明治製糖:外地資産の喪失と第二会社明糖の設立
1946年〜在外会社の指定と資本金3,660万円の明糖設立
終戦とともに旧明治製糖は外地の全資産を失い、内地工場も大半が空襲の損害を被った。本社を台湾に置いていたため内地資産も1945年に連合国の管理下に入り、一切の取引が大蔵大臣の許可を要するものとなった。甘蔗畑も製糖工場も台湾にあり、内地に残ったのは川崎・戸畑・神戸の建屋と、製糖その他の食品工業で積み上げた技術にすぎなかった。その残存設備と技術を生かすため、1946年9月に再開転換事業として製薬業と倉庫業の許可を得て操業を開始した。製薬業は川崎の製薬工場で、転化糖注射薬を中心にザルソブロカ転化糖注射薬、グルコン酸石灰注射薬、家畜の人工受精用薬糖を製造した。倉庫業は川崎と戸畑で主要食糧と専売公社の葉煙草を保管し、神戸ではそのほか輸出入貿易商品も預かった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
- [1]終戦とともに外地にあった全資産を失い、内地工場も大半が空襲の損害を被った
- [2]本社が台湾にあったため内地資産についても1945年に連合国の管理下に置かれ、一切の取引は大蔵大臣の許可を要することになった
- [3]内地残存設備の有効な利用と、製糖事業その他食品工業部門における多年の技術・経験を生かすことが再開の前提となった
- [4]1946年9月に再開転換事業として製薬業・倉庫業の許可を得て操業を開始した
- [5]製薬業は川崎の製薬工場で、転化糖注射薬を中心にザルソブロカ転化糖注射薬、グルコン酸石灰注射薬、家畜の人工受精用薬糖等を製造した
- [6]倉庫業は川崎・戸畑で主要食糧と専売公社の葉煙草の保管を行い、神戸ではそのほか輸出入貿易商品の保管を行った
1949年8月、旧明治製糖は政令第291号"在外会社の本邦内財産の整理に関する法令"により在外会社の指定を受け、内地資産の整理に入った。1950年8月には、その内地資産を現物出資して資本金3,660万円の明糖株式会社を設立し、製薬業と倉庫業を中心に内地資産の一切を新会社へ移した。新会社の株式は旧明治製糖の株主へ10株につき6株の割合で無償交付された。証券コード2103の法人はこの明糖であって、1906年創立の旧明治製糖とは法人格が別であり、引き継いだのは事業と株主だけである。明糖は1952年1月に株式を上場し、同年5月に社名を明治製糖へ戻した。甜菜糖を担った北海道の清水工場は、それに先立つ1945年に北海道興農工業株式会社へ売却しており、内地に原料地は残っていなかった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
- [7]1949年8月、政令第291号(在外会社の本邦内財産の整理に関する法令)により在外会社の指定を受け、内地資産の整理を行うことになった
- [8]1950年8月、資本金3,660万円で新たに明糖株式会社を創立し、新会社に製薬業・倉庫業の二事業を中心に一切の内地資産を現物出資した
- [9]新会社の株式は旧明治製糖の株主に10株に対して6株の割合で無償交付された
- DM三井製糖ホールディングス「沿革」(明治製糖株式会社の項)
- [10]1950年8月、内地資産をもって明糖株式会社を設立(資本金3,660万円)
- [11]1952年1月、株式上場。1952年5月、明治製糖株式会社に社名を復した
- 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
- [12]1945年に清水工場を北海道興農工業株式会社へ売却した
参考文献[1]-[12]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
- [1]終戦とともに外地にあった全資産を失い、内地工場も大半が空襲の損害を被った
- [2]本社が台湾にあったため内地資産についても1945年に連合国の管理下に置かれ、一切の取引は大蔵大臣の許可を要することになった
- [3]内地残存設備の有効な利用と、製糖事業その他食品工業部門における多年の技術・経験を生かすことが再開の前提となった
- [4]1946年9月に再開転換事業として製薬業・倉庫業の許可を得て操業を開始した
