第1章 年〜年

明治製糖:台南での明治製糖の創立と日本甜菜製糖の合併

1906年〜外国産の糖への依存を断つための台南創立と麻豆初出荷

台湾領有の当初、日本の糖業は含蜜糖をわずかに産出するにとどまり、内需の大部分は外国産の糖に依存していた。欧米に留学して糖業を科学的に研究し、東京高等工業学校教授と台湾総督府技師を兼ねていた相馬半治氏は、官を辞し、小川錦吉氏ほか数氏とともに1906年12月、資本金500万円をもって台湾に明治製糖株式会社を設立した。本社事務所は台南に置き、わが国で4番目の精製糖会社として発足。設立の地は台湾台南州の麻豆街であり、糖業の権威者であった相馬半治氏が中心となって、日本の糖業を発展させ、その自給を確立することを目的に掲げた。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
    • [1]台湾領有当初のわが国の糖業はわずかの含蜜糖を産出するのみで、内需の大部分は外国産の糖に依存する状態だった
    • [2]相馬半治は欧米に留学して糖業を科学的に研究し、東京高等工業学校教授兼台湾総督府技師の職にあった。官を辞し、小川錦吉ほか数氏と相図り、1906年12月に資本金500万円をもって台湾に明治製糖株式会社を設立した
  • DM三井製糖ホールディングス「沿革」(明治製糖株式会社の項)
    • [3]1906年12月、台湾の台南に本社事務所を置き、わが国4番目の精製糖会社として明治製糖株式会社が発足した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
    • [4]旧明治製糖は1906年12月、資本金500万円をもって台湾台南州の麻豆街に設立された。糖業の権威者であった相馬半治が中心となり、わが国糖業の発展およびその自給確立を図ることが目的であった

甘蔗を刈り取って糖に変える設備が動き出すまでには、設立から1年余りを要した。製品が初めて出荷されたのは1908年、麻豆工場からであった。創立以来、相馬半治氏が自ら経営にあたり、有嶋健助氏らがこれを補佐した。原料地に工場を据えた明治製糖は、次に内地の精製設備を取得する。1912年1月、横浜精糖株式会社との合併により川崎工場を継承した。台湾で採れた粗糖を内地で精糖に仕上げる二段構えが、この合併で整った。その川崎工場は1923年9月の関東大震災で倒壊し、1924年に再建を終えた。1936年には川崎研究所が完成した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
    • [5]製品が初めて出荷されたのは1908年、麻豆工場からであった
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
    • [6]創立以来、相馬半治が自ら経営にあたり、有嶋健助らがこれを補佐した
  • DM三井製糖ホールディングス「沿革」(明治製糖株式会社の項)
    • [7]1912年1月、横浜精糖株式会社との合併により川崎工場を継承した
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)年表
    • [8]1923年9月、関東大震災で川崎工場が倒壊し、1924年に再建が完成した
    • [9]1936年に川崎研究所が完成した
参考文献[1]-[9]
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
    • [1]台湾領有当初のわが国の糖業はわずかの含蜜糖を産出するのみで、内需の大部分は外国産の糖に依存する状態だった
    • [2]相馬半治は欧米に留学して糖業を科学的に研究し、東京高等工業学校教授兼台湾総督府技師の職にあった。官を辞し、小川錦吉ほか数氏と相図り、1906年12月に資本金500万円をもって台湾に明治製糖株式会社を設立した
    • [6]創立以来、相馬半治が自ら経営にあたり、有嶋健助らがこれを補佐した
    • [3]1906年12月、台湾の台南に本社事務所を置き、わが国4番目の精製糖会社として明治製糖株式会社が発足した
    • [7]1912年1月、横浜精糖株式会社との合併により川崎工場を継承した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
    • [4]旧明治製糖は1906年12月、資本金500万円をもって台湾台南州の麻豆街に設立された。糖業の権威者であった相馬半治が中心となり、わが国糖業の発展およびその自給確立を図ることが目的であった
    • [5]製品が初めて出荷されたのは1908年、麻豆工場からであった
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)年表
    • [8]1923年9月、関東大震災で川崎工場が倒壊し、1924年に再建が完成した
    • [9]1936年に川崎研究所が完成した

