日機装:ミルフロー自社開発と人工腎臓装置による医療機器への多角化
ミルトン・ロイの提携打ち切りから人工腎臓の国産化へ
1966年〜提携打ち切りから始めた定量注入ポンプの自力開発
1965年5月、米国ミルトン・ロイ社とのミルトン・ロイ・ポンプ製作に関する技術提携が期間満了を迎え、日本機械計装は再契約せず、同日に両社対等の相互代理店契約へ切り替えた。ケミポンプの提携も続けて打ち切った。再提携は安全な道だった。ミルトン・ロイ社は5年をかけて陳腐化した同ポンプの全面モデルチェンジを終え、日本特許も成立させていたから、図面を受け取れば短期のうちに実現できる。自力開発はその逆で、同社が押さえた各種特許に触れない別の機構を考案せねばならず、耐久試験だけで1年以上を要し、手間取るあいだにミルトン・ロイ社が国内の他社と提携して市場を席巻する恐れもあった。10年の契約期間のうちにミルトン・ロイ・ポンプは定量注入ポンプの一般名称となっており、工場製品の7割を占めるこの品目の開発に失敗すれば、会社の存続は危うかった。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)技術提携の弊害
- [1]1965年5月、米国ミルトン・ロイ社との間のミルトン・ロイ・ポンプ製作に関する技術提携の期間が終了し、同日、両社対等の立場で相互代理店契約を締結した。
- [2]ミルトン・ロイ・ポンプに引き続きケミポンプも提携期間が終了し、技術提携を打ち切った。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(3)自力開発方針の決定
- [3]ミルトン・ロイ社はすでに陳腐化した同ポンプを5年の年月をかけて全面モデルチェンジし日本特許も成立させていたため、再提携は最も安易で短期間のうちに実現可能であり、失敗の危険もほとんどない方法だった。
- [4]自力開発にはミルトン・ロイ社が確立した各種特許に抵触しないまったく別の機構の考案が必要で、耐久テスト等に1年以上を要し、開発に手間どるあいだに同社が日本の他メーカーと技術提携して定量注入ポンプの日本市場を席巻する恐れがあった。
- [5]10年間の契約期間のうちにミルトン・ロイ・ポンプは定量注入ポンプの一般名称となっており、工場製品の7割を占める定量注入ポンプの開発に失敗すれば当社の滅亡は必至とされた。
試作は進まなかった。1965年6月、社運をかけた新定量注入ポンプの試作1号機は形になったものの満足に作動せず、採用した機構の可否を検討し直す段階まで引き戻された。受注は戻らず、同年8月から人員削減に入る。中途採用と新卒採用を止め、退職者を補充せず、希望退職15名を募り、商品部を系列の日機装電工へ移して33名を出したが、予定の100名には届かない。各部の考課で挙がった21名のうち8名は部長の説得で退職し、残る13名には11月20日付で指名解雇を発令した。うち5名は解雇を不当として東京地方裁判所へ訴え、争いは長期化する。減員は合計84名で、取締役5名が辞任し、社長1名を残して役付取締役は全員が取締役へ降格した。人件費の圧迫は多少和らいだが、1966年3月期の売上高は前期の19億円から14億円へ落ち、赤字決算は避けられなかった。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(5)試練
- [6]1965年6月、社運がかけられた新定量注入ポンプの試作1号機は一応できあがったものの満足に作動せず、考案採用した機構そのものの可否検討にまで立ち返らざるを得ない状態となった。
- [7]急激な受注減を回復させることができず、1965年8月より人員削減の実行に移った。
- [8]中間採用・新入社員採用の中止と自然退職者の不補充に加え、希望退職15名を募り、商品部を全部系列会社の日機装電工へ移して33名を出したが、予定の100名には達しなかった。
- [9]各部の考課で出された21名のうち8名は各部長の説得で退職が決まり、残る13名に1965年11月20日付で指名解雇を発令した。
- [10]指名解雇を受けた5名は会社側の解雇を不当として東京地裁に訴えを起こし、長期の裁判に持ち込まれた。
- [11]1965年11月20日に人員整理を終え、合計84名の減員となった。取締役5名の辞任をはじめ、役付取締役に社長1名を残して全員を取締役へ降格した。
- 会社年鑑(1967年版)
- [12]日本機械計装の売上高は1965年3月期の19億円から1966年3月期は14億円へ減り、同期は営業損益3,500万円の赤字、当期純損益9,100万円の赤字となった。