- [5]製薬業は川崎の製薬工場で、転化糖注射薬を中心にザルソブロカ転化糖注射薬、グルコン酸石灰注射薬、家畜の人工受精用薬糖等を製造した
- [6]倉庫業は川崎・戸畑で主要食糧と専売公社の葉煙草の保管を行い、神戸ではそのほか輸出入貿易商品の保管を行った
- [7]1949年8月、政令第291号(在外会社の本邦内財産の整理に関する法令)により在外会社の指定を受け、内地資産の整理を行うことになった
- [8]1950年8月、資本金3,660万円で新たに明糖株式会社を創立し、新会社に製薬業・倉庫業の二事業を中心に一切の内地資産を現物出資した
- [9]新会社の株式は旧明治製糖の株主に10株に対して6株の割合で無償交付された
- [10]1950年8月、内地資産をもって明糖株式会社を設立(資本金3,660万円)
- [11]1952年1月、株式上場。1952年5月、明治製糖株式会社に社名を復した
- 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
- [12]1945年に清水工場を北海道興農工業株式会社へ売却した
1951年〜川崎235トンから両工場850トンへの復旧
戦後に他の製糖各社が製造を開始するなか、明糖は戦火を受けた工場を抱えて操業を見送り、その間を倉庫業と製薬業で凌いだ。砂糖統制の撤廃に見込みがつくと川崎で急ぎ操業に入り、1951年12月25日、日産原料糖溶解能力235トンで精製糖業へ復帰した。設備費は他社より3分の1安く上がった。短期間で復旧できた理由として、小塚泰一社長は相馬半治氏が築いた信用と全員一致の努力を挙げた。川崎工場長の丹野恒次氏は1919年に東北帝国大学理学部化学科を卒業して入社し、30年を研究所と現場で過ごした。1937年に"砂糖の利用法"で学位を取得し、その研究が戦後の転化糖など医薬品の製造に生きた。糖汁濾過用の硅藻土は、全国20数か所を探して掘り出し、日本産でも使えるものにした。
- 東邦経済 1953年「本邦最大の明治製糖と増設全く完了の川崎事業所」
- [13]戦後に他の製糖各社が製造を開始する中、明治製糖は戦火を受けた工場を抱えて操業を見送り、その間は倉庫業・製薬業で凌いだ
- [14]砂糖統制撤廃の見込みがつき、急遽川崎で操業を開始した。精製糖事業の開始は1951年12月25日、開始時の一日の原料糖処理能力は235トン
- [15]設備費は他社より3分の1は安く上がっている
- [16]短期間の復旧ができた理由として、相馬半治氏が築いた信用と全員一致の努力を挙げている
- [17]川崎工場長は丹野恒次氏。1919年に東北帝国大学理学部化学科を卒業と同時に入社し、以来30年間を研究所と現場で過ごした
- [18]1937年に「砂糖の利用法」で学位を取得し、それが戦後の転化糖等の医薬品の製造に役立った
- [19]丹野恒次氏は糖汁濾過用の硅藻土を日本産でも使えるものとし、全国二十数か所を探して掘り出したといわれる
1952年5月に戸畑工場の再開を決め、同年9月末に復旧工事が完了して溶糖能力250トンで出発した。これと並行して川崎も350トンへ拡張。医薬部門は1952年5月をもって休止し、製薬業そのものも戸畑精糖工場の復旧を機に同年7月で解消した。資本金は1952年2月に1億2,000万円、同年10月に2億5,000万円、1953年4月には5億円まで増えた。増資資金の一部は川崎・戸畑両製糖工場の拡張工事に充てられ、新査定による1日あたりの溶糖能力は830トンとなった。1952年10月から1953年3月までの期の純利益は1億7,000万円、対資本金利益率は7割3分。両工場はその後も数次にわたり拡張され、1955年時点の日産原料糖溶解能力は川崎475トン・戸畑375トンの合計850トンに達した。
- 東邦経済 1953年「本邦最大の明治製糖と増設全く完了の川崎事業所」
- [20]1952年5月に戸畑工場の再開を計画し、同年9月末に復旧工事が完了して250トン溶糖能力で出発した
- [21]戸畑の復旧と並行して川崎工場も350トン溶糖能力に拡張した
- [24]1953年4月1日払込で倍額増資を行い資本金5億円となり、増資資金の一部を川崎・戸畑両製糖工場の拡張工事に充当した結果、新査定による一日溶糖能力830トンを持つに至った
- [25]1952年10月1日から1953年3月31日までの期の純利益は1億7,000万円、対資本金利益率は7割3分