1916年〜粗糖から精糖・酒精・菓子・甜菜糖へ延びた同系会社

粗糖だけを売る会社にとどまらないという構想は、1916年10月25日に相馬半治氏が各重役へ送った製菓事業ニ関スル調査書の冒頭に置かれていた。販路拡張の必要から精製糖工場を合併したうえで増設し、角糖機械を新設し、糖蜜についても同じ事由から酒精工場を新設して増設する。次に要るのは氷糖と粉糖の設備であり、さらに一歩を進めて製菓糖果の事業へ着手すべきだという筋道であった。同年12月、明治製糖は砂糖加工業に着手し、資本金150万円の大正製菓株式会社を創立した。創立委員は相馬半治氏と有嶋健助氏が務めた。大正製菓は1917年1月に東京菓子株式会社となって明治製糖が過半数の株を所有し、1924年9月に明治製菓株式会社と改称した。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
    • [10]明治製糖社長・相馬半治が1916年10月25日に各重役へ送った「製菓事業ニ関スル調査書」の冒頭で、粗糖のみを目的とした会社が精製糖工場の合併・増設、角糖機械の新設、酒精工場の新設・増設を経て、製菓糖果の事業に着手すべきだと述べた
    • [11]相馬半治氏の製菓事業ニ関スル調査書は、販路拡張の必要から精製糖工場を合併して増設し、角糖機械を新設し、糖蜜についても同じ事由から酒精工場を新設して増設したと記す
    • [12]「製菓事業ニ関スル調査書」で相馬半治は、販路拡張の必要上精製糖工場を合併し次いで増設し角糖機械を新設したこと、糖蜜も同様の事由により酒精工場を新設し次いで増設したことを述べ、氷糖・粉糖の製造設備を必要とし、更に一歩を進めて製菓糖果の事業に着手すべきだと記した
    • [13]1916年12月、かねて懸案の砂糖加工業に着手し、資本金150万円の大正製菓株式会社を創立した
    • [14]大正製菓の創立委員を相馬半治と有嶋健助が務めた
    • [15]1917年1月に東京菓子株式会社となって明治製糖が過半数の株を所有し、1924年9月に明治製菓株式会社と改称した

台湾では工場の新設と同業会社の合併・買収を随時行い、製品は粗糖のほか精糖・アルコール・酵母におよび、私設鉄道も経営した。1920年前後には大和製糖を合併して渓湖工場とし、資本金は3,250万円となった。1927年には新明治製糖を合併して烏樹林・南靖の両工場を加え、資本金は4,800万円に増えた。出資の先は台湾の外にも広がった。1918年に資本金500万円のスマトラ興業株式会社を創立してオランダ領スマトラ島東海岸州キサラン附近でゴム栽培に着手し、翌1919年には資本金50万円の明治護謨工業株式会社を設立した。1920年11月には資本金50万円の明治商店が同系会社として設けられ、有嶋健助氏が社長を務めた。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
    • [16]工場の新設と同業会社の合併・買収を随時行い、製品は粗糖のほか精糖・アルコール・酵母におよび、私設鉄道も経営した
    • [17]大和製糖を合併して渓湖工場とし、資本金3,250万円となった
    • [18]1927年に新明治製糖を合併して烏樹林・南靖の両工場とし、資本金4,800万円となった
    • [19]1918年に資本金500万円のスマトラ興業株式会社を創立し、オランダ領スマトラ島東海岸州キサラン附近でゴム栽培に着手した。1919年には資本金50万円の明治護謨工業株式会社を設立した
    • [20]1920年11月に同系の明治商店が設立され、有嶋健助が社長を務めた(資本金50万円)