立て直しの軸に据えたのは製品と作業の標準化である。需要家の要求が複雑なため、日本機械計装の製品は一品料理として作られていた。設計は毎回ゼロから起こし、工程も部品もその都度違い、注文を見越して買った部品は予想が外れればスクラップとなり100分の1の価格で売却された。1964年当時の東村山工場は従業員約200名のうち現場員が約70名で、残る130名は設計・工務・検査・事務だった。同年3月期に3億5千万円だった工場棚卸在庫は9月に4億2千万円へ膨らみ、半期の売上高が5億円強であることを思えば異常な量だった。標準化の価値は1961年ごろから認められながら、複雑な注文がそれを押し流していた。取締役東村山工場長の酒井尚武氏が在庫と生産管理の混乱を解き、会社は新製品・新技術の開発、新市場の開拓、作業の標準化と製品の規格化、事務の合理化、人間関係の改善を五大目標に掲げた。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
- [13]強い日機装の実現はあらゆる問題の解消を可能にする標準化の推進に求められ、標準化の実施が体質改善の根本施策とされた。
- [14]需要者の要求が複雑多岐であるため、日機装製品は一品料理的に生産されていた。
- [15]設計は1から始めなければならず、工程もまったく異なるものが流れ、部品もその都度準備する必要があり、注文を見込んで購入し機械加工を施した部品は予想がはずれるとスクラップ化して100分の1の価格で売却された。
- [18]標準化は1961年ごろからその価値が強く認められていたが、需要者の複雑な要求が製品を複雑多様にし、なかなか実行に移されていなかった。
- [19]デッドストックと生産管理面の混乱は取締役東村山工場長兼機械部長兼技術部長であった酒井尚武の管理により徐々に解消され、企業体質の抜本的改善として新製品新技術の開発、新市場の開拓、作業の標準化・製品の規格化による能率の向上、事務の合理化・簡素化、人間関係改善への努力の五大目標が掲げられた。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)斜陽化と混乱
- [16]1964年当時の東村山工場の全従業員数は約200名で、機械工場と組立工場の現場員数が合計約70名、残りの130名は設計・工務・検査・事務等の管理部門・間接部門であった。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(2)打開の諸方策
- [17]1964年3月期の工場棚卸在庫は3億5千万円であったが同年9月には4億2千万円に膨張し、この間の半期売上高が5億円強であったことと考え合わせれば異常な水準であった。
参考文献[1]-[19]
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)技術提携の弊害
- [1]1965年5月、米国ミルトン・ロイ社との間のミルトン・ロイ・ポンプ製作に関する技術提携の期間が終了し、同日、両社対等の立場で相互代理店契約を締結した。
- [2]ミルトン・ロイ・ポンプに引き続きケミポンプも提携期間が終了し、技術提携を打ち切った。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(3)自力開発方針の決定
- [3]ミルトン・ロイ社はすでに陳腐化した同ポンプを5年の年月をかけて全面モデルチェンジし日本特許も成立させていたため、再提携は最も安易で短期間のうちに実現可能であり、失敗の危険もほとんどない方法だった。
- [4]自力開発にはミルトン・ロイ社が確立した各種特許に抵触しないまったく別の機構の考案が必要で、耐久テスト等に1年以上を要し、開発に手間どるあいだに同社が日本の他メーカーと技術提携して定量注入ポンプの日本市場を席巻する恐れがあった。
- [5]10年間の契約期間のうちにミルトン・ロイ・ポンプは定量注入ポンプの一般名称となっており、工場製品の7割を占める定量注入ポンプの開発に失敗すれば当社の滅亡は必至とされた。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(5)試練
- [6]1965年6月、社運がかけられた新定量注入ポンプの試作1号機は一応できあがったものの満足に作動せず、考案採用した機構そのものの可否検討にまで立ち返らざるを得ない状態となった。
- [7]急激な受注減を回復させることができず、1965年8月より人員削減の実行に移った。
- [8]中間採用・新入社員採用の中止と自然退職者の不補充に加え、希望退職15名を募り、商品部を全部系列会社の日機装電工へ移して33名を出したが、予定の100名には達しなかった。
- [9]各部の考課で出された21名のうち8名は各部長の説得で退職が決まり、残る13名に1965年11月20日付で指名解雇を発令した。
- [10]指名解雇を受けた5名は会社側の解雇を不当として東京地裁に訴えを起こし、長期の裁判に持ち込まれた。
- [11]1965年11月20日に人員整理を終え、合計84名の減員となった。取締役5名の辞任をはじめ、役付取締役に社長1名を残して全員を取締役へ降格した。
