音桂二郎氏は1919年1月1日、音申吉氏の次男として東京に生まれ、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業したのち海軍造機技術士官に任命された。横須賀・舞鶴・呉の海軍工廠を回った2年ほどの海軍生活で、海中で簡易水処理装置を使う米兵を見たことをきっかけに、イオン交換樹脂による水処理装置の開発へ独自に取り組んだ。1946年春から奈良県大宇陀で自動車修理業を営んだのち、1948年1月、財閥解体で三菱商事から分かれた金商へ移り、新設の機械課に入った。同社では三菱化成工業のイオン交換樹脂を軸とする水処理業務を担当し、1950年には"河川汚濁処理法案"を通商産業省へ建言した。総合水処理事業を主体業務とする新会社の設立運動を主導し、1952年10月に三菱化成工業と金商の共同出資で日本錬水が発足すると、営業課長に就任した。
しかし日本錬水は、発足の時点で音桂二郎氏の目的意識とずれていた。音桂二郎氏が総合水処理メーカーを目指したのに対し、親会社の三菱化成工業はイオン交換樹脂"ダイヤイオン"の販売に重点を置き、水処理業務には消極的だった。米国の水処理メーカーであるインフィルコ社との技術提携交渉は、ローヤリティやイニシャルペイメントで歩み寄りながら、最後の三菱化成工業首脳との会談が"ダイヤイオン"の販売拡大に終始し、水処理をほとんど論じないまま不成立に終わった。設備の自動化を見据えた制御関係技術者の新規採用も、親会社から出向させて新規採用は行わないという人事原則に阻まれ、内定まで進みながら実現しなかった。1953年10月に日本錬水を退社した音桂二郎氏は、同社の社長に対し、当分の間は水処理(第1次水処理)業務を行わないこと、日本錬水の人材を引き抜かないことの2項を約束した。
ライフワークに選んだ水処理を封じられた以上、残る足場は、金商時代に代理権を取得し日本錬水でも1人で扱っていた米ミルトン・ロイ社の定量注入ポンプだけだった。罐水処理(第2次水処理)業務とポンプの委譲は日本錬水から了解を得たものの、肝心のミルトン・ロイ社の承諾はなく、日本機械貿易も同社へ根強く接触していた。音桂二郎氏は実情を詳細に書き送って代理権の委譲を求め、シーン社長から承諾と激励の手紙を受け取った。シーン社長も父と2人で特殊ポンプを始め水処理から出た経歴を持ち、動機も様式も酷似していた。1953年12月26日、資本金100万円で特殊ポンプ工業が発足。本店は東京都墨田区江東橋4丁目18番地、代表取締役は34歳の音桂二郎社長、監査役は63歳の父音申吉氏で、常勤はこの親子2人だけだった。
当時、機械を輸入するには最終需要家から外貨割当証明書を譲り受け、割当の日から2カ月以内に為替銀行へ輸入許可申請書を出す必要があり、遅れれば割当は効力を失った。そうしたなか、発足まもない1954年3月に、朝鮮動乱のあと初となる強い金融の引き締めが打ち出された。それまで輸入為替を扱っていた某銀行東京支店は、特殊ポンプ工業の輸入信用状は今後いっさい開かないと通告し、引き受け済みの分も断ってきた。開設の期限までは5日しか残っていなかった。ミルトン・ロイ社にはもう注文書を出しており、期限を越えれば電力会社への納入が遅れ、代理権を任された同社からの信用も失うことになる。音桂二郎社長は銀行を回り、期限3日前に東京銀行神田支店の引き受けを取り付け、契約条件である担保金30%を積んで期限最終日に信用状を開設した。
音桂二郎社長が立てた仮説は、臨海火力発電所の増設が定量注入ポンプなど制御機器の需要を高めるというものだった。ボイラ内の水はスケールの付着と溶存酸素による腐食を抑える必要があり、水質を刻々と測る計器と薬液を適量注入するポンプが対で使われた。1954年春から交渉した米ケンブリッジ社の溶存酸素計についても同年7月に総代理店契約の承諾を得て、罐水処理装置の主要部を占める2製品の日本総代理店がそろった。この2契約により、火力発電所の罐水処理装置の計画と主要機器の納入販売をほぼ独占する立場を得た。1955年4月にはミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化へ移り、1956年5月に東京都渋谷区豊沢町の本社・工場を完成、1958年3月に大阪営業所を開設した。
