第3章 年〜年

明治製糖:設備能力3割の削減案提出と経常赤字の拡大

1963年〜砂糖の輸入自由化と積み上がった設備能力

明治製糖の原料は、外から買ってくる原糖だけであった。1963年8月末の輸入自由化までは、割り当てられた原糖を買い、それを白くして売る仕組みであり、供給の面で制約を受けていた。制約のある枠の内側で、売上高は1959年3月期108億円、1960年3月期107億円、1961年3月期121億円、1962年3月期126億円。1959年3月期から1962年3月期までの4期で18億円増えた計算になる。1963年3月期の売上高は134億円、当期純利益は6億円に達した。翌1963年4月の増資で資本金は11億円となった。

  • 月刊経済 1969年
    • [1]1963年8月末の砂糖の輸入自由化以前は、割り当てられた原糖を買って白くして売る仕組みで、供給面に制約があった
  • 会社年鑑 1963年版(日本経済新聞社)
    • [2]売上高は1959年3月期108億円、1960年3月期107億円、1961年3月期121億円、1962年3月期126億円
  • 会社年鑑 1967年版(日本経済新聞社)
    • [3]1963年3月期の売上高は134億円、当期純利益は6億円
  • 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
    • [4]1963年4月に資本金を11億円に増資した

しかし自由化は、供給を抑えていた枠そのものを外した。自由化の当時ですでに2割か3割の設備過剰にあり、その後も設備増強と工場新設が相次いだため、精糖各社は10年ほど経たなければフルに稼働しえない設備能力を持つに至った。設備過剰は製品の供給過剰を招き、市価の下落で各社の内容が悪化した。精製糖の輸出は直接費をペイする程度にとどまった。制度がすべて外れたわけではなく、糖価安定法により外国から持ち込む砂糖には調整金がかかり、それが国産糖の育成資金に使われた。明治製糖の売上高は1964年3月期152億円、1965年3月期156億円、1966年3月期144億円。当期純利益は1964年3月期4億円、1965年3月期はほとんど残らず、1966年3月期は6億円の当期損失に転じた。

  • 月刊経済 1969年
    • [5]自由化の当時ですでに2割か3割の設備過剰があり、自由化後の設備増強・工場新設で10年ほど経たないとフルに稼働しえない設備能力を持つに至った
    • [6]設備過剰が製品の供給過剰を招き、市価下落で各社の内容が悪化した
    • [7]精製糖の輸出は直接費をペイする程度にとどまった
    • [8]糖価安定法により外国から持ち込む砂糖に調整金がかかり、それが国産糖の育成資金に使われる仕組みだった
  • 会社年鑑 1967年版(日本経済新聞社)
    • [9]売上高は1964年3月期152億円、1965年3月期156億円、1966年3月期144億円
    • [10]当期純利益は1964年3月期4億円、1965年3月期0億円、1966年3月期は6億円の当期損失

収入の中身は、原糖を溶かして白くする一本に寄っていた。1966年3月期の売上構成は精糖126億2,371万6千円が87.9%を占め、原糖売却代他6億671万9千円が4.2%、角砂糖5億7,540万円が4.0%、倉庫収入4億6,093万円が3.2%、糖蜜8,934万2千円が0.6%と続いた。株主の側も金融機関が上位に並び、1966年3月時点の大株主は住友信託銀行150万株、日本勧業銀行133万6千株、第一生命保険127万4千株、第一銀行121万4千株。総株式数2,200万株のうち、同じ1966年3月時点では明治製菓の44万株も10位に入った。

  • 会社年鑑 1967年版(日本経済新聞社)
    • [11]1966年3月期の売上構成は精糖126億2,371万6千円(87.9%)、原糖売却代他6億671万9千円(4.2%)、角砂糖5億7,540万円(4.0%)、倉庫収入4億6,093万円(3.2%)、糖蜜8,934万2千円(0.6%)
    • [12]1966年3月時点の大株主は住友信託銀行150万株、日本勧業銀行133万6千株、第一生命保険127万4千株、第一銀行121万4千株
    • [13]総株式数は2,200万株で、明治製菓44万株も10位に入っていた
参考文献[1]-[13]
  • 月刊経済 1969年
    • [1]1963年8月末の砂糖の輸入自由化以前は、割り当てられた原糖を買って白くして売る仕組みで、供給面に制約があった
    • [5]自由化の当時ですでに2割か3割の設備過剰があり、自由化後の設備増強・工場新設で10年ほど経たないとフルに稼働しえない設備能力を持つに至った
    • [6]設備過剰が製品の供給過剰を招き、市価下落で各社の内容が悪化した
    • [7]精製糖の輸出は直接費をペイする程度にとどまった
    • [8]糖価安定法により外国から持ち込む砂糖に調整金がかかり、それが国産糖の育成資金に使われる仕組みだった
  • 会社年鑑 1963年版(日本経済新聞社)
    • [2]売上高は1959年3月期108億円、1960年3月期107億円、1961年3月期121億円、1962年3月期126億円
  • 会社年鑑 1967年版(日本経済新聞社)
    • [3]1963年3月期の売上高は134億円、当期純利益は6億円
    • [9]売上高は1964年3月期152億円、1965年3月期156億円、1966年3月期144億円
    • [10]当期純利益は1964年3月期4億円、1965年3月期0億円、1966年3月期は6億円の当期損失
    • [11]1966年3月期の売上構成は精糖126億2,371万6千円(87.9%)、原糖売却代他6億671万9千円(4.2%)、角砂糖5億7,540万円(4.0%)、倉庫収入4億6,093万円(3.2%)、糖蜜8,934万2千円(0.6%)
    • [12]1966年3月時点の大株主は住友信託銀行150万株、日本勧業銀行133万6千株、第一生命保険127万4千株、第一銀行121万4千株
    • [13]総株式数は2,200万株で、明治製菓44万株も10位に入っていた
  • 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
    • [4]1963年4月に資本金を11億円に増資した