- 会社年鑑(1967年版)
- [12]日本機械計装の売上高は1965年3月期の19億円から1966年3月期は14億円へ減り、同期は営業損益3,500万円の赤字、当期純損益9,100万円の赤字となった。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
- [13]強い日機装の実現はあらゆる問題の解消を可能にする標準化の推進に求められ、標準化の実施が体質改善の根本施策とされた。
- [14]需要者の要求が複雑多岐であるため、日機装製品は一品料理的に生産されていた。
- [15]設計は1から始めなければならず、工程もまったく異なるものが流れ、部品もその都度準備する必要があり、注文を見込んで購入し機械加工を施した部品は予想がはずれるとスクラップ化して100分の1の価格で売却された。
- [18]標準化は1961年ごろからその価値が強く認められていたが、需要者の複雑な要求が製品を複雑多様にし、なかなか実行に移されていなかった。
- [19]デッドストックと生産管理面の混乱は取締役東村山工場長兼機械部長兼技術部長であった酒井尚武の管理により徐々に解消され、企業体質の抜本的改善として新製品新技術の開発、新市場の開拓、作業の標準化・製品の規格化による能率の向上、事務の合理化・簡素化、人間関係改善への努力の五大目標が掲げられた。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)斜陽化と混乱
- [16]1964年当時の東村山工場の全従業員数は約200名で、機械工場と組立工場の現場員数が合計約70名、残りの130名は設計・工務・検査・事務等の管理部門・間接部門であった。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(2)打開の諸方策
- [17]1964年3月期の工場棚卸在庫は3億5千万円であったが同年9月には4億2千万円に膨張し、この間の半期売上高が5億円強であったことと考え合わせれば異常な水準であった。
1967年〜人工腎臓装置の輸入代理から国産メーカーへの転換
1967年8月、日本機械計装は人工腎臓装置の販売を始めた。不況下で新分野の開拓に苦しんでいたころ、米国ミルトン・ロイ社から日本での販売を引き受けないかという申し入れがあった。同社は得意の定量注入ポンプの用途を広げる一策として、ワシントン大学のスクリブナー教授の指導を受けてキドニーマシンの開発に着手していた。ただし日本機械計装の医療機器の実績はほぼ皆無で、代理店とすることの可否はミルトン・ロイ社の内部でも議論があり、当初は総代理店ではなく非独占の形で販売を頼まれた。受ける側も未知の市場を前に、8ヵ月をかけて市場調査と医療関係者への聞き取りに回った。当時の国内ではコルフ型がごく一部の施設に置かれる程度で、構造は簡単で実用性に乏しい。輸入するキール型は保存血液が不要で消耗品も少ない代わりに、価格ははるかに高かった。
- 日機装 有価証券報告書【沿革】
- [20]1967年8月、人工腎臓装置の販売を開始した。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(2)人工腎臓装置の輸入販売開始
- [21]不況時の試練として新分野の開拓に苦慮していたころ、米国ミルトン・ロイ社から人工腎臓装置の日本での販売を引き受けてほしいとの申し入れを受けた。
- [22]ミルトン・ロイ社は得意の定量注入ポンプの用途拡大の一方策としてキドニーマシンの開発に着手し、ワシントン大学のスクリブナー教授の指導によって人工腎臓装置の製品開発をしていた。
- [23]ミルトン・ロイ社は日本機械計装の化学工業分野の力は認めていたものの医療機器に関する実績は零に等しく、代理店とすることの可否に相当の議論があったため、当初は総代理店ではなく非独占の形で販売を依頼された。
- [24]まったく異質の市場であるとして市場調査を行い、医療関係者の意見集めに奔走した。この市場調査は8ヵ月にわたった。
- [25]当時の日本ではごくわずかの医療施設にコルフ型が置かれる程度で、その構造はきわめて簡単で実用性に乏しいものであった。
- [26]ミルトン・ロイ社のキール型は保存血液が不要、消耗品が少ない等の利点がある反面、価格ははるかにコルフ型を上回っていた。
