1947年に設立された湘南糖化工業が起源。
1970年に芝浦精糖・大阪製糖との3社対等合併で三井製糖となり、1984年に機能性甘味料「パラチノース」の生産を始めた。
2021年に大日本明治製糖と経営統合した精製糖の大手で、直近の売上高は1,788億円。
1947年9月、湘南糖化工業が資本金19万5,000円で発足し、神奈川県茅ケ崎市に工場を建設した。社長には創業者の鈴木昇氏が就任。源流は1930年に鈴木昇氏が横浜で創立した鈴木製糖所で、再製糖の業者として事業を始めた。太平洋戦争が激しくなると諸物資はすべて統制の対象となり、事業は操業を止めたまま終戦に至った。DM三井製糖の有価証券報告書は、1947年9月の湘南糖化工業の創立を沿革の最初の行に置いている。戦前の再製糖の事業を、戦後に小さな資本の新会社として興し直したのが出発点だったとみられる。
湘南糖化工業は1948年8月、食糧品配給公団の委託工場となり精製糖の事業に参入した。当時は米や麦が極度に不足し、政府は米軍の援助でキューバ産の粗糖を輸入して小麦の代わりに家庭へ配った。この配給は1947年頃から1948年11月まで続き、輸入量は累計50万トンに達した。陸揚げや輸送の途中で袋が裂けて生じた荷粉糖は、ゴミや砂を含んだまま5,000トン弱に積み上がった。その精製を担う工場の建設が要請され、湘南糖化工業のほかに大阪製糖とフジ製糖が事業を始めた。前年9月に創立した湘南糖化工業は、1年足らずで再製糖から精製糖へ業態を移した。砂糖を作り直す技術を持つ業者だったことが、荷粉糖の処理という政府の要請と合致したと推察される。
1949年1月、湘南糖化工業は工場を茅ケ崎から横浜市西区西平沼町へ移し、日産精製能力30トンの設備を完成させた。同じ月に商号を横浜精糖へ変更した。改称は体制の強化を狙ったものだった。ただし当時の政府には糖業政策と呼べる方針がなく、原料糖の輸入は占領軍のガリオア資金による分に限られた。輸入の時期も占領軍が一方的に決めたため不定期となり、工場は思うように操業できず、経営は安定しなかった。西平沼町に建てた横浜工場は、その後15年余り稼働を続けて設備の老朽化が進んだ。委託加工で得た精糖の仕事を本業に据えたものの、原料の調達を自社で左右できない状態が続いたのだろう。
1950年春、政府はドル資金で粗糖を輸入し、輸入原料糖をすべて国内で加工精製する方針を確立した。これにより精製糖業は原料の入手に見通しを得た。1952年4月には砂糖の統制が解除され、自由販売の制度へ移った。一方で原料糖の輸入は外貨割当制度の下に残り、国内の需給が調整されたため、精糖業界は1斤600グラムにつき10円の利益を得る「斤十族」の時代を迎えた。1949年1月に横浜精糖へ改称した会社も業績を拡大した。日産能力は1949年1月の30トンから1952年1月には180トンへ増えた。輸入枠の割当が利幅を事実上保証したため、増設した能力がそのまま収益に結びついたと思われる。
横浜精糖は業容をさらに拡大するため株式の公開を決め、1953年12月に東京証券取引所へ上場を申請し、受理された。有価証券報告書の沿革も、1953年12月を東京証券取引所への上場の月としている。社史は、上場を機に横浜精糖が精糖業界の中核会社の地位を確立したと位置づけている。資本金は1947年9月の19万5,000円から、1953年5月には1億2,000万円に増えていた。上場の翌年の1954年3月には、日産能力が420トンに達した。外貨割当で利益が見込める時期に上場し、設備増強の資金を株式市場から調達する経路を整えたと考えられる。
1961年10月、横浜精糖は大阪証券取引所にも株式を上場した。資本金は1959年9月の3億円から、1961年3月には6億円へ倍増していた。この間の1959年2月、食糧庁は砂糖類の90%を輸入に依存する状態から脱するため、甘味資源の自給力を強める基本方針を打ち出した。横浜精糖はこれを受け、徳之島と琉球本島で甘蔗糖の事業に参画し、岡山では暖地ビートの工場を拠点に事業を広げた。甘蔗糖は採算を確保した一方、岡山の暖地ビートは事前調査の不足から失敗した。増資を重ねながら新規事業へ投資する時期に、関西でも株主を募る必要があったのではないか。
1963年8月、政府は粗糖の輸入自由化を決め、粗糖の割当枠は意味を失った。横浜精糖は行き詰まった岡山の暖地ビートに代わり、政府が育成する結晶ぶどう糖に着目していた。ぶどう糖の生産と連動して年1万トンの粗糖割当を受けることを見込み、1960年6月に岡山工場でぶどう糖の操業を始めた。自由化でこのリンクの前提が消え、ぶどう糖事業は苦境に入った。業界でも操業の限度枠が撤廃され、各社は合理化と新鋭工場の増設、シェア拡大を競い、糖価の低迷が経営を圧迫した。1953年に東京、1961年に大阪の取引所へ上場した横浜精糖も、生き残りの競争に入った。割当に依存した収益の構造が、自由化で一度に崩れたとみられる。
横浜精糖は芝浦精糖と業務提携し、商標をスプーン印に統一して安値販売からの脱出を図った。1965年10月には老朽化した横浜工場を閉鎖し、岡山に新しい精糖工場を建てることを決め、1966年5月に岡山精糖工場が完成を迎えた。農林当局は、企業合同をはじめとする業界合理化を全面的に支援する方針を示した。1968年、三井物産とトーメンの斡旋で芝浦精糖・横浜精糖・大阪製糖の3社合併の素案がまとまり、覚書の作成に進んだ。同年8月には合併覚書に調印することも決まった。3社は1970年11月に対等合併し、資本金10億円の横浜精糖が商号を三井製糖に変更した。スプーン印で先に結んだ芝浦精糖との提携が、3社の組み合わせの下地になったと推測される。
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事実根拠:出所(DM三井製糖)