日機装 の歴史

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創業 1953年
創業者 音桂二郎
創業地 東京都
創業
1953年12月26日、音桂二郎氏が東京都墨田区江東橋で資本金100万円の特殊ポンプ工業を設立した。海軍造機技術士官から金商を経て、1952年に三菱化成工業と金商の共同出資で発足した日本錬水の営業課長を務めたが、水処理へ消極的な親会社と方針が合わず1953年10月に退社している。退社にあたり当分の間は水処理業務を行わないと約束したため、残る足場は米ミルトン・ロイ社製の定量注入ポンプの代理権だけだった。代表取締役は34歳の音桂二郎氏、監査役は63歳の父・音申吉氏で、常勤はこの親子2人である。1959年10月に日本機械計装、1968年11月に日機装へ商号を改めた。
決断・現況・競合について
決断
借りた技術は更新せず、期限が切れるたび自前へ切り替えた。1965年5月に米ミルトン・ロイ社との提携期間が切れると再契約せずに自力開発へ移り、独自のミルフロー制御容量ポンプは定量注入ポンプで世界2位の売上を占めた。ケミポンプ社との10年の提携が切れたあとのノンシールポンプも、自社技術で作り直している。人工腎臓も1967年に同じミルトン・ロイ社製の輸入販売から入り、2年後の1969年に国産第1号機を完成させた。図面と資料を写すだけになっていた技術陣が、わずかなミスが人命に直結する装置の設計まで担った。
現況
取得で広げた工業部門が、売上の63%を占めている。2017年8月にCryogenic Industriesグループ22社を約490億円で取得し、LNGの下流と産業ガスの機器へ事業を広げた。一方で2009年に取得した独LEWAは2022年8月に、2014年に米Baxterから譲り受けたCRRT事業は2025年2月に譲渡している。2025年12月期の売上収益2,156億円は工業1,367億円・医療789億円で、営業利益は工業135億円・医療61億円だった。地域別では日本707億円、アジア602億円、北アメリカ497億円、ヨーロッパ265億円である。取得する事業を選び直したことが、2023年12月期に59億円まで低下した営業利益を153億円へ戻した。
競合
透析では、装置を作る側と膜を作る側で相手が分かれる。1968年に米ミルトン・ロイ社の人工腎臓装置を扱い、ライセンスを取得して自社生産へ移った日機装は、装置で先行者の利潤を得た。ところがダイアライザーには大手繊維メーカーが参入して価格競争となり、診療報酬点数も1981年6月と1983年2月に引き下げられて、1982年9月期の医療器事業部は不振に陥る。日機装が選んだのは膜で正面から競うことではなく、装置を扱う技士を自ら育てることだった。静岡製作所は毎月4日間の合宿研修を実施し、1994年時点の受講者は延べ4,000人に達した。2000年にはダイアライザーで国内首位の旭化成系の旭メディカルとOEM製品の相互販売で提携した。膜を争う相手と製品を融通し合ったことが、競争の焦点を装置と技士の側に残した。
長期業績の推移 1950〜2025年
日機装:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2025年12月期

創業ストーリー ミルトン・ロイ社の代理権ひとつで始めた資本金100万円の創業 (1953年〜)

創業ストーリー(1)

水処理を封じられた音桂二郎氏と父の2人だけの発足

音桂二郎氏は1919年1月1日、音申吉氏の次男として東京に生まれ、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業したのち海軍造機技術士官に任命された[1]。横須賀・舞鶴・呉の海軍工廠を回った2年ほどの海軍生活で、海中で簡易水処理装置を使う米兵を見たことをきっかけに、イオン交換樹脂による水処理装置の開発へ独自に取り組んだ[2]。1946年春から奈良県大宇陀で自動車修理業を営んだのち、1948年1月、財閥解体で三菱商事から分かれた金商へ移り、新設の機械課に入った[3]。同社では三菱化成工業のイオン交換樹脂を軸とする水処理業務を担当し、1950年には『河川汚濁処理法案』を通商産業省へ建言した[4]。総合水処理事業を主体業務とする新会社の設立運動を主導し、1952年10月に三菱化成工業と金商の共同出資で日本錬水が発足すると、営業課長に就いた[5]

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(1)創業の決断
    • [1]音桂二郎氏は1919年1月1日に音申吉氏の次男として東京に生まれ、東京帝国大学工学部機械工学科を出て海軍造機技術士官に任命された。
    • [2]横須賀・舞鶴・呉の海軍工廠を歴任した海軍時代に、海中で簡易水処理装置を使う米兵を見たことをきっかけとして、イオン交換樹脂による水処理装置の開発を独自の研究をもとに進めた。
    • [3]1946年春から奈良県大宇陀で自動車修理業を開業し、1948年1月に金商へ入社した。金商は1947年の財閥解体で三菱商事が分散した会社の1つで、機械課の新設と同時の入社だった。
    • [4]金商では三菱化成工業のイオン交換樹脂を中心とする水処理業務に従事し、1950年に「河川汚濁処理法案」を通産省へ建言した。
    • [5]音桂二郎氏が中心となって総合水処理事業を主体業務とする新会社設立運動を進め、1952年10月に三菱化成工業と金商の共同出資で日本錬水が設立され、同氏は営業課長に就任した。

しかし日本錬水は、発足の時点で音桂二郎氏の目的意識とずれていた[6]音桂二郎氏が総合水処理メーカーを目指したのに対し、親会社の三菱化成工業はイオン交換樹脂『ダイヤイオン』の販売に重点を置き、水処理業務には消極的だった[7]。米国の水処理メーカーであるインフィルコ社との技術提携交渉は、ローヤリティやイニシャルペイメントで歩み寄りながら、最後の三菱化成工業首脳との会談が『ダイヤイオン』の販売拡大に終始し、水処理をほとんど論じないまま不成立に終わった[8]。設備の自動化を見据えた制御関係技術者の新規採用も、親会社から出向させて新規採用は行わないという人事原則に阻まれ、内定まで進みながら実現しなかった[9]。1953年10月に日本錬水を退社した音桂二郎氏は、同社の社長に対し、当分の間は水処理(第1次水処理)業務を行わないこと、日本錬水の人材を引き抜かないことの2項を約束した[10]

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(1)創業の決断
    • [6]日本錬水は設立時点ですでに音桂二郎氏と会社側との間に目的意識の大きな相違が生じていた。
    • [7]音桂二郎氏が総合水処理メーカーを目指したのに対し、会社側はイオン交換樹脂「ダイヤイオン」の販売に重点を置き、水処理業務には消極的だった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
    • [8]インフィルコ社との技術提携交渉はローヤリティ・イニシャルペイメント等で歩み寄ったが、三菱化成工業トップとの会談が「ダイヤイオン」の販売拡大に終始し、水処理をほとんど意見交換せずに終わり、提携は成立しなかった。
    • [9]制御関係技術者の新規採用は日本錬水の白鳥社長の一応の了解を得て内定者まで決めたが、親会社の三菱化成工業から出向させ新規採用は行わないという人事基本政策があり進まなかった。
    • [10]音桂二郎氏は1953年10月に日本錬水を退社し、同年秋に同社社長と新会社設立について話し合い、当分の間は水処理(第1次水処理)業務を行わないこと、人を引き抜かないことの2項を表明した。