研究課は2年間の納入で得た経験と臨床データを生かして1969年2月に試作品を完成させ、新潟大学附属病院で臨床試験を積み重ねていた。キール型は医学界でその優秀性を認められ、20数台を受注したが、故障のたびに米国へ発注して取り寄せてから直すしかなく、部品の欠品、納期の遅れ、高い価格という三つの問題がサービス部門に一度に降りかかった。人命を預かる装置でこれを続けることはできず、輸入販売は2年を待たずに行き詰まった。1968年10月ごろに技術提携の交渉が本腰を入れて始まり、1969年3月の調印、5月の政府認可へと進んだ。価格の高いモデルAを改めたこの機種は評価が高く、厚生省の認可から1ヵ月足らずで9台の注文が入る。同年8月、国産第1号のBN型が新潟の信楽園病院へ納まり、10月に置かれた医療器部は部員10名で始まった。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)人工腎臓装置の国産化
- [27]研究課は1969年2月に2年間の装置納入の経験と臨床データをもとに試作品を完成させ、新潟大学付属病院で臨床テストを続けた。
- [28]ミルトン・ロイ社のキール型人工腎臓装置の優秀性が医学界に認められ、輸入販売を開始して2年足らずのうちに20数台の注文を受けるなど、予想を上回る伸展をみせた。
- [29]装置が故障して至急部品が必要な場合も外国へ発注・輸入・修理の過程を踏まねばならず、部品がない、期日に間に合わない、価格が高いというジレンマに陥り、サービス部門へのしわよせによる混乱がひどくなっていた。
- [30]1968年10月ごろから米国ミルトン・ロイ社との技術提携交渉を本格的に推進し、1969年3月に両者の合意をみて契約書調印、同年5月に政府より人工腎臓装置製造に関する技術提携の正式認可を得た。
- [31]複雑な機構をもち価格の高いミルトン・ロイ社のモデルAを改良した試作品は臨床成績が予想以上によく斯界で高く評価され、1969年5月の厚生省の認可から1ヵ月足らずの間に9台の注文を受けた。
- [32]1969年8月、国産第1号のキール型人工腎臓装置(BN型)を新潟の信楽園病院に納入した。同年10月1日に医療器部を設置し、部員はわずか10名であった。
国産化は売り方の設計と対になっていた。普及を阻んでいたのは、装置を扱える医師と看護婦の不足、そして病院側の購入資金の不足である。日機装は1971年11月、住友銀行と第一勧業銀行の協力で人工腎臓ローンの取り扱いを始めた。第一勧業銀行の条件は期限最長7年、原則2,000万円まで、金利は年7.8%から8.2%で、買う側に有利なものだった。同時に装置取り扱い技師の養成機関を設け、2ヵ月に1回の講習と実習を課している。1971年に人工腎臓を用いた治療が全額健康保険の対象となると需要は急速に伸び、1973年1月には納入台数が800台を超え、国内シェアは60%以上に達した。治療機器は診断機器と違い、故障しても部品を交換して工場で修理すればよいというわけにいかない。日機装が売っていたのは装置ではなく、止まらない体制のほうだった。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)人工腎臓装置の国産化
- [33]人工腎臓装置の普及には二つの大きな障害があった。一つは人工腎臓装置を扱える医師・看護婦の不足という医療側の体制の問題、もう一つは装置購入資金不足の問題である。
- [34]1971年11月、住友銀行・第一勧業銀行の協力を得て人工腎臓ローンの取り扱いを開始した。
- [35]人工腎臓ローンは第一勧業銀行の場合、期限最長7年、原則として2,000万円まで、金利は年7.8%から8.2%と客にとって有利な条件であった。
- [36]納入台数の増加でサービス員による対応が物理的に不可能になったため、装置取り扱い技師を養成する機関を設置し、2ヵ月に1回、講習と実習を定期的に行った。
- [38]1973年1月現在、人工腎臓装置の納入台数は総計800台を超え、国内における同部門の60%以上のシェアを占めた。
- 日経ビジネス 1975年1月20日号
- [37]1971年に人工腎臓を使った治療が全額健康保険の対象になったのを契機に、人工腎臓装置の需要が急速に伸び出した。
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号
- [39]人工腎臓は治療機器であって診断機器とは性格を異にし、診断機器は故障してもパーツを交換したり工場で修理すればよいが、患者の血管とつながっている人工腎臓ではそうはいかない。
参考文献[20]-[39]
- 日機装 有価証券報告書【沿革】
- [20]1967年8月、人工腎臓装置の販売を開始した。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(2)人工腎臓装置の輸入販売開始
- [21]不況時の試練として新分野の開拓に苦慮していたころ、米国ミルトン・ロイ社から人工腎臓装置の日本での販売を引き受けてほしいとの申し入れを受けた。
- [22]ミルトン・ロイ社は得意の定量注入ポンプの用途拡大の一方策としてキドニーマシンの開発に着手し、ワシントン大学のスクリブナー教授の指導によって人工腎臓装置の製品開発をしていた。
