日機装 の歴史

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創業 1953年
創業者 音桂二郎
創業地 東京都
創業 1953年12月26日、音桂二郎氏が東京都墨田区江東橋で資本金100万円の特殊ポ
1953年12月26日、音桂二郎氏が東京都墨田区江東橋で資本金100万円の特殊ポンプ工業を設立した。海軍造機技術士官から金商を経て、1952年に三菱化成工業と金商の共同出資で発足した日本錬水の営業課長を務めたが、水処理へ消極的な親会社と方針が合わず1953年10月に退社している。退社にあたり当分の間は水処理業務を行わないと約束したため、残る足場は米ミルトン・ロイ社製の定量注入ポンプの代理権だけだった。代表取締役は34歳の音桂二郎氏、監査役は63歳の父・音申吉氏で、常勤はこの親子2人である。1959年10月に日本機械計装、1968年11月に日機装へ商号を変更した。
決断 借りた技術は更新せず、期限が切れるたび自前へ切り替えた。1965年5月に米ミルト
借りた技術は更新せず、期限が切れるたび自前へ切り替えた。1965年5月に米ミルトン・ロイ社との提携期間が切れると再契約せずに自力開発へ移り、独自のミルフロー制御容量ポンプは定量注入ポンプで世界2位の売上を占めた。ケミポンプ社との10年の提携が切れたあとのノンシールポンプも、自社技術で作り直している。人工腎臓も1967年に同じミルトン・ロイ社製の輸入販売から入り、2年後の1969年に国産第1号機を完成させた。図面と資料を写すだけになっていた技術陣が、わずかなミスが人命に直結する装置の設計まで担った。
現況 取得で広げた工業部門が、売上の63%を占めている。2017年8月にCryogen
取得で広げた工業部門が、売上の63%を占めている。2017年8月にCryogenic Industriesグループ22社を約490億円で取得し、LNGの下流と産業ガスの機器へ事業を多角化した。一方で2009年に取得した独LEWAは2022年8月に、2014年に米Baxterから譲り受けたCRRT事業は2025年2月に譲渡している。2025年12月期の売上収益2,156億円は工業1,367億円・医療789億円で、営業利益は工業135億円・医療61億円だった。地域別では日本707億円、アジア602億円、北アメリカ497億円、ヨーロッパ265億円である。取得する事業を選び直したことが、2023年12月期に59億円まで低下した営業利益を153億円へ戻した。
競合 透析では、装置を作る側と膜を作る側で相手が分かれる。1968年に米ミルトン・ロイ
透析では、装置を作る側と膜を作る側で相手が分かれる。1968年に米ミルトン・ロイ社の人工腎臓装置を扱い、ライセンスを取得して自社生産へ移った日機装は、装置で先行者の利潤を得た。ところがダイアライザーには大手繊維メーカーが参入して価格競争となり、診療報酬点数も1981年6月と1983年2月に引き下げられて、1982年9月期の医療器事業部は不振に陥る。日機装が選んだのは膜で正面から競うことではなく、装置を扱う技士を自ら育てることだった。静岡製作所は毎月4日間の合宿研修を実施し、1994年時点の受講者は延べ4,000人に達した。2000年にはダイアライザーで国内首位の旭化成系の旭メディカルとOEM製品の相互販売で提携した。膜を争う相手と製品を融通し合ったことが、競争の焦点を装置と技士の側に残した。
長期業績の推移 1950〜2025年
日機装:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2025年12月期

第1章 1953年〜 ミルトン・ロイ社の代理権ひとつで始めた資本金100万円の創業

1953年〜水処理を封じられた音桂二郎氏と父の2人だけの発足

音桂二郎氏は1919年1月1日、音申吉氏の次男として東京に生まれ、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業したのち海軍造機技術士官に任命された。横須賀・舞鶴・呉の海軍工廠を回った2年ほどの海軍生活で、海中で簡易水処理装置を使う米兵を見たことをきっかけに、イオン交換樹脂による水処理装置の開発へ独自に取り組んだ。1946年春から奈良県大宇陀で自動車修理業を営んだのち、1948年1月、財閥解体で三菱商事から分かれた金商へ移り、新設の機械課に入った。同社では三菱化成工業のイオン交換樹脂を軸とする水処理業務を担当し、1950年には"河川汚濁処理法案"を通商産業省へ建言した。総合水処理事業を主体業務とする新会社の設立運動を主導し、1952年10月に三菱化成工業と金商の共同出資で日本錬水が発足すると、営業課長に就任した。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(1)創業の決断
    • [1]音桂二郎氏は1919年1月1日に音申吉氏の次男として東京に生まれ、東京帝国大学工学部機械工学科を出て海軍造機技術士官に任命された。
    • [2]横須賀・舞鶴・呉の海軍工廠を歴任した海軍時代に、海中で簡易水処理装置を使う米兵を見たことをきっかけとして、イオン交換樹脂による水処理装置の開発を独自の研究をもとに進めた。
    • [3]1946年春から奈良県大宇陀で自動車修理業を開業し、1948年1月に金商へ入社した。金商は1947年の財閥解体で三菱商事が分散した会社の1つで、機械課の新設と同時の入社だった。
    • [4]金商では三菱化成工業のイオン交換樹脂を中心とする水処理業務に従事し、1950年に「河川汚濁処理法案」を通産省へ建言した。
    • [5]音桂二郎氏が中心となって総合水処理事業を主体業務とする新会社設立運動を進め、1952年10月に三菱化成工業と金商の共同出資で日本錬水が設立され、同氏は営業課長に就任した。

しかし日本錬水は、発足の時点で音桂二郎氏の目的意識とずれていた。音桂二郎氏が総合水処理メーカーを目指したのに対し、親会社の三菱化成工業はイオン交換樹脂"ダイヤイオン"の販売に重点を置き、水処理業務には消極的だった。米国の水処理メーカーであるインフィルコ社との技術提携交渉は、ローヤリティやイニシャルペイメントで歩み寄りながら、最後の三菱化成工業首脳との会談が"ダイヤイオン"の販売拡大に終始し、水処理をほとんど論じないまま不成立に終わった。設備の自動化を見据えた制御関係技術者の新規採用も、親会社から出向させて新規採用は行わないという人事原則に阻まれ、内定まで進みながら実現しなかった。1953年10月に日本錬水を退社した音桂二郎氏は、同社の社長に対し、当分の間は水処理(第1次水処理)業務を行わないこと、日本錬水の人材を引き抜かないことの2項を約束した。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(1)創業の決断
    • [6]日本錬水は設立時点ですでに音桂二郎氏と会社側との間に目的意識の大きな相違が生じていた。
    • [7]音桂二郎氏が総合水処理メーカーを目指したのに対し、会社側はイオン交換樹脂「ダイヤイオン」の販売に重点を置き、水処理業務には消極的だった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
    • [8]インフィルコ社との技術提携交渉はローヤリティ・イニシャルペイメント等で歩み寄ったが、三菱化成工業トップとの会談が「ダイヤイオン」の販売拡大に終始し、水処理をほとんど意見交換せずに終わり、提携は成立しなかった。
    • [9]制御関係技術者の新規採用は日本錬水の白鳥社長の一応の了解を得て内定者まで決めたが、親会社の三菱化成工業から出向させ新規採用は行わないという人事基本政策があり進まなかった。
    • [10]音桂二郎氏は1953年10月に日本錬水を退社し、同年秋に同社社長と新会社設立について話し合い、当分の間は水処理(第1次水処理)業務を行わないこと、人を引き抜かないことの2項を表明した。

