第1章 年〜年

日機装:ミルトン・ロイ社の代理権で始めた資本金100万円の創業

1953年〜水処理を封じられた音桂二郎氏と父の2人だけの発足

音桂二郎氏は1919年1月1日、音申吉氏の次男として東京に生まれ、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業したのち海軍造機技術士官に任命された。横須賀・舞鶴・呉の海軍工廠を回った2年ほどの海軍生活で、海中で簡易水処理装置を使う米兵を見たことをきっかけに、イオン交換樹脂による水処理装置の開発へ独自に取り組んだ。1946年春から奈良県大宇陀で自動車修理業を営んだのち、1948年1月、財閥解体で三菱商事から分かれた金商へ移り、新設の機械課に入った。同社では三菱化成工業のイオン交換樹脂を軸とする水処理業務を担当し、1950年には"河川汚濁処理法案"を通商産業省へ建言した。総合水処理事業を主体業務とする新会社の設立運動を主導し、1952年10月に三菱化成工業と金商の共同出資で日本錬水が発足すると、営業課長に就任した。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(1)創業の決断
    • [1]音桂二郎氏は1919年1月1日に音申吉氏の次男として東京に生まれ、東京帝国大学工学部機械工学科を出て海軍造機技術士官に任命された。
    • [2]横須賀・舞鶴・呉の海軍工廠を歴任した海軍時代に、海中で簡易水処理装置を使う米兵を見たことをきっかけとして、イオン交換樹脂による水処理装置の開発を独自の研究をもとに進めた。
    • [3]1946年春から奈良県大宇陀で自動車修理業を開業し、1948年1月に金商へ入社した。金商は1947年の財閥解体で三菱商事が分散した会社の1つで、機械課の新設と同時の入社だった。
    • [4]金商では三菱化成工業のイオン交換樹脂を中心とする水処理業務に従事し、1950年に「河川汚濁処理法案」を通産省へ建言した。
    • [5]音桂二郎氏が中心となって総合水処理事業を主体業務とする新会社設立運動を進め、1952年10月に三菱化成工業と金商の共同出資で日本錬水が設立され、同氏は営業課長に就任した。

しかし日本錬水は、発足の時点で音桂二郎氏の目的意識とずれていた。音桂二郎氏が総合水処理メーカーを目指したのに対し、親会社の三菱化成工業はイオン交換樹脂"ダイヤイオン"の販売に重点を置き、水処理業務には消極的だった。米国の水処理メーカーであるインフィルコ社との技術提携交渉は、ローヤリティやイニシャルペイメントで歩み寄りながら、最後の三菱化成工業首脳との会談が"ダイヤイオン"の販売拡大に終始し、水処理をほとんど論じないまま不成立に終わった。設備の自動化を見据えた制御関係技術者の新規採用も、親会社から出向させて新規採用は行わないという人事原則に阻まれ、内定まで進みながら実現しなかった。1953年10月に日本錬水を退社した音桂二郎氏は、同社の社長に対し、当分の間は水処理(第1次水処理)業務を行わないこと、日本錬水の人材を引き抜かないことの2項を約束した。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(1)創業の決断
    • [6]日本錬水は設立時点ですでに音桂二郎氏と会社側との間に目的意識の大きな相違が生じていた。
    • [7]音桂二郎氏が総合水処理メーカーを目指したのに対し、会社側はイオン交換樹脂「ダイヤイオン」の販売に重点を置き、水処理業務には消極的だった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
    • [8]インフィルコ社との技術提携交渉はローヤリティ・イニシャルペイメント等で歩み寄ったが、三菱化成工業トップとの会談が「ダイヤイオン」の販売拡大に終始し、水処理をほとんど意見交換せずに終わり、提携は成立しなかった。
    • [9]制御関係技術者の新規採用は日本錬水の白鳥社長の一応の了解を得て内定者まで決めたが、親会社の三菱化成工業から出向させ新規採用は行わないという人事基本政策があり進まなかった。
    • [10]音桂二郎氏は1953年10月に日本錬水を退社し、同年秋に同社社長と新会社設立について話し合い、当分の間は水処理(第1次水処理)業務を行わないこと、人を引き抜かないことの2項を表明した。

