第2章 年〜年

大日本製糖:東洋製糖・新高製糖・帝国製糖の合併と日糖興業への改称

1910年〜藤山雷太氏の再建と、台湾・朝鮮・ジャワへ展開した原料地

藤山雷太氏の長男の愛一郎氏は1930年の暮に監査役として入り、1932年に常務へ進んだが、事業の方針をめぐって社長である父と激しく衝突した。その背景には父の側の強い自負がある。社長に就いた藤山雷太氏は、古い債務と滞っていた税金を払い終え、事業の中身を固めていた。大日本製糖は自分が持つ会社で、一度倒れたのを立て直したのも自分であり、筆頭株主も自分だ——そう考える藤山雷太氏は、周囲から傍若無人に見える振る舞いに及ぶことがあった。整理にあたって私財を差し出した経緯からすれば、その自負は根拠を欠くものではなかった。

  • 私の履歴書 経済人2「藤山愛一郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [1]藤山愛一郎は昭和5年の暮に大日本製糖の監査役として入り、昭和7年に常務となり、常務のときに社長の父と事業方針のことで大げんかをした。
    • [3]父は大日本製糖を建て直したのちは同社について少なからざる自負心を持ち、「大日本製糖はおれのものだ」「いったんつぶれた会社を建直したのはこのおれだ」「一番の大株主もおれだ」という考えからかなり傍若無人の振舞をすることがあった。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [2]明治42年に藤山雷太氏が社長に就任し、社業の充実を図った。

再建の先に置かれた軸は、台湾の原料地であった。日清戦争後の台湾では政府の助成金を背にした大企業計画が進み、原料甘蔗の生産農業と砂糖製造工業が並んで建てられていた。大正末期から1939年にかけて日本の産糖は増え続け、総生産量の8割以上を台湾産糖が占めた。粗糖中心への転換を1906年に掲げた大日本製糖にとって、台湾に事業地を持つことは方針をそのまま実行に移すことであった。原料の甘蔗を島で育て、粗糖に挽き、内地の工場で白い砂糖へ仕上げるまでが一つの会社の中に収まる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [4]明治42年ごろより台湾に事業地を開拓し、海外進展の第一歩を踏んだ。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [5]政府は莫大な助成金をもって、台湾に原料甘蔗生産農業と砂糖製造工業の両面建ての大企業計画を立てた。
    • [6]大正末期から昭和14、15年にかけてわが国糖業は著しい飛躍を遂げ、総生産量の80%以上は台湾産糖が占めていた。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [7]明治39年に大日本製糖と改称するとともに、事業の方針を内地精糖中心から粗糖中心へと転換した。

原料地の拡張は台湾にとどまらなかった。1919年に朝鮮製糖を合併して朝鮮における甜菜糖業を営み、1923年には内外製糖を合併してジャワのゲダレン農作会社を所有経営し、ジャワ糖業への進出に至った。台湾糖業を中心に東南アジアへ広げた事業は砂糖だけにとどまらず、酵母、アルコール、ブタノール、酪農を含む総合事業の形を取った。朝鮮では甜菜を、台湾とジャワでは甘蔗を原料に取り、糖蜜から酵母やアルコールを起こす組み立てである。原料を買う立場から出発した会社が、二つの原料作物を自ら育て、副産物まで製品に変える構えへ移っていったことになる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [8]大正8年に朝鮮製糖を合併して朝鮮における甜菜糖業を営み、大正12年には内外製糖を合併してジャワのゲダレン農作会社を所有経営し、ジャワ糖業への進出をみるに至った。
    • [10]内地、朝鮮、台湾、ジャワ、海南島、沖縄、大東島等に20数工場を擁し、砂糖、酒精、高級燃料、酵母、デリス、燐鉱石、農林、牧畜等の各種事業を経営した。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [9]台湾糖業を中心に東南アジアで砂糖、酵母、アルコール、ブタノール、酪農など総合事業を営んだ。
参考文献[1]-[10]
  • 私の履歴書 経済人2「藤山愛一郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [1]藤山愛一郎は昭和5年の暮に大日本製糖の監査役として入り、昭和7年に常務となり、常務のときに社長の父と事業方針のことで大げんかをした。
    • [3]父は大日本製糖を建て直したのちは同社について少なからざる自負心を持ち、「大日本製糖はおれのものだ」「いったんつぶれた会社を建直したのはこのおれだ」「一番の大株主もおれだ」という考えからかなり傍若無人の振舞をすることがあった。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [2]明治42年に藤山雷太氏が社長に就任し、社業の充実を図った。
    • [4]明治42年ごろより台湾に事業地を開拓し、海外進展の第一歩を踏んだ。
    • [8]大正8年に朝鮮製糖を合併して朝鮮における甜菜糖業を営み、大正12年には内外製糖を合併してジャワのゲダレン農作会社を所有経営し、ジャワ糖業への進出をみるに至った。
    • [10]内地、朝鮮、台湾、ジャワ、海南島、沖縄、大東島等に20数工場を擁し、砂糖、酒精、高級燃料、酵母、デリス、燐鉱石、農林、牧畜等の各種事業を経営した。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [5]政府は莫大な助成金をもって、台湾に原料甘蔗生産農業と砂糖製造工業の両面建ての大企業計画を立てた。
    • [6]大正末期から昭和14、15年にかけてわが国糖業は著しい飛躍を遂げ、総生産量の80%以上は台湾産糖が占めていた。
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
    • [7]明治39年に大日本製糖と改称するとともに、事業の方針を内地精糖中心から粗糖中心へと転換した。
    • [9]台湾糖業を中心に東南アジアで砂糖、酵母、アルコール、ブタノール、酪農など総合事業を営んだ。