- [23]ミルトン・ロイ社は日本機械計装の化学工業分野の力は認めていたものの医療機器に関する実績は零に等しく、代理店とすることの可否に相当の議論があったため、当初は総代理店ではなく非独占の形で販売を依頼された。
- [24]まったく異質の市場であるとして市場調査を行い、医療関係者の意見集めに奔走した。この市場調査は8ヵ月にわたった。
- [25]当時の日本ではごくわずかの医療施設にコルフ型が置かれる程度で、その構造はきわめて簡単で実用性に乏しいものであった。
- [26]ミルトン・ロイ社のキール型は保存血液が不要、消耗品が少ない等の利点がある反面、価格ははるかにコルフ型を上回っていた。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)人工腎臓装置の国産化
- [27]研究課は1969年2月に2年間の装置納入の経験と臨床データをもとに試作品を完成させ、新潟大学付属病院で臨床テストを続けた。
- [28]ミルトン・ロイ社のキール型人工腎臓装置の優秀性が医学界に認められ、輸入販売を開始して2年足らずのうちに20数台の注文を受けるなど、予想を上回る伸展をみせた。
- [29]装置が故障して至急部品が必要な場合も外国へ発注・輸入・修理の過程を踏まねばならず、部品がない、期日に間に合わない、価格が高いというジレンマに陥り、サービス部門へのしわよせによる混乱がひどくなっていた。
- [30]1968年10月ごろから米国ミルトン・ロイ社との技術提携交渉を本格的に推進し、1969年3月に両者の合意をみて契約書調印、同年5月に政府より人工腎臓装置製造に関する技術提携の正式認可を得た。
- [31]複雑な機構をもち価格の高いミルトン・ロイ社のモデルAを改良した試作品は臨床成績が予想以上によく斯界で高く評価され、1969年5月の厚生省の認可から1ヵ月足らずの間に9台の注文を受けた。
- [32]1969年8月、国産第1号のキール型人工腎臓装置(BN型)を新潟の信楽園病院に納入した。同年10月1日に医療器部を設置し、部員はわずか10名であった。
- [33]人工腎臓装置の普及には二つの大きな障害があった。一つは人工腎臓装置を扱える医師・看護婦の不足という医療側の体制の問題、もう一つは装置購入資金不足の問題である。
- [34]1971年11月、住友銀行・第一勧業銀行の協力を得て人工腎臓ローンの取り扱いを開始した。
- [35]人工腎臓ローンは第一勧業銀行の場合、期限最長7年、原則として2,000万円まで、金利は年7.8%から8.2%と客にとって有利な条件であった。
- [36]納入台数の増加でサービス員による対応が物理的に不可能になったため、装置取り扱い技師を養成する機関を設置し、2ヵ月に1回、講習と実習を定期的に行った。
- [38]1973年1月現在、人工腎臓装置の納入台数は総計800台を超え、国内における同部門の60%以上のシェアを占めた。
- 日経ビジネス 1975年1月20日号
- [37]1971年に人工腎臓を使った治療が全額健康保険の対象になったのを契機に、人工腎臓装置の需要が急速に伸び出した。
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号
- [39]人工腎臓は治療機器であって診断機器とは性格を異にし、診断機器は故障してもパーツを交換したり工場で修理すればよいが、患者の血管とつながっている人工腎臓ではそうはいかない。
1971年〜時価発行増資が支えた静岡工場と西独での現地生産
1971年2月1日、日機装は東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部へ昇格した。時価発行による増資は安藤道雄氏を中心に検討されていたが、二部上場の会社には制約が多く実現していなかった。一部昇格で対外的な信用が上がり、計画は本格的に動き出す。1972年8月3日、両取引所で400万株の公募増資を発表した。予定株数の全部を時価で発行し、旧株主への額面割当を行わない方式で、払込は10月末日、時価600円で資本剰余金約23億円を得た。1971年秋の事業部制移行で各部門は独立採算に移り、なかでも機器医療器事業部の伸びが生産態勢の増強を迫っていた。長短借入金は1969年の11億400万円から1974年9月末に30億円へ増えたが、総資産に占める比率は27.4%から18.7%へ下がった。
- 日機装 有価証券報告書【沿革】
- [40]1971年2月1日、東京証券取引所および大阪証券取引所の市場第一部へ上場した。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(1)時価発行による公募増資
- [41]時価発行方式による増資への移行は安藤道雄が中心になって検討していたが、二部上場会社では制約が多く実現をみなかった。
- [42]1971年2月1日の東京・大阪証券取引所第一部への昇格で対外的信用が飛躍的に向上したことから、時価発行増資の実施計画を本格的に推進することになった。