甘蔗のほかにも原料を求め、明治製糖は北海道と樺太の甜菜へ向かった。1920年に十勝清水へ資本金1,000万円で設立された日本甜菜製糖株式会社は営業不振で経営が困難となり、1922年に同社取締役の原邦造氏から合併の相談があった。相馬半治氏は傍系の明治製菓の北海道進出も考慮してこれを受諾し、1923年6月に明治製糖へ合併した。これが清水工場である。1931年に起きた明糖事件は1932年に再燃し、1933年に解決をみた。甜菜の原料地はさらに北へも広げ、1935年に王子製紙と協同して資本金500万円の樺太製糖株式会社を創立。北海道では1936年に士別工場を新たに設けた。創立30年にあたる1935年には明治製糖株式会社30年史を発行した。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
    • [21]1920年に十勝清水へ資本金1,000万円の日本甜菜製糖株式会社が設立されたが営業不振で経営が困難となり、1922年に同社取締役の原邦造から明治製糖に合併の相談があった
    • [22]相馬半治氏は傍系の明治製菓の北海道進出も考慮して合併を受諾し、1923年6月に日本甜菜製糖を明治製糖へ合併した
    • [23]相馬半治は傍系の明治製菓の北海道進出も考慮してこれを受諾し、1923年6月に明治製糖へ合併した。これが清水工場である
    • [25]1935年に王子製紙と協同して資本金500万円の樺太製糖株式会社を創立した
    • [26]1936年に士別工場を新設した
    • [27]1935年は明治製糖の創立30年にあたり、同年『明治製糖株式会社30年史』を発行した
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)年表
    • [24]1931年に明糖事件が起き、1932年に再燃して1933年に解決した
参考文献[10]-[27]
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
    • [10]明治製糖社長・相馬半治が1916年10月25日に各重役へ送った「製菓事業ニ関スル調査書」の冒頭で、粗糖のみを目的とした会社が精製糖工場の合併・増設、角糖機械の新設、酒精工場の新設・増設を経て、製菓糖果の事業に着手すべきだと述べた
    • [11]相馬半治氏の製菓事業ニ関スル調査書は、販路拡張の必要から精製糖工場を合併して増設し、角糖機械を新設し、糖蜜についても同じ事由から酒精工場を新設して増設したと記す
    • [12]「製菓事業ニ関スル調査書」で相馬半治は、販路拡張の必要上精製糖工場を合併し次いで増設し角糖機械を新設したこと、糖蜜も同様の事由により酒精工場を新設し次いで増設したことを述べ、氷糖・粉糖の製造設備を必要とし、更に一歩を進めて製菓糖果の事業に着手すべきだと記した
    • [13]1916年12月、かねて懸案の砂糖加工業に着手し、資本金150万円の大正製菓株式会社を創立した
    • [14]大正製菓の創立委員を相馬半治と有嶋健助が務めた
    • [15]1917年1月に東京菓子株式会社となって明治製糖が過半数の株を所有し、1924年9月に明治製菓株式会社と改称した
    • [16]工場の新設と同業会社の合併・買収を随時行い、製品は粗糖のほか精糖・アルコール・酵母におよび、私設鉄道も経営した
    • [17]大和製糖を合併して渓湖工場とし、資本金3,250万円となった
    • [18]1927年に新明治製糖を合併して烏樹林・南靖の両工場とし、資本金4,800万円となった
    • [19]1918年に資本金500万円のスマトラ興業株式会社を創立し、オランダ領スマトラ島東海岸州キサラン附近でゴム栽培に着手した。1919年には資本金50万円の明治護謨工業株式会社を設立した
    • [20]1920年11月に同系の明治商店が設立され、有嶋健助が社長を務めた(資本金50万円)
    • [21]1920年に十勝清水へ資本金1,000万円の日本甜菜製糖株式会社が設立されたが営業不振で経営が困難となり、1922年に同社取締役の原邦造から明治製糖に合併の相談があった
    • [22]相馬半治氏は傍系の明治製菓の北海道進出も考慮して合併を受諾し、1923年6月に日本甜菜製糖を明治製糖へ合併した
    • [23]相馬半治は傍系の明治製菓の北海道進出も考慮してこれを受諾し、1923年6月に明治製糖へ合併した。これが清水工場である
    • [25]1935年に王子製紙と協同して資本金500万円の樺太製糖株式会社を創立した
    • [26]1936年に士別工場を新設した
    • [27]1935年は明治製糖の創立30年にあたり、同年『明治製糖株式会社30年史』を発行した
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)年表
    • [24]1931年に明糖事件が起き、1932年に再燃して1933年に解決した