1959年2月、東京大学木本外科の渥美和彦氏から人工心臓の試作を依頼された特殊ポンプ工業は、企業目的から外れるとして一度辞退したが、要請が続いたため試作品1台までという条件で引き受け、1960年7月に日本初の人工心臓を東京大学へ納めた。1959年7月には東村山で工費約7,500万円の第1期建設工事に着工し、同年12月に機械工場や組立工場などの主要建築物が完成。売上の半分以上を計装部の水質調整装置や自動燃焼装置が占め、社名が業務内容に合わなくなったため、1959年10月1日を期して商号を日本機械計装へ変更した。略称の日機装に含まれる"計装"は、音桂二郎社長がinstrumentationの訳語として作った語である。1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場すると株価は1,400円の最高値をつけ、第二のソニーと呼ばれた。
1962年3月、東村山工場で大型の第2工場が完成し、主力3種類のポンプを全量自社で製造できる体制が整った。一方で売り先の幅は狭く、売上は石油化学業界と電力会社の設備投資次第で上下した。主力の化学用ポンプを買うのは事実上石油化学系の化学メーカーだけで、それに続く計装機器についても、需要は火力発電所に限られていたからである。電力業界では、発電所の大型化と技術者不足から、プラントメーカーへ一括して発注する方式が広がった。その結果起きた値引き競争で安い国産機器が採用されやすくなり、輸入代理店として握っていた独占的地位は失われ、利益率も低下した。主力製品の大半が外国技術の導入によるものだったため、研究開発への意欲は弱まり、技術陣の仕事は提携先が送ってくる図面や資料を写し取るだけの作業に近くなっていった。
計装部門の停滞に対し、日本機械計装はボイラ自動燃焼制御へ本格的に進出した。1961年7月、西独最大の計器メーカーであるハルトマン・ブラウン社の姉妹会社で制御装置を専門とするショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店となったが、これは大きな誤算に終わった。1963年5月には米コノフロー社と、コントロール・バルブおよび操作調整器の製造に関する技術援助契約を締結した。ポンプ以外では最初の技術提携にあたるが、交渉開始から締結まで4年以上を費やし、その遅れがこの分野で十分な市場を取れなかった最大の要因になった。1959年3月に音桂二郎社長らが渡米して候補をコノフロー社に絞り、1960年末には技術提携料の率まで合意していたが、同社の内部事情で通商産業省へ出した案を取り下げ、1年以上保留された。
1965年の春闘で、日本機械計装は労使関係の安定を優先して組合要求の実現に努め、数度の団体交渉を経て5月20日に1人平均2,700円の昇給で妥結した。しかし6月28日、組合は1人平均2.9カ月(72,224円)の夏期一時金を要求し、相互の信頼は途切れた。1966年3月の決算は9,100万円の欠損となり、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた。創業以来積み上げてきた1億円の利益剰余金を一度に吐き出し、年2割の高率配当から無配へ転じた。日本機械計装は1966年の年賀交換会で、製品と作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係の改善を体質改善の対策に据えた——外見上は健康体質でも内部に多くの問題が蓄積し、不況という外からの圧力でそれが表へ出た、というのが音桂二郎社長の診立てである。
日機装が1965年に手放したのは、ミルトン・ロイ・ポンプという商品ではない。外国の設計に自社の製造を合わせる位置そのものである。技術提携とは名ばかりで、実際には届いた図面を写し、寸法を引き直す作業が主体だった。基礎設計を持たないまま製品が仕上がるため、市場が変わって不適当と分かっていてもそのまま複製してしまう。安く、速く、確実である代わりに、技術者は考える力を使わなくなる。赤字決算を受け入れ、84名を減らし、役付取締役を平取締役へ降ろしてまで自力開発へ経営資源を集中したのは、図面を買い続けるかぎり次の不況でも同じ場所に立たされると音桂二郎氏が見ていたからだろう。
人工腎臓装置が1974年9月期に売上の4割を占めたのは、装置が優れていたからだけではない。腎臓の代わりをする機械は故障が人命に直結し、灌流液もダイアライザも絶えず届けなければならない。日機装は病院が買えるように銀行と組んでローンを用意し、装置を扱う技師の養成機関を自前で持った。ポンプで培った定量注入の技術より、この売り方のほうが厚い参入障壁になった。部材の量産は規模の大きい会社ほど有利でも、24時間動き続けるサービス網は、売上の一部でしかない分野のために抱えにくい。医療器の市場で日機装が取った位置は、装置の性能ではなく、装置が止まったときに誰が来るかで決まっていた。