- [43]1972年8月3日、東京証券取引所および大阪証券取引所において10月末日払い込みで400万株の公募増資を行うことを発表した。
- [45]1971年秋にスタートした事業部制により各部門は独立採算制に移行し、特に機器医療器事業部の伸展がめざましく生産態勢の充実化が必至の問題になっていた。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)静岡工場の建設
- [44]この増資は予定公募株数の全部を時価によって発行し旧株主に額面割当を行わない時価発行方式で、時価600円により資本剰余金約23億円の資金獲得に成功した。
- 日経ビジネス 1975年1月20日号
- [46]長短借入金は1969年の11億400万円から1974年9月末には30億円に増えたが、総資産に占める長短借入金の比率は同期間に27.4%から18.7%へ低下した。
静岡工場は医療器だけのための工場として構想された。東村山工場内の医療器工場は設備も規模も足りず、旺盛な受注に生産が応じきれなくなっていたためである。1972年1月、静岡県榛原町に約77,000平方メートルの用地を取得し、同年11月7日に起工する。1974年9月、静岡工場と研究所が完成した。投資額は30億円、人工腎臓装置の生産能力は倍になり、この期の設備投資だけで過去5年間の総額を上回った。1974年9月期の売上高は119億2,500万円、税引利益9億2,800万円、従業員846人。売上構成は機械41%、計装器18%、医療器41%となり、1971年に約7億円だった人工腎臓の売上高は49億円へ伸びている。総資本利益率6.5%は東京証券取引所第一部上場製造業平均2.1%の3倍にあたり、自己資本比率は47%だった。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)静岡工場の建設
- [47]医療器部は好調に進展したが競合メーカーも伸長しており、人工腎臓装置分野で最大のシェア保持を継続するには東村山工場内の医療器工場では設備・規模ともに条件不足で、旺盛な受注に生産が応じきれない状態に至っていた。
- [48]1972年1月、静岡県榛原町に約77,000平方メートルの工場および厚生施設用地を取得し、同年11月7日に起工式を完了した。
- 日機装 有価証券報告書【沿革】
- [49]1974年9月、静岡工場および研究所が完成した。
- 日経ビジネス 1975年1月20日号
- [50]1974年9月に30億円を投資して静岡に人工腎臓装置を中心とする医療器専門工場を建設し、この新工場完成で人工腎臓の生産能力は倍増した。1974年9月期だけで過去5年間の総投資額を上回る設備投資を行った。
- [51]1974年9月期の売上高は119億2,500万円、税引利益は9億2,800万円、従業員数は846人であった。
- [52]1974年9月期の売上構成は機械41%、計装器18%、医療器41%で、人工腎臓は1971年にわずか約7億円の売上だったのが同期には49億円と約7倍になり、総売上に占める割合は40%に高まった。
- [53]総資本利益率は6.5%と東京証券取引所第一部上場製造業平均の2.1%の3倍前後、売上高利益率は7.7%、自己資本比率は47%であった。
海外では製品を運ぶのではなく、現地で作った。1973年10月、資本金300万マルク・日機装100%出資のニッキソー・ドイチェランドGmbHを設立し、酒井尚武氏が社長に就任した。西独へ進出した日本企業は約300社に上ったが、人件費の高さから生産基地を持つのは数社にすぎない。それでも西独を選んだのは技術者の水準が高く、ここで売れるものは欧州のどこでも通用すると見たからである。最大の関門は安全基準だった。キャンドモーターポンプの防爆認定申請は日本企業として初めてで、取得に3年を費やす。1977年9月期の受注170万マルクのうち西独は5%にすぎなかったが、ミュンヘン工科大学出身のドイツ人を営業マネジャーに据えると、1978年5月までの受注は西独が60%を占めて首位へ変わった。技術を買う側から売る側へ回るまでに13年を要した。
- 日経ビジネス 1978年8月14日号
- [54]ニッキソー・ドイチェランド・GmbHは1973年10月設立、資本金300万マルク、日機装の100%出資で、社長は酒井尚武、従業員は15人であった。
- [55]西独には300社近い日本企業が進出していたが、世界一高いといわれる人件費のため生産基地を持つところはわずか数社にすぎなかった。
- [56]日機装があえて西独に生産拠点を持とうとしたのはこの国の技術者水準の高さによるもので、西独で売れるものはまず欧州中どこでも通用するといわれていた。米国は技術提携先があるため直接進出を避けた。