1938年〜資本金6,100万円・従業員5,000名で迎えた終戦

産糖高は1938年度から1939年度にかけて500万ピクル以上に達した。北海道と樺太には甜菜糖工場を、内地と上海には精糖工場を建設または買収していた。1943年には台東製糖を合併し、資本金は6,100万円となった。同じ年の明治製糖は諸積立金1億円を擁し、蔗糖工場8(圧搾能力16,400トン)、甜菜糖工場2(さい断能力1,300トン)、精製糖工場4(製糖能力1,050トン)、アルコール工場6(醸造能力1,230ヘクトリットル)、私設鉄道546マイル、従業員5,000名を抱える四大製糖会社の一つであった。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
    • [28]産糖高は1938年度から1939年度に500万ピクル以上となった
    • [29]北海道・樺太に甜菜糖工場を、内地・上海に精糖工場を建設または買収した
    • [30]1943年に台東製糖を合併し、資本金6,100万円となった
    • [31]1943年時点で資本金6,100万円・諸積立金1億円、蔗糖工場8(圧搾能力16,400トン)、甜菜糖工場2(さい断能力1,300トン)、精製糖工場4(製糖能力1,050トン)、アルコール工場6(醸造能力1,230ヘクトリットル)、私設鉄道546マイル、従業員5,000名を擁し、四大製糖会社の一つとされた

明治製糖の出資は砂糖から離れた領域にも及んだ。1938年に株式会社山越工場へ資本および経営参加を行い、1943年に山越機械株式会社と改称した。山越機械は明治製糖川崎工場の一部を借用し、工作機械の製作にあてた。乳業では、1935年12月に明治製糖が極東煉乳株式会社の株の過半数を引き受け、経営には明治製菓があたった。極東煉乳は1940年12月に明治乳業株式会社と改称し、1943年8月に明治製菓の乳製品部門資産の全部と明治製糖の2牧場を譲り受けた。同系の明治商店も1942年6月に明治商事株式会社へ社名を変更した。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
    • [32]1938年に株式会社山越工場へ資本および経営参加を行い、1943年に山越機械株式会社と改称した
    • [33]山越機械は明治製糖川崎工場の一部を借用して工作機械の製作にあてた
    • [34]1935年12月に明治製糖が極東煉乳株式会社の株の過半数を引き受け、明治製菓がその経営にあたった
    • [35]極東煉乳は1940年12月に明治乳業株式会社と改称した。1943年8月、明治乳業は明治製菓の乳製品部門資産の全部と明治製糖の2牧場を譲り受けた
    • [36]1920年11月に設立された明治商店は1942年6月に明治商事株式会社と改称した