1927年〜産糖協定の抜け道と、東洋製糖の合併

1928年の最盛期、内地の精製糖工場は16を数え、日産で2,800屯を処理する能力と、年に867万担の製造高を備えていた。第一次大戦後の不況期、業界は生産量や供給量、価格を企業間の取り決めで縛ろうとし、砂糖でも値崩れを防ぐ産糖協定を結んで、内地で精糖をどれだけ作るかを割り当てていた。工場が増えて能力が膨らむにつれ、業界で分け合った生産枠を各社に守らせる負担は重みを増した。もっとも当時のカルテルの統制力は強いとはいえず、1930年の大恐慌に至るまで協定は実効を欠いた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [11]国内の精製糖工場は最盛期の昭和3年には16工場を数え、日産能力は2,800屯、年製造高も867万担に達した。
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 通史「カルテル大繁盛」
    • [12]第一次大戦後の不況のなかで業界は生産や供給量、価格などをカルテルによって統制しようとしたが、昭和5年の大恐慌にあうまではとかく「ぬかにクギ」の状態だった。
    • [13]砂糖業界は価格維持のために「産糖協定」をつくり、内地について精糖の生産量を決めていた。
    • [14]業界は生産や供給量、価格などをカルテルによって統制しようとしたが、昭和5年の大恐慌にあうまではとかく「ぬかにクギ」の状態だった。

大日本製糖は1919年に朝鮮製糖を合併し、朝鮮で甜菜糖業を営んでいたため、現地に工場を持っていた。協定の網には穴が開いていた。朝鮮は協定の対象外の市場であり、大会社は系列の糖商と組んで砂糖をそこへ送り出し、それを内地へ戻して自社の出荷量を膨らませる方法を考え出した。各社がこれを競い合った結果、糖価は崩れた。糖業連合会は1927年12月初め、糖商による逆移入にも会社が責任を持つと定めた。ところがその直後の12月15日、大日本製糖が平壌工場から2万5,000ピクルを移入していたことが明るみに出て、大問題に発展した。違反の扱いが決まる前に、明治製糖が次年度に売るはずの新糖5,000ピクルを市場に出し、業界の混乱は手の付けようがなくなった。1928年の産糖協定は合意に至らず、低い糖価のもとで業界は苦しんだ。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [15]大正8年に朝鮮製糖を合併し、朝鮮における甜菜糖業を営んだ。
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 通史「カルテル大繁盛」
    • [16]大会社が自社系の糖商と結んで協定外の地域である朝鮮市場にいったん移出した砂糖を逆移入して自社の供給量をふやすという抜け道を考え出し、互いに競争しはじめたから糖価は崩落した。
    • [17]昭和2年12月早々に糖業連合会は糖商の行いたる逆移入につきても会社は責任を負うことを決めたが、その直後の12月15日、大日本製糖が平壌工場から2万5,000ピクルを移入したことが判明して大問題になった。
    • [18]協定に違反した日糖の処分が決まらぬうちに、こんどは明治製糖が5,000ピクルの次年度販売分の新糖を売り出したから業界は収拾のつかぬ混乱に陥った。
    • [19]この結果、昭和3年には産糖協定はまとまらず、糖価は低迷して業界は不振にあえいだ。