ライフワークに選んだ水処理を封じられた以上、残る足場は、金商時代に代理権を取得し日本錬水でも1人で扱っていた米ミルトン・ロイ社の定量注入ポンプだけだった。罐水処理(第2次水処理)業務とポンプの委譲は日本錬水から了解を得たものの、肝心のミルトン・ロイ社の承諾はなく、日本機械貿易も同社へ根強く接触していた。音桂二郎氏は実情を詳細に書き送って代理権の委譲を求め、シーン社長から承諾と激励の手紙を受け取った。シーン社長も父と2人で特殊ポンプを始め水処理から出た経歴を持ち、動機も様式も酷似していた。1953年12月26日、資本金100万円で特殊ポンプ工業が発足。本店は東京都墨田区江東橋4丁目18番地、代表取締役は34歳の音桂二郎社長、監査役は63歳の父音申吉氏で、常勤はこの親子2人だけだった。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)「特殊ポンプ工業株式会社」発足
    • [11]音桂二郎氏は水処理業務を断念し、金商時代にミルトン・ロイ社と交渉して代理権を取得し、日本錬水時代も同社との取引を1人で取り行っていた。
    • [12]罐水処理業務とミルトン・ロイ・ポンプの委譲は日本錬水から了解を得たが、ミルトン・ロイ社の了解は未取得で、日本機械貿易も同社に根強くコンタクトしていた。
    • [13]音桂二郎氏はミルトン・ロイ社へ実情を詳細に書き送って代理権の委譲を要請し、シーン社長から承諾と激励の文意の手紙を受け取った。
    • [15]特殊ポンプ工業の正式設立は1953年12月26日、資本金100万円だった。
    • [16]本店所在地は東京都墨田区江東橋4丁目18番地、代表取締役は当時34歳の音桂二郎氏、監査役は63歳の父音申吉氏で、常勤は親子2人だった。
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [14]ミルトン・ロイ社のシーン社長と音桂二郎氏の会社設立は時期こそ違え動機・様式ともに酷似しており、シーン社長は父と2人で特殊ポンプを始め水処理から出ていた。
参考文献[1]-[16]
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(1)創業の決断
    • [1]音桂二郎氏は1919年1月1日に音申吉氏の次男として東京に生まれ、東京帝国大学工学部機械工学科を出て海軍造機技術士官に任命された。
    • [2]横須賀・舞鶴・呉の海軍工廠を歴任した海軍時代に、海中で簡易水処理装置を使う米兵を見たことをきっかけとして、イオン交換樹脂による水処理装置の開発を独自の研究をもとに進めた。
    • [3]1946年春から奈良県大宇陀で自動車修理業を開業し、1948年1月に金商へ入社した。金商は1947年の財閥解体で三菱商事が分散した会社の1つで、機械課の新設と同時の入社だった。
    • [4]金商では三菱化成工業のイオン交換樹脂を中心とする水処理業務に従事し、1950年に「河川汚濁処理法案」を通産省へ建言した。
    • [5]音桂二郎氏が中心となって総合水処理事業を主体業務とする新会社設立運動を進め、1952年10月に三菱化成工業と金商の共同出資で日本錬水が設立され、同氏は営業課長に就任した。
    • [6]日本錬水は設立時点ですでに音桂二郎氏と会社側との間に目的意識の大きな相違が生じていた。
    • [7]音桂二郎氏が総合水処理メーカーを目指したのに対し、会社側はイオン交換樹脂「ダイヤイオン」の販売に重点を置き、水処理業務には消極的だった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
    • [8]インフィルコ社との技術提携交渉はローヤリティ・イニシャルペイメント等で歩み寄ったが、三菱化成工業トップとの会談が「ダイヤイオン」の販売拡大に終始し、水処理をほとんど意見交換せずに終わり、提携は成立しなかった。
    • [9]制御関係技術者の新規採用は日本錬水の白鳥社長の一応の了解を得て内定者まで決めたが、親会社の三菱化成工業から出向させ新規採用は行わないという人事基本政策があり進まなかった。
    • [10]音桂二郎氏は1953年10月に日本錬水を退社し、同年秋に同社社長と新会社設立について話し合い、当分の間は水処理(第1次水処理)業務を行わないこと、人を引き抜かないことの2項を表明した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)「特殊ポンプ工業株式会社」発足
    • [11]音桂二郎氏は水処理業務を断念し、金商時代にミルトン・ロイ社と交渉して代理権を取得し、日本錬水時代も同社との取引を1人で取り行っていた。
    • [12]罐水処理業務とミルトン・ロイ・ポンプの委譲は日本錬水から了解を得たが、ミルトン・ロイ社の了解は未取得で、日本機械貿易も同社に根強くコンタクトしていた。
    • [13]音桂二郎氏はミルトン・ロイ社へ実情を詳細に書き送って代理権の委譲を要請し、シーン社長から承諾と激励の文意の手紙を受け取った。
    • [15]特殊ポンプ工業の正式設立は1953年12月26日、資本金100万円だった。
    • [16]本店所在地は東京都墨田区江東橋4丁目18番地、代表取締役は当時34歳の音桂二郎氏、監査役は63歳の父音申吉氏で、常勤は親子2人だった。
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [14]ミルトン・ロイ社のシーン社長と音桂二郎氏の会社設立は時期こそ違え動機・様式ともに酷似しており、シーン社長は父と2人で特殊ポンプを始め水処理から出ていた。