- 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
- [22]医薬部門は1952年5月をもって休止した。1952年7月、製薬業を解消した。製薬業は戸畑精糖工場の復旧を機会に廃止した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
- [23]資本金は1952年2月に1億2,000万円、同年10月に2億5,000万円、1953年4月に5億円となった
- [26]両工場を数次にわたり拡張し、日産原料糖溶解能力は川崎475トン・戸畑375トン・合計850トンとなった
1953年10月に宮内庁御用達が復活した。川崎工場では骨炭設備を完成させて合理化を図り、東南アジア方面への輸出も広げた。その川崎工場は川崎駅に近く六郷川を臨む1万3,000坪の敷地で、隣は当時の明治製菓、従業員は200名そこそこ、1人当たり生産高は月200万円を超えた。操業度は常に60%から70%の間にあった。倉庫業は川崎2,422坪・神戸1,910坪・戸畑1,884坪の営業坪数を持ったが、寄託貨物の大半が農産物で、葉煙草の不作や内地米の減収で廻送が減ると集荷に困難を来した。一方、業界は設備能力が過剰で製品価格は不安定な様相にあり、各社間で安定化が協議されていた。国民の砂糖消費量が年間100万トンに達しないのに設備能力は200万トンあり、原糖の手配は3か月前に済ませる必要があった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
- [27]1953年10月に宮内庁御用達が復活した
- [28]川崎工場では骨炭設備を完成して合理化を図り、東南アジア方面への輸出も拡大した
- [31]倉庫業は川崎2,422坪・神戸1,910坪・戸畑1,884坪の営業坪数を有した。倉庫の寄託貨物の大半が農産物であるため天災の影響が大きく、葉煙草の不作や内地米の減収による廻送減少のため集荷に困難を来した
- 東邦経済 1953年「本邦最大の明治製糖と増設全く完了の川崎事業所」
- [29]川崎工場は川崎駅に近く六郷川を臨み、隣に明治製菓に接する1万3,000坪の工場。全従業員は200名そこそこで、一人当り生産高は金額にして月200万円を越える
- [30]操業度は常に60%から70%の間を保っている
- [32]業界は設備能力過剰で製品価格は不安定な様相にあり、安定化を各社間で協議していた
- [33]現在国民の砂糖消費量はいまだ年間百万トンには達していないのに、設備能力は二百万トンもある。業界では原料は三カ月まえに手配しなければならぬ
参考文献[13]-[33]
- 東邦経済 1953年「本邦最大の明治製糖と増設全く完了の川崎事業所」
- [13]戦後に他の製糖各社が製造を開始する中、明治製糖は戦火を受けた工場を抱えて操業を見送り、その間は倉庫業・製薬業で凌いだ
- [14]砂糖統制撤廃の見込みがつき、急遽川崎で操業を開始した。精製糖事業の開始は1951年12月25日、開始時の一日の原料糖処理能力は235トン
- [15]設備費は他社より3分の1は安く上がっている
- [16]短期間の復旧ができた理由として、相馬半治氏が築いた信用と全員一致の努力を挙げている
- [17]川崎工場長は丹野恒次氏。1919年に東北帝国大学理学部化学科を卒業と同時に入社し、以来30年間を研究所と現場で過ごした
- [18]1937年に「砂糖の利用法」で学位を取得し、それが戦後の転化糖等の医薬品の製造に役立った
- [19]丹野恒次氏は糖汁濾過用の硅藻土を日本産でも使えるものとし、全国二十数か所を探して掘り出したといわれる
- [20]1952年5月に戸畑工場の再開を計画し、同年9月末に復旧工事が完了して250トン溶糖能力で出発した
- [21]戸畑の復旧と並行して川崎工場も350トン溶糖能力に拡張した
- [24]1953年4月1日払込で倍額増資を行い資本金5億円となり、増資資金の一部を川崎・戸畑両製糖工場の拡張工事に充当した結果、新査定による一日溶糖能力830トンを持つに至った
- [25]1952年10月1日から1953年3月31日までの期の純利益は1億7,000万円、対資本金利益率は7割3分