恐慌を経て旧財閥が力を強め、体力のない企業を支配下に置く動きが広がっていた。大戦後から昭和初年にかけては、独占的な企業支配が出来上がった期間とみてよい。価格を協定で維持できないなら、協定を結ぶ相手の数を減らしたほうが話は早い。台湾に原料地を持つ会社を傘下に入れれば、内地の生産枠の奪い合いは一社の中での割り振りに変わる。糖価の崩れた1927年、大日本製糖は東洋製糖を合併した。これを手始めに、1935年の新高製糖、1940年の昭和製糖、1941年の帝国製糖、1943年の中央製糖と合併が続いた。

  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 通史「カルテル大繁盛」
    • [20]恐慌の中で旧財閥の支配力が強まり弱い企業を傘下に収めていった。大戦後から昭和初年にかけての期間はわが国で独占的な企業支配が完成した時期といっていい。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [21]昭和2年に東洋製糖を合併した。
    • [22]昭和2年に東洋製糖、10年に新高製糖、15年に昭和製糖、16年に帝国製糖、18年に中央製糖を相次いで合併した。
参考文献[11]-[22]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [11]国内の精製糖工場は最盛期の昭和3年には16工場を数え、日産能力は2,800屯、年製造高も867万担に達した。
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 通史「カルテル大繁盛」
    • [12]第一次大戦後の不況のなかで業界は生産や供給量、価格などをカルテルによって統制しようとしたが、昭和5年の大恐慌にあうまではとかく「ぬかにクギ」の状態だった。
    • [13]砂糖業界は価格維持のために「産糖協定」をつくり、内地について精糖の生産量を決めていた。
    • [14]業界は生産や供給量、価格などをカルテルによって統制しようとしたが、昭和5年の大恐慌にあうまではとかく「ぬかにクギ」の状態だった。
    • [16]大会社が自社系の糖商と結んで協定外の地域である朝鮮市場にいったん移出した砂糖を逆移入して自社の供給量をふやすという抜け道を考え出し、互いに競争しはじめたから糖価は崩落した。
    • [17]昭和2年12月早々に糖業連合会は糖商の行いたる逆移入につきても会社は責任を負うことを決めたが、その直後の12月15日、大日本製糖が平壌工場から2万5,000ピクルを移入したことが判明して大問題になった。
    • [18]協定に違反した日糖の処分が決まらぬうちに、こんどは明治製糖が5,000ピクルの次年度販売分の新糖を売り出したから業界は収拾のつかぬ混乱に陥った。
    • [19]この結果、昭和3年には産糖協定はまとまらず、糖価は低迷して業界は不振にあえいだ。
    • [20]恐慌の中で旧財閥の支配力が強まり弱い企業を傘下に収めていった。大戦後から昭和初年にかけての期間はわが国で独占的な企業支配が完成した時期といっていい。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [15]大正8年に朝鮮製糖を合併し、朝鮮における甜菜糖業を営んだ。
    • [21]昭和2年に東洋製糖を合併した。
    • [22]昭和2年に東洋製糖、10年に新高製糖、15年に昭和製糖、16年に帝国製糖、18年に中央製糖を相次いで合併した。

1934年〜台湾糖業の再編成と、外地に保有した資産の喪失

1934年、藤山雷太氏は社長を辞任し、藤山愛一郎氏が後を継いだ。藤山愛一郎氏は1930年の暮に監査役、1932年に常務を経ての就任で、父が残した人材に支えられて職務をこなしたと自ら述べている。社長就任の翌々年には、台湾製糖社長の武智直道氏の後を継いで日本糖業連合会の会長に推された。父が私財を投げ出して整理に入った会社を、息子は業界の統制を仕切る立場から引き継いだことになる。藤山雷太氏はそれから2年ほどで没し、常務時代に事業方針をめぐって衝突した相手はいなくなった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [23]昭和9年に藤山雷太氏は社長を辞任し、藤山愛一郎氏が社長に就任した。
  • 私の履歴書 経済人2「藤山愛一郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [24]藤山愛一郎は昭和5年の暮に監査役として入り、昭和7年に常務、昭和9年に社長に就任した。大日本製糖社長としての勤めは父が残したよきスタッフの盛り立てでどうにかこなすことができたと述べている。
    • [25]大日本製糖社長になった翌々年に、台湾製糖社長武智直道氏の後を継いで日本糖業連合会の会長に推された。
    • [26]熱海での和解から父はそれから二年ほどして亡くなった。