ライフワークに選んだ水処理を封じられた以上、残る足場は、金商時代に代理権を取得し日本錬水でも1人で扱っていた米ミルトン・ロイ社の定量注入ポンプだけだった。罐水処理(第2次水処理)業務とポンプの委譲は日本錬水から了解を得たものの、肝心のミルトン・ロイ社の承諾はなく、日本機械貿易も同社へ根強く接触していた。音桂二郎氏は実情を詳細に書き送って代理権の委譲を求め、シーン社長から承諾と激励の手紙を受け取った。シーン社長も父と2人で特殊ポンプを始め水処理から出た経歴を持ち、動機も様式も酷似していた。1953年12月26日、資本金100万円で特殊ポンプ工業が発足。本店は東京都墨田区江東橋4丁目18番地、代表取締役は34歳の音桂二郎社長、監査役は63歳の父音申吉氏で、常勤はこの親子2人だけだった。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)「特殊ポンプ工業株式会社」発足
    • [11]音桂二郎氏は水処理業務を断念し、金商時代にミルトン・ロイ社と交渉して代理権を取得し、日本錬水時代も同社との取引を1人で取り行っていた。
    • [12]罐水処理業務とミルトン・ロイ・ポンプの委譲は日本錬水から了解を得たが、ミルトン・ロイ社の了解は未取得で、日本機械貿易も同社に根強くコンタクトしていた。
    • [13]音桂二郎氏はミルトン・ロイ社へ実情を詳細に書き送って代理権の委譲を要請し、シーン社長から承諾と激励の文意の手紙を受け取った。
    • [15]特殊ポンプ工業の正式設立は1953年12月26日、資本金100万円だった。
    • [16]本店所在地は東京都墨田区江東橋4丁目18番地、代表取締役は当時34歳の音桂二郎氏、監査役は63歳の父音申吉氏で、常勤は親子2人だった。
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [14]ミルトン・ロイ社のシーン社長と音桂二郎氏の会社設立は時期こそ違え動機・様式ともに酷似しており、シーン社長は父と2人で特殊ポンプを始め水処理から出ていた。
参考文献[1]-[16]
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(1)創業の決断
    • [1]音桂二郎氏は1919年1月1日に音申吉氏の次男として東京に生まれ、東京帝国大学工学部機械工学科を出て海軍造機技術士官に任命された。
    • [2]横須賀・舞鶴・呉の海軍工廠を歴任した海軍時代に、海中で簡易水処理装置を使う米兵を見たことをきっかけとして、イオン交換樹脂による水処理装置の開発を独自の研究をもとに進めた。
    • [3]1946年春から奈良県大宇陀で自動車修理業を開業し、1948年1月に金商へ入社した。金商は1947年の財閥解体で三菱商事が分散した会社の1つで、機械課の新設と同時の入社だった。
    • [4]金商では三菱化成工業のイオン交換樹脂を中心とする水処理業務に従事し、1950年に「河川汚濁処理法案」を通産省へ建言した。
    • [5]音桂二郎氏が中心となって総合水処理事業を主体業務とする新会社設立運動を進め、1952年10月に三菱化成工業と金商の共同出資で日本錬水が設立され、同氏は営業課長に就任した。
    • [6]日本錬水は設立時点ですでに音桂二郎氏と会社側との間に目的意識の大きな相違が生じていた。
    • [7]音桂二郎氏が総合水処理メーカーを目指したのに対し、会社側はイオン交換樹脂「ダイヤイオン」の販売に重点を置き、水処理業務には消極的だった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
    • [8]インフィルコ社との技術提携交渉はローヤリティ・イニシャルペイメント等で歩み寄ったが、三菱化成工業トップとの会談が「ダイヤイオン」の販売拡大に終始し、水処理をほとんど意見交換せずに終わり、提携は成立しなかった。
    • [9]制御関係技術者の新規採用は日本錬水の白鳥社長の一応の了解を得て内定者まで決めたが、親会社の三菱化成工業から出向させ新規採用は行わないという人事基本政策があり進まなかった。
    • [10]音桂二郎氏は1953年10月に日本錬水を退社し、同年秋に同社社長と新会社設立について話し合い、当分の間は水処理(第1次水処理)業務を行わないこと、人を引き抜かないことの2項を表明した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)「特殊ポンプ工業株式会社」発足
    • [11]音桂二郎氏は水処理業務を断念し、金商時代にミルトン・ロイ社と交渉して代理権を取得し、日本錬水時代も同社との取引を1人で取り行っていた。
    • [12]罐水処理業務とミルトン・ロイ・ポンプの委譲は日本錬水から了解を得たが、ミルトン・ロイ社の了解は未取得で、日本機械貿易も同社に根強くコンタクトしていた。
    • [13]音桂二郎氏はミルトン・ロイ社へ実情を詳細に書き送って代理権の委譲を要請し、シーン社長から承諾と激励の文意の手紙を受け取った。
    • [15]特殊ポンプ工業の正式設立は1953年12月26日、資本金100万円だった。
    • [16]本店所在地は東京都墨田区江東橋4丁目18番地、代表取締役は当時34歳の音桂二郎氏、監査役は63歳の父音申吉氏で、常勤は親子2人だった。
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [14]ミルトン・ロイ社のシーン社長と音桂二郎氏の会社設立は時期こそ違え動機・様式ともに酷似しており、シーン社長は父と2人で特殊ポンプを始め水処理から出ていた。

1954年〜火力発電所向け水質調整装置の独占と東証二部への上場

当時、機械を輸入するには最終需要家から外貨割当証明書を譲り受け、割当の日から2カ月以内に為替銀行へ輸入許可申請書を出す必要があり、遅れれば割当は効力を失った。そうしたなか、発足まもない1954年3月に、朝鮮動乱のあと初となる強い金融の引き締めが打ち出された。それまで輸入為替を扱っていた某銀行東京支店は、特殊ポンプ工業の輸入信用状は今後いっさい開かないと通告し、引き受け済みの分も断ってきた。開設の期限までは5日しか残っていなかった。ミルトン・ロイ社にはもう注文書を出しており、期限を越えれば電力会社への納入が遅れ、代理権を任された同社からの信用も失うことになる。音桂二郎社長は銀行を回り、期限3日前に東京銀行神田支店の引き受けを取り付け、契約条件である担保金30%を積んで期限最終日に信用状を開設した。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(4)最初の苦境
    • [17]1954年3月、朝鮮動乱以後初めての強い金融引締政策を契機に、取引していた某銀行東京支店が特殊ポンプ工業の輸入信用状開設を今後いっさい引き受けないと通告し、既に引き受けていた開設も断ってきた。
    • [18]機械類の輸入は最終需要家に外貨が割り当てられ、輸入業者は外貨割当証明書を譲り受けて割当の日から2カ月以内に為替銀行へ輸入許可申請書を提出しないと外貨割当が無効になった。信用状開設のできる最終期限まで残り5日だった。
    • [19]ミルトン・ロイ社へは既に注文書を切っており、期限経過で輸入が不可能になれば電力会社に迷惑をかけ、代理権を与えた同社への信用も失うところだった。
    • [20]音桂二郎社長は銀行回りの末、期限まで残り3日で東京銀行神田支店の引き受けを得て、契約条件の担保金30%を期限最終日に積み立てて信用状を開設した。

音桂二郎社長が立てた仮説は、臨海火力発電所の増設が定量注入ポンプなど制御機器の需要を高めるというものだった。ボイラ内の水はスケールの付着と溶存酸素による腐食を抑える必要があり、水質を刻々と測る計器と薬液を適量注入するポンプが対で使われた。1954年春から交渉した米ケンブリッジ社の溶存酸素計についても同年7月に総代理店契約の承諾を得て、罐水処理装置の主要部を占める2製品の日本総代理店がそろった。この2契約により、火力発電所の罐水処理装置の計画と主要機器の納入販売をほぼ独占する立場を得た。1955年4月にはミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化へ移り、1956年5月に東京都渋谷区豊沢町の本社・工場を完成、1958年3月に大阪営業所を開設した。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
    • [21]音桂二郎氏は電力部門の拡充、特に臨海火力発電所の増設と近代設備化がミルトン・ロイ・ポンプのような定量注入ポンプその他制御機器の需要を高めると予見していた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(5)罐水処理装置総代理店の確立
    • [22]ボイラ内の水はスケール付着で熱効率が落ち、溶存酸素は内壁を侵すため、内部状況を刻々とらえて必要な薬液を適量注入する必要があり、ミルトン・ロイ・ポンプとケンブリッジ社のpH計・溶存酸素計が重要な役割を果たした。
    • [23]米ケンブリッジ社の溶存酸素計の総代理店契約交渉は1954年春に始まり、同年7月に契約承諾の回答が寄せられ、罐水処理装置の主要部を占める2製品の日本総代理店が実現した。
    • [24]ミルトン・ロイ社とケンブリッジ社の日本総代理店契約の成立により、火力発電所の罐水処理装置の計画と主要部機器の納入販売を独占化した。
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1955年4月、米国ミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化に移行した。
    • [26]1956年5月、東京都渋谷区豊沢町に本社および工場が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)営業所・出張所の開設
    • [27]1958年3月に大阪営業所を開設し、地下鉄本町駅近くのビルの1室を借りて総員3名で始めた。