ライフワークに選んだ水処理を封じられた以上、残る足場は、金商時代に代理権を取得し日本錬水でも1人で扱っていた米ミルトン・ロイ社の定量注入ポンプだけだった[11]。罐水処理(第2次水処理)業務とポンプの委譲は日本錬水から了解を得たものの、肝心のミルトン・ロイ社の承諾はなく、日本機械貿易も同社へ根強く接触していた[12]音桂二郎氏は実情を詳細に書き送って代理権の委譲を求め、シーン社長から承諾と激励の手紙を受け取った[13]。シーン社長も父と2人で特殊ポンプを始め水処理から出た経歴を持ち、動機も様式も酷似していた[14]。1953年12月26日、資本金100万円で特殊ポンプ工業が発足[15]。本店は東京都墨田区江東橋4丁目18番地、代表取締役は34歳の音桂二郎社長、監査役は63歳の父音申吉氏で、常勤はこの親子2人だけだった[16]

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)「特殊ポンプ工業株式会社」発足
    • [11]音桂二郎氏は水処理業務を断念し、金商時代にミルトン・ロイ社と交渉して代理権を取得し、日本錬水時代も同社との取引を1人で取り行っていた。
    • [12]罐水処理業務とミルトン・ロイ・ポンプの委譲は日本錬水から了解を得たが、ミルトン・ロイ社の了解は未取得で、日本機械貿易も同社に根強くコンタクトしていた。
    • [13]音桂二郎氏はミルトン・ロイ社へ実情を詳細に書き送って代理権の委譲を要請し、シーン社長から承諾と激励の文意の手紙を受け取った。
    • [15]特殊ポンプ工業の正式設立は1953年12月26日、資本金100万円だった。
    • [16]本店所在地は東京都墨田区江東橋4丁目18番地、代表取締役は当時34歳の音桂二郎氏、監査役は63歳の父音申吉氏で、常勤は親子2人だった。
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [14]ミルトン・ロイ社のシーン社長と音桂二郎氏の会社設立は時期こそ違え動機・様式ともに酷似しており、シーン社長は父と2人で特殊ポンプを始め水処理から出ていた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(1)創業の決断
    • [1]音桂二郎氏は1919年1月1日に音申吉氏の次男として東京に生まれ、東京帝国大学工学部機械工学科を出て海軍造機技術士官に任命された。
    • [2]横須賀・舞鶴・呉の海軍工廠を歴任した海軍時代に、海中で簡易水処理装置を使う米兵を見たことをきっかけとして、イオン交換樹脂による水処理装置の開発を独自の研究をもとに進めた。
    • [3]1946年春から奈良県大宇陀で自動車修理業を開業し、1948年1月に金商へ入社した。金商は1947年の財閥解体で三菱商事が分散した会社の1つで、機械課の新設と同時の入社だった。
    • [4]金商では三菱化成工業のイオン交換樹脂を中心とする水処理業務に従事し、1950年に「河川汚濁処理法案」を通産省へ建言した。
    • [5]音桂二郎氏が中心となって総合水処理事業を主体業務とする新会社設立運動を進め、1952年10月に三菱化成工業と金商の共同出資で日本錬水が設立され、同氏は営業課長に就任した。
    • [6]日本錬水は設立時点ですでに音桂二郎氏と会社側との間に目的意識の大きな相違が生じていた。
    • [7]音桂二郎氏が総合水処理メーカーを目指したのに対し、会社側はイオン交換樹脂「ダイヤイオン」の販売に重点を置き、水処理業務には消極的だった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
    • [8]インフィルコ社との技術提携交渉はローヤリティ・イニシャルペイメント等で歩み寄ったが、三菱化成工業トップとの会談が「ダイヤイオン」の販売拡大に終始し、水処理をほとんど意見交換せずに終わり、提携は成立しなかった。
    • [9]制御関係技術者の新規採用は日本錬水の白鳥社長の一応の了解を得て内定者まで決めたが、親会社の三菱化成工業から出向させ新規採用は行わないという人事基本政策があり進まなかった。
    • [10]音桂二郎氏は1953年10月に日本錬水を退社し、同年秋に同社社長と新会社設立について話し合い、当分の間は水処理(第1次水処理)業務を行わないこと、人を引き抜かないことの2項を表明した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)「特殊ポンプ工業株式会社」発足
    • [11]音桂二郎氏は水処理業務を断念し、金商時代にミルトン・ロイ社と交渉して代理権を取得し、日本錬水時代も同社との取引を1人で取り行っていた。
    • [12]罐水処理業務とミルトン・ロイ・ポンプの委譲は日本錬水から了解を得たが、ミルトン・ロイ社の了解は未取得で、日本機械貿易も同社に根強くコンタクトしていた。
    • [13]音桂二郎氏はミルトン・ロイ社へ実情を詳細に書き送って代理権の委譲を要請し、シーン社長から承諾と激励の文意の手紙を受け取った。
    • [15]特殊ポンプ工業の正式設立は1953年12月26日、資本金100万円だった。
    • [16]本店所在地は東京都墨田区江東橋4丁目18番地、代表取締役は当時34歳の音桂二郎氏、監査役は63歳の父音申吉氏で、常勤は親子2人だった。
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [14]ミルトン・ロイ社のシーン社長と音桂二郎氏の会社設立は時期こそ違え動機・様式ともに酷似しており、シーン社長は父と2人で特殊ポンプを始め水処理から出ていた。
創業ストーリー(2)

火力発電所向け水質調整装置の独占と東証二部への上場

発足まもない1954年3月、朝鮮動乱以後で初めての強い金融引締政策がとられると、それまで輸入為替業務を引き受けていた某銀行東京支店は、特殊ポンプ工業の輸入信用状の開設を今後いっさい引き受けないと通告し、すでに引き受けていた分も断ってきた[17]。当時の機械輸入は、最終需要家から外貨割当証明書を譲り受け、割当の日から2カ月以内に為替銀行へ輸入許可申請書を出さなければ割当が無効になる仕組みで、開設期限までは残り5日だった[18]。ミルトン・ロイ社へはすでに注文書を切っており、期限を過ぎれば電力会社への納入が滞り、代理権を委ねた同社への信用も失う[19]音桂二郎社長は銀行を回り、期限3日前に東京銀行神田支店の引き受けを取り付け、契約条件である担保金30%を積んで期限最終日に信用状を開設した[20]