1967年〜相馬敏夫社長が説いた同時かつ普遍的な3割減

1967年3月期の売上高は155億円に伸びた一方、7億円の当期損失を計上した。1966年3月期の6億円に続く2期連続の当期損失である。過剰な能力を抱えたまま数量を追えば市価が崩れるため、業界は生産調整に動いた。相馬敏夫社長は業界団体の会長を務めた2年半のあいだにカルテルを4回実施したが、いずれも効果が上がらなかった。カルテルの期間中も工場の新増設が行われ、市価はかえって下がった。削減を任意に任せれば実行した会社の効果も全般には及ばないと相馬敏夫社長はみていた。日本の砂糖会社は25社も30社もあった。

  • 会社年鑑 1971年版(日本経済新聞社)
    • [14]1967年3月期の売上高は155億円、7億円の当期損失
  • 会社年鑑 1967年版(日本経済新聞社)
    • [15]1966年3月期の当期純利益は6億円の損失
  • 月刊経済 1969年
    • [16]相馬敏夫氏が業界団体の会長であった2年半の間にカルテルを4回実施したが、いずれも効果が上がらなかった
    • [17]カルテル中も工場の新増設が行われたため市価はかえって下がった
    • [18]3割のカットも任意にやっていたのでは、ある会社が実行してもその効果が全般的に出てこないと相馬敏夫氏はみていた
    • [19]日本の砂糖会社は25社も30社もあった

そこで相馬敏夫社長が示した構造改善案は、業界全体の能力の3割カットを同時かつ普遍的に行うというものだった。期間は3か月から半年とし、各社が同じ基準で同じように犠牲を負担する。この案は受け入れられず、3割減を目標に3年ほどのあいだ各社任意で行い、削減した会社にある程度の補償をするという案が役所に提出された。相馬敏夫社長はその後まもなく業界団体の会長を辞任し、案は実を結ばなかった。英国では1864年に51社あった砂糖会社の統合に60年ほどを要し、テート・アンド・ライルが1924年に成立した。

  • 月刊経済 1969年
    • [20]相馬敏夫氏の構造改善案は業界全体の能力の3割カットを同時かつ普遍的に行うというものだった
    • [21]期間は3か月から半年、各社が同じ基準で同じように犠牲を負担する内容だった
    • [22]案は受け入れられず、3割減を目標に3年ほどの間に各社任意で行い、削減した会社にある程度の補償をする案が役所に提出された
    • [23]相馬敏夫氏はその後まもなく会長を辞任し、案は実を結ばなかった
    • [24]英国ではテート・アンド・ライルが1924年に成立し、1864年に51社あったものが統合に60年ほどかかった

再編が動かないまま、明治製糖の損益はポンド切下げと社内のコストダウンで持ち直した。1968年3月期は売上高171億円で当期純利益2億円、1969年3月期は177億円で3億円。2期の当期純利益は合わせて5億円で、1966年3月期と1967年3月期の当期損失13億円には届かなかった。借入れによる工場整備は1969年3月中旬で一応終わる見通しにあった。相馬敏夫社長は多角経営が必要だとして数年前に建材へ乗り出し、アルミサッシと畜産を手がけた。それでも精糖の市価が戻らず、1970年3月期は売上高176億円に対し2億円の当期損失を計上した。