1959年2月、東京大学木本外科の渥美和彦氏から人工心臓の試作を依頼された特殊ポンプ工業は、企業目的から外れるとして一度辞退したが、要請が続いたため試作品1台までという条件で引き受け、1960年7月に日本初の人工心臓を東京大学へ納めた。1959年7月には東村山で工費約7,500万円の第1期建設工事に着工し、同年12月に機械工場や組立工場などの主要建築物が完成。売上の半分以上を計装部の水質調整装置や自動燃焼装置が占め、社名が業務内容に合わなくなったため、1959年10月1日を期して商号を日本機械計装へ変更した。略称の日機装に含まれる"計装"は、音桂二郎社長がinstrumentationの訳語として作った語である。1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場すると株価は1,400円の最高値をつけ、第二のソニーと呼ばれた。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(6)日本最初の人工心臓
    • [28]1959年2月に東京大学木本外科の渥美和彦氏から人工心臓の試作を依頼され、企業目的から逸脱するとして一度辞退したが、要請が続いたため試作品1台を完成させるまで協力することとし、1960年7月に第1号を東大木本外科へ納入した。
    • [29]東村山で工費約7,500万円を投じて第1期建設に着工したのは1959年7月で、同年12月に機械工場・組立工場などの主要建築物(第1工場)が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(7)社名「日本機械計装株式会社」へ
    • [30]売上の半分以上を占める計装部の水質調整装置や自動燃焼装置に社名がそぐわなくなり、1959年10月1日を期して「特殊ポンプ工業株式会社」から「日本機械計装株式会社」への社名変更を決定した。
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [31]社名の日機装は日本機械計装をつめたもので、「計装」は音桂二郎氏がインスツルメンテーションを翻訳して作った造語である。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [32]1961年に東証第二部へ株式を上場したとたん人気を呼び、株価1,400円と最高記録をつくり、第二のソニーという声も出た。
参考文献[17]-[32]
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(4)最初の苦境
    • [17]1954年3月、朝鮮動乱以後初めての強い金融引締政策を契機に、取引していた某銀行東京支店が特殊ポンプ工業の輸入信用状開設を今後いっさい引き受けないと通告し、既に引き受けていた開設も断ってきた。
    • [18]機械類の輸入は最終需要家に外貨が割り当てられ、輸入業者は外貨割当証明書を譲り受けて割当の日から2カ月以内に為替銀行へ輸入許可申請書を提出しないと外貨割当が無効になった。信用状開設のできる最終期限まで残り5日だった。
    • [19]ミルトン・ロイ社へは既に注文書を切っており、期限経過で輸入が不可能になれば電力会社に迷惑をかけ、代理権を与えた同社への信用も失うところだった。
    • [20]音桂二郎社長は銀行回りの末、期限まで残り3日で東京銀行神田支店の引き受けを得て、契約条件の担保金30%を期限最終日に積み立てて信用状を開設した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
    • [21]音桂二郎氏は電力部門の拡充、特に臨海火力発電所の増設と近代設備化がミルトン・ロイ・ポンプのような定量注入ポンプその他制御機器の需要を高めると予見していた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(5)罐水処理装置総代理店の確立
    • [22]ボイラ内の水はスケール付着で熱効率が落ち、溶存酸素は内壁を侵すため、内部状況を刻々とらえて必要な薬液を適量注入する必要があり、ミルトン・ロイ・ポンプとケンブリッジ社のpH計・溶存酸素計が重要な役割を果たした。
    • [23]米ケンブリッジ社の溶存酸素計の総代理店契約交渉は1954年春に始まり、同年7月に契約承諾の回答が寄せられ、罐水処理装置の主要部を占める2製品の日本総代理店が実現した。
    • [24]ミルトン・ロイ社とケンブリッジ社の日本総代理店契約の成立により、火力発電所の罐水処理装置の計画と主要部機器の納入販売を独占化した。
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1955年4月、米国ミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化に移行した。
    • [26]1956年5月、東京都渋谷区豊沢町に本社および工場が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)営業所・出張所の開設
    • [27]1958年3月に大阪営業所を開設し、地下鉄本町駅近くのビルの1室を借りて総員3名で始めた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(6)日本最初の人工心臓
    • [28]1959年2月に東京大学木本外科の渥美和彦氏から人工心臓の試作を依頼され、企業目的から逸脱するとして一度辞退したが、要請が続いたため試作品1台を完成させるまで協力することとし、1960年7月に第1号を東大木本外科へ納入した。
    • [29]東村山で工費約7,500万円を投じて第1期建設に着工したのは1959年7月で、同年12月に機械工場・組立工場などの主要建築物(第1工場)が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(7)社名「日本機械計装株式会社」へ
    • [30]売上の半分以上を占める計装部の水質調整装置や自動燃焼装置に社名がそぐわなくなり、1959年10月1日を期して「特殊ポンプ工業株式会社」から「日本機械計装株式会社」への社名変更を決定した。
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [31]社名の日機装は日本機械計装をつめたもので、「計装」は音桂二郎氏がインスツルメンテーションを翻訳して作った造語である。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [32]1961年に東証第二部へ株式を上場したとたん人気を呼び、株価1,400円と最高記録をつくり、第二のソニーという声も出た。

1962年〜外国技術への依存が招いた9,100万円の欠損と無配転落

1962年3月、東村山工場で大型の第2工場が完成し、主力3種類のポンプを全量自社で製造できる体制が整った。一方で売り先の幅は狭く、売上は石油化学業界と電力会社の設備投資次第で上下した。主力の化学用ポンプを買うのは事実上石油化学系の化学メーカーだけで、それに続く計装機器についても、需要は火力発電所に限られていたからである。電力業界では、発電所の大型化と技術者不足から、プラントメーカーへ一括して発注する方式が広がった。その結果起きた値引き競争で安い国産機器が採用されやすくなり、輸入代理店として握っていた独占的地位は失われ、利益率も低下した。主力製品の大半が外国技術の導入によるものだったため、研究開発への意欲は弱まり、技術陣の仕事は提携先が送ってくる図面や資料を写し取るだけの作業に近くなっていった。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)大型工場・実験室の建設
    • [33]1961年5月に第1工場後方の敷地7,596平方メートルを購入して同年8月に着工し、1962年3月に大型工場(第2工場)が完成して、東村山工場は主力3ポンプを完全に製造できる機能を備えた。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [34]主力製品のポンプは石油化学を中心とする化学メーカー向けにほぼ需要が限られ、次ぐ主要製品の計装機器も火力発電所用に限定され、売れ行きは石油化学や電力会社の設備投資しだいだった。
    • [36]主力製品の大部分について外国技術の導入に依存してきた結果、研究開発の意欲が後退し、技術陣は提携先から送付される図面・資料を写す状態に近づいた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(2)そして停滞
    • [35]1960年代後半にかけて火力発電所の規模拡大と電力業界の技術者不足からプラントメーカーへの一括発注方式に移り、値引き合戦が廉価な国産機器採用の傾向を強め、輸入代理店として保っていた電力業界への独占性は崩れ、利益率も低下した。

計装部門の停滞に対し、日本機械計装はボイラ自動燃焼制御へ本格的に進出した。1961年7月、西独最大の計器メーカーであるハルトマン・ブラウン社の姉妹会社で制御装置を専門とするショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店となったが、これは大きな誤算に終わった。1963年5月には米コノフロー社と、コントロール・バルブおよび操作調整器の製造に関する技術援助契約を締結した。ポンプ以外では最初の技術提携にあたるが、交渉開始から締結まで4年以上を費やし、その遅れがこの分野で十分な市場を取れなかった最大の要因になった。1959年3月に音桂二郎社長らが渡米して候補をコノフロー社に絞り、1960年末には技術提携料の率まで合意していたが、同社の内部事情で通商産業省へ出した案を取り下げ、1年以上保留された。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(2)そして停滞
    • [37]計装部門の斜陽化は事前に予想されており、ポンプ製造の自立化に力を入れる一方、計装部自体もボイラ自動燃焼制御の分野へ本格的に進出を始めた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)西独ショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店へ
    • [38]1961年7月、西独最大の計器メーカーであるハルトマン・ブラウン社の姉妹会社で制御装置を専門とするショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店となったが、結果的には大きな誤算になった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(1)米国コノフロー社との技術提携
    • [39]1963年5月、米コノフロー社との間にコントロール・バルブおよび操作調整器の製造に関する技術援助契約を締結した。
    • [40]コノフロー社との技術提携はポンプ以外では最初の技術提携で、交渉開始から締結まで4年以上を費やし、それが同分野で十分な市場獲得を困難にし失敗に終わらせる最大の要因になった。
    • [41]1959年3月に音桂二郎社長と堀田武司氏が渡米して候補をコノフロー社1本に絞り、1960年末に技術提携料の率まで両者が合意したが、同社内部の複雑な問題により通産省へ提出中のドラフトを取り下げ、1年以上保留された。