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(4)最初の苦境
    • [17]1954年3月、朝鮮動乱以後初めての強い金融引締政策を契機に、取引していた某銀行東京支店が特殊ポンプ工業の輸入信用状開設を今後いっさい引き受けないと通告し、既に引き受けていた開設も断ってきた。
    • [18]機械類の輸入は最終需要家に外貨が割り当てられ、輸入業者は外貨割当証明書を譲り受けて割当の日から2カ月以内に為替銀行へ輸入許可申請書を提出しないと外貨割当が無効になった。信用状開設のできる最終期限まで残り5日だった。
    • [19]ミルトン・ロイ社へは既に注文書を切っており、期限経過で輸入が不可能になれば電力会社に迷惑をかけ、代理権を与えた同社への信用も失うところだった。
    • [20]音桂二郎社長は銀行回りの末、期限まで残り3日で東京銀行神田支店の引き受けを得て、契約条件の担保金30%を期限最終日に積み立てて信用状を開設した。

音桂二郎社長が立てた仮説は、臨海火力発電所の増設が定量注入ポンプなど制御機器の需要を高めるというものだった[21]。ボイラ内の水はスケールの付着と溶存酸素による腐食を抑える必要があり、水質を刻々と測る計器と薬液を適量注入するポンプが対で使われた[22]。1954年春から交渉した米ケンブリッジ社の溶存酸素計についても同年7月に総代理店契約の承諾を得て、罐水処理装置の主要部を占める2製品の日本総代理店がそろった[23]。この2契約により、火力発電所の罐水処理装置の計画と主要機器の納入販売をほぼ独占する立場を得た[24]。1955年4月にはミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化へ移り[25]、1956年5月に東京都渋谷区豊沢町の本社・工場を完成[26]、1958年3月に大阪営業所を開設した[27]

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
    • [21]音桂二郎氏は電力部門の拡充、特に臨海火力発電所の増設と近代設備化がミルトン・ロイ・ポンプのような定量注入ポンプその他制御機器の需要を高めると予見していた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(5)罐水処理装置総代理店の確立
    • [22]ボイラ内の水はスケール付着で熱効率が落ち、溶存酸素は内壁を侵すため、内部状況を刻々とらえて必要な薬液を適量注入する必要があり、ミルトン・ロイ・ポンプとケンブリッジ社のpH計・溶存酸素計が重要な役割を果たした。
    • [23]米ケンブリッジ社の溶存酸素計の総代理店契約交渉は1954年春に始まり、同年7月に契約承諾の回答が寄せられ、罐水処理装置の主要部を占める2製品の日本総代理店が実現した。
    • [24]ミルトン・ロイ社とケンブリッジ社の日本総代理店契約の成立により、火力発電所の罐水処理装置の計画と主要部機器の納入販売を独占化した。
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1955年4月、米国ミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化に移行した。
    • [26]1956年5月、東京都渋谷区豊沢町に本社および工場が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)営業所・出張所の開設
    • [27]1958年3月に大阪営業所を開設し、地下鉄本町駅近くのビルの1室を借りて総員3名で始めた。

1959年2月、東京大学木本外科の渥美和彦氏から人工心臓の試作を依頼された特殊ポンプ工業は、企業目的から外れるとして一度辞退したが、要請が続いたため試作品1台までという条件で引き受け、1960年7月に日本初の人工心臓を東京大学へ納めた[28]。1959年7月には東村山で工費約7,500万円の第1期建設工事に着工し、同年12月に機械工場や組立工場などの主要建築物が完成[29]。売上の半分以上を計装部の水質調整装置や自動燃焼装置が占め、社名が業務内容に合わなくなったため、1959年10月1日を期して商号を日本機械計装へ変更した[30]。略称の日機装に含まれる『計装』は、音桂二郎社長がinstrumentationの訳語として作った語である[31]。1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場すると株価は1,400円の最高値をつけ、第二のソニーと呼ばれた[32]

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(6)日本最初の人工心臓
    • [28]1959年2月に東京大学木本外科の渥美和彦氏から人工心臓の試作を依頼され、企業目的から逸脱するとして一度辞退したが、要請が続いたため試作品1台を完成させるまで協力することとし、1960年7月に第1号を東大木本外科へ納入した。
    • [29]東村山で工費約7,500万円を投じて第1期建設に着工したのは1959年7月で、同年12月に機械工場・組立工場などの主要建築物(第1工場)が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(7)社名「日本機械計装株式会社」へ
    • [30]売上の半分以上を占める計装部の水質調整装置や自動燃焼装置に社名がそぐわなくなり、1959年10月1日を期して「特殊ポンプ工業株式会社」から「日本機械計装株式会社」への社名変更を決定した。
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [31]社名の日機装は日本機械計装をつめたもので、「計装」は音桂二郎氏がインスツルメンテーションを翻訳して作った造語である。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [32]1961年に東証第二部へ株式を上場したとたん人気を呼び、株価1,400円と最高記録をつくり、第二のソニーという声も出た。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(4)最初の苦境
    • [17]1954年3月、朝鮮動乱以後初めての強い金融引締政策を契機に、取引していた某銀行東京支店が特殊ポンプ工業の輸入信用状開設を今後いっさい引き受けないと通告し、既に引き受けていた開設も断ってきた。
    • [18]機械類の輸入は最終需要家に外貨が割り当てられ、輸入業者は外貨割当証明書を譲り受けて割当の日から2カ月以内に為替銀行へ輸入許可申請書を提出しないと外貨割当が無効になった。信用状開設のできる最終期限まで残り5日だった。
    • [19]ミルトン・ロイ社へは既に注文書を切っており、期限経過で輸入が不可能になれば電力会社に迷惑をかけ、代理権を与えた同社への信用も失うところだった。
    • [20]音桂二郎社長は銀行回りの末、期限まで残り3日で東京銀行神田支店の引き受けを得て、契約条件の担保金30%を期限最終日に積み立てて信用状を開設した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
    • [21]音桂二郎氏は電力部門の拡充、特に臨海火力発電所の増設と近代設備化がミルトン・ロイ・ポンプのような定量注入ポンプその他制御機器の需要を高めると予見していた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(5)罐水処理装置総代理店の確立
    • [22]ボイラ内の水はスケール付着で熱効率が落ち、溶存酸素は内壁を侵すため、内部状況を刻々とらえて必要な薬液を適量注入する必要があり、ミルトン・ロイ・ポンプとケンブリッジ社のpH計・溶存酸素計が重要な役割を果たした。
    • [23]米ケンブリッジ社の溶存酸素計の総代理店契約交渉は1954年春に始まり、同年7月に契約承諾の回答が寄せられ、罐水処理装置の主要部を占める2製品の日本総代理店が実現した。
    • [24]ミルトン・ロイ社とケンブリッジ社の日本総代理店契約の成立により、火力発電所の罐水処理装置の計画と主要部機器の納入販売を独占化した。
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1955年4月、米国ミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化に移行した。
    • [26]1956年5月、東京都渋谷区豊沢町に本社および工場が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)営業所・出張所の開設
    • [27]1958年3月に大阪営業所を開設し、地下鉄本町駅近くのビルの1室を借りて総員3名で始めた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(6)日本最初の人工心臓
    • [28]1959年2月に東京大学木本外科の渥美和彦氏から人工心臓の試作を依頼され、企業目的から逸脱するとして一度辞退したが、要請が続いたため試作品1台を完成させるまで協力することとし、1960年7月に第1号を東大木本外科へ納入した。
    • [29]東村山で工費約7,500万円を投じて第1期建設に着工したのは1959年7月で、同年12月に機械工場・組立工場などの主要建築物(第1工場)が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(7)社名「日本機械計装株式会社」へ
    • [30]売上の半分以上を占める計装部の水質調整装置や自動燃焼装置に社名がそぐわなくなり、1959年10月1日を期して「特殊ポンプ工業株式会社」から「日本機械計装株式会社」への社名変更を決定した。
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [31]社名の日機装は日本機械計装をつめたもので、「計装」は音桂二郎氏がインスツルメンテーションを翻訳して作った造語である。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [32]1961年に東証第二部へ株式を上場したとたん人気を呼び、株価1,400円と最高記録をつくり、第二のソニーという声も出た。
創業ストーリー(3)