- [57]最大の難関は西独の安全基準への合格で、キャンドモーターポンプ生産のための防爆認定の取得申請は日本企業で初めてということもあり、3年間を費やした。
- [58]1977年9月期の受注額170万マルクのうち西独は7番目で全体の5%にすぎなかったが、ミュンヘン工科大学出身のドイツ人を営業マネジャーに採用した結果、1978年5月までの受注は全体の60%を西独が占めてトップとなった。
参考文献[40]-[58]
- 日機装 有価証券報告書【沿革】
- [40]1971年2月1日、東京証券取引所および大阪証券取引所の市場第一部へ上場した。
- [49]1974年9月、静岡工場および研究所が完成した。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(1)時価発行による公募増資
- [41]時価発行方式による増資への移行は安藤道雄が中心になって検討していたが、二部上場会社では制約が多く実現をみなかった。
- [42]1971年2月1日の東京・大阪証券取引所第一部への昇格で対外的信用が飛躍的に向上したことから、時価発行増資の実施計画を本格的に推進することになった。
- [43]1972年8月3日、東京証券取引所および大阪証券取引所において10月末日払い込みで400万株の公募増資を行うことを発表した。
- [45]1971年秋にスタートした事業部制により各部門は独立採算制に移行し、特に機器医療器事業部の伸展がめざましく生産態勢の充実化が必至の問題になっていた。
- 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)静岡工場の建設
- [44]この増資は予定公募株数の全部を時価によって発行し旧株主に額面割当を行わない時価発行方式で、時価600円により資本剰余金約23億円の資金獲得に成功した。
- [47]医療器部は好調に進展したが競合メーカーも伸長しており、人工腎臓装置分野で最大のシェア保持を継続するには東村山工場内の医療器工場では設備・規模ともに条件不足で、旺盛な受注に生産が応じきれない状態に至っていた。
- [48]1972年1月、静岡県榛原町に約77,000平方メートルの工場および厚生施設用地を取得し、同年11月7日に起工式を完了した。
- 日経ビジネス 1975年1月20日号
- [46]長短借入金は1969年の11億400万円から1974年9月末には30億円に増えたが、総資産に占める長短借入金の比率は同期間に27.4%から18.7%へ低下した。
- [50]1974年9月に30億円を投資して静岡に人工腎臓装置を中心とする医療器専門工場を建設し、この新工場完成で人工腎臓の生産能力は倍増した。1974年9月期だけで過去5年間の総投資額を上回る設備投資を行った。
- [51]1974年9月期の売上高は119億2,500万円、税引利益は9億2,800万円、従業員数は846人であった。
- [52]1974年9月期の売上構成は機械41%、計装器18%、医療器41%で、人工腎臓は1971年にわずか約7億円の売上だったのが同期には49億円と約7倍になり、総売上に占める割合は40%に高まった。
- [53]総資本利益率は6.5%と東京証券取引所第一部上場製造業平均の2.1%の3倍前後、売上高利益率は7.7%、自己資本比率は47%であった。
- 日経ビジネス 1978年8月14日号
- [54]ニッキソー・ドイチェランド・GmbHは1973年10月設立、資本金300万マルク、日機装の100%出資で、社長は酒井尚武、従業員は15人であった。
- [55]西独には300社近い日本企業が進出していたが、世界一高いといわれる人件費のため生産基地を持つところはわずか数社にすぎなかった。
- [56]日機装があえて西独に生産拠点を持とうとしたのはこの国の技術者水準の高さによるもので、西独で売れるものはまず欧州中どこでも通用するといわれていた。米国は技術提携先があるため直接進出を避けた。
- [57]最大の難関は西独の安全基準への合格で、キャンドモーターポンプ生産のための防爆認定の取得申請は日本企業で初めてということもあり、3年間を費やした。
- [58]1977年9月期の受注額170万マルクのうち西独は7番目で全体の5%にすぎなかったが、ミュンヘン工科大学出身のドイツ人を営業マネジャーに採用した結果、1978年5月までの受注は全体の60%を西独が占めてトップとなった。
筆者考察
日機装が1965年に手放したのは、ミルトン・ロイ・ポンプという商品ではない。外国の設計に自社の製造を合わせる位置そのものである。技術提携とは名ばかりで、実際には届いた図面を写し、寸法を引き直す作業が主体だった。基礎設計を持たないまま製品が仕上がるため、市場が変わって不適当と分かっていてもそのまま複製してしまう。安く、速く、確実である代わりに、技術者は考える力を使わなくなる。赤字決算を受け入れ、84名を減らし、役付取締役を平取締役へ降ろしてまで自力開発へ経営資源を集中したのは、図面を買い続けるかぎり次の不況でも同じ場所に立たされると音桂二郎氏が見ていたからだろう。