1965年の春闘で、日本機械計装は労使関係の安定を優先して組合要求の実現に努め、数度の団体交渉を経て5月20日に1人平均2,700円の昇給で妥結した。しかし6月28日、組合は1人平均2.9カ月(72,224円)の夏期一時金を要求し、相互の信頼は途切れた。1966年3月の決算は9,100万円の欠損となり、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた。創業以来積み上げてきた1億円の利益剰余金を一度に吐き出し、年2割の高率配当から無配へ転じた。日本機械計装は1966年の年賀交換会で、製品と作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係の改善を体質改善の対策に据えた——外見上は健康体質でも内部に多くの問題が蓄積し、不況という外からの圧力でそれが表へ出た、というのが音桂二郎社長の診立てである。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
    • [42]1965年の春闘で労使関係の安定を優先し、数度の団体交渉の後、5月20日に1人平均2,700円の昇給で妥結した。
    • [43]1965年6月28日、組合は1人平均2.9カ月(72,224円)の夏期一時金要求を提出し、パートナーとしての相互信頼が途絶えた。
    • [44]1966年3月の決算公表数字は9,100万円の大幅赤字欠損で、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた。
    • [46]1966年の年賀交換会で音桂二郎社長は、外見上は健康体質でも内部に多くの問題が蓄積し不況の圧力で顕現したと述べ、体質改善の対策として製品および作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係改善を提起した。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [45]9,100万円の欠損計上により、創業以来蓄積してきた1億円の内部留保を一度に吐き出し、それまでの年2割という高率配当から無配へ転落した。
参考文献[33]-[46]
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)大型工場・実験室の建設
    • [33]1961年5月に第1工場後方の敷地7,596平方メートルを購入して同年8月に着工し、1962年3月に大型工場(第2工場)が完成して、東村山工場は主力3ポンプを完全に製造できる機能を備えた。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [34]主力製品のポンプは石油化学を中心とする化学メーカー向けにほぼ需要が限られ、次ぐ主要製品の計装機器も火力発電所用に限定され、売れ行きは石油化学や電力会社の設備投資しだいだった。
    • [36]主力製品の大部分について外国技術の導入に依存してきた結果、研究開発の意欲が後退し、技術陣は提携先から送付される図面・資料を写す状態に近づいた。
    • [45]9,100万円の欠損計上により、創業以来蓄積してきた1億円の内部留保を一度に吐き出し、それまでの年2割という高率配当から無配へ転落した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(2)そして停滞
    • [35]1960年代後半にかけて火力発電所の規模拡大と電力業界の技術者不足からプラントメーカーへの一括発注方式に移り、値引き合戦が廉価な国産機器採用の傾向を強め、輸入代理店として保っていた電力業界への独占性は崩れ、利益率も低下した。
    • [37]計装部門の斜陽化は事前に予想されており、ポンプ製造の自立化に力を入れる一方、計装部自体もボイラ自動燃焼制御の分野へ本格的に進出を始めた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)西独ショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店へ
    • [38]1961年7月、西独最大の計器メーカーであるハルトマン・ブラウン社の姉妹会社で制御装置を専門とするショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店となったが、結果的には大きな誤算になった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(1)米国コノフロー社との技術提携
    • [39]1963年5月、米コノフロー社との間にコントロール・バルブおよび操作調整器の製造に関する技術援助契約を締結した。
    • [40]コノフロー社との技術提携はポンプ以外では最初の技術提携で、交渉開始から締結まで4年以上を費やし、それが同分野で十分な市場獲得を困難にし失敗に終わらせる最大の要因になった。
    • [41]1959年3月に音桂二郎社長と堀田武司氏が渡米して候補をコノフロー社1本に絞り、1960年末に技術提携料の率まで両者が合意したが、同社内部の複雑な問題により通産省へ提出中のドラフトを取り下げ、1年以上保留された。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
    • [42]1965年の春闘で労使関係の安定を優先し、数度の団体交渉の後、5月20日に1人平均2,700円の昇給で妥結した。
    • [43]1965年6月28日、組合は1人平均2.9カ月(72,224円)の夏期一時金要求を提出し、パートナーとしての相互信頼が途絶えた。
    • [44]1966年3月の決算公表数字は9,100万円の大幅赤字欠損で、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた。
    • [46]1966年の年賀交換会で音桂二郎社長は、外見上は健康体質でも内部に多くの問題が蓄積し不況の圧力で顕現したと述べ、体質改善の対策として製品および作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係改善を提起した。

第2章 1966年〜 技術の自立と医療器への多角化ミルトン・ロイの提携打ち切りから人工腎臓の国産化へ

筆者考察y.sugiura, author

日機装が1965年に手放したのは、ミルトン・ロイ・ポンプという商品ではない。外国の設計に自社の製造を合わせる位置そのものである。技術提携とは名ばかりで、実際には届いた図面を写し、寸法を引き直す作業が主体だった。基礎設計を持たないまま製品が仕上がるため、市場が変わって不適当と分かっていてもそのまま複製してしまう。安く、速く、確実である代わりに、技術者は考える力を使わなくなる。赤字決算を受け入れ、84名を減らし、役付取締役を平取締役へ降ろしてまで自力開発へ経営資源を集中したのは、図面を買い続けるかぎり次の不況でも同じ場所に立たされると音桂二郎氏が見ていたからだろう。

人工腎臓装置が1974年9月期に売上の4割を占めたのは、装置が優れていたからだけではない。腎臓の代わりをする機械は故障が人命に直結し、灌流液もダイアライザも絶えず届けなければならない。日機装は病院が買えるように銀行と組んでローンを用意し、装置を扱う技師の養成機関を自前で持った。ポンプで培った定量注入の技術より、この売り方のほうが厚い参入障壁になった。部材の量産は規模の大きい会社ほど有利でも、24時間動き続けるサービス網は、売上の一部でしかない分野のために抱えにくい。医療器の市場で日機装が取った位置は、装置の性能ではなく、装置が止まったときに誰が来るかで決まっていた。

売上高 単体。1967年10月から9月期決算に移行し、変則6ヵ月の1967年9月期は除く(億円)

14 66/3期 20 67/3期 28 68/9期 37 69/9期 54 70/9期 63 71/9期 63 72/9期 83 73/9期 119 74/9期 152 75/9期

1966年〜提携打ち切りから始めた定量注入ポンプの自力開発

1965年5月、米国ミルトン・ロイ社とのミルトン・ロイ・ポンプ製作に関する技術提携が期間満了を迎え、日本機械計装は再契約せず、同日に両社対等の相互代理店契約へ切り替えた。ケミポンプの提携も続けて打ち切った。再提携は安全な道だった。ミルトン・ロイ社は5年をかけて陳腐化した同ポンプの全面モデルチェンジを終え、日本特許も成立させていたから、図面を受け取れば短期のうちに実現できる。自力開発はその逆で、同社が押さえた各種特許に触れない別の機構を考案せねばならず、耐久試験だけで1年以上を要し、手間取るあいだにミルトン・ロイ社が国内の他社と提携して市場を席巻する恐れもあった。10年の契約期間のうちにミルトン・ロイ・ポンプは定量注入ポンプの一般名称となっており、工場製品の7割を占めるこの品目の開発に失敗すれば、会社の存続は危うかった。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)技術提携の弊害
    • [47]1965年5月、米国ミルトン・ロイ社との間のミルトン・ロイ・ポンプ製作に関する技術提携の期間が終了し、同日、両社対等の立場で相互代理店契約を締結した。
    • [48]ミルトン・ロイ・ポンプに引き続きケミポンプも提携期間が終了し、技術提携を打ち切った。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(3)自力開発方針の決定
    • [49]ミルトン・ロイ社はすでに陳腐化した同ポンプを5年の年月をかけて全面モデルチェンジし日本特許も成立させていたため、再提携は最も安易で短期間のうちに実現可能であり、失敗の危険もほとんどない方法だった。
    • [50]自力開発にはミルトン・ロイ社が確立した各種特許に抵触しないまったく別の機構の考案が必要で、耐久テスト等に1年以上を要し、開発に手間どるあいだに同社が日本の他メーカーと技術提携して定量注入ポンプの日本市場を席巻する恐れがあった。
    • [51]10年間の契約期間のうちにミルトン・ロイ・ポンプは定量注入ポンプの一般名称となっており、工場製品の7割を占める定量注入ポンプの開発に失敗すれば当社の滅亡は必至とされた。

