山口澄三郎社長は、自転車部品の技術開発力で島野工業をしのぐメーカーは世界に見当たらない、と語った。製品構成も、かつて売上の半分を占めた内装変速機やフリーホイールから、外装変速機・ブレーキ・デュラエース・釣具といった高付加価値品中心へ移っていた[8][9][10]。
結果
円高を値上げと合理化で吸収する
円高への対応も、値引きの逆である安易な価格転嫁ではなかった。同社は1977年3月に「230円体制」を掲げてムダな作業待ち時間を排除し、1978年1月には米国向け製品を5〜6%値上げして負担増の半分を吸収した(欧州向けは当初から円建て輸出)。残る半分は新製品の開発と製造設備の合理化でまかない、年内に11億円を投じて外注していた切削・仕上げ工程を本社へ取り込み、設備更新で工程そのものを省いた。社内はすでに1ドル220円で全計画を組み、価格転嫁はしないと決めていた[11][12]。
- 日経ビジネス 1978年4月10日号「島野工業 円高をモノともせぬ「プロの商法」」(日経マグロウヒル社)
- 会社年鑑(1986年版)
- シマノ 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス(2020年12月16日)「シマノ島野社長「カルティエに置いても見劣りしない自転車部品を」」