音桂二郎氏は1919年1月1日、音申吉氏の次男として東京に生まれ、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業したのち海軍造機技術士官に任命された[1]。横須賀・舞鶴・呉の海軍工廠を回った2年ほどの海軍生活で、海中で簡易水処理装置を使う米兵を見たことをきっかけに、イオン交換樹脂による水処理装置の開発へ独自に取り組んだ[2]。1946年春から奈良県大宇陀で自動車修理業を営んだのち、1948年1月、財閥解体で三菱商事から分かれた金商へ移り、新設の機械課に入った[3]。同社では三菱化成工業のイオン交換樹脂を軸とする水処理業務を担当し、1950年には『河川汚濁処理法案』を通商産業省へ建言した[4]。総合水処理事業を主体業務とする新会社の設立運動を主導し、1952年10月に三菱化成工業と金商の共同出資で日本錬水が発足すると、営業課長に就いた[5]。
しかし日本錬水は、発足の時点で音桂二郎氏の目的意識とずれていた[6]。音桂二郎氏が総合水処理メーカーを目指したのに対し、親会社の三菱化成工業はイオン交換樹脂『ダイヤイオン』の販売に重点を置き、水処理業務には消極的だった[7]。米国の水処理メーカーであるインフィルコ社との技術提携交渉は、ローヤリティやイニシャルペイメントで歩み寄りながら、最後の三菱化成工業首脳との会談が『ダイヤイオン』の販売拡大に終始し、水処理をほとんど論じないまま不成立に終わった[8]。設備の自動化を見据えた制御関係技術者の新規採用も、親会社から出向させて新規採用は行わないという人事原則に阻まれ、内定まで進みながら実現しなかった[9]。1953年10月に日本錬水を退社した音桂二郎氏は、同社の社長に対し、当分の間は水処理(第1次水処理)業務を行わないこと、日本錬水の人材を引き抜かないことの2項を約束した[10]。
ライフワークに選んだ水処理を封じられた以上、残る足場は、金商時代に代理権を取得し日本錬水でも1人で扱っていた米ミルトン・ロイ社の定量注入ポンプだけだった[11]。罐水処理(第2次水処理)業務とポンプの委譲は日本錬水から了解を得たものの、肝心のミルトン・ロイ社の承諾はなく、日本機械貿易も同社へ根強く接触していた[12]。音桂二郎氏は実情を詳細に書き送って代理権の委譲を求め、シーン社長から承諾と激励の手紙を受け取った[13]。シーン社長も父と2人で特殊ポンプを始め水処理から出た経歴を持ち、動機も様式も酷似していた[14]。1953年12月26日、資本金100万円で特殊ポンプ工業が発足[15]。本店は東京都墨田区江東橋4丁目18番地、代表取締役は34歳の音桂二郎社長、監査役は63歳の父音申吉氏で、常勤はこの親子2人だけだった[16]。
発足まもない1954年3月、朝鮮動乱以後で初めての強い金融引締政策がとられると、それまで輸入為替業務を引き受けていた某銀行東京支店は、特殊ポンプ工業の輸入信用状の開設を今後いっさい引き受けないと通告し、すでに引き受けていた分も断ってきた[17]。当時の機械輸入は、最終需要家から外貨割当証明書を譲り受け、割当の日から2カ月以内に為替銀行へ輸入許可申請書を出さなければ割当が無効になる仕組みで、開設期限までは残り5日だった[18]。ミルトン・ロイ社へはすでに注文書を切っており、期限を過ぎれば電力会社への納入が滞り、代理権を委ねた同社への信用も失う[19]。音桂二郎社長は銀行を回り、期限3日前に東京銀行神田支店の引き受けを取り付け、契約条件である担保金30%を積んで期限最終日に信用状を開設した[20]。
音桂二郎社長が立てた仮説は、臨海火力発電所の増設が定量注入ポンプなど制御機器の需要を高めるというものだった[21]。ボイラ内の水はスケールの付着と溶存酸素による腐食を抑える必要があり、水質を刻々と測る計器と薬液を適量注入するポンプが対で使われた[22]。1954年春から交渉した米ケンブリッジ社の溶存酸素計についても同年7月に総代理店契約の承諾を得て、罐水処理装置の主要部を占める2製品の日本総代理店がそろった[23]。この2契約により、火力発電所の罐水処理装置の計画と主要機器の納入販売をほぼ独占する立場を得た[24]。1955年4月にはミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化へ移り[25]、1956年5月に東京都渋谷区豊沢町の本社・工場を完成[26]、1958年3月に大阪営業所を開設した[27]。
1959年2月、東京大学木本外科の渥美和彦氏から人工心臓の試作を依頼された特殊ポンプ工業は、企業目的から外れるとして一度辞退したが、要請が続いたため試作品1台までという条件で引き受け、1960年7月に日本初の人工心臓を東京大学へ納めた[28]。1959年7月には東村山で工費約7,500万円の第1期建設工事に着工し、同年12月に機械工場や組立工場などの主要建築物が完成[29]。売上の半分以上を計装部の水質調整装置や自動燃焼装置が占め、社名が業務内容に合わなくなったため、1959年10月1日を期して商号を日本機械計装へ変更した[30]。略称の日機装に含まれる『計装』は、音桂二郎社長がinstrumentationの訳語として作った語である[31]。1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場すると株価は1,400円の最高値をつけ、第二のソニーと呼ばれた[32]。