  • 月刊経済 1969年
    • [25]明治製糖は当時3期続けて黒字で、要因はポンド切下げと社内のコストダウンだった
    • [28]借入れによる工場整備が1969年3月中旬で一応終わる見通しだった
    • [29]相馬敏夫氏は多角経営が必要として数年前に建材に乗り出し、アルミサッシと畜産を手がけていた
  • 会社年鑑 1971年版(日本経済新聞社)
    • [26]売上高は1968年3月期171億円・1969年3月期177億円、当期純利益は1968年3月期2億円・1969年3月期3億円
    • [27]1967年3月期の当期純利益は7億円の損失
    • [30]1970年3月期の売上高は176億円、2億円の当期損失
参考文献[14]-[30]
  • 会社年鑑 1971年版(日本経済新聞社)
    • [14]1967年3月期の売上高は155億円、7億円の当期損失
    • [26]売上高は1968年3月期171億円・1969年3月期177億円、当期純利益は1968年3月期2億円・1969年3月期3億円
    • [27]1967年3月期の当期純利益は7億円の損失
    • [30]1970年3月期の売上高は176億円、2億円の当期損失
  • 会社年鑑 1967年版(日本経済新聞社)
    • [15]1966年3月期の当期純利益は6億円の損失
  • 月刊経済 1969年
    • [16]相馬敏夫氏が業界団体の会長であった2年半の間にカルテルを4回実施したが、いずれも効果が上がらなかった
    • [17]カルテル中も工場の新増設が行われたため市価はかえって下がった
    • [18]3割のカットも任意にやっていたのでは、ある会社が実行してもその効果が全般的に出てこないと相馬敏夫氏はみていた
    • [19]日本の砂糖会社は25社も30社もあった
    • [20]相馬敏夫氏の構造改善案は業界全体の能力の3割カットを同時かつ普遍的に行うというものだった
    • [21]期間は3か月から半年、各社が同じ基準で同じように犠牲を負担する内容だった
    • [22]案は受け入れられず、3割減を目標に3年ほどの間に各社任意で行い、削減した会社にある程度の補償をする案が役所に提出された
    • [23]相馬敏夫氏はその後まもなく会長を辞任し、案は実を結ばなかった
    • [24]英国ではテート・アンド・ライルが1924年に成立し、1864年に51社あったものが統合に60年ほどかかった
    • [25]明治製糖は当時3期続けて黒字で、要因はポンド切下げと社内のコストダウンだった
    • [28]借入れによる工場整備が1969年3月中旬で一応終わる見通しだった
    • [29]相馬敏夫氏は多角経営が必要として数年前に建材に乗り出し、アルミサッシと畜産を手がけていた

1970年〜東日本製糖への委託生産と14億円の当期損失

1970年3月期の売上構成は精糖143億7,007万4千円が81.6%を占め、角糖9億7,180万1千円が5.5%、原糖7億7,323万9千円が4.4%、倉庫収入7億5,973万7千円が4.3%、液糖5億8,119万円が3.3%、粉糖8,405万4千円が0.5%、糖蜜5,902万9千円が0.3%。1970年3月時点の大株主は山種物産156万8千株、日本勧業銀行148万6千株、第一銀行136万4千株、第一生命保険127万株。同じ1970年3月時点では明治商事109万6千株と明治製菓64万株も名を連ね、総株式数は2,200万株のままであった。

  • 会社年鑑 1971年版(日本経済新聞社)
    • [31]1970年3月期の売上構成は精糖143億7,007万4千円(81.6%)、角糖9億7,180万1千円(5.5%)、原糖7億7,323万9千円(4.4%)、倉庫収入7億5,973万7千円(4.3%)、液糖5億8,119万円(3.3%)、粉糖8,405万4千円(0.5%)、糖蜜5,902万9千円(0.3%)
    • [32]1970年3月時点の大株主は山種物産156万8千株・日本勧業銀行148万6千株・第一銀行136万4千株・第一生命保険127万株
    • [33]1970年3月時点の大株主に明治商事109万6千株・明治製菓64万株が入り、総株式数は2,200万株だった

原料の調達も製品の販売も外に置いた明治製糖は、1971年に入って製造そのものを他社と共同で設けた会社へ移した。原糖輸入量の6割は三菱商事を経由し、国内販売は明治商事が一手に引き受けていた。1971年1月、明治製糖は三菱商事株式会社および大日本製糖株式会社と共同して、砂糖製造受託会社の東日本製糖株式会社を設立した。東日本製糖の千葉工場の操業による委託生産の開始に伴い、明治製糖は川崎工場を閉鎖して売却する手筈にあった。自社の釜を減らす一方で製品の幅は広げ、1972年にはブランデーシュガーを発売した。

  • 実業往来 1976年
    • [34]原糖輸入量の6割は三菱商事を経由し、国内販売は明治商事が一手に引き受けていた
    • [36]東日本製糖の千葉工場の操業による委託生産の開始に伴い、明治製糖は川崎工場を閉鎖して売却する手筈になっていた
  • DM三井製糖ホールディングス「沿革」(明治製糖株式会社の項)
    • [35]1971年1月、三菱商事株式会社・大日本製糖株式会社と共同して砂糖製造受託会社・東日本製糖株式会社を設立した
    • [37]1972年、ブランデーシュガーを発売した