外国技術への依存が招いた9,100万円の欠損と無配転落

1962年3月、東村山工場に大型工場(第2工場)が完成し、主力の3ポンプをすべて製造できる機能が整った[33]。もっとも、需要先は狭かった。主力の化学用ポンプは石油化学を中心とする化学メーカー向けにほぼ需要が限られ、これに次ぐ計装機器も火力発電所用に限定されていたため、売れ行きは石油化学と電力会社の設備投資に左右された[34]。電力業界では発電所の大型化と技術者不足からプラントメーカーへの一括発注方式が広がり、値引き競争が廉価な国産機器の採用を強めて、輸入代理店として保ってきた独占性は崩れ、利益率も下がった[35]。主力製品の大部分を外国技術の導入に頼った結果、研究開発の意欲は後退し、技術陣は提携先から送られる図面と資料を写す仕事に近づいた[36]

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)大型工場・実験室の建設
    • [33]1961年5月に第1工場後方の敷地7,596平方メートルを購入して同年8月に着工し、1962年3月に大型工場(第2工場)が完成して、東村山工場は主力3ポンプを完全に製造できる機能を備えた。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [34]主力製品のポンプは石油化学を中心とする化学メーカー向けにほぼ需要が限られ、次ぐ主要製品の計装機器も火力発電所用に限定され、売れ行きは石油化学や電力会社の設備投資しだいだった。
    • [36]主力製品の大部分について外国技術の導入に依存してきた結果、研究開発の意欲が後退し、技術陣は提携先から送付される図面・資料を写す状態に近づいた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(2)そして停滞
    • [35]1960年代後半にかけて火力発電所の規模拡大と電力業界の技術者不足からプラントメーカーへの一括発注方式に移り、値引き合戦が廉価な国産機器採用の傾向を強め、輸入代理店として保っていた電力業界への独占性は崩れ、利益率も低下した。

計装部門の停滞に対し、日本機械計装はボイラ自動燃焼制御へ本格的に進出した[37]。1961年7月、西独最大の計器メーカーであるハルトマン・ブラウン社の姉妹会社で制御装置を専門とするショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店となったが、これは大きな誤算に終わった[38]。1963年5月には米コノフロー社と、コントロール・バルブおよび操作調整器の製造に関する技術援助契約を結んだ[39]。ポンプ以外では最初の技術提携にあたるが、交渉開始から締結まで4年以上を費やし、その遅れがこの分野で十分な市場を取れなかった最大の要因になった[40]。1959年3月に音桂二郎社長らが渡米して候補をコノフロー社に絞り、1960年末には技術提携料の率まで合意していたが、同社の内部事情で通商産業省へ出した案を取り下げ、1年以上保留された[41]

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(2)そして停滞
    • [37]計装部門の斜陽化は事前に予想されており、ポンプ製造の自立化に力を入れる一方、計装部自体もボイラ自動燃焼制御の分野へ本格的に進出を始めた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)西独ショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店へ
    • [38]1961年7月、西独最大の計器メーカーであるハルトマン・ブラウン社の姉妹会社で制御装置を専門とするショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店となったが、結果的には大きな誤算になった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(1)米国コノフロー社との技術提携
    • [39]1963年5月、米コノフロー社との間にコントロール・バルブおよび操作調整器の製造に関する技術援助契約を締結した。
    • [40]コノフロー社との技術提携はポンプ以外では最初の技術提携で、交渉開始から締結まで4年以上を費やし、それが同分野で十分な市場獲得を困難にし失敗に終わらせる最大の要因になった。
    • [41]1959年3月に音桂二郎社長と堀田武司氏が渡米して候補をコノフロー社1本に絞り、1960年末に技術提携料の率まで両者が合意したが、同社内部の複雑な問題により通産省へ提出中のドラフトを取り下げ、1年以上保留された。

1965年の春闘で、日本機械計装は労使関係の安定を優先して組合要求の実現に努め、数度の団体交渉を経て5月20日に1人平均2,700円の昇給で妥結した[42]。しかし6月28日、組合は1人平均2.9カ月(72,224円)の夏期一時金を要求し、相互の信頼は途切れた[43]。1966年3月の決算は9,100万円の欠損となり、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた[44]。創業以来積み上げてきた1億円の利益剰余金を一度に吐き出し、年2割の高率配当から無配へ転じた[45]音桂二郎社長は1966年の年賀交換会で、外見上は健康体質でも内部に問題が積み上がり、不況という外からの圧力でそれが表れたと述べ、製品と作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓を体質改善の対策に挙げた[46]