砂糖の外へ広がった出資の一方で、砂糖そのものは国の管理下へ入った。1939年、糖価に公定価格制が実施され、糖業は自由の時代から統制の時代に移った。総生産量の8割以上は台湾産糖であったが、1940年前後の台湾の甘蔗作は米作に押されて作付面積が減り、暴風の被害も予想された。そこで糖業の再編成が提唱され、当時存続した六社のうち帝国製糖が大日本製糖へ、新興製糖が台湾製糖へ合併された。残った大日本製糖・明治製糖・台湾製糖・塩水港製糖の四社が、製糖45工場とアルコール・ブタノール・パルプの各工場を抱えることになった。内地の精製糖工場は1928年の16工場を頂点に、台湾で耕地白糖の設備が普及するにつれて生産高を減らしていた。明治製糖はその間も内地と上海に精糖工場を建設または買収し、北海道と樺太の甜菜糖工場とあわせて砂糖貿易に手を伸ばした。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖 概説
    • [37]昭和14年(1939年)に糖価は公定価格制が実施され、自由時代から統制時代に入った
    • [38]総生産量の80%以上は台湾産糖が占めていた。台湾糖業は昭和15、6年の甘蔗作が米作におされて作付面積が減少し、さらに暴風の被害が予想された
    • [39]糖業の再編成が提唱され、当時存続した六社のうち帝国製糖が大日本製糖に、新興製糖が台湾製糖に合併された
    • [40]大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の四社が、製糖45工場とアルコール工場、ブタノール工場、パルプ工場を経営しつつ終戦と同時に一切を喪失した
    • [41]国内の精製糖工場は最盛期の昭和3年(1928年)に16工場を数え日産能力2,800屯、年製造高867万担に達したが、台湾において耕地白糖の製造設備が次第に普及するとともに精製糖の価値が相対的に低落し、生産高も逐年減少をたどった
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
    • [42]その間北海道、樺太に甜菜糖工場を、内地、上海に精糖工場を建設、買収、合併して寒地農業確立と砂糖貿易振興に寄与するところ多大であった

戦時統制は内地の工場の稼働を止めた。1943年、明治製糖は川崎・神戸・戸畑の3工場を閉鎖。内地で確保していた甜菜糖の原料地も手放し、1944年に士別工場を北海道製糖株式会社へ現物出資したうえ、1945年には清水工場を北海道興農工業株式会社へ売却した。1943年に2つを数えた甜菜糖工場は、これで明治製糖の手元から消えた。1935年に王子製紙と協同して創立した樺太製糖株式会社も、1944年5月に樺太開発株式会社へ包括譲渡した。1945年8月、終戦により外地にあった全資産を失い、内地工場も大半が空襲の損害を被った。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)年表
    • [43]1943年、戦時統制で川崎・神戸・戸畑の3工場を閉鎖した
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
    • [44]1944年に士別工場を北海道製糖株式会社へ現物出資し、1945年に清水工場を北海道興農工業株式会社へ売却した
    • [45]1943年時点の甜菜糖工場は2(さい断能力1,300トン)だった
    • [46]1935年に王子製紙と協同して創立した樺太製糖株式会社を、1944年5月に樺太開発株式会社へ包括譲渡した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
    • [47]終戦とともに外地にあった全資産を失い、内地工場も大半が空襲の損害を被った
参考文献[28]-[47]
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
    • [28]産糖高は1938年度から1939年度に500万ピクル以上となった
    • [29]北海道・樺太に甜菜糖工場を、内地・上海に精糖工場を建設または買収した
    • [30]1943年に台東製糖を合併し、資本金6,100万円となった
    • [31]1943年時点で資本金6,100万円・諸積立金1億円、蔗糖工場8(圧搾能力16,400トン)、甜菜糖工場2(さい断能力1,300トン)、精製糖工場4(製糖能力1,050トン)、アルコール工場6(醸造能力1,230ヘクトリットル)、私設鉄道546マイル、従業員5,000名を擁し、四大製糖会社の一つとされた
    • [32]1938年に株式会社山越工場へ資本および経営参加を行い、1943年に山越機械株式会社と改称した
    • [33]山越機械は明治製糖川崎工場の一部を借用して工作機械の製作にあてた
    • [34]1935年12月に明治製糖が極東煉乳株式会社の株の過半数を引き受け、明治製菓がその経営にあたった
    • [35]極東煉乳は1940年12月に明治乳業株式会社と改称した。1943年8月、明治乳業は明治製菓の乳製品部門資産の全部と明治製糖の2牧場を譲り受けた
    • [36]1920年11月に設立された明治商店は1942年6月に明治商事株式会社と改称した
    • [42]その間北海道、樺太に甜菜糖工場を、内地、上海に精糖工場を建設、買収、合併して寒地農業確立と砂糖貿易振興に寄与するところ多大であった
    • [44]1944年に士別工場を北海道製糖株式会社へ現物出資し、1945年に清水工場を北海道興農工業株式会社へ売却した
    • [45]1943年時点の甜菜糖工場は2(さい断能力1,300トン)だった
    • [46]1935年に王子製紙と協同して創立した樺太製糖株式会社を、1944年5月に樺太開発株式会社へ包括譲渡した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖 概説
    • [37]昭和14年(1939年)に糖価は公定価格制が実施され、自由時代から統制時代に入った
    • [38]総生産量の80%以上は台湾産糖が占めていた。台湾糖業は昭和15、6年の甘蔗作が米作におされて作付面積が減少し、さらに暴風の被害が予想された
    • [39]糖業の再編成が提唱され、当時存続した六社のうち帝国製糖が大日本製糖に、新興製糖が台湾製糖に合併された
    • [40]大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の四社が、製糖45工場とアルコール工場、ブタノール工場、パルプ工場を経営しつつ終戦と同時に一切を喪失した
    • [41]国内の精製糖工場は最盛期の昭和3年(1928年)に16工場を数え日産能力2,800屯、年製造高867万担に達したが、台湾において耕地白糖の製造設備が次第に普及するとともに精製糖の価値が相対的に低落し、生産高も逐年減少をたどった
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)年表
    • [43]1943年、戦時統制で川崎・神戸・戸畑の3工場を閉鎖した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
    • [47]終戦とともに外地にあった全資産を失い、内地工場も大半が空襲の損害を被った