試作は進まなかった。1965年6月、社運をかけた新定量注入ポンプの試作1号機は形になったものの満足に作動せず、採用した機構の可否を検討し直す段階まで引き戻された。受注は戻らず、同年8月から人員削減に入る。中途採用と新卒採用を止め、退職者を補充せず、希望退職15名を募り、商品部を系列の日機装電工へ移して33名を出したが、予定の100名には届かない。各部の考課で挙がった21名のうち8名は部長の説得で退職し、残る13名には11月20日付で指名解雇を発令した。うち5名は解雇を不当として東京地方裁判所へ訴え、争いは長期化する。減員は合計84名で、取締役5名が辞任し、社長1名を残して役付取締役は全員が取締役へ降格した。人件費の圧迫は多少和らいだが、1966年3月期の売上高は前期の19億円から14億円へ落ち、赤字決算は避けられなかった。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(5)試練
    • [52]1965年6月、社運がかけられた新定量注入ポンプの試作1号機は一応できあがったものの満足に作動せず、考案採用した機構そのものの可否検討にまで立ち返らざるを得ない状態となった。
    • [53]急激な受注減を回復させることができず、1965年8月より人員削減の実行に移った。
    • [54]中間採用・新入社員採用の中止と自然退職者の不補充に加え、希望退職15名を募り、商品部を全部系列会社の日機装電工へ移して33名を出したが、予定の100名には達しなかった。
    • [55]各部の考課で出された21名のうち8名は各部長の説得で退職が決まり、残る13名に1965年11月20日付で指名解雇を発令した。
    • [56]指名解雇を受けた5名は会社側の解雇を不当として東京地裁に訴えを起こし、長期の裁判に持ち込まれた。
    • [57]1965年11月20日に人員整理を終え、合計84名の減員となった。取締役5名の辞任をはじめ、役付取締役に社長1名を残して全員を取締役へ降格した。
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [58]日本機械計装の売上高は1965年3月期の19億円から1966年3月期は14億円へ減り、同期は営業損益3,500万円の赤字、当期純損益9,100万円の赤字となった。

立て直しの軸に据えたのは製品と作業の標準化である。需要家の要求が複雑なため、日本機械計装の製品は一品料理として作られていた。設計は毎回ゼロから起こし、工程も部品もその都度違い、注文を見越して買った部品は予想が外れればスクラップとなり100分の1の価格で売却された。1964年当時の東村山工場は従業員約200名のうち現場員が約70名で、残る130名は設計・工務・検査・事務だった。同年3月期に3億5千万円だった工場棚卸在庫は9月に4億2千万円へ膨らみ、半期の売上高が5億円強であることを思えば異常な量だった。標準化の価値は1961年ごろから認められながら、複雑な注文がそれを押し流していた。取締役東村山工場長の酒井尚武氏が在庫と生産管理の混乱を解き、会社は新製品・新技術の開発、新市場の開拓、作業の標準化と製品の規格化、事務の合理化、人間関係の改善を五大目標に掲げた。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
    • [59]強い日機装の実現はあらゆる問題の解消を可能にする標準化の推進に求められ、標準化の実施が体質改善の根本施策とされた。
    • [60]需要者の要求が複雑多岐であるため、日機装製品は一品料理的に生産されていた。
    • [61]設計は1から始めなければならず、工程もまったく異なるものが流れ、部品もその都度準備する必要があり、注文を見込んで購入し機械加工を施した部品は予想がはずれるとスクラップ化して100分の1の価格で売却された。
    • [64]標準化は1961年ごろからその価値が強く認められていたが、需要者の複雑な要求が製品を複雑多様にし、なかなか実行に移されていなかった。
    • [65]デッドストックと生産管理面の混乱は取締役東村山工場長兼機械部長兼技術部長であった酒井尚武の管理により徐々に解消され、企業体質の抜本的改善として新製品新技術の開発、新市場の開拓、作業の標準化・製品の規格化による能率の向上、事務の合理化・簡素化、人間関係改善への努力の五大目標が掲げられた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)斜陽化と混乱
    • [62]1964年当時の東村山工場の全従業員数は約200名で、機械工場と組立工場の現場員数が合計約70名、残りの130名は設計・工務・検査・事務等の管理部門・間接部門であった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(2)打開の諸方策
    • [63]1964年3月期の工場棚卸在庫は3億5千万円であったが同年9月には4億2千万円に膨張し、この間の半期売上高が5億円強であったことと考え合わせれば異常な水準であった。
参考文献[47]-[65]
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)技術提携の弊害
    • [47]1965年5月、米国ミルトン・ロイ社との間のミルトン・ロイ・ポンプ製作に関する技術提携の期間が終了し、同日、両社対等の立場で相互代理店契約を締結した。
    • [48]ミルトン・ロイ・ポンプに引き続きケミポンプも提携期間が終了し、技術提携を打ち切った。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(3)自力開発方針の決定
    • [49]ミルトン・ロイ社はすでに陳腐化した同ポンプを5年の年月をかけて全面モデルチェンジし日本特許も成立させていたため、再提携は最も安易で短期間のうちに実現可能であり、失敗の危険もほとんどない方法だった。
    • [50]自力開発にはミルトン・ロイ社が確立した各種特許に抵触しないまったく別の機構の考案が必要で、耐久テスト等に1年以上を要し、開発に手間どるあいだに同社が日本の他メーカーと技術提携して定量注入ポンプの日本市場を席巻する恐れがあった。
    • [51]10年間の契約期間のうちにミルトン・ロイ・ポンプは定量注入ポンプの一般名称となっており、工場製品の7割を占める定量注入ポンプの開発に失敗すれば当社の滅亡は必至とされた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(5)試練
    • [52]1965年6月、社運がかけられた新定量注入ポンプの試作1号機は一応できあがったものの満足に作動せず、考案採用した機構そのものの可否検討にまで立ち返らざるを得ない状態となった。
    • [53]急激な受注減を回復させることができず、1965年8月より人員削減の実行に移った。
    • [54]中間採用・新入社員採用の中止と自然退職者の不補充に加え、希望退職15名を募り、商品部を全部系列会社の日機装電工へ移して33名を出したが、予定の100名には達しなかった。
    • [55]各部の考課で出された21名のうち8名は各部長の説得で退職が決まり、残る13名に1965年11月20日付で指名解雇を発令した。
    • [56]指名解雇を受けた5名は会社側の解雇を不当として東京地裁に訴えを起こし、長期の裁判に持ち込まれた。
    • [57]1965年11月20日に人員整理を終え、合計84名の減員となった。取締役5名の辞任をはじめ、役付取締役に社長1名を残して全員を取締役へ降格した。
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [58]日本機械計装の売上高は1965年3月期の19億円から1966年3月期は14億円へ減り、同期は営業損益3,500万円の赤字、当期純損益9,100万円の赤字となった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
    • [59]強い日機装の実現はあらゆる問題の解消を可能にする標準化の推進に求められ、標準化の実施が体質改善の根本施策とされた。
    • [60]需要者の要求が複雑多岐であるため、日機装製品は一品料理的に生産されていた。
    • [61]設計は1から始めなければならず、工程もまったく異なるものが流れ、部品もその都度準備する必要があり、注文を見込んで購入し機械加工を施した部品は予想がはずれるとスクラップ化して100分の1の価格で売却された。
    • [64]標準化は1961年ごろからその価値が強く認められていたが、需要者の複雑な要求が製品を複雑多様にし、なかなか実行に移されていなかった。
    • [65]デッドストックと生産管理面の混乱は取締役東村山工場長兼機械部長兼技術部長であった酒井尚武の管理により徐々に解消され、企業体質の抜本的改善として新製品新技術の開発、新市場の開拓、作業の標準化・製品の規格化による能率の向上、事務の合理化・簡素化、人間関係改善への努力の五大目標が掲げられた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)斜陽化と混乱
    • [62]1964年当時の東村山工場の全従業員数は約200名で、機械工場と組立工場の現場員数が合計約70名、残りの130名は設計・工務・検査・事務等の管理部門・間接部門であった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(2)打開の諸方策
    • [63]1964年3月期の工場棚卸在庫は3億5千万円であったが同年9月には4億2千万円に膨張し、この間の半期売上高が5億円強であったことと考え合わせれば異常な水準であった。