人工腎臓装置が1974年9月期に売上の4割を占めたのは、装置が優れていたからだけではない。腎臓の代わりをする機械は故障が人命に直結し、灌流液もダイアライザも絶えず届けなければならない。日機装は病院が買えるように銀行と組んでローンを用意し、装置を扱う技師の養成機関を自前で持った。ポンプで培った定量注入の技術より、この売り方のほうが厚い参入障壁になった。部材の量産は規模の大きい会社ほど有利でも、24時間動き続けるサービス網は、売上の一部でしかない分野のために抱えにくい。医療器の市場で日機装が取った位置は、装置の性能ではなく、装置が止まったときに誰が来るかで決まっていた。
1966年〜1980年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1966年03月期 | 単体 | 14 | n/a | 0 | 0 | 0 | ▲6.5% | n/a |
| 1967年09月期 | 単体 | 11 | ▲21.4% | n/a | 1 | 0 | 5.8% | n/a |
| 1968年09月期 | 単体 | 28 | +154.5% | 4 | 4 | 2 | 7.1% | n/a |
| 1969年09月期 | 単体 | 37 | +32.1% | 5 | 5 | 3 | 8.1% | n/a |
| 1970年09月期 | 単体 | 54 | +45.9% | n/a | 8 | 4 | 7.4% | n/a |
| 1971年09月期 | 単体 | 63 | +16.7% | n/a | 7 | 4 | 6.3% | n/a |
| 1972年09月期 | 単体 | 63 | 0.0% | n/a | 9 | 5 | 7.9% | n/a |
| 1973年09月期 | 単体 | 83 | +31.7% | 12 | 13 | 8 | 9.6% | n/a |
| 1974年09月期 | 単体 | 119 | +43.4% | 20 | 19 | 9 | 7.6% | n/a |
| 1975年09月期 | 単体 | 152 | +27.7% | n/a | 16 | 8 | 5.3% | n/a |
| 1976年09月期 | 単体 | 163 | +7.2% | n/a | 19 | 10 | 6.1% | n/a |
| 1977年09月期 | 単体 | 159 | ▲2.5% | n/a | 14 | 6 | 3.8% | n/a |
| 1978年09月期 | 単体 | 163 | +2.5% | n/a | 11 | 6 | 3.7% | n/a |
| 1979年09月期 | 単体 | 176 | +8.0% | n/a | 15 | 7 | 4.0% | n/a |
| 1980年09月期 | 単体 | 207 | +17.6% | n/a | 15 | 8 | 3.9% | n/a |
出所:会社年鑑、会社年鑑(1976年版)変則6ヶ月決算
出典・参考
15件
- 日機装 有価証券報告書【沿革】
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)技術提携の弊害
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(3)自力開発方針の決定
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(5)試練
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)標準化へ
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(1)斜陽化と混乱
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(2)打開の諸方策
- 日機装20年史(日機装、1973年)第3章「不況とその克服」(2)人工腎臓装置の輸入販売開始
- 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)人工腎臓装置の国産化
- 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(1)時価発行による公募増資
- 日機装20年史(日機装、1973年)第4章「飛躍を期して」(2)静岡工場の建設
- 会社年鑑(1967年版)
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号
- 日経ビジネス 1975年1月20日号
- 日経ビジネス 1978年8月14日号