糖業連合会の仕事は、原糖の価格協定と台湾糖の輸送運賃協定の二つが大きかった。原糖の価格交渉では製糖会社が買手と売手に分かれ、連合会を舞台にした折衝が毎年9月から大晦日まで続いた。運賃協定では製糖会社が連合会を中心に一本にまとまり、日本郵船、大阪商船、山下汽船といった船会社の連合軍と団体交渉を行った。藤山愛一郎氏はこの会長職を、1941年に東京と日本の両商工会議所会頭に選ばれるまで約5年間続けている。台湾から内地へ運ぶ距離そのものが、業界の共同行動を必要にさせていた。

  • 私の履歴書 経済人2「藤山愛一郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [27]そのころの糖業連合会は原糖の価格協定と台湾糖の輸送運賃協定問題が大きな仕事であった。
    • [28]製糖会社の間で買手と売手に分れ、原糖の価格をいくらにするかという交渉は糖業連合会を舞台に、毎年9月から大晦日まで続いた。
    • [29]運賃協定も製糖会社は糖業連合会を中心に一本にまとまり、日本郵船、大阪商船、山下汽船など船会社の連合軍と一種の団体交渉をやった。
    • [30]糖業連合会会長としての仕事は昭和16年に東京、日本両商工会議所会頭に選ばれるまで約5カ年間続けた。

1939年、糖価に公定価格制が実施され、糖業は自由の時代から統制の時代に入った。1940年から1941年にかけては甘蔗作が米作に押されて作付面積が減り、暴風の被害も予想されたことから、糖業の再編成が提唱された。当時存続していた六社のうち、帝国製糖が大日本製糖に、新興製糖が台湾製糖に合併され、大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の四社体制が残った。大日本製糖はこの過程で1935年に新高製糖、1940年に昭和製糖、1941年に帝国製糖、1943年に中央製糖を相次いで合併し、台湾糖業の再編成を完了させている。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [31]昭和14年に糖価は公定価格制が実施され、自由時代から統制時代に入った。
    • [32]台湾糖業も昭和15、16年の甘蔗作は米作におされて作付面積が減少し、さらに暴風の被害が予想されて糖業の再編成が提唱された。
    • [33]当時存続した六社のうち帝国製糖が大日本製糖に、新興製糖が台湾製糖に合併され、大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の四社が残った。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [34]昭和2年に東洋製糖、10年に新高製糖、15年に昭和製糖、16年に帝国製糖、18年に中央製糖を相次いで合併し、台湾糖業の再編成を完了した。