1967年〜人工腎臓装置の輸入代理から国産メーカーへの転換

1967年8月、日本機械計装は人工腎臓装置の販売を始めた。不況下で新分野の開拓に苦しんでいたころ、米国ミルトン・ロイ社から日本での販売を引き受けないかという申し入れがあった。同社は得意の定量注入ポンプの用途を広げる一策として、ワシントン大学のスクリブナー教授の指導を受けてキドニーマシンの開発に着手していた。ただし日本機械計装の医療機器の実績はほぼ皆無で、代理店とすることの可否はミルトン・ロイ社の内部でも議論があり、当初は総代理店ではなく非独占の形で販売を頼まれた。受ける側も未知の市場を前に、8ヵ月をかけて市場調査と医療関係者への聞き取りに回った。当時の国内ではコルフ型がごく一部の施設に置かれる程度で、構造は簡単で実用性に乏しい。輸入するキール型は保存血液が不要で消耗品も少ない代わりに、価格ははるかに高かった。

  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [66]1967年8月、人工腎臓装置の販売を開始した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(2)人工腎臓装置の輸入販売開始
    • [67]不況時の試練として新分野の開拓に苦慮していたころ、米国ミルトン・ロイ社から人工腎臓装置の日本での販売を引き受けてほしいとの申し入れを受けた。
    • [68]ミルトン・ロイ社は得意の定量注入ポンプの用途拡大の一方策としてキドニーマシンの開発に着手し、ワシントン大学のスクリブナー教授の指導によって人工腎臓装置の製品開発をしていた。
    • [69]ミルトン・ロイ社は日本機械計装の化学工業分野の力は認めていたものの医療機器に関する実績は零に等しく、代理店とすることの可否に相当の議論があったため、当初は総代理店ではなく非独占の形で販売を依頼された。
    • [70]まったく異質の市場であるとして市場調査を行い、医療関係者の意見集めに奔走した。この市場調査は8ヵ月にわたった。
    • [71]当時の日本ではごくわずかの医療施設にコルフ型が置かれる程度で、その構造はきわめて簡単で実用性に乏しいものであった。
    • [72]ミルトン・ロイ社のキール型は保存血液が不要、消耗品が少ない等の利点がある反面、価格ははるかにコルフ型を上回っていた。

研究課は2年間の納入で得た経験と臨床データを生かして1969年2月に試作品を完成させ、新潟大学附属病院で臨床試験を積み重ねていた。キール型は医学界でその優秀性を認められ、20数台を受注したが、故障のたびに米国へ発注して取り寄せてから直すしかなく、部品の欠品、納期の遅れ、高い価格という三つの問題がサービス部門に一度に降りかかった。人命を預かる装置でこれを続けることはできず、輸入販売は2年を待たずに行き詰まった。1968年10月ごろに技術提携の交渉が本腰を入れて始まり、1969年3月の調印、5月の政府認可へと進んだ。価格の高いモデルAを改めたこの機種は評価が高く、厚生省の認可から1ヵ月足らずで9台の注文が入る。同年8月、国産第1号のBN型が新潟の信楽園病院へ納まり、10月に置かれた医療器部は部員10名で始まった。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)人工腎臓装置の国産化
    • [73]研究課は1969年2月に2年間の装置納入の経験と臨床データをもとに試作品を完成させ、新潟大学付属病院で臨床テストを続けた。
    • [74]ミルトン・ロイ社のキール型人工腎臓装置の優秀性が医学界に認められ、輸入販売を開始して2年足らずのうちに20数台の注文を受けるなど、予想を上回る伸展をみせた。
    • [75]装置が故障して至急部品が必要な場合も外国へ発注・輸入・修理の過程を踏まねばならず、部品がない、期日に間に合わない、価格が高いというジレンマに陥り、サービス部門へのしわよせによる混乱がひどくなっていた。
    • [76]1968年10月ごろから米国ミルトン・ロイ社との技術提携交渉を本格的に推進し、1969年3月に両者の合意をみて契約書調印、同年5月に政府より人工腎臓装置製造に関する技術提携の正式認可を得た。
    • [77]複雑な機構をもち価格の高いミルトン・ロイ社のモデルAを改良した試作品は臨床成績が予想以上によく斯界で高く評価され、1969年5月の厚生省の認可から1ヵ月足らずの間に9台の注文を受けた。
    • [78]1969年8月、国産第1号のキール型人工腎臓装置(BN型)を新潟の信楽園病院に納入した。同年10月1日に医療器部を設置し、部員はわずか10名であった。

国産化は売り方の設計と対になっていた。普及を阻んでいたのは、装置を扱える医師と看護婦の不足、そして病院側の購入資金の不足である。日機装は1971年11月、住友銀行と第一勧業銀行の協力で人工腎臓ローンの取り扱いを始めた。第一勧業銀行の条件は期限最長7年、原則2,000万円まで、金利は年7.8%から8.2%で、買う側に有利なものだった。同時に装置取り扱い技師の養成機関を設け、2ヵ月に1回の講習と実習を課している。1971年に人工腎臓を用いた治療が全額健康保険の対象となると需要は急速に伸び、1973年1月には納入台数が800台を超え、国内シェアは60%以上に達した。治療機器は診断機器と違い、故障しても部品を交換して工場で修理すればよいというわけにいかない。日機装が売っていたのは装置ではなく、止まらない体制のほうだった。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)人工腎臓装置の国産化
    • [79]人工腎臓装置の普及には二つの大きな障害があった。一つは人工腎臓装置を扱える医師・看護婦の不足という医療側の体制の問題、もう一つは装置購入資金不足の問題である。
    • [80]1971年11月、住友銀行・第一勧業銀行の協力を得て人工腎臓ローンの取り扱いを開始した。
    • [81]人工腎臓ローンは第一勧業銀行の場合、期限最長7年、原則として2,000万円まで、金利は年7.8%から8.2%と客にとって有利な条件であった。
    • [82]納入台数の増加でサービス員による対応が物理的に不可能になったため、装置取り扱い技師を養成する機関を設置し、2ヵ月に1回、講習と実習を定期的に行った。
    • [84]1973年1月現在、人工腎臓装置の納入台数は総計800台を超え、国内における同部門の60%以上のシェアを占めた。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [83]1971年に人工腎臓を使った治療が全額健康保険の対象になったのを契機に、人工腎臓装置の需要が急速に伸び出した。
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号
    • [85]人工腎臓は治療機器であって診断機器とは性格を異にし、診断機器は故障してもパーツを交換したり工場で修理すればよいが、患者の血管とつながっている人工腎臓ではそうはいかない。
参考文献[66]-[85]
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [66]1967年8月、人工腎臓装置の販売を開始した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(2)人工腎臓装置の輸入販売開始
    • [67]不況時の試練として新分野の開拓に苦慮していたころ、米国ミルトン・ロイ社から人工腎臓装置の日本での販売を引き受けてほしいとの申し入れを受けた。
    • [68]ミルトン・ロイ社は得意の定量注入ポンプの用途拡大の一方策としてキドニーマシンの開発に着手し、ワシントン大学のスクリブナー教授の指導によって人工腎臓装置の製品開発をしていた。
    • [69]ミルトン・ロイ社は日本機械計装の化学工業分野の力は認めていたものの医療機器に関する実績は零に等しく、代理店とすることの可否に相当の議論があったため、当初は総代理店ではなく非独占の形で販売を依頼された。
    • [70]まったく異質の市場であるとして市場調査を行い、医療関係者の意見集めに奔走した。この市場調査は8ヵ月にわたった。
    • [71]当時の日本ではごくわずかの医療施設にコルフ型が置かれる程度で、その構造はきわめて簡単で実用性に乏しいものであった。
    • [72]ミルトン・ロイ社のキール型は保存血液が不要、消耗品が少ない等の利点がある反面、価格ははるかにコルフ型を上回っていた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)人工腎臓装置の国産化
    • [73]研究課は1969年2月に2年間の装置納入の経験と臨床データをもとに試作品を完成させ、新潟大学付属病院で臨床テストを続けた。
    • [74]ミルトン・ロイ社のキール型人工腎臓装置の優秀性が医学界に認められ、輸入販売を開始して2年足らずのうちに20数台の注文を受けるなど、予想を上回る伸展をみせた。
    • [75]装置が故障して至急部品が必要な場合も外国へ発注・輸入・修理の過程を踏まねばならず、部品がない、期日に間に合わない、価格が高いというジレンマに陥り、サービス部門へのしわよせによる混乱がひどくなっていた。
    • [76]1968年10月ごろから米国ミルトン・ロイ社との技術提携交渉を本格的に推進し、1969年3月に両者の合意をみて契約書調印、同年5月に政府より人工腎臓装置製造に関する技術提携の正式認可を得た。
    • [77]複雑な機構をもち価格の高いミルトン・ロイ社のモデルAを改良した試作品は臨床成績が予想以上によく斯界で高く評価され、1969年5月の厚生省の認可から1ヵ月足らずの間に9台の注文を受けた。
    • [78]1969年8月、国産第1号のキール型人工腎臓装置(BN型)を新潟の信楽園病院に納入した。同年10月1日に医療器部を設置し、部員はわずか10名であった。
    • [79]人工腎臓装置の普及には二つの大きな障害があった。一つは人工腎臓装置を扱える医師・看護婦の不足という医療側の体制の問題、もう一つは装置購入資金不足の問題である。
    • [80]1971年11月、住友銀行・第一勧業銀行の協力を得て人工腎臓ローンの取り扱いを開始した。
    • [81]人工腎臓ローンは第一勧業銀行の場合、期限最長7年、原則として2,000万円まで、金利は年7.8%から8.2%と客にとって有利な条件であった。
    • [82]納入台数の増加でサービス員による対応が物理的に不可能になったため、装置取り扱い技師を養成する機関を設置し、2ヵ月に1回、講習と実習を定期的に行った。
    • [84]1973年1月現在、人工腎臓装置の納入台数は総計800台を超え、国内における同部門の60%以上のシェアを占めた。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [83]1971年に人工腎臓を使った治療が全額健康保険の対象になったのを契機に、人工腎臓装置の需要が急速に伸び出した。
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号
    • [85]人工腎臓は治療機器であって診断機器とは性格を異にし、診断機器は故障してもパーツを交換したり工場で修理すればよいが、患者の血管とつながっている人工腎臓ではそうはいかない。