1965年5月、米国ミルトン・ロイ社とのミルトン・ロイ・ポンプ製作に関する技術提携が期間満了を迎え、日本機械計装は再契約せず、同日に両社対等の相互代理店契約へ切り替えた。ケミポンプの提携も続けて打ち切った。再提携は安全な道だった。ミルトン・ロイ社は5年をかけて陳腐化した同ポンプの全面モデルチェンジを終え、日本特許も成立させていたから、図面を受け取れば短期のうちに実現できる。自力開発はその逆で、同社が押さえた各種特許に触れない別の機構を考案せねばならず、耐久試験だけで1年以上を要し、手間取るあいだにミルトン・ロイ社が国内の他社と提携して市場を席巻する恐れもあった。10年の契約期間のうちにミルトン・ロイ・ポンプは定量注入ポンプの一般名称となっており、工場製品の7割を占めるこの品目の開発に失敗すれば、会社の存続は危うかった。
試作は進まなかった。1965年6月、社運をかけた新定量注入ポンプの試作1号機は形になったものの満足に作動せず、採用した機構の可否を検討し直す段階まで引き戻された。受注は戻らず、同年8月から人員削減に入る。中途採用と新卒採用を止め、退職者を補充せず、希望退職15名を募り、商品部を系列の日機装電工へ移して33名を出したが、予定の100名には届かない。各部の考課で挙がった21名のうち8名は部長の説得で退職し、残る13名には11月20日付で指名解雇を発令した。うち5名は解雇を不当として東京地方裁判所へ訴え、争いは長期化する。減員は合計84名で、取締役5名が辞任し、社長1名を残して役付取締役は全員が取締役へ降格した。人件費の圧迫は多少和らいだが、1966年3月期の売上高は前期の19億円から14億円へ落ち、赤字決算は避けられなかった。
立て直しの軸に据えたのは製品と作業の標準化である。需要家の要求が複雑なため、日本機械計装の製品は一品料理として作られていた。設計は毎回ゼロから起こし、工程も部品もその都度違い、注文を見越して買った部品は予想が外れればスクラップとなり100分の1の価格で売却された。1964年当時の東村山工場は従業員約200名のうち現場員が約70名で、残る130名は設計・工務・検査・事務だった。同年3月期に3億5千万円だった工場棚卸在庫は9月に4億2千万円へ膨らみ、半期の売上高が5億円強であることを思えば異常な量だった。標準化の価値は1961年ごろから認められながら、複雑な注文がそれを押し流していた。取締役東村山工場長の酒井尚武氏が在庫と生産管理の混乱を解き、会社は新製品・新技術の開発、新市場の開拓、作業の標準化と製品の規格化、事務の合理化、人間関係の改善を五大目標に掲げた。
1967年8月、日本機械計装は人工腎臓装置の販売を始めた。不況下で新分野の開拓に苦しんでいたころ、米国ミルトン・ロイ社から日本での販売を引き受けないかという申し入れがあった。同社は得意の定量注入ポンプの用途を広げる一策として、ワシントン大学のスクリブナー教授の指導を受けてキドニーマシンの開発に着手していた。ただし日本機械計装の医療機器の実績はほぼ皆無で、代理店とすることの可否はミルトン・ロイ社の内部でも議論があり、当初は総代理店ではなく非独占の形で販売を頼まれた。受ける側も未知の市場を前に、8ヵ月をかけて市場調査と医療関係者への聞き取りに回った。当時の国内ではコルフ型がごく一部の施設に置かれる程度で、構造は簡単で実用性に乏しい。輸入するキール型は保存血液が不要で消耗品も少ない代わりに、価格ははるかに高かった。
研究課は2年間の納入で得た経験と臨床データを生かして1969年2月に試作品を完成させ、新潟大学附属病院で臨床試験を積み重ねていた。キール型は医学界でその優秀性を認められ、20数台を受注したが、故障のたびに米国へ発注して取り寄せてから直すしかなく、部品の欠品、納期の遅れ、高い価格という三つの問題がサービス部門に一度に降りかかった。人命を預かる装置でこれを続けることはできず、輸入販売は2年を待たずに行き詰まった。1968年10月ごろに技術提携の交渉が本腰を入れて始まり、1969年3月の調印、5月の政府認可へと進んだ。価格の高いモデルAを改めたこの機種は評価が高く、厚生省の認可から1ヵ月足らずで9台の注文が入る。同年8月、国産第1号のBN型が新潟の信楽園病院へ納まり、10月に置かれた医療器部は部員10名で始まった。
国産化は売り方の設計と対になっていた。普及を阻んでいたのは、装置を扱える医師と看護婦の不足、そして病院側の購入資金の不足である。日機装は1971年11月、住友銀行と第一勧業銀行の協力で人工腎臓ローンの取り扱いを始めた。第一勧業銀行の条件は期限最長7年、原則2,000万円まで、金利は年7.8%から8.2%で、買う側に有利なものだった。同時に装置取り扱い技師の養成機関を設け、2ヵ月に1回の講習と実習を課している。1971年に人工腎臓を用いた治療が全額健康保険の対象となると需要は急速に伸び、1973年1月には納入台数が800台を超え、国内シェアは60%以上に達した。治療機器は診断機器と違い、故障しても部品を交換して工場で修理すればよいというわけにいかない。日機装が売っていたのは装置ではなく、止まらない体制のほうだった。