1962年3月、東村山工場に大型工場(第2工場)が完成し、主力の3ポンプをすべて製造できる機能が整った[33]。もっとも、需要先は狭かった。主力の化学用ポンプは石油化学を中心とする化学メーカー向けにほぼ需要が限られ、これに次ぐ計装機器も火力発電所用に限定されていたため、売れ行きは石油化学と電力会社の設備投資に左右された[34]。電力業界では発電所の大型化と技術者不足からプラントメーカーへの一括発注方式が広がり、値引き競争が廉価な国産機器の採用を強めて、輸入代理店として保ってきた独占性は崩れ、利益率も下がった[35]。主力製品の大部分を外国技術の導入に頼った結果、研究開発の意欲は後退し、技術陣は提携先から送られる図面と資料を写す仕事に近づいた[36]。
計装部門の停滞に対し、日本機械計装はボイラ自動燃焼制御へ本格的に進出した[37]。1961年7月、西独最大の計器メーカーであるハルトマン・ブラウン社の姉妹会社で制御装置を専門とするショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店となったが、これは大きな誤算に終わった[38]。1963年5月には米コノフロー社と、コントロール・バルブおよび操作調整器の製造に関する技術援助契約を結んだ[39]。ポンプ以外では最初の技術提携にあたるが、交渉開始から締結まで4年以上を費やし、その遅れがこの分野で十分な市場を取れなかった最大の要因になった[40]。1959年3月に音桂二郎社長らが渡米して候補をコノフロー社に絞り、1960年末には技術提携料の率まで合意していたが、同社の内部事情で通商産業省へ出した案を取り下げ、1年以上保留された[41]。
1965年の春闘で、日本機械計装は労使関係の安定を優先して組合要求の実現に努め、数度の団体交渉を経て5月20日に1人平均2,700円の昇給で妥結した[42]。しかし6月28日、組合は1人平均2.9カ月(72,224円)の夏期一時金を要求し、相互の信頼は途切れた[43]。1966年3月の決算は9,100万円の欠損となり、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた[44]。創業以来積み上げてきた1億円の利益剰余金を一度に吐き出し、年2割の高率配当から無配へ転じた[45]。音桂二郎社長は1966年の年賀交換会で、外見上は健康体質でも内部に問題が積み上がり、不況という外からの圧力でそれが表れたと述べ、製品と作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓を体質改善の対策に挙げた[46]。
1965年の業績不振で赤字が確実とみられるなか、日本機械計装は1966年の年詞交換会を迎えた[47]。席上、音桂二郎社長は外見上は健康とみられてきた企業の内部に多くのウミが蓄積しており、それが不況という外からの圧力で前年に表へ出たと述べた[48]。体質改善の対策として挙げたのは、製品および作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係の改善の4つである[49]。同年3月に公表した決算は9,100万円の欠損となり、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた[50]。年2割の高率配当は一挙に無配へ転落し、創業以来ためてきた1億円の蓄えを一度に吐き出した[51]。
9,100万円の欠損は、受注のたびに設計を1から始める生産の仕組みから生まれた[52]。需要者の複雑多岐な要求を満たすため製品は一品料理的に作られ、工程は注文ごとにまったく異なり、部品もその都度そろえる必要があった[53]。見込みで買って機械加工まで施した部品は、予想が外れるとスクラップとなり100分の1の価格で売られた[54]。標準化の価値は1961年ごろから社内で認められていたが、実行には移されていなかった[55]。音桂二郎社長は所得倍増計画で人件費が上がり労働集約的な生産では立ち行かないとみて、ポンプの部品をできるだけ標準化せよと号令を出した[56]。東村山工場には60工程を1台でこなす国産第1号のマシニングセンターを含めNCマシン12台が入り、熟練工2人で4時間かかったポンプフレームの加工は45分に縮んだ[57]。