1943年、資本金を1億5,000万円として商号を日糖興業と改めた。事業は東亜の各地域に広がり、内地、朝鮮、台湾、ジャワ、海南島、沖縄、大東島に20数工場を擁して、砂糖、酒精、高級燃料、酵母、デリス、燐鉱石、農林、牧畜の各種事業を経営した。砂糖は東洋最大の生産力を持ち、日本の全領域消費量の約3分の1を供給している。しかし太平洋戦争の終結とともに海外の事業設備は一切が連合国側に接収され、本店を台湾に置く外地会社であったため、門司工場など国内の財産まで連合国側の管理下に入った。四社が経営していた製糖45工場とアルコール、ブタノール、パルプの各工場は、終戦と同時にすべて失われた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [35]昭和18年に資本金を1億5,000万円とし、日糖興業と改称した。
    • [36]事業は東亜の各地域にわたり広く進展し、内地、朝鮮、台湾、ジャワ、海南島、沖縄、大東島等に20数工場を擁し、砂糖、酒精、高級燃料、酵母、デリス、燐鉱石、農林、牧畜等の各種事業を経営した。
    • [37]特に砂糖は東洋最大の生産力を有し、日本全領域消費量の約3分の1を供給した。
    • [38]太平洋戦争終熄とともに海外の事業設備一切は連合国側に接収されたのみならず、本店を台湾に有する外地会社であったため、現門司工場その他の国内財産も連合国側の管理するところとなった。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [39]大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の四社が製糖45工場とアルコール工場、ブタノール工場、パルプ工場を経営しつつ終戦と同時に一切を喪失した。
参考文献[23]-[39]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
    • [23]昭和9年に藤山雷太氏は社長を辞任し、藤山愛一郎氏が社長に就任した。
    • [34]昭和2年に東洋製糖、10年に新高製糖、15年に昭和製糖、16年に帝国製糖、18年に中央製糖を相次いで合併し、台湾糖業の再編成を完了した。
    • [35]昭和18年に資本金を1億5,000万円とし、日糖興業と改称した。
    • [36]事業は東亜の各地域にわたり広く進展し、内地、朝鮮、台湾、ジャワ、海南島、沖縄、大東島等に20数工場を擁し、砂糖、酒精、高級燃料、酵母、デリス、燐鉱石、農林、牧畜等の各種事業を経営した。
    • [37]特に砂糖は東洋最大の生産力を有し、日本全領域消費量の約3分の1を供給した。
    • [38]太平洋戦争終熄とともに海外の事業設備一切は連合国側に接収されたのみならず、本店を台湾に有する外地会社であったため、現門司工場その他の国内財産も連合国側の管理するところとなった。
  • 私の履歴書 経済人2「藤山愛一郎」(日本経済新聞社、1980年)
    • [24]藤山愛一郎は昭和5年の暮に監査役として入り、昭和7年に常務、昭和9年に社長に就任した。大日本製糖社長としての勤めは父が残したよきスタッフの盛り立てでどうにかこなすことができたと述べている。
    • [25]大日本製糖社長になった翌々年に、台湾製糖社長武智直道氏の後を継いで日本糖業連合会の会長に推された。
    • [26]熱海での和解から父はそれから二年ほどして亡くなった。
    • [27]そのころの糖業連合会は原糖の価格協定と台湾糖の輸送運賃協定問題が大きな仕事であった。
    • [28]製糖会社の間で買手と売手に分れ、原糖の価格をいくらにするかという交渉は糖業連合会を舞台に、毎年9月から大晦日まで続いた。
    • [29]運賃協定も製糖会社は糖業連合会を中心に一本にまとまり、日本郵船、大阪商船、山下汽船など船会社の連合軍と一種の団体交渉をやった。
    • [30]糖業連合会会長としての仕事は昭和16年に東京、日本両商工会議所会頭に選ばれるまで約5カ年間続けた。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
    • [31]昭和14年に糖価は公定価格制が実施され、自由時代から統制時代に入った。
    • [32]台湾糖業も昭和15、16年の甘蔗作は米作におされて作付面積が減少し、さらに暴風の被害が予想されて糖業の再編成が提唱された。
    • [33]当時存続した六社のうち帝国製糖が大日本製糖に、新興製糖が台湾製糖に合併され、大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の四社が残った。
    • [39]大日本製糖、明治製糖、台湾製糖、塩水港製糖の四社が製糖45工場とアルコール工場、ブタノール工場、パルプ工場を経営しつつ終戦と同時に一切を喪失した。

筆者考察

藤山雷太氏が引き受けたのは旧債と滞納税金を返す仕事だったが、返し終えた先に選んだのは会社を大きくする方向であった。朝鮮製糖、内外製糖、東洋製糖、新高製糖、昭和製糖、帝国製糖、中央製糖と、35年のあいだに七つの製糖会社を順に取り込み、内地、朝鮮、台湾、ジャワ、海南島、沖縄、大東島に20数工場を並べた。砂糖は東洋最大の生産力を持ち、日本の全領域消費量の約3分の1を供給するに至る。精製の工程だけを担っていた会社が、原料地から製品までを握る側へ完全に回ったことになる。

ただし規模を積む場所は、どこも国境の外か、のちに国境の外になる土地であった。1927年に平壌工場から2万5,000ピクルを逆移入して産糖協定を破ったのも、朝鮮を協定外の市場として使えたからである。糖業連合会の統制は破る側の利益が上回れば持たず、それを最後に仕切ったのは制度ではなく合併だった。1943年、資本金を1億5,000万円として日糖興業と改称した会社の本店は台湾にあり、敗戦とともに海外の設備は接収され、外地会社として内地財産まで管理下に入る。積み上げた資産の置き場所が、そのまま失い方を決めた。

大日本製糖が合併した製糖会社の累計 1919年の朝鮮製糖から1943年の中央製糖まで(社)

1 19年 朝鮮製糖 2 23年 内外製糖 3 27年 東洋製糖 4 35年 新高製糖 5 40年 昭和製糖 6 41年 帝国製糖 7 43年 中央製糖
  • 出所は会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」。

出典・参考

5件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
  • 日本産業史(日経文庫)第1巻 通史「カルテル大繁盛」
  • 私の履歴書 経済人2「藤山愛一郎」(日本経済新聞社、1980年)

免責事項およびポリシー