1971年2月1日、日機装は東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部へ昇格した。時価発行による増資は安藤道雄氏を中心に検討されていたが、二部上場の会社には制約が多く実現していなかった。一部昇格で対外的な信用が上がり、計画は本格的に動き出す。1972年8月3日、両取引所で400万株の公募増資を発表した。予定株数の全部を時価で発行し、旧株主への額面割当を行わない方式で、払込は10月末日、時価600円で資本剰余金約23億円を得た。1971年秋の事業部制移行で各部門は独立採算に移り、なかでも機器医療器事業部の伸びが生産態勢の増強を迫っていた。長短借入金は1969年の11億400万円から1974年9月末に30億円へ増えたが、総資産に占める比率は27.4%から18.7%へ下がった。
静岡工場は医療器だけのための工場として構想された。東村山工場内の医療器工場は設備も規模も足りず、旺盛な受注に生産が応じきれなくなっていたためである。1972年1月、静岡県榛原町に約77,000平方メートルの用地を取得し、同年11月7日に起工する。1974年9月、静岡工場と研究所が完成した。投資額は30億円、人工腎臓装置の生産能力は倍になり、この期の設備投資だけで過去5年間の総額を上回った。1974年9月期の売上高は119億2,500万円、税引利益9億2,800万円、従業員846人。売上構成は機械41%、計装器18%、医療器41%となり、1971年に約7億円だった人工腎臓の売上高は49億円へ伸びている。総資本利益率6.5%は東京証券取引所第一部上場製造業平均2.1%の3倍にあたり、自己資本比率は47%だった。
海外では製品を運ぶのではなく、現地で作った。1973年10月、資本金300万マルク・日機装100%出資のニッキソー・ドイチェランドGmbHを設立し、酒井尚武氏が社長に就任した。西独へ進出した日本企業は約300社に上ったが、人件費の高さから生産基地を持つのは数社にすぎない。それでも西独を選んだのは技術者の水準が高く、ここで売れるものは欧州のどこでも通用すると見たからである。最大の関門は安全基準だった。キャンドモーターポンプの防爆認定申請は日本企業として初めてで、取得に3年を費やす。1977年9月期の受注170万マルクのうち西独は5%にすぎなかったが、ミュンヘン工科大学出身のドイツ人を営業マネジャーに据えると、1978年5月までの受注は西独が60%を占めて首位へ変わった。技術を買う側から売る側へ回るまでに13年を要した。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/6376/company.json https://the-shashi.com/api/6376/history.json https://the-shashi.com/api/6376/ceo.json https://the-shashi.com/api/6376/financials.json https://the-shashi.com/api/6376/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/6376/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/6376/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/6376/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/6376/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/6376/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/6376/financials.csv https://the-shashi.com/api/6376/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1953〜1965年ミルトン・ロイ社の代理権ひとつで始めた資本金100万円の創業 | 音桂二郎 | ミルトン・ロイポンプの輸入販売を主業として特殊ポンプ工業を創立 | ★★★ | |