1954年〜火力発電所向け水質調整装置の独占と東証二部への上場

当時、機械を輸入するには最終需要家から外貨割当証明書を譲り受け、割当の日から2カ月以内に為替銀行へ輸入許可申請書を出す必要があり、遅れれば割当は効力を失った。そうしたなか、発足まもない1954年3月に、朝鮮動乱のあと初となる強い金融の引き締めが打ち出された。それまで輸入為替を扱っていた某銀行東京支店は、特殊ポンプ工業の輸入信用状は今後いっさい開かないと通告し、引き受け済みの分も断ってきた。開設の期限までは5日しか残っていなかった。ミルトン・ロイ社にはもう注文書を出しており、期限を越えれば電力会社への納入が遅れ、代理権を任された同社からの信用も失うことになる。音桂二郎社長は銀行を回り、期限3日前に東京銀行神田支店の引き受けを取り付け、契約条件である担保金30%を積んで期限最終日に信用状を開設した。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(4)最初の苦境
    • [17]1954年3月、朝鮮動乱以後初めての強い金融引締政策を契機に、取引していた某銀行東京支店が特殊ポンプ工業の輸入信用状開設を今後いっさい引き受けないと通告し、既に引き受けていた開設も断ってきた。
    • [18]機械類の輸入は最終需要家に外貨が割り当てられ、輸入業者は外貨割当証明書を譲り受けて割当の日から2カ月以内に為替銀行へ輸入許可申請書を提出しないと外貨割当が無効になった。信用状開設のできる最終期限まで残り5日だった。
    • [19]ミルトン・ロイ社へは既に注文書を切っており、期限経過で輸入が不可能になれば電力会社に迷惑をかけ、代理権を与えた同社への信用も失うところだった。
    • [20]音桂二郎社長は銀行回りの末、期限まで残り3日で東京銀行神田支店の引き受けを得て、契約条件の担保金30%を期限最終日に積み立てて信用状を開設した。