- [29]川崎工場は川崎駅に近く六郷川を臨み、隣に明治製菓に接する1万3,000坪の工場。全従業員は200名そこそこで、一人当り生産高は金額にして月200万円を越える
- [30]操業度は常に60%から70%の間を保っている
- [32]業界は設備能力過剰で製品価格は不安定な様相にあり、安定化を各社間で協議していた
- [33]現在国民の砂糖消費量はいまだ年間百万トンには達していないのに、設備能力は二百万トンもある。業界では原料は三カ月まえに手配しなければならぬ
- 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
- [22]医薬部門は1952年5月をもって休止した。1952年7月、製薬業を解消した。製薬業は戸畑精糖工場の復旧を機会に廃止した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
- [23]資本金は1952年2月に1億2,000万円、同年10月に2億5,000万円、1953年4月に5億円となった
- [26]両工場を数次にわたり拡張し、日産原料糖溶解能力は川崎475トン・戸畑375トン・合計850トンとなった
- [27]1953年10月に宮内庁御用達が復活した
- [28]川崎工場では骨炭設備を完成して合理化を図り、東南アジア方面への輸出も拡大した
- [31]倉庫業は川崎2,422坪・神戸1,910坪・戸畑1,884坪の営業坪数を有した。倉庫の寄託貨物の大半が農産物であるため天災の影響が大きく、葉煙草の不作や内地米の減収による廻送減少のため集荷に困難を来した
1955年〜輸入原糖への依存と甜菜糖・結晶葡萄糖への進出
半期決算の1955年9月期の売上高は50億8,600万円で、直前の3月期に比べ約6億9,000万円減った。それでも計上利益は4億6,300万円と3月期より1,500万円増え、対資本金利益率18割5分、配当3割を計上した。同期の溶糖実績は川崎31,900トン・戸畑10,956トンの合計42,856トンで、政府の輸入予算が削られたため3月期より6,000トン少ない。減った溶糖量で利益を伸ばせたのは、海外市況が概ね軟調ななかで原糖の買付を有利に運んだことによる。年間の砂糖輸入ワクは80万トンで、その枠内の原糖をいつ、いくらで買うかが利益を左右した。1955年9月時点の大株主は第一生命保険579,168株、住友信託銀行527,548株。総株式数1,000万株のうちには、当時の明治製菓200,000株や明治商事144,000株も並んだ。
- 東邦経済 1955年「異常な高収益をあげた明治製糖」
- [34]1955年9月期(半期)は売上高50億8,600万円で、3月期に比べ約6億9,000万円の減収
- [35]計上利益4億6,300万円で3月期より1,500万円の増加、対資本金利益率18割5分、配当3割
- [36]同期の溶糖実績は川崎31,900トン・戸畑10,956トン・合計42,856トンで、3月期より6,000トンの減少。減少は政府の輸入予算が削減されたため
- [37]原糖面では海外市況が概ね軟調で、有利に買付を進めたため製品の採算がよかった
- [38]当時の年間の砂糖輸入ワクは80万トン
- 上場会社総覧 1956年版
- [39]1955年9月時点の大株主は第一生命保険579,168株・住友信託銀行527,548株・野村証券290,000株・三菱信託銀行222,972株
- [40]総株式数は1,000万株。明治製菓200,000株(6位)、明治商事144,000株(8位)、明治生命保険120,000株(10位)も名を連ねた
明治製糖が甜菜糖工場の申請書を農林大臣に出したのは1958年2月5日である。国内の砂糖消費は年を追って伸びていたが、原料の原糖はほぼすべて海外からの輸入で、日本の製糖業の性格はこの構図によって形づくられてきた。総需要量の9割以上が輸入に頼っていた。これに対して政府は国内での産糖を育てる方針を掲げ、甜菜糖業を守る手立てとして建設資金を低い金利で貸す優遇を用意した。農林省の事務当局が1960年までに甜菜の増産を行うというので、それに合わせて1961年度に公称1,200トンの甜菜糖をつくる計画を立てた。かつて北海道で甜菜の栽培に経験を持っていたが、その仕事を担った清水工場は1945年に手放していた。政府は先に芝浦精糖と北連へ甜菜工場の建設を許可し、1958年10月には芝浦の日産1,200トン工場が操業期に入る運びとなった。