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
    • [42]1965年の春闘で労使関係の安定を優先し、数度の団体交渉の後、5月20日に1人平均2,700円の昇給で妥結した。
    • [43]1965年6月28日、組合は1人平均2.9カ月(72,224円)の夏期一時金要求を提出し、パートナーとしての相互信頼が途絶えた。
    • [44]1966年3月の決算公表数字は9,100万円の大幅赤字欠損で、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた。
    • [46]1966年の年賀交換会で音桂二郎社長は、外見上は健康体質でも内部に多くの問題が蓄積し不況の圧力で顕現したと述べ、体質改善の対策として製品および作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係改善を提起した。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [45]9,100万円の欠損計上により、創業以来蓄積してきた1億円の内部留保を一度に吐き出し、それまでの年2割という高率配当から無配へ転落した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)大型工場・実験室の建設
    • [33]1961年5月に第1工場後方の敷地7,596平方メートルを購入して同年8月に着工し、1962年3月に大型工場(第2工場)が完成して、東村山工場は主力3ポンプを完全に製造できる機能を備えた。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [34]主力製品のポンプは石油化学を中心とする化学メーカー向けにほぼ需要が限られ、次ぐ主要製品の計装機器も火力発電所用に限定され、売れ行きは石油化学や電力会社の設備投資しだいだった。
    • [36]主力製品の大部分について外国技術の導入に依存してきた結果、研究開発の意欲が後退し、技術陣は提携先から送付される図面・資料を写す状態に近づいた。
    • [45]9,100万円の欠損計上により、創業以来蓄積してきた1億円の内部留保を一度に吐き出し、それまでの年2割という高率配当から無配へ転落した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(2)そして停滞
    • [35]1960年代後半にかけて火力発電所の規模拡大と電力業界の技術者不足からプラントメーカーへの一括発注方式に移り、値引き合戦が廉価な国産機器採用の傾向を強め、輸入代理店として保っていた電力業界への独占性は崩れ、利益率も低下した。
    • [37]計装部門の斜陽化は事前に予想されており、ポンプ製造の自立化に力を入れる一方、計装部自体もボイラ自動燃焼制御の分野へ本格的に進出を始めた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)西独ショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店へ
    • [38]1961年7月、西独最大の計器メーカーであるハルトマン・ブラウン社の姉妹会社で制御装置を専門とするショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店となったが、結果的には大きな誤算になった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(1)米国コノフロー社との技術提携
    • [39]1963年5月、米コノフロー社との間にコントロール・バルブおよび操作調整器の製造に関する技術援助契約を締結した。
    • [40]コノフロー社との技術提携はポンプ以外では最初の技術提携で、交渉開始から締結まで4年以上を費やし、それが同分野で十分な市場獲得を困難にし失敗に終わらせる最大の要因になった。
    • [41]1959年3月に音桂二郎社長と堀田武司氏が渡米して候補をコノフロー社1本に絞り、1960年末に技術提携料の率まで両者が合意したが、同社内部の複雑な問題により通産省へ提出中のドラフトを取り下げ、1年以上保留された。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
    • [42]1965年の春闘で労使関係の安定を優先し、数度の団体交渉の後、5月20日に1人平均2,700円の昇給で妥結した。
    • [43]1965年6月28日、組合は1人平均2.9カ月(72,224円)の夏期一時金要求を提出し、パートナーとしての相互信頼が途絶えた。
    • [44]1966年3月の決算公表数字は9,100万円の大幅赤字欠損で、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた。
    • [46]1966年の年賀交換会で音桂二郎社長は、外見上は健康体質でも内部に多くの問題が蓄積し不況の圧力で顕現したと述べ、体質改善の対策として製品および作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係改善を提起した。
創業ストーリー(4)

9,100万円の欠損から始めた製品標準化と自力開発

1965年の業績不振で赤字が確実とみられるなか、日本機械計装は1966年の年詞交換会を迎えた[47]。席上、音桂二郎社長は外見上は健康とみられてきた企業の内部に多くのウミが蓄積しており、それが不況という外からの圧力で前年に表へ出たと述べた[48]。体質改善の対策として挙げたのは、製品および作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係の改善の4つである[49]。同年3月に公表した決算は9,100万円の欠損となり、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた[50]。年2割の高率配当は一挙に無配へ転落し、創業以来ためてきた1億円の蓄えを一度に吐き出した[51]

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「体質改善」(1)標準化へ
    • [47]1965年の業績不振により1966年の決算は赤字必至と予想されていた
    • [48]1966年の年詞交換会で音桂二郎社長が、外見は健康体質だが内部に多くのウミが蓄積し不況という外圧で顕現したと表明した
    • [49]体質改善の対策として製品及び作業の標準化・合理化の推進、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係改善を提起した
    • [50]1966年3月に公表した決算は9,100万円の欠損で、うち工場在庫品の処分による損失が3,400万円を占めた
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [51]9,100万円の欠損計上により創業以来蓄積した1億円をはき出し、年2割配当から無配へ転落した

9,100万円の欠損は、受注のたびに設計を1から始める生産の仕組みから生まれた[52]。需要者の複雑多岐な要求を満たすため製品は一品料理的に作られ、工程は注文ごとにまったく異なり、部品もその都度そろえる必要があった[53]。見込みで買って機械加工まで施した部品は、予想が外れるとスクラップとなり100分の1の価格で売られた[54]。標準化の価値は1961年ごろから社内で認められていたが、実行には移されていなかった[55]音桂二郎社長は所得倍増計画で人件費が上がり労働集約的な生産では立ち行かないとみて、ポンプの部品をできるだけ標準化せよと号令を出した[56]。東村山工場には60工程を1台でこなす国産第1号のマシニングセンターを含めNCマシン12台が入り、熟練工2人で4時間かかったポンプフレームの加工は45分に縮んだ[57]

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「体質改善」(1)標準化へ
    • [52]設計を1から始め工程も注文ごとに異なる前近代的な生産体制が混乱と損失を生んだ
    • [53]需要者の要求が複雑多岐なため製品を一品料理的に生産し、部品もその都度準備していた
    • [54]見込みで購入し機械加工を施した部品は予想が外れるとスクラップ化し100分の1の価格で売却された
    • [55]標準化の価値は1961年ごろから認められていたが需要者の複雑な要求により実行に移されていなかった
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [56]所得倍増計画で労働集約的な生産の前提が崩れたため、音桂二郎社長がポンプの部品をできるだけ標準化しろと号令を出した
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻2号(安藤道雄・講演要旨)
    • [57]東村山工場に60本のバイトを備えた国産第1号のマシニングセンターほかNCマシン12台を導入し、熟練工2人で4時間を要したポンプフレームの加工が45分になった

主力の化学ポンプは米ミルトン・ロイ社から導入した技術によるもので、技術陣は提携先から届く図面と資料を写すだけになっていた[58]。1965年5月に提携期間が切れると、日本機械計装は再契約せずに自力開発へ切り替えた[59]。独自技術のミルフロー制御容量ポンプは世界の定量注入ポンプで売上第2位を占め、化学メーカーに加えて銅精錬など鉱業向けにも需要が広がった[60]。ノンシールポンプもケミポンプ社との10年の提携が切れた後は自社技術で作り、廃ガスの有毒分を吸着するBAS-SORBERや米ゴーマンラップ社と提携した排水・汚水処理用ポンプとともに、公害防止用の新規需要をつかんだ[61]。米サンドストランド社と提携したサンダインポンプは毎分2万5,000回転から3万回転で回る[62]。1968年10月に渋谷区恵比寿の本社屋が完成し、翌11月29日の株主総会で商号を日本機械計装から日機装へ改めた[63]