主力の化学ポンプは米ミルトン・ロイ社から導入した技術によるもので、技術陣は提携先から届く図面と資料を写すだけになっていた[58]。1965年5月に提携期間が切れると、日本機械計装は再契約せずに自力開発へ切り替えた[59]。独自技術のミルフロー制御容量ポンプは世界の定量注入ポンプで売上第2位を占め、化学メーカーに加えて銅精錬など鉱業向けにも需要が広がった[60]。ノンシールポンプもケミポンプ社との10年の提携が切れた後は自社技術で作り、廃ガスの有毒分を吸着するBAS-SORBERや米ゴーマンラップ社と提携した排水・汚水処理用ポンプとともに、公害防止用の新規需要をつかんだ[61]。米サンドストランド社と提携したサンダインポンプは毎分2万5,000回転から3万回転で回る[62]。1968年10月に渋谷区恵比寿の本社屋が完成し、翌11月29日の株主総会で商号を日本機械計装から日機装へ改めた[63]。
人工腎臓に踏み込んだのは1967年で、米ミルトン・ロイ社製の装置の輸入販売を日本で初めて手がけた[64]。扱ったキール型はコルフ型に比べて経済的で、保存血液が少量ですむ利点から病院に歓迎され、長く主導権を握った[65]。2年後の1969年には国産第1号機を完成させた[66]。ポンプと違い、わずかなミスが人命に直結する装置であり、図面や資料の引き移しでは製品にならない[67]。国産化を支えたのは、1965年の不況後に精密ポンプの自力開発で培った技術力と、東京大学医学部木本外科の依頼でわが国初の人工心臓を試作した経験だった[68]。
1968年、音桂二郎社長は新潟大学の関連病院に納めた装置の使用に立ち会うため新潟へ出向いた[69]。患者は20代半ばの男性で、素人が見ても顔のむくみがひどい重症とわかった[70]。透析器が動きだすとむくみが引き、北海道から出てきた両親は主治医に手を合わせ、紹介された音桂二郎社長にも手を合わせた[71]。人に拝まれたのは音桂二郎社長にとって初めての経験だった[72]。設計や製造のミスが許されず、異常が起きたときに備えて24時間のサポート体制を敷く必要があるため、日機装は病院へ専門の技師を養成するよう働きかけた[73]。
1971年に人工腎臓を使った治療が全額健康保険の対象になると、装置の需要が急速に伸びた[74]。同年に約7億円だった人工腎臓の売上は1974年9月期に49億円へ7倍近く増え、総売上に占める割合は40%に高まった[75]。1973年末の人工腎臓装置の設置台数4,986台のうち、日機装製が約55%を占めた[76]。全国の要治療患者が10万人とみられるのに対し、1974年末に治療を受けていた患者は6,000人強にとどまっていた[77]。日機装は1971年2月に東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部へ上場した[78]。
人工腎臓装置は東村山工場で作っていたが需要に追いつかず、日機装は1974年9月、静岡県榛原に30億円を投じて医療器専門の工場を建て、生産能力を倍増させた[79]。同時に独立した研究所も置いた[80]。この期の設備投資だけで過去5年間の総投資額を上回った[81]。1974年9月期の売上高は119億2,500万円、税引利益は9億2,800万円、従業員は846人[82]。音桂二郎社長は1972年11月の講演で3年後の1975年に売上高100億円以上をめざすと語っており、その水準を1年早く超えた[83]。売上構成は機械41%、計装器18%、医療機器41%で、創立以来の主業だった火力発電所用水質調整装置を抱える計装が3事業部で最も小さくなった[84]。
静岡工場では毎月、病院の医師や助手を招いて1週間から10日の合宿教育を行った[85]。教育の後に試験を実施し、合格者には『テクニシャン』の修了証書を渡した[86]。日機装はテクニシャンのいる施設にだけ装置を出し、いない施設には出さない方針をとった[87]。機械に問題がなくても操作を誤って人身事故が起きれば、日機装の機械が悪かったと言われて大きな損害を受けるためである[88]。外国では国家試験の有資格者が病院に常駐していたが、日本にその制度はなく、普及を妨げていたのは受け入れ側にあった[89]。日機装は、医師でない助手がテクニシャンを務める場合は医師の立ち会いを条件とし、機械の操作だけを任せた[90]。
日機装は規模の拡大を追わず、『NOT BIG, BUT STRONG』を社内に掲げた[91]。新入社員の面接では、3割ほどがこの標語を気に入って受験したと答えた[92]。1974年9月期の総資本利益率は6.5%と東証1部上場製造業平均の2.1%を、売上高利益率は7.7%と同平均の2%をそれぞれ上回り、自己資本比率は47%に達した[93]。財務管理の責任者は安藤道雄副社長が務め、社長でも独断で経理にタッチできない仕組みをとった[94]。1969年7月には日本揮発油との折半出資で日本工業洗浄を設立し、払込資本金1,500万円を各750万円ずつ負担して火力プラントのボイラー洗浄を担わせた[95]。1974年に西独フランクフルト郊外へ日機装ドイッチェランドGmbHを設立し、1975年1月にブラジル・サンパウロ郊外の約10万坪を購入した[96]。