- 実業の世界 1958年
- [41]明治製糖は1958年2月5日、甜菜糖工場の申請書を農林大臣へ提出した
- [43]我が国は砂糖の総需要量の9割以上を輸入に頼っていた。政府は国内産糖の育成方針を樹て、甜菜糖業への保護策として低利の建設資金の貸与などの恩典を設けた
- [45]明治製糖はかつて北海道において甜菜の栽培に経験を持っていた
- [47]政府は芝浦精糖と北連に甜菜工場の建設を許可し、1958年10月には芝浦の日産1,200トン工場が操業期に入る運びとなった
- 東邦経済 1958年「政府の肚一つで左右される 甜菜糖事業の発展」
- [42]砂糖の国内消費は年々増加する一方、原糖の殆どを海外に依存するという特殊事情が日本の製糖事業を性格づけてきた
- [44]明治製糖は1961年度に公称1,200トンの甜菜糖をつくる計画を立てた。農林省の事務当局が1960年までに甜菜の増産を行うというので、それに合わせて立てたもの
- 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
- [46]1945年に清水工場を北海道興農工業株式会社へ売却した
結晶葡萄糖は始めてから1年が経過し、深谷の工場は2トンの試作過程にあった。1年間の研究の結果、政府が売り出そうとする1貫匁185円の澱粉価格では赤字と出た。小塚泰一社長は、台湾で砂糖の製造を始めたころを引き合いに出した。事業が安定するまでに何度も減資を重ねた当時と同じだけの決意がなければ、甜菜糖にも結晶葡萄糖にも手は出せないという。明治製糖は理想の規模を10トン工場と見ていたが、すぐに建てるための具体的な計画は持っていなかった。政府の側では、農産物価格安定法によって買い上げたイモ澱粉4,000万貫が積み上がり、その金利と倉庫料だけで1億何千万円にふくらんでいた。結晶葡萄糖は普通の砂糖の75%の甘さで、この頃の輸入量は3,000トンだった。
- 東邦経済 1958年「政府の肚一つで左右される 甜菜糖事業の発展」
- [48]結晶葡萄糖は始めてから1年が経過し、深谷は2トンの試作過程にあった
- [49]深谷の工場で1年間研究した結果、政府が売り出そうとする1貫匁185円の澱粉価格では赤字と出た
- [50]明治製糖が台湾で砂糖をつくりはじめて軌道にのるまで何回減資したか、その同じ覚悟がなければ甜菜糖も結晶葡萄糖事業もやれないと小塚泰一社長が述べた
- [51]明治製糖は結晶葡萄糖の10トン工場を理想として持っていたが、すぐに建設する具体案は持っていなかった
- [52]政府は農産物価格安定法により買い上げた4,000万貫のイモ澱粉を手持ちしており、その金利・倉敷料は1億何千万円にも達していた
- [53]結晶葡萄糖の甘味は一般の砂糖と比べて75%。当時の結晶葡萄糖の輸入は3,000トン
参考文献[34]-[53]
- 東邦経済 1955年「異常な高収益をあげた明治製糖」
- [34]1955年9月期(半期)は売上高50億8,600万円で、3月期に比べ約6億9,000万円の減収
- [35]計上利益4億6,300万円で3月期より1,500万円の増加、対資本金利益率18割5分、配当3割
- [36]同期の溶糖実績は川崎31,900トン・戸畑10,956トン・合計42,856トンで、3月期より6,000トンの減少。減少は政府の輸入予算が削減されたため
- [37]原糖面では海外市況が概ね軟調で、有利に買付を進めたため製品の採算がよかった
- [38]当時の年間の砂糖輸入ワクは80万トン
- 上場会社総覧 1956年版
- [39]1955年9月時点の大株主は第一生命保険579,168株・住友信託銀行527,548株・野村証券290,000株・三菱信託銀行222,972株
- [40]総株式数は1,000万株。明治製菓200,000株(6位)、明治商事144,000株(8位)、明治生命保険120,000株(10位)も名を連ねた
- 実業の世界 1958年
- [41]明治製糖は1958年2月5日、甜菜糖工場の申請書を農林大臣へ提出した
- [43]我が国は砂糖の総需要量の9割以上を輸入に頼っていた。政府は国内産糖の育成方針を樹て、甜菜糖業への保護策として低利の建設資金の貸与などの恩典を設けた