1971年〜時価発行増資が支えた静岡工場と西独での現地生産

1971年2月1日、日機装は東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部へ昇格した。時価発行による増資は安藤道雄氏を中心に検討されていたが、二部上場の会社には制約が多く実現していなかった。一部昇格で対外的な信用が上がり、計画は本格的に動き出す。1972年8月3日、両取引所で400万株の公募増資を発表した。予定株数の全部を時価で発行し、旧株主への額面割当を行わない方式で、払込は10月末日、時価600円で資本剰余金約23億円を得た。1971年秋の事業部制移行で各部門は独立採算に移り、なかでも機器医療器事業部の伸びが生産態勢の増強を迫っていた。長短借入金は1969年の11億400万円から1974年9月末に30億円へ増えたが、総資産に占める比率は27.4%から18.7%へ下がった。

  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [86]1971年2月1日、東京証券取引所および大阪証券取引所の市場第一部へ上場した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(1)時価発行による公募増資
    • [87]時価発行方式による増資への移行は安藤道雄が中心になって検討していたが、二部上場会社では制約が多く実現をみなかった。
    • [88]1971年2月1日の東京・大阪証券取引所第一部への昇格で対外的信用が飛躍的に向上したことから、時価発行増資の実施計画を本格的に推進することになった。
    • [89]1972年8月3日、東京証券取引所および大阪証券取引所において10月末日払い込みで400万株の公募増資を行うことを発表した。
    • [91]1971年秋にスタートした事業部制により各部門は独立採算制に移行し、特に機器医療器事業部の伸展がめざましく生産態勢の充実化が必至の問題になっていた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)静岡工場の建設
    • [90]この増資は予定公募株数の全部を時価によって発行し旧株主に額面割当を行わない時価発行方式で、時価600円により資本剰余金約23億円の資金獲得に成功した。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [92]長短借入金は1969年の11億400万円から1974年9月末には30億円に増えたが、総資産に占める長短借入金の比率は同期間に27.4%から18.7%へ低下した。

静岡工場は医療器だけのための工場として構想された。東村山工場内の医療器工場は設備も規模も足りず、旺盛な受注に生産が応じきれなくなっていたためである。1972年1月、静岡県榛原町に約77,000平方メートルの用地を取得し、同年11月7日に起工する。1974年9月、静岡工場と研究所が完成した。投資額は30億円、人工腎臓装置の生産能力は倍になり、この期の設備投資だけで過去5年間の総額を上回った。1974年9月期の売上高は119億2,500万円、税引利益9億2,800万円、従業員846人。売上構成は機械41%、計装器18%、医療器41%となり、1971年に約7億円だった人工腎臓の売上高は49億円へ伸びている。総資本利益率6.5%は東京証券取引所第一部上場製造業平均2.1%の3倍にあたり、自己資本比率は47%だった。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)静岡工場の建設
    • [93]医療器部は好調に進展したが競合メーカーも伸長しており、人工腎臓装置分野で最大のシェア保持を継続するには東村山工場内の医療器工場では設備・規模ともに条件不足で、旺盛な受注に生産が応じきれない状態に至っていた。
    • [94]1972年1月、静岡県榛原町に約77,000平方メートルの工場および厚生施設用地を取得し、同年11月7日に起工式を完了した。
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [95]1974年9月、静岡工場および研究所が完成した。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [96]1974年9月に30億円を投資して静岡に人工腎臓装置を中心とする医療器専門工場を建設し、この新工場完成で人工腎臓の生産能力は倍増した。1974年9月期だけで過去5年間の総投資額を上回る設備投資を行った。
    • [97]1974年9月期の売上高は119億2,500万円、税引利益は9億2,800万円、従業員数は846人であった。
    • [98]1974年9月期の売上構成は機械41%、計装器18%、医療器41%で、人工腎臓は1971年にわずか約7億円の売上だったのが同期には49億円と約7倍になり、総売上に占める割合は40%に高まった。
    • [99]総資本利益率は6.5%と東京証券取引所第一部上場製造業平均の2.1%の3倍前後、売上高利益率は7.7%、自己資本比率は47%であった。

海外では製品を運ぶのではなく、現地で作った。1973年10月、資本金300万マルク・日機装100%出資のニッキソー・ドイチェランドGmbHを設立し、酒井尚武氏が社長に就任した。西独へ進出した日本企業は約300社に上ったが、人件費の高さから生産基地を持つのは数社にすぎない。それでも西独を選んだのは技術者の水準が高く、ここで売れるものは欧州のどこでも通用すると見たからである。最大の関門は安全基準だった。キャンドモーターポンプの防爆認定申請は日本企業として初めてで、取得に3年を費やす。1977年9月期の受注170万マルクのうち西独は5%にすぎなかったが、ミュンヘン工科大学出身のドイツ人を営業マネジャーに据えると、1978年5月までの受注は西独が60%を占めて首位へ変わった。技術を買う側から売る側へ回るまでに13年を要した。

