大日本製糖:鈴木製糖所の開設と日糖疑獄事件の発覚
1890年〜輸入糖が需要の8割を占めた内地に生まれた二つの精製糖会社
大日本製糖の事業は、鈴木藤三郎氏が1890年に東京の砂村へ開設した鈴木製糖所に始まる。鈴木藤三郎氏は1895年12月、同じ砂村に資本金30万円で日本精製糖を設立した。この日本精製糖が大日本製糖の母体であり、設立後は増資を重ねた。安政の開港以来、安い外国糖が続々と輸入されて内地の糖業は衰え、明治初年には砂糖と綿花の輸入額が輸入全体の約半分を占めた。1891年には新式製糖機械を備えた甜菜糖の官営工場が北海道に建設されたが、安価な甘蔗糖に押されて1895年に作業を中止し、国内需要の約8割は輸入糖でまかなわれていた。新式砂糖工業の先駆けと呼ばれた鈴木藤三郎氏が選んだのは、甘蔗を育てる側ではなく、輸入した粗糖を白い砂糖へ仕上げる側であった。
- 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
- [1]1890年、鈴木藤三郎氏が東京の砂村に鈴木製糖所を開設した。
- [2]1895年12月、東京の砂村に資本金30万円で日本精製糖を設立した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
- [3]大日本製糖の歴史は鈴木藤三郎氏が資本金30万円で創設した日本精製糖に始まり、以後増資を重ねた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
- [4]安政開港以来、安い外国糖が続々と輸入されて内地糖業は衰微し、明治初年には砂糖と綿花の輸入額が輸入の約半ばを占めた。
- [5]明治24年に新式製糖機械を持つ甜菜糖官営工場が北海道に建設されたが、甜菜糖より安価な甘蔗糖に圧倒されて明治28年に作業中止となり、当時の需要の約8割は輸入糖でまかなっていた。
渋沢栄一氏は1889年に佐野常樹氏を綿業事情の視察でインドへ派遣する際、南洋の糖業事情もあわせて調べるよう依頼した。その報告を受けて渋沢栄一氏は日本にも精製糖業を興すことを決め、1894年2月16日に松本重太郎氏らと精糖事業調査会を組織し、精糖の試験と海外調査にあたった。調査会は1895年12月22日に日本精糖の設立を決議して創業総会を開き、12月26日に設立免許を申請、翌1896年1月15日に免許が下り、渋沢栄一氏は取締役に就任した。日本精糖は精糖用の諸機械を英国から購入し、1898年6月15日に操業を開始した。同じ1895年には香川県八重山島にも甘蔗を原料とする製糖工場が設立されている。砂村の日本精製糖と小名木川の日本精糖は、いずれも原料を海の外から買い入れることを前提に設計されていた。
- 農畜産業振興機構 2025年1月「渋沢栄一と製糖業~日本の製糖業の変遷~」
- [6]1889年に佐野常樹を綿業事情視察のためインドへ派遣する際、渋沢栄一は南洋の糖業事情についても調査するよう依頼した。
- [7]その結果を受けて日本にも精製糖業を興そうと考え、1894年2月16日に松本重太郎らとともに精糖事業調査会を組織して精糖試験および海外調査に従事した。
- [8]1895年12月22日、精糖事業調査会にて日本精糖株式会社の設立を決定して創業総会を開催、12月26日に設立免許を申請し、翌年1月15日に免許が下りて渋沢栄一は取締役に就任した。
- [9]日本精糖は精糖用諸機械を英国より購入し、1898年6月15日に操業を開始した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
- [10]明治28年に甜菜糖官営工場が作業中止となると同時に香川県八重山島に甘蔗原料による製糖工場が設立され、以後政府と民間先駆有志者の努力によって国内砂糖工業もようやく実を結んだ。
参考文献[1]-[10]
- 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
- [1]1890年、鈴木藤三郎氏が東京の砂村に鈴木製糖所を開設した。
- [2]1895年12月、東京の砂村に資本金30万円で日本精製糖を設立した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
- [3]大日本製糖の歴史は鈴木藤三郎氏が資本金30万円で創設した日本精製糖に始まり、以後増資を重ねた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
- [4]安政開港以来、安い外国糖が続々と輸入されて内地糖業は衰微し、明治初年には砂糖と綿花の輸入額が輸入の約半ばを占めた。
- [5]明治24年に新式製糖機械を持つ甜菜糖官営工場が北海道に建設されたが、甜菜糖より安価な甘蔗糖に圧倒されて明治28年に作業中止となり、当時の需要の約8割は輸入糖でまかなっていた。
- [10]明治28年に甜菜糖官営工場が作業中止となると同時に香川県八重山島に甘蔗原料による製糖工場が設立され、以後政府と民間先駆有志者の努力によって国内砂糖工業もようやく実を結んだ。
- [6]1889年に佐野常樹を綿業事情視察のためインドへ派遣する際、渋沢栄一は南洋の糖業事情についても調査するよう依頼した。
- [7]その結果を受けて日本にも精製糖業を興そうと考え、1894年2月16日に松本重太郎らとともに精糖事業調査会を組織して精糖試験および海外調査に従事した。
- [8]1895年12月22日、精糖事業調査会にて日本精糖株式会社の設立を決定して創業総会を開催、12月26日に設立免許を申請し、翌年1月15日に免許が下りて渋沢栄一は取締役に就任した。
- [9]日本精糖は精糖用諸機械を英国より購入し、1898年6月15日に操業を開始した。
1899年〜台湾製糖の設立で生