  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [58]主力製品の大部分を外国技術の導入に依存し、技術陣は提携先から送付される図面・資料の写しに留まっていた
    • [59]米ミルトン・ロイ社との技術提携期間が1965年5月に切れると再契約せず自力開発に切り替えた
    • [60]独自技術によるミルフロー定量注入ポンプは世界の定量注入ポンプで売上第2位となり、銅精錬など鉱業向けにも需要が拡大した
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻2号(安藤道雄・講演要旨)
    • [61]ノンシールポンプはケミポンプ社との10年の技術提携終了後は自社技術で製造し、公害防止用の新規需要につながった。BAS-SORBERは廃ガスの有毒分を吸着し、米ゴーマンラップ社との技術提携品は排水・汚水処理用ポンプである
    • [62]サンダインポンプは航空機部品メーカーの米サンドストランド社との技術提携によるもので、毎分2万5,000回転から3万回転で運転できる
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「体質改善」(4)社名変更「日機装株式会社」へ
    • [63]1968年10月に渋谷区恵比寿の本社屋が完成し、1968年11月29日の株主総会で日本機械計装株式会社から日機装株式会社への商号変更を正式決定した
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「体質改善」(1)標準化へ
    • [47]1965年の業績不振により1966年の決算は赤字必至と予想されていた
    • [48]1966年の年詞交換会で音桂二郎社長が、外見は健康体質だが内部に多くのウミが蓄積し不況という外圧で顕現したと表明した
    • [49]体質改善の対策として製品及び作業の標準化・合理化の推進、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係改善を提起した
    • [50]1966年3月に公表した決算は9,100万円の欠損で、うち工場在庫品の処分による損失が3,400万円を占めた
    • [52]設計を1から始め工程も注文ごとに異なる前近代的な生産体制が混乱と損失を生んだ
    • [53]需要者の要求が複雑多岐なため製品を一品料理的に生産し、部品もその都度準備していた
    • [54]見込みで購入し機械加工を施した部品は予想が外れるとスクラップ化し100分の1の価格で売却された
    • [55]標準化の価値は1961年ごろから認められていたが需要者の複雑な要求により実行に移されていなかった
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [51]9,100万円の欠損計上により創業以来蓄積した1億円をはき出し、年2割配当から無配へ転落した
    • [58]主力製品の大部分を外国技術の導入に依存し、技術陣は提携先から送付される図面・資料の写しに留まっていた
    • [59]米ミルトン・ロイ社との技術提携期間が1965年5月に切れると再契約せず自力開発に切り替えた
    • [60]独自技術によるミルフロー定量注入ポンプは世界の定量注入ポンプで売上第2位となり、銅精錬など鉱業向けにも需要が拡大した
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [56]所得倍増計画で労働集約的な生産の前提が崩れたため、音桂二郎社長がポンプの部品をできるだけ標準化しろと号令を出した
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻2号(安藤道雄・講演要旨)
    • [57]東村山工場に60本のバイトを備えた国産第1号のマシニングセンターほかNCマシン12台を導入し、熟練工2人で4時間を要したポンプフレームの加工が45分になった
    • [61]ノンシールポンプはケミポンプ社との10年の技術提携終了後は自社技術で製造し、公害防止用の新規需要につながった。BAS-SORBERは廃ガスの有毒分を吸着し、米ゴーマンラップ社との技術提携品は排水・汚水処理用ポンプである
    • [62]サンダインポンプは航空機部品メーカーの米サンドストランド社との技術提携によるもので、毎分2万5,000回転から3万回転で運転できる
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「体質改善」(4)社名変更「日機装株式会社」へ
    • [63]1968年10月に渋谷区恵比寿の本社屋が完成し、1968年11月29日の株主総会で日本機械計装株式会社から日機装株式会社への商号変更を正式決定した
創業ストーリー(5)

人工腎臓の輸入販売から国産第1号機と保険適用へ

人工腎臓に踏み込んだのは1967年で、米ミルトン・ロイ社製の装置の輸入販売を日本で初めて手がけた[64]。扱ったキール型はコルフ型に比べて経済的で、保存血液が少量ですむ利点から病院に歓迎され、長く主導権を握った[65]。2年後の1969年には国産第1号機を完成させた[66]。ポンプと違い、わずかなミスが人命に直結する装置であり、図面や資料の引き移しでは製品にならない[67]。国産化を支えたのは、1965年の不況後に精密ポンプの自力開発で培った技術力と、東京大学医学部木本外科の依頼でわが国初の人工心臓を試作した経験だった[68]

  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [64]1967年に米ミルトン・ロイ社からミルトン製人工腎臓装置の輸入販売を始めた
    • [67]人工腎臓はポンプと違いわずかのミスでも人命につながるため、図面や資料の引き移しでは製品化できない
    • [68]国産化を支えたのは1965年の不況後の精密ポンプ自力開発で培った技術力と、東京大学医学部木本外科の依頼でわが国初の人工心臓を試作した経験である
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(3)系列会社「日本工業洗浄株式会社」
    • [65]1967年に日本で初めて販売を開始したキール型人工腎臓装置は、コルフ型に比べ経済的で保存血液が少量ですむ優位性から顧客に歓迎され長く主導権を握った
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [66]輸入販売開始の2年後にあたる1969年に国産第1号の人工腎臓装置を完成させた

1968年、音桂二郎社長は新潟大学の関連病院に納めた装置の使用に立ち会うため新潟へ出向いた[69]。患者は20代半ばの男性で、素人が見ても顔のむくみがひどい重症とわかった[70]。透析器が動きだすとむくみが引き、北海道から出てきた両親は主治医に手を合わせ、紹介された音桂二郎社長にも手を合わせた[71]。人に拝まれたのは音桂二郎社長にとって初めての経験だった[72]。設計や製造のミスが許されず、異常が起きたときに備えて24時間のサポート体制を敷く必要があるため、日機装は病院へ専門の技師を養成するよう働きかけた[73]

  • 日経ビジネス 1995年9月11日号
    • [69]1968年、新潟大学の関連病院に人工透析器を納入し、腎不全の患者が使うというので音桂二郎社長が新潟に出向いた
    • [70]患者は20代半ばの男性で、素人が見ても顔のむくみがひどい重症とわかる状態だった
    • [71]透析器が動きだすとむくみがとれ、北海道から出てきた両親は主治医に手を合わせ、紹介された音桂二郎社長にも手を合わせた
    • [72]人に拝まれるのは音桂二郎社長にとって生まれて初めての経験だった
    • [73]設計や製造のミスが許されず異常発生に備えて24時間のサポート体制を確立する必要から、病院に専門の技師を養成するよう働きかけた

1971年に人工腎臓を使った治療が全額健康保険の対象になると、装置の需要が急速に伸びた[74]。同年に約7億円だった人工腎臓の売上は1974年9月期に49億円へ7倍近く増え、総売上に占める割合は40%に高まった[75]。1973年末の人工腎臓装置の設置台数4,986台のうち、日機装製が約55%を占めた[76]。全国の要治療患者が10万人とみられるのに対し、1974年末に治療を受けていた患者は6,000人強にとどまっていた[77]。日機装は1971年2月に東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部へ上場した[78]