- [45]明治製糖はかつて北海道において甜菜の栽培に経験を持っていた
- [47]政府は芝浦精糖と北連に甜菜工場の建設を許可し、1958年10月には芝浦の日産1,200トン工場が操業期に入る運びとなった
- 東邦経済 1958年「政府の肚一つで左右される 甜菜糖事業の発展」
- [42]砂糖の国内消費は年々増加する一方、原糖の殆どを海外に依存するという特殊事情が日本の製糖事業を性格づけてきた
- [44]明治製糖は1961年度に公称1,200トンの甜菜糖をつくる計画を立てた。農林省の事務当局が1960年までに甜菜の増産を行うというので、それに合わせて立てたもの
- [48]結晶葡萄糖は始めてから1年が経過し、深谷は2トンの試作過程にあった
- [49]深谷の工場で1年間研究した結果、政府が売り出そうとする1貫匁185円の澱粉価格では赤字と出た
- [50]明治製糖が台湾で砂糖をつくりはじめて軌道にのるまで何回減資したか、その同じ覚悟がなければ甜菜糖も結晶葡萄糖事業もやれないと小塚泰一社長が述べた
- [51]明治製糖は結晶葡萄糖の10トン工場を理想として持っていたが、すぐに建設する具体案は持っていなかった
- [52]政府は農産物価格安定法により買い上げた4,000万貫のイモ澱粉を手持ちしており、その金利・倉敷料は1億何千万円にも達していた
- [53]結晶葡萄糖の甘味は一般の砂糖と比べて75%。当時の結晶葡萄糖の輸入は3,000トン
- 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
- [46]1945年に清水工場を北海道興農工業株式会社へ売却した
筆者考察
戦後の明治製糖は、同じ社名を名乗りながら別の法人である。1950年8月、旧会社の内地資産を現物出資して資本金3,660万円の明糖が設立され、株主には旧株10株につき新株6株が無償で渡された。証券コード2103が指すのはこの明糖であり、1906年創立の会社から引き継いだのは事業と株主、そして砂糖を白くする技術だけであった。終戦から新会社の発足までの5年は、砂糖を作らずに凌いだ期間である。1946年9月に許可を得た倉庫業と製薬業で、川崎の工場は転化糖注射薬を作り、川崎・戸畑・神戸の倉庫は主要食糧と葉煙草を預かった。他社が製造を始めるなかで釜を止めたままだったことは、のちに設備費を他社より3分の1安く上げる形で戻ってくる。
原料地を失ったことは、利益の出方そのものを変えた。1951年12月に川崎を日産235トンで動かして精製糖業へ戻り、1952年9月には戸畑も復旧して、1955年には両工場で日産850トンに達する。だが1955年9月期に売上高が6億9,000万円減ってなお利益が1,500万円増えたのは、設備でも販路でもなく、年80万トンの輸入枠のうち原糖をいつ、いくらで買ったかによる。1958年2月に甜菜糖工場を農林大臣へ申請し、結晶葡萄糖の試作を深谷で続けたのは、買う値段に左右されない原料を内地に持とうとした動きであった。台湾で何度も減資しながら軌道に乗せたときと同じ覚悟が要ると小塚泰一社長が語ったのは、その申請を出した年である。
1946年〜1958年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 103 | n/a | 8 | 6 | 5.8% | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 97 | ▲5.8% | 7 | 8 | 8.2% | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算
出典・参考
8件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
- 上場会社総覧 1956年版
- 東邦経済 1953年「本邦最大の明治製糖と増設全く完了の川崎事業所」
- 東邦経済 1955年「異常な高収益をあげた明治製糖」
- 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
- 実業の世界 1958年
- 東邦経済 1958年「政府の肚一つで左右される 甜菜糖事業の発展」
- DM三井製糖ホールディングス「沿革」(明治製糖株式会社の項)