| 音桂二郎 | 米国ミルトン・ロイ社の総代理店として販売開始 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | 米国ミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化に移行 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | 東京都渋谷区豊沢町に本社および工場完成 | ★ | ||
| 音桂二郎 | 商号を日本機械計装に変更 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | 日本初の人工心臓を東京大学木本外科に提供 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | 東村山工場完成 | ★ | ||
| 音桂二郎 | 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 1966〜1980年技術の自立と医療器への多角化 | 音桂二郎 | ミルフロー制御容量ポンプを自社開発 | ★★ | |
| 音桂二郎 | 人工腎臓装置の販売開始 | ★★★ | ||
| 音桂二郎 | 東京都渋谷区恵比寿に本社屋完成、本店移転 | ★ | ||
| 音桂二郎 | 商号を日機装に変更 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | 国産初の人工腎臓装置完成 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | ノンシールポンプを自社開発 | ★★ | ||
| 音桂二郎 | 東京および大阪証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 音桂二郎 | 静岡工場および研究所完成 | ★ | ||
| 音桂二郎 | 人工腎臓装置用ダイアライザーの製造販売開始 | ★★ | ||
| 1981〜2008年炭素繊維複合材でのボーイングへの技術供与とLNGポンプ、深紫外線LEDへの参入 | 音桂二郎 | 静岡工場の炭素繊維複合材料開発プラントでCFRP製品の製造販売開始 | ★★★ | |
| 音桂二郎 | 人工膵臓の製造承認を取得 | ★★ | ||
| 鈴木勲 | 米国ボーイング社に炭素繊維複合材料技術を供与 | ★★ | ||
| 鈴木勲 | 液化ガス用サブマージドモータポンプの独占製造販売権を取得 | ★★ | ||
| 鈴木勲 | 静岡製作所に複合材製品工場完成 | ★ | ||
| 音孝 | 金沢製作所完成 | ★ | ||
| 音孝 | 東村山製作所内にR&Dセンター総合館完成 | ★ | ||
| 音孝 | カンパニー制および執行役員制度を導入 | ★★ | ||
| 音孝 | 大阪証券取引所市場第一部上場を廃止 | ★ | ||
| 甲斐敏彦 | 創光科学を設立し深紫外線LED事業に参入 | ★★ | ||
| 2009〜2026年独LEWA・米Cryogenic Industriesの買収と透析・CRRT事業、LEWA売却による再編 | 甲斐敏彦 | 独LEWA Management GmbHの全出資持分を取得 | ★★ | |
| 甲斐敏彦 | フレゼニウスメディカルケアジャパンの透析関連製品販売事業を譲受 | ★★ | ||
| 甲斐敏彦 | 蘭Geveke B.V.の全株式を取得 | ★★ | ||
| 甲斐敏彦 | 米国バクスターの急性血液浄化療法(CRRT)事業を取得 | ★★ | ||
| 甲斐敏彦 | 金沢製作所に航空宇宙工場およびメディカル工場完成 | ★ | ||
| 甲斐敏彦 | 石川県に白山工場完成 | ★ | ||
| 甲斐敏彦 | 瑞Atlas Copco社グループのクライオジェニックポンプ事業を譲受 | ★★ | ||
| 甲斐敏彦 | 米Cryogenic Industriesグループの全株式を取得 | ★★★ | ||
| 甲斐敏彦 | 宮崎日機装に航空宇宙工場完成 | ★ | ||
| 甲斐敏彦 | 独LEWA GmbHグループおよび蘭Geveke B.V.グループの全株式を譲渡 | ★★★ | ||
| 甲斐敏彦 | 日機装(上海)実業有限公司およびNikkiso Europe GmbHの全株式を譲渡 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日機装)