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|---|---|---|---|---|
| 1953〜1965年ミルトン・ロイ社の代理権ひとつで始めた資本金100万円の創業 | 音桂二郎 | ミルトン・ロイポンプの輸入販売を主業として特殊ポンプ工業を創立 | ★★★ | |
| 音桂二郎 | 米国ミルトン・ロイ社の総代理店として販売開始 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | 米国ミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化に移行 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | 東京都渋谷区豊沢町に本社および工場完成 | ★ | ||
| 音桂二郎 | 商号を日本機械計装に変更 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | 日本初の人工心臓を東京大学木本外科に提供 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | 東村山工場完成 | ★ | ||
| 音桂二郎 | 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 1966〜1980年ミルトン・ロイとの提携を切り、人工腎臓を売上の4割へ | 音桂二郎 | ミルフロー制御容量ポンプを自社開発 | ★★ | |
| 音桂二郎 | 人工腎臓装置の販売開始 | ★★★ | ||
| 音桂二郎 | 東京都渋谷区恵比寿に本社屋完成、本店移転 | ★ | ||
| 音桂二郎 | 商号を日機装に変更 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | 国産初の人工腎臓装置完成 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | ノンシールポンプを自社開発 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | 東京および大阪証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 音桂二郎 | 静岡工場および研究所完成 | ★ | ||
| 音桂二郎 | 人工腎臓装置用ダイアライザーの製造販売開始 | ★★ | ||
| 1981〜2004年3本柱の頭打ちと、波多野正彦氏を招いて始めた炭素繊維加工 | 音桂二郎 | 静岡工場の炭素繊維複合材料開発プラントでCFRP製品の製造販売開始 | ★★★ | |
| 音桂二郎 | 人工膵臓の製造承認を取得 | ★★ | ||
| 鈴木勲 | 米国ボーイング社に炭素繊維複合材料技術を供与 | ★★ | ||
| 鈴木勲 | 液化ガス用サブマージドモータポンプの独占製造販売権を取得 | ★★ | ||
| 鈴木勲 | 静岡製作所に複合材製品工場完成 | ★ | ||
| 音孝 | 金沢製作所完成 | ★ | ||
| 音孝 | 東村山製作所内にR&Dセンター総合館完成 | ★ | ||
| 音孝 | カンパニー制および執行役員制度を導入 | ★★ | ||
| 音孝 | 大阪証券取引所市場第一部上場を廃止 | ★ | ||
| 2005〜2025年LNGに490億円、LEWAとCRRTを手放して残した2部門 | 甲斐敏彦 | 創光科学を設立し深紫外線LED事業に参入 | ★★ | |
| 甲斐敏彦 | 独LEWA Management GmbHの全出資持分を取得 | ★★ | ||
| 甲斐敏彦 | フレゼニウスメディカルケアジャパンの透析関連製品販売事業を譲受 | ★★ | ||
| 甲斐敏彦 | 蘭Geveke B.V.の全株式を取得 | ★★ | ||
| 甲斐敏彦 | 米国バクスターの急性血液浄化療法(CRRT)事業を取得 | ★★ | ||
| 甲斐敏彦 | 金沢製作所に航空宇宙工場およびメディカル工場完成 | ★ | ||
| 甲斐敏彦 | 石川県に白山工場完成 | ★ | ||
| 甲斐敏彦 | 瑞Atlas Copco社グループのクライオジェニックポンプ事業を譲受 | ★★ | ||
| 甲斐敏彦 | 米Cryogenic Industriesグループの全株式を取得 | ★★★ | ||
| 甲斐敏彦 | 宮崎日機装に航空宇宙工場完成 | ★ | ||
| 甲斐敏彦 | 独LEWA GmbHグループおよび蘭Geveke B.V.グループの全株式を譲渡 | ★★★ | ||
| 甲斐敏彦 | 日機装(上海)実業有限公司およびNikkiso Europe GmbHの全株式を譲渡 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日機装)