  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [74]1971年に人工腎臓を使った治療が全額健康保険の対象になったのを機に人工腎臓装置の需要が急速に伸び出した
    • [75]人工腎臓の売上は1971年の約7億円から1974年9月期に49億円へ約7倍増え、総売上に占める割合は40%に高まった
    • [76]1973年末の人工腎臓装置の設置台数4,986台のうち日機装製が約55%を占めた
    • [77]全国で要治療患者が10万人とみられるのに対し1974年末に人工腎臓の治療を受けていた患者は6,000人強だった
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [78]1971年2月に東京証券取引所および大阪証券取引所の市場第一部へ上場した
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [64]1967年に米ミルトン・ロイ社からミルトン製人工腎臓装置の輸入販売を始めた
    • [67]人工腎臓はポンプと違いわずかのミスでも人命につながるため、図面や資料の引き移しでは製品化できない
    • [68]国産化を支えたのは1965年の不況後の精密ポンプ自力開発で培った技術力と、東京大学医学部木本外科の依頼でわが国初の人工心臓を試作した経験である
    • [74]1971年に人工腎臓を使った治療が全額健康保険の対象になったのを機に人工腎臓装置の需要が急速に伸び出した
    • [75]人工腎臓の売上は1971年の約7億円から1974年9月期に49億円へ約7倍増え、総売上に占める割合は40%に高まった
    • [76]1973年末の人工腎臓装置の設置台数4,986台のうち日機装製が約55%を占めた
    • [77]全国で要治療患者が10万人とみられるのに対し1974年末に人工腎臓の治療を受けていた患者は6,000人強だった
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(3)系列会社「日本工業洗浄株式会社」
    • [65]1967年に日本で初めて販売を開始したキール型人工腎臓装置は、コルフ型に比べ経済的で保存血液が少量ですむ優位性から顧客に歓迎され長く主導権を握った
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [66]輸入販売開始の2年後にあたる1969年に国産第1号の人工腎臓装置を完成させた
    • [78]1971年2月に東京証券取引所および大阪証券取引所の市場第一部へ上場した
  • 日経ビジネス 1995年9月11日号
    • [69]1968年、新潟大学の関連病院に人工透析器を納入し、腎不全の患者が使うというので音桂二郎社長が新潟に出向いた
    • [70]患者は20代半ばの男性で、素人が見ても顔のむくみがひどい重症とわかる状態だった
    • [71]透析器が動きだすとむくみがとれ、北海道から出てきた両親は主治医に手を合わせ、紹介された音桂二郎社長にも手を合わせた
    • [72]人に拝まれるのは音桂二郎社長にとって生まれて初めての経験だった
    • [73]設計や製造のミスが許されず異常発生に備えて24時間のサポート体制を確立する必要から、病院に専門の技師を養成するよう働きかけた
創業ストーリー(6)

30億円を投じた静岡工場と売上119億円

人工腎臓装置は東村山工場で作っていたが需要に追いつかず、日機装は1974年9月、静岡県榛原に30億円を投じて医療器専門の工場を建て、生産能力を倍増させた[79]。同時に独立した研究所も置いた[80]。この期の設備投資だけで過去5年間の総投資額を上回った[81]。1974年9月期の売上高は119億2,500万円、税引利益は9億2,800万円、従業員は846人[82]音桂二郎社長は1972年11月の講演で3年後の1975年に売上高100億円以上をめざすと語っており、その水準を1年早く超えた[83]。売上構成は機械41%、計装器18%、医療機器41%で、創立以来の主業だった火力発電所用水質調整装置を抱える計装が3事業部で最も小さくなった[84]

  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [79]1974年9月に30億円を投資して静岡に人工腎臓装置を中心とする医療器専門工場を建設し、人工腎臓の生産能力が倍増した。工場は静岡・榛原にある
    • [81]1974年9月期だけで過去5年間の総投資額を上回る設備投資を行った
    • [82]1974年9月期の売上高119億2,500万円、税引利益9億2,800万円、従業員数846人
    • [84]1974年9月期の売上構成は機械41%、計装器18%、医療機器41%。創立当初の主業務は火力発電用ボイラーの水質調整装置の製造だった
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻2号(安藤道雄・講演要旨)
    • [80]静岡に大きな工場をつくると同時に独立した研究所もつくった
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11巻1号(音桂二郎・講演要旨)
    • [83]1972年11月の講演で音桂二郎社長が3年後の1975年に売上高を100億円以上にする計画を示した

静岡工場では毎月、病院の医師や助手を招いて1週間から10日の合宿教育を行った[85]。教育の後に試験を実施し、合格者には『テクニシャン』の修了証書を渡した[86]。日機装はテクニシャンのいる施設にだけ装置を出し、いない施設には出さない方針をとった[87]。機械に問題がなくても操作を誤って人身事故が起きれば、日機装の機械が悪かったと言われて大きな損害を受けるためである[88]。外国では国家試験の有資格者が病院に常駐していたが、日本にその制度はなく、普及を妨げていたのは受け入れ側にあった[89]。日機装は、医師でない助手がテクニシャンを務める場合は医師の立ち会いを条件とし、機械の操作だけを任せた[90]

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻2号(安藤道雄・講演要旨)
    • [85]静岡工場で毎月、病院の医師や助手を招き1週間ないし10日のかん詰め教育を行った
    • [86]教育後に試験を実施し、合格者に「テクニシャン」の修了証書を交付した
    • [87]テクニシャンのいる施設には機械を出し、いない施設には出さない方針をとった
    • [88]操作を誤って人身事故が起きれば機械が悪かったといわれ大きなダメージを受けるため、テクニシャンの有無で出荷を分けた
    • [90]テクニシャンは医師の資格を要さず助手でもよいが、医師でない場合は医師が診断して立ち会い、機械の操作そのものをテクニシャンが行う
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11巻1号(音桂二郎・講演要旨)
    • [89]外国では国家試験の有資格者であるテクニシャンが病院に常駐しているが日本ではそこまで至っておらず、普及を妨げていたのは受入側だった

日機装は規模の拡大を追わず、『NOT BIG, BUT STRONG』を社内に掲げた[91]。新入社員の面接では、3割ほどがこの標語を気に入って受験したと答えた[92]。1974年9月期の総資本利益率は6.5%と東証1部上場製造業平均の2.1%を、売上高利益率は7.7%と同平均の2%をそれぞれ上回り、自己資本比率は47%に達した[93]。財務管理の責任者は安藤道雄副社長が務め、社長でも独断で経理にタッチできない仕組みをとった[94]。1969年7月には日本揮発油との折半出資で日本工業洗浄を設立し、払込資本金1,500万円を各750万円ずつ負担して火力プラントのボイラー洗浄を担わせた[95]。1974年に西独フランクフルト郊外へ日機装ドイッチェランドGmbHを設立し、1975年1月にブラジル・サンパウロ郊外の約10万坪を購入した[96]