  • 日経ビジネス 1978年8月14日号
    • [100]ニッキソー・ドイチェランド・GmbHは1973年10月設立、資本金300万マルク、日機装の100%出資で、社長は酒井尚武、従業員は15人であった。
    • [101]西独には300社近い日本企業が進出していたが、世界一高いといわれる人件費のため生産基地を持つところはわずか数社にすぎなかった。
    • [102]日機装があえて西独に生産拠点を持とうとしたのはこの国の技術者水準の高さによるもので、西独で売れるものはまず欧州中どこでも通用するといわれていた。米国は技術提携先があるため直接進出を避けた。
    • [103]最大の難関は西独の安全基準への合格で、キャンドモーターポンプ生産のための防爆認定の取得申請は日本企業で初めてということもあり、3年間を費やした。
    • [104]1977年9月期の受注額170万マルクのうち西独は7番目で全体の5%にすぎなかったが、ミュンヘン工科大学出身のドイツ人を営業マネジャーに採用した結果、1978年5月までの受注は全体の60%を西独が占めてトップとなった。
参考文献[86]-[104]
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [86]1971年2月1日、東京証券取引所および大阪証券取引所の市場第一部へ上場した。
    • [95]1974年9月、静岡工場および研究所が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(1)時価発行による公募増資
    • [87]時価発行方式による増資への移行は安藤道雄が中心になって検討していたが、二部上場会社では制約が多く実現をみなかった。
    • [88]1971年2月1日の東京・大阪証券取引所第一部への昇格で対外的信用が飛躍的に向上したことから、時価発行増資の実施計画を本格的に推進することになった。
    • [89]1972年8月3日、東京証券取引所および大阪証券取引所において10月末日払い込みで400万株の公募増資を行うことを発表した。
    • [91]1971年秋にスタートした事業部制により各部門は独立採算制に移行し、特に機器医療器事業部の伸展がめざましく生産態勢の充実化が必至の問題になっていた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)静岡工場の建設
    • [90]この増資は予定公募株数の全部を時価によって発行し旧株主に額面割当を行わない時価発行方式で、時価600円により資本剰余金約23億円の資金獲得に成功した。
    • [93]医療器部は好調に進展したが競合メーカーも伸長しており、人工腎臓装置分野で最大のシェア保持を継続するには東村山工場内の医療器工場では設備・規模ともに条件不足で、旺盛な受注に生産が応じきれない状態に至っていた。
    • [94]1972年1月、静岡県榛原町に約77,000平方メートルの工場および厚生施設用地を取得し、同年11月7日に起工式を完了した。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [92]長短借入金は1969年の11億400万円から1974年9月末には30億円に増えたが、総資産に占める長短借入金の比率は同期間に27.4%から18.7%へ低下した。
    • [96]1974年9月に30億円を投資して静岡に人工腎臓装置を中心とする医療器専門工場を建設し、この新工場完成で人工腎臓の生産能力は倍増した。1974年9月期だけで過去5年間の総投資額を上回る設備投資を行った。
    • [97]1974年9月期の売上高は119億2,500万円、税引利益は9億2,800万円、従業員数は846人であった。
    • [98]1974年9月期の売上構成は機械41%、計装器18%、医療器41%で、人工腎臓は1971年にわずか約7億円の売上だったのが同期には49億円と約7倍になり、総売上に占める割合は40%に高まった。
    • [99]総資本利益率は6.5%と東京証券取引所第一部上場製造業平均の2.1%の3倍前後、売上高利益率は7.7%、自己資本比率は47%であった。
  • 日経ビジネス 1978年8月14日号
    • [100]ニッキソー・ドイチェランド・GmbHは1973年10月設立、資本金300万マルク、日機装の100%出資で、社長は酒井尚武、従業員は15人であった。
    • [101]西独には300社近い日本企業が進出していたが、世界一高いといわれる人件費のため生産基地を持つところはわずか数社にすぎなかった。
    • [102]日機装があえて西独に生産拠点を持とうとしたのはこの国の技術者水準の高さによるもので、西独で売れるものはまず欧州中どこでも通用するといわれていた。米国は技術提携先があるため直接進出を避けた。
    • [103]最大の難関は西独の安全基準への合格で、キャンドモーターポンプ生産のための防爆認定の取得申請は日本企業で初めてということもあり、3年間を費やした。
    • [104]1977年9月期の受注額170万マルクのうち西独は7番目で全体の5%にすぎなかったが、ミュンヘン工科大学出身のドイツ人を営業マネジャーに採用した結果、1978年5月までの受注は全体の60%を西独が占めてトップとなった。

第3章 1981-2008 (気が向いたら執筆します!) 炭素繊維複合材でのボーイングへの技術供与とLNGポンプ、深紫外線LEDへの参入

第4章 2009-2026 (気が向いたら執筆します!) 独LEWA・米Cryogenic Industriesの買収と透析・CRRT事業、LEWA売却による再編

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歴史年表 1953〜2025年

日機装の沿革1953〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1953〜1965年ミルトン・ロイ社の代理権ひとつで始めた資本金100万円の創業音桂二郎ミルトン・ロイポンプの輸入販売を主業として特殊ポンプ工業を創立★★★
音桂二郎米国ミルトン・ロイ社の総代理店として販売開始★★
音桂二郎米国ミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化に移行★★
音桂二郎東京都渋谷区豊沢町に本社および工場完成★
音桂二郎商号を日本機械計装に変更★★
音桂二郎日本初の人工心臓を東京大学木本外科に提供★★
音桂二郎東村山工場完成★
音桂二郎東京証券取引所市場第二部に上場★
1966〜1980年技術の自立と医療器への多角化音桂二郎ミルフロー制御容量ポンプを自社開発★★
音桂二郎人工腎臓装置の販売開始★★★
音桂二郎東京都渋谷区恵比寿に本社屋完成、本店移転★
音桂二郎商号を日機装に変更★★
音桂二郎国産初の人工腎臓装置完成★★
音桂二郎ノンシールポンプを自社開発★★
音桂二郎東京および大阪証券取引所市場第一部に上場★
音桂二郎静岡工場および研究所完成★
音桂二郎人工腎臓装置用ダイアライザーの製造販売開始★★
1981〜2008年炭素繊維複合材でのボーイングへの技術供与とLNGポンプ、深紫外線LEDへの参入音桂二郎静岡工場の炭素繊維複合材料開発プラントでCFRP製品の製造販売開始★★★
音桂二郎人工膵臓の製造承認を取得★★
鈴木勲米国ボーイング社に炭素繊維複合材料技術を供与★★
鈴木勲液化ガス用サブマージドモータポンプの独占製造販売権を取得★★
鈴木勲静岡製作所に複合材製品工場完成★
音孝金沢製作所完成★
音孝東村山製作所内にR&Dセンター総合館完成★
音孝カンパニー制および執行役員制度を導入★★
音孝大阪証券取引所市場第一部上場を廃止★
甲斐敏彦創光科学を設立し深紫外線LED事業に参入★★
2009〜2026年独LEWA・米Cryogenic Industriesの買収と透析・CRRT事業、LEWA売却による再編甲斐敏彦独LEWA Management GmbHの全出資持分を取得★★
甲斐敏彦フレゼニウスメディカルケアジャパンの透析関連製品販売事業を譲受★★
甲斐敏彦蘭Geveke B.V.の全株式を取得★★
甲斐敏彦米国バクスターの急性血液浄化療法(CRRT)事業を取得★★
甲斐敏彦金沢製作所に航空宇宙工場およびメディカル工場完成★
甲斐敏彦石川県に白山工場完成★
甲斐敏彦瑞Atlas Copco社グループのクライオジェニックポンプ事業を譲受★★
甲斐敏彦米Cryogenic Industriesグループの全株式を取得★★★
甲斐敏彦宮崎日機装に航空宇宙工場完成★
甲斐敏彦独LEWA GmbHグループおよび蘭Geveke B.V.グループの全株式を譲渡★★★
甲斐敏彦日機装(上海)実業有限公司およびNikkiso Europe GmbHの全株式を譲渡★★
出典・参考 28件
出典・参考
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(1)創業の決断
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)「特殊ポンプ工業株式会社」発足
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(4)最初の苦境
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(5)罐水処理装置総代理店の確立
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)営業所・出張所の開設
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(6)日本最初の人工心臓
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(7)社名「日本機械計装株式会社」へ
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)大型工場・実験室の建設
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(2)そして停滞
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)西独ショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店へ
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(1)米国コノフロー社との技術提携
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)技術提携の弊害
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(3)自力開発方針の決定
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(5)試練
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)斜陽化と混乱
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(2)打開の諸方策
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(2)人工腎臓装置の輸入販売開始
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)人工腎臓装置の国産化
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(1)時価発行による公募増資
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)静岡工場の建設
  • 会社年鑑(1967年版)
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11月号
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
  • 日経ビジネス 1978年8月14日号
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号

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