音桂二郎社長が立てた仮説は、臨海火力発電所の増設が定量注入ポンプなど制御機器の需要を高めるというものだった。ボイラ内の水はスケールの付着と溶存酸素による腐食を抑える必要があり、水質を刻々と測る計器と薬液を適量注入するポンプが対で使われた。1954年春から交渉した米ケンブリッジ社の溶存酸素計についても同年7月に総代理店契約の承諾を得て、罐水処理装置の主要部を占める2製品の日本総代理店がそろった。この2契約により、火力発電所の罐水処理装置の計画と主要機器の納入販売をほぼ独占する立場を得た。1955年4月にはミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化へ移り、1956年5月に東京都渋谷区豊沢町の本社・工場を完成、1958年3月に大阪営業所を開設した。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
    • [21]音桂二郎氏は電力部門の拡充、特に臨海火力発電所の増設と近代設備化がミルトン・ロイ・ポンプのような定量注入ポンプその他制御機器の需要を高めると予見していた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(5)罐水処理装置総代理店の確立
    • [22]ボイラ内の水はスケール付着で熱効率が落ち、溶存酸素は内壁を侵すため、内部状況を刻々とらえて必要な薬液を適量注入する必要があり、ミルトン・ロイ・ポンプとケンブリッジ社のpH計・溶存酸素計が重要な役割を果たした。
    • [23]米ケンブリッジ社の溶存酸素計の総代理店契約交渉は1954年春に始まり、同年7月に契約承諾の回答が寄せられ、罐水処理装置の主要部を占める2製品の日本総代理店が実現した。
    • [24]ミルトン・ロイ社とケンブリッジ社の日本総代理店契約の成立により、火力発電所の罐水処理装置の計画と主要部機器の納入販売を独占化した。
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1955年4月、米国ミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化に移行した。
    • [26]1956年5月、東京都渋谷区豊沢町に本社および工場が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)営業所・出張所の開設
    • [27]1958年3月に大阪営業所を開設し、地下鉄本町駅近くのビルの1室を借りて総員3名で始めた。