売上高は1971年3月期217億円、1972年3月期246億円、1973年3月期313億円と伸びた。増えた売上が利益に届かず、経常利益は1971年3月期2億円から、1972年3月期は1億円の経常損失、1973年3月期は12億9,400万円の経常損失へ振れた。当期純利益も1971年3月期2億円、1972年3月期は1億円の当期損失、1973年3月期は14億円の当期損失。砂糖は付加価値が小さく銘柄商品でもないため、どこかが安く売ればその値段に引っ張られる——1969年の対談で相馬敏夫社長が示した見方である。株主への配当は1971年9月期から止まり、以後は無配であった。

  • 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
    • [38]売上高は1971年3月期217億円、1972年3月期246億円、1973年3月期313億円
    • [39]経常利益は1971年3月期2億円、1972年3月期は1億円の経常損失、1973年3月期は12億9,400万円の経常損失
    • [40]当期純利益は1971年3月期2億円、1972年3月期は1億円の当期損失、1973年3月期は14億円の当期損失
    • [42]1971年9月期から無配となった
  • 月刊経済 1969年
    • [41]砂糖は付加価値が小さく銘柄商品でないため、どこかで安く売ればその安い値段にひっぱられると相馬敏夫氏は述べた
参考文献[31]-[42]
  • 会社年鑑 1971年版(日本経済新聞社)
    • [31]1970年3月期の売上構成は精糖143億7,007万4千円(81.6%)、角糖9億7,180万1千円(5.5%)、原糖7億7,323万9千円(4.4%)、倉庫収入7億5,973万7千円(4.3%)、液糖5億8,119万円(3.3%)、粉糖8,405万4千円(0.5%)、糖蜜5,902万9千円(0.3%)
    • [32]1970年3月時点の大株主は山種物産156万8千株・日本勧業銀行148万6千株・第一銀行136万4千株・第一生命保険127万株
    • [33]1970年3月時点の大株主に明治商事109万6千株・明治製菓64万株が入り、総株式数は2,200万株だった
  • 実業往来 1976年
    • [34]原糖輸入量の6割は三菱商事を経由し、国内販売は明治商事が一手に引き受けていた
    • [36]東日本製糖の千葉工場の操業による委託生産の開始に伴い、明治製糖は川崎工場を閉鎖して売却する手筈になっていた
    • [35]1971年1月、三菱商事株式会社・大日本製糖株式会社と共同して砂糖製造受託会社・東日本製糖株式会社を設立した
    • [37]1972年、ブランデーシュガーを発売した
  • 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
    • [38]売上高は1971年3月期217億円、1972年3月期246億円、1973年3月期313億円
    • [39]経常利益は1971年3月期2億円、1972年3月期は1億円の経常損失、1973年3月期は12億9,400万円の経常損失
    • [40]当期純利益は1971年3月期2億円、1972年3月期は1億円の当期損失、1973年3月期は14億円の当期損失
    • [42]1971年9月期から無配となった
  • 月刊経済 1969年
    • [41]砂糖は付加価値が小さく銘柄商品でないため、どこかで安く売ればその安い値段にひっぱられると相馬敏夫氏は述べた

1959年〜1973年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1959年03月期 単体 108 n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 107 ▲0.9% n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 121 +13.1% n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 126 +4.1% n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 134 +6.3% n/a 6 4.5% n/a
1964年03月期 単体 152 +13.4% n/a 4 2.6% n/a
1965年03月期 単体 156 +2.6% n/a 0 0.0% n/a
1966年03月期 単体 144 ▲7.7% n/a ▲6 ▲4.2% n/a
1967年03月期 単体 155 +7.6% n/a ▲7 ▲4.5% n/a
1968年03月期 単体 171 +10.3% n/a 2 1.2% n/a
1969年03月期 単体 177 +3.5% n/a 3 1.7% n/a
1970年03月期 単体 176 ▲0.6% n/a ▲2 ▲1.1% n/a
1971年03月期 単体 217 +23.3% 2 2 0.9% n/a
1972年03月期 単体 246 +13.4% ▲1 ▲1 ▲0.4% n/a
1973年03月期 単体 313 +27.2% ▲14 ▲14 ▲4.5% n/a

出所:会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算

出典・参考

7件
出典・参考
  • 会社年鑑 1963年版(日本経済新聞社)
  • 会社年鑑 1967年版(日本経済新聞社)
  • 会社年鑑 1971年版(日本経済新聞社)
  • 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社)
  • 月刊経済 1969年
  • 実業往来 1976年
  • DM三井製糖ホールディングス「沿革」(明治製糖株式会社の項)

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