筆者考察

明治製糖の形は、甘蔗の採れる土地に工場を置くという一点で決まった。1906年に台南へ興した会社は、原料地に蔗糖工場を据え、1912年に横浜精糖を合併して川崎の精製設備を取得し、台湾で粗糖を作り内地で精糖に仕上げる二段構えを組み上げた。相馬半治氏が1916年の調査書で描いた道筋——精製糖工場の合併と増設、角糖機械、酒精工場、氷糖と粉糖、そして製菓——は、粗糖の川下へ一段ずつ設備を足していく順序であり、明治製菓も明治乳業も明治商事も、その順序の途中に生まれた会社である。同じ足し方は原料の側にも向かい、1923年に日本甜菜製糖を合併して北海道の清水工場を、1935年には王子製紙と組んで樺太製糖を取得している。甘蔗も甜菜も、原料の採れる土地を先に押さえてから釜を据えるという順序は変わらなかった。

だがこの形は、原料地が国境の外にあることを前提にしていた。1943年の明治製糖は資本金6,100万円・従業員5,000名を数え、蔗糖工場8・精製糖工場4・私設鉄道546マイルを抱える四大製糖会社の一つだったが、その資産の大半は台湾にあった。1939年の公定価格制と1940年前後の再編成で会社の数が六から四へ絞られたときも、明治製糖は残る側にいる。それでも1945年8月の終戦で外地資産は消え、内地に残ったのは空襲を受けた川崎・戸畑・神戸の建屋と、砂糖を白くする技術だけであった。原料地を持つ会社として40年を費やした蓄積のうち、国境を越えて持ち帰れたのは設備でも土地でもなく、人の側にあったものだけである。

明治製糖の資本金 1906年〜1943年(万円)

500 06年 4,800 27年 6,100 43年

出典・参考

5件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「明治製糖」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖 概説
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)「明治製糖株式会社」
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)年表
  • DM三井製糖ホールディングス「沿革」(明治製糖株式会社の項)

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