1959年2月、東京大学木本外科の渥美和彦氏から人工心臓の試作を依頼された特殊ポンプ工業は、企業目的から外れるとして一度辞退したが、要請が続いたため試作品1台までという条件で引き受け、1960年7月に日本初の人工心臓を東京大学へ納めた。1959年7月には東村山で工費約7,500万円の第1期建設工事に着工し、同年12月に機械工場や組立工場などの主要建築物が完成。売上の半分以上を計装部の水質調整装置や自動燃焼装置が占め、社名が業務内容に合わなくなったため、1959年10月1日を期して商号を日本機械計装へ変更した。略称の日機装に含まれる"計装"は、音桂二郎社長がinstrumentationの訳語として作った語である。1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場すると株価は1,400円の最高値をつけ、第二のソニーと呼ばれた。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(6)日本最初の人工心臓
    • [28]1959年2月に東京大学木本外科の渥美和彦氏から人工心臓の試作を依頼され、企業目的から逸脱するとして一度辞退したが、要請が続いたため試作品1台を完成させるまで協力することとし、1960年7月に第1号を東大木本外科へ納入した。
    • [29]東村山で工費約7,500万円を投じて第1期建設に着工したのは1959年7月で、同年12月に機械工場・組立工場などの主要建築物(第1工場)が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(7)社名「日本機械計装株式会社」へ
    • [30]売上の半分以上を占める計装部の水質調整装置や自動燃焼装置に社名がそぐわなくなり、1959年10月1日を期して「特殊ポンプ工業株式会社」から「日本機械計装株式会社」への社名変更を決定した。
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [31]社名の日機装は日本機械計装をつめたもので、「計装」は音桂二郎氏がインスツルメンテーションを翻訳して作った造語である。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [32]1961年に東証第二部へ株式を上場したとたん人気を呼び、株価1,400円と最高記録をつくり、第二のソニーという声も出た。
参考文献[17]-[32]
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(4)最初の苦境
    • [17]1954年3月、朝鮮動乱以後初めての強い金融引締政策を契機に、取引していた某銀行東京支店が特殊ポンプ工業の輸入信用状開設を今後いっさい引き受けないと通告し、既に引き受けていた開設も断ってきた。
    • [18]機械類の輸入は最終需要家に外貨が割り当てられ、輸入業者は外貨割当証明書を譲り受けて割当の日から2カ月以内に為替銀行へ輸入許可申請書を提出しないと外貨割当が無効になった。信用状開設のできる最終期限まで残り5日だった。
    • [19]ミルトン・ロイ社へは既に注文書を切っており、期限経過で輸入が不可能になれば電力会社に迷惑をかけ、代理権を与えた同社への信用も失うところだった。
    • [20]音桂二郎社長は銀行回りの末、期限まで残り3日で東京銀行神田支店の引き受けを得て、契約条件の担保金30%を期限最終日に積み立てて信用状を開設した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
    • [21]音桂二郎氏は電力部門の拡充、特に臨海火力発電所の増設と近代設備化がミルトン・ロイ・ポンプのような定量注入ポンプその他制御機器の需要を高めると予見していた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(5)罐水処理装置総代理店の確立
    • [22]ボイラ内の水はスケール付着で熱効率が落ち、溶存酸素は内壁を侵すため、内部状況を刻々とらえて必要な薬液を適量注入する必要があり、ミルトン・ロイ・ポンプとケンブリッジ社のpH計・溶存酸素計が重要な役割を果たした。
    • [23]米ケンブリッジ社の溶存酸素計の総代理店契約交渉は1954年春に始まり、同年7月に契約承諾の回答が寄せられ、罐水処理装置の主要部を占める2製品の日本総代理店が実現した。
    • [24]ミルトン・ロイ社とケンブリッジ社の日本総代理店契約の成立により、火力発電所の罐水処理装置の計画と主要部機器の納入販売を独占化した。
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1955年4月、米国ミルトン・ロイポンプの技術導入による国産化に移行した。
    • [26]1956年5月、東京都渋谷区豊沢町に本社および工場が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)営業所・出張所の開設
    • [27]1958年3月に大阪営業所を開設し、地下鉄本町駅近くのビルの1室を借りて総員3名で始めた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(6)日本最初の人工心臓
    • [28]1959年2月に東京大学木本外科の渥美和彦氏から人工心臓の試作を依頼され、企業目的から逸脱するとして一度辞退したが、要請が続いたため試作品1台を完成させるまで協力することとし、1960年7月に第1号を東大木本外科へ納入した。
    • [29]東村山で工費約7,500万円を投じて第1期建設に着工したのは1959年7月で、同年12月に機械工場・組立工場などの主要建築物(第1工場)が完成した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(7)社名「日本機械計装株式会社」へ
    • [30]売上の半分以上を占める計装部の水質調整装置や自動燃焼装置に社名がそぐわなくなり、1959年10月1日を期して「特殊ポンプ工業株式会社」から「日本機械計装株式会社」への社名変更を決定した。
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号
    • [31]社名の日機装は日本機械計装をつめたもので、「計装」は音桂二郎氏がインスツルメンテーションを翻訳して作った造語である。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [32]1961年に東証第二部へ株式を上場したとたん人気を呼び、株価1,400円と最高記録をつくり、第二のソニーという声も出た。

1962年〜外国技術への依存が招いた9,100万円の欠損と無配転落

1962年3月、東村山工場で大型の第2工場が完成し、主力3種類のポンプを全量自社で製造できる体制が整った。一方で売り先の幅は狭く、売上は石油化学業界と電力会社の設備投資次第で上下した。主力の化学用ポンプを買うのは事実上石油化学系の化学メーカーだけで、それに続く計装機器についても、需要は火力発電所に限られていたからである。電力業界では、発電所の大型化と技術者不足から、プラントメーカーへ一括して発注する方式が広がった。その結果起きた値引き競争で安い国産機器が採用されやすくなり、輸入代理店として握っていた独占的地位は失われ、利益率も低下した。主力製品の大半が外国技術の導入によるものだったため、研究開発への意欲は弱まり、技術陣の仕事は提携先が送ってくる図面や資料を写し取るだけの作業に近くなっていった。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)大型工場・実験室の建設
    • [33]1961年5月に第1工場後方の敷地7,596平方メートルを購入して同年8月に着工し、1962年3月に大型工場(第2工場)が完成して、東村山工場は主力3ポンプを完全に製造できる機能を備えた。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [34]主力製品のポンプは石油化学を中心とする化学メーカー向けにほぼ需要が限られ、次ぐ主要製品の計装機器も火力発電所用に限定され、売れ行きは石油化学や電力会社の設備投資しだいだった。
    • [36]主力製品の大部分について外国技術の導入に依存してきた結果、研究開発の意欲が後退し、技術陣は提携先から送付される図面・資料を写す状態に近づいた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(2)そして停滞
    • [35]1960年代後半にかけて火力発電所の規模拡大と電力業界の技術者不足からプラントメーカーへの一括発注方式に移り、値引き合戦が廉価な国産機器採用の傾向を強め、輸入代理店として保っていた電力業界への独占性は崩れ、利益率も低下した。