  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻2号(安藤道雄・講演要旨)
    • [91]「NOT BIG, BUT STRONG」が日機装のモットーで、大きくなくても力のある会社をめざした
    • [92]新入社員の面接では3割ほどがこの標語が気に入って受験したと答えた
    • [96]西独フランクフルト郊外に日機装ドイッチェランドGmbHを設立し工場・宿舎を完成させ、1975年1月にブラジル・サンパウロ郊外の約10万坪を購入した
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [93]総資本利益率6.5%(東証1部上場製造業平均2.1%)、売上高利益率7.7%(同2%)、自己資本比率47%
    • [94]財務管理の責任者は安藤道雄副社長で、社長といえども独断で経理面にタッチできない仕組みだった
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(3)系列会社「日本工業洗浄株式会社」
    • [95]1969年7月1日に日本揮発油との折半出資で日本工業洗浄を設立、払込資本金1,500万円を各750万円ずつ拠出し、日機装は火力プラントの洗浄を新会社に発注して施工させた
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [79]1974年9月に30億円を投資して静岡に人工腎臓装置を中心とする医療器専門工場を建設し、人工腎臓の生産能力が倍増した。工場は静岡・榛原にある
    • [81]1974年9月期だけで過去5年間の総投資額を上回る設備投資を行った
    • [82]1974年9月期の売上高119億2,500万円、税引利益9億2,800万円、従業員数846人
    • [84]1974年9月期の売上構成は機械41%、計装器18%、医療機器41%。創立当初の主業務は火力発電用ボイラーの水質調整装置の製造だった
    • [93]総資本利益率6.5%(東証1部上場製造業平均2.1%)、売上高利益率7.7%(同2%)、自己資本比率47%
    • [94]財務管理の責任者は安藤道雄副社長で、社長といえども独断で経理面にタッチできない仕組みだった
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻2号(安藤道雄・講演要旨)
    • [80]静岡に大きな工場をつくると同時に独立した研究所もつくった
    • [85]静岡工場で毎月、病院の医師や助手を招き1週間ないし10日のかん詰め教育を行った
    • [86]教育後に試験を実施し、合格者に「テクニシャン」の修了証書を交付した
    • [87]テクニシャンのいる施設には機械を出し、いない施設には出さない方針をとった
    • [88]操作を誤って人身事故が起きれば機械が悪かったといわれ大きなダメージを受けるため、テクニシャンの有無で出荷を分けた
    • [90]テクニシャンは医師の資格を要さず助手でもよいが、医師でない場合は医師が診断して立ち会い、機械の操作そのものをテクニシャンが行う
    • [91]「NOT BIG, BUT STRONG」が日機装のモットーで、大きくなくても力のある会社をめざした
    • [92]新入社員の面接では3割ほどがこの標語が気に入って受験したと答えた
    • [96]西独フランクフルト郊外に日機装ドイッチェランドGmbHを設立し工場・宿舎を完成させ、1975年1月にブラジル・サンパウロ郊外の約10万坪を購入した
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11巻1号(音桂二郎・講演要旨)
    • [83]1972年11月の講演で音桂二郎社長が3年後の1975年に売上高を100億円以上にする計画を示した
    • [89]外国では国家試験の有資格者であるテクニシャンが病院に常駐しているが日本ではそこまで至っておらず、普及を妨げていたのは受入側だった
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(3)系列会社「日本工業洗浄株式会社」
    • [95]1969年7月1日に日本揮発油との折半出資で日本工業洗浄を設立、払込資本金1,500万円を各750万円ずつ拠出し、日機装は火力プラントの洗浄を新会社に発注して施工させた

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沿革年表 1953〜2025年

日機装の沿革1953〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1953〜1965年ミルトン・ロイ社の代理権ひとつで始めた資本金100万円の創業音桂二郎ミルトン・ロイポンプの輸入販売を主業として特殊ポンプ工業を創立★★★
音桂二郎米国ミルトン・ロイ社の総代理店として販売開始★★
音桂二郎米国ミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化に移行★★
音桂二郎東京都渋谷区豊沢町に本社および工場完成
音桂二郎商号を日本機械計装に変更★★
音桂二郎日本初の人工心臓を東京大学木本外科に提供★★
音桂二郎東村山工場完成
音桂二郎東京証券取引所市場第二部に上場
1966〜1980年ミルトン・ロイとの提携を切り、人工腎臓を売上の4割へ音桂二郎ミルフロー制御容量ポンプを自社開発★★
音桂二郎人工腎臓装置の販売開始★★★
音桂二郎東京都渋谷区恵比寿に本社屋完成、本店移転
音桂二郎商号を日機装に変更★★
音桂二郎国産初の人工腎臓装置完成★★
音桂二郎ノンシールポンプを自社開発★★
音桂二郎東京および大阪証券取引所市場第一部に上場
音桂二郎静岡工場および研究所完成
音桂二郎人工腎臓装置用ダイアライザーの製造販売開始★★
1981〜2004年3本柱の頭打ちと、波多野正彦氏を招いて始めた炭素繊維加工音桂二郎静岡工場の炭素繊維複合材料開発プラントでCFRP製品の製造販売開始★★★
音桂二郎人工膵臓の製造承認を取得★★
鈴木勲米国ボーイング社に炭素繊維複合材料技術を供与★★
鈴木勲液化ガス用サブマージドモータポンプの独占製造販売権を取得★★
鈴木勲静岡製作所に複合材製品工場完成
音孝金沢製作所完成
音孝東村山製作所内にR&Dセンター総合館完成
音孝カンパニー制および執行役員制度を導入★★
音孝大阪証券取引所市場第一部上場を廃止
2005〜2025年LNGに490億円、LEWAとCRRTを手放して残した2部門甲斐敏彦創光科学を設立し深紫外線LED事業に参入★★
甲斐敏彦独LEWA Management GmbHの全出資持分を取得★★
甲斐敏彦フレゼニウスメディカルケアジャパンの透析関連製品販売事業を譲受★★
甲斐敏彦蘭Geveke B.V.の全株式を取得★★
甲斐敏彦米国バクスターの急性血液浄化療法(CRRT)事業を取得★★
甲斐敏彦金沢製作所に航空宇宙工場およびメディカル工場完成
甲斐敏彦石川県に白山工場完成
甲斐敏彦瑞Atlas Copco社グループのクライオジェニックポンプ事業を譲受★★
甲斐敏彦米Cryogenic Industriesグループの全株式を取得★★★
甲斐敏彦宮崎日機装に航空宇宙工場完成
甲斐敏彦独LEWA GmbHグループおよび蘭Geveke B.V.グループの全株式を譲渡★★★
甲斐敏彦日機装(上海)実業有限公司およびNikkiso Europe GmbHの全株式を譲渡★★
出典・参考 22件
出典・参考
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(1)創業の決断
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)「特殊ポンプ工業株式会社」発足
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(4)最初の苦境
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(5)罐水処理装置総代理店の確立
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)営業所・出張所の開設
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(6)日本最初の人工心臓
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(7)社名「日本機械計装株式会社」へ
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)大型工場・実験室の建設
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(2)そして停滞
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)西独ショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店へ
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(1)米国コノフロー社との技術提携
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「体質改善」(1)標準化へ
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「体質改善」(4)社名変更「日機装株式会社」へ
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(3)系列会社「日本工業洗浄株式会社」
  • 証券アナリストジャーナル 1973年11巻1号(音桂二郎・講演要旨)
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻2号(安藤道雄・講演要旨)
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
  • 日経ビジネス 1995年9月11日号

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