計装部門の停滞に対し、日本機械計装はボイラ自動燃焼制御へ本格的に進出した。1961年7月、西独最大の計器メーカーであるハルトマン・ブラウン社の姉妹会社で制御装置を専門とするショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店となったが、これは大きな誤算に終わった。1963年5月には米コノフロー社と、コントロール・バルブおよび操作調整器の製造に関する技術援助契約を締結した。ポンプ以外では最初の技術提携にあたるが、交渉開始から締結まで4年以上を費やし、その遅れがこの分野で十分な市場を取れなかった最大の要因になった。1959年3月に音桂二郎社長らが渡米して候補をコノフロー社に絞り、1960年末には技術提携料の率まで合意していたが、同社の内部事情で通商産業省へ出した案を取り下げ、1年以上保留された。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(2)そして停滞
    • [37]計装部門の斜陽化は事前に予想されており、ポンプ製造の自立化に力を入れる一方、計装部自体もボイラ自動燃焼制御の分野へ本格的に進出を始めた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)西独ショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店へ
    • [38]1961年7月、西独最大の計器メーカーであるハルトマン・ブラウン社の姉妹会社で制御装置を専門とするショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店となったが、結果的には大きな誤算になった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(1)米国コノフロー社との技術提携
    • [39]1963年5月、米コノフロー社との間にコントロール・バルブおよび操作調整器の製造に関する技術援助契約を締結した。
    • [40]コノフロー社との技術提携はポンプ以外では最初の技術提携で、交渉開始から締結まで4年以上を費やし、それが同分野で十分な市場獲得を困難にし失敗に終わらせる最大の要因になった。
    • [41]1959年3月に音桂二郎社長と堀田武司氏が渡米して候補をコノフロー社1本に絞り、1960年末に技術提携料の率まで両者が合意したが、同社内部の複雑な問題により通産省へ提出中のドラフトを取り下げ、1年以上保留された。

1965年の春闘で、日本機械計装は労使関係の安定を優先して組合要求の実現に努め、数度の団体交渉を経て5月20日に1人平均2,700円の昇給で妥結した。しかし6月28日、組合は1人平均2.9カ月(72,224円)の夏期一時金を要求し、相互の信頼は途切れた。1966年3月の決算は9,100万円の欠損となり、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた。創業以来積み上げてきた1億円の利益剰余金を一度に吐き出し、年2割の高率配当から無配へ転じた。日本機械計装は1966年の年賀交換会で、製品と作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係の改善を体質改善の対策に据えた——外見上は健康体質でも内部に多くの問題が蓄積し、不況という外からの圧力でそれが表へ出た、というのが音桂二郎社長の診立てである。

  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
    • [42]1965年の春闘で労使関係の安定を優先し、数度の団体交渉の後、5月20日に1人平均2,700円の昇給で妥結した。
    • [43]1965年6月28日、組合は1人平均2.9カ月(72,224円)の夏期一時金要求を提出し、パートナーとしての相互信頼が途絶えた。
    • [44]1966年3月の決算公表数字は9,100万円の大幅赤字欠損で、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた。
    • [46]1966年の年賀交換会で音桂二郎社長は、外見上は健康体質でも内部に多くの問題が蓄積し不況の圧力で顕現したと述べ、体質改善の対策として製品および作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係改善を提起した。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [45]9,100万円の欠損計上により、創業以来蓄積してきた1億円の内部留保を一度に吐き出し、それまでの年2割という高率配当から無配へ転落した。
参考文献[33]-[46]
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)大型工場・実験室の建設
    • [33]1961年5月に第1工場後方の敷地7,596平方メートルを購入して同年8月に着工し、1962年3月に大型工場(第2工場)が完成して、東村山工場は主力3ポンプを完全に製造できる機能を備えた。
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [34]主力製品のポンプは石油化学を中心とする化学メーカー向けにほぼ需要が限られ、次ぐ主要製品の計装機器も火力発電所用に限定され、売れ行きは石油化学や電力会社の設備投資しだいだった。
    • [36]主力製品の大部分について外国技術の導入に依存してきた結果、研究開発の意欲が後退し、技術陣は提携先から送付される図面・資料を写す状態に近づいた。
    • [45]9,100万円の欠損計上により、創業以来蓄積してきた1億円の内部留保を一度に吐き出し、それまでの年2割という高率配当から無配へ転落した。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(2)そして停滞
    • [35]1960年代後半にかけて火力発電所の規模拡大と電力業界の技術者不足からプラントメーカーへの一括発注方式に移り、値引き合戦が廉価な国産機器採用の傾向を強め、輸入代理店として保っていた電力業界への独占性は崩れ、利益率も低下した。
    • [37]計装部門の斜陽化は事前に予想されており、ポンプ製造の自立化に力を入れる一方、計装部自体もボイラ自動燃焼制御の分野へ本格的に進出を始めた。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)西独ショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店へ
    • [38]1961年7月、西独最大の計器メーカーであるハルトマン・ブラウン社の姉妹会社で制御装置を専門とするショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店となったが、結果的には大きな誤算になった。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(1)米国コノフロー社との技術提携
    • [39]1963年5月、米コノフロー社との間にコントロール・バルブおよび操作調整器の製造に関する技術援助契約を締結した。
    • [40]コノフロー社との技術提携はポンプ以外では最初の技術提携で、交渉開始から締結まで4年以上を費やし、それが同分野で十分な市場獲得を困難にし失敗に終わらせる最大の要因になった。
    • [41]1959年3月に音桂二郎社長と堀田武司氏が渡米して候補をコノフロー社1本に絞り、1960年末に技術提携料の率まで両者が合意したが、同社内部の複雑な問題により通産省へ提出中のドラフトを取り下げ、1年以上保留された。
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
    • [42]1965年の春闘で労使関係の安定を優先し、数度の団体交渉の後、5月20日に1人平均2,700円の昇給で妥結した。
    • [43]1965年6月28日、組合は1人平均2.9カ月(72,224円)の夏期一時金要求を提出し、パートナーとしての相互信頼が途絶えた。
    • [44]1966年3月の決算公表数字は9,100万円の大幅赤字欠損で、その内訳には工場在庫品の処分による損失3,400万円が含まれていた。
    • [46]1966年の年賀交換会で音桂二郎社長は、外見上は健康体質でも内部に多くの問題が蓄積し不況の圧力で顕現したと述べ、体質改善の対策として製品および作業の標準化・合理化、新製品・新技術の開発、新市場の開拓、人間関係改善を提起した。

1953年〜1965年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1959年11月期 単体 4 n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 2 ▲50.0% n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 9 +350.0% n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 11 +22.2% n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 17 +54.5% n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 16 ▲5.9% n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 19 +18.8% n/a n/a n/a

出所:会社年鑑(1963年版)、会社年鑑(1963年版)変則4ヶ月決算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算

出典・参考

16件
出典・参考
  • 日機装 有価証券報告書【沿革】
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(1)創業の決断
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(2)会社設立の構想
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)「特殊ポンプ工業株式会社」発足
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(4)最初の苦境
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(5)罐水処理装置総代理店の確立
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(3)営業所・出張所の開設
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(6)日本最初の人工心臓
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第1章「創業のころ」(7)社名「日本機械計装株式会社」へ
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)大型工場・実験室の建設
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(2)そして停滞
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(3)西独ショッペ・アンド・フェザー社の日本総代理店へ
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第2章「業績の伸展」(1)米国コノフロー社との技術提携
  • 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
  • 日経ビジネス 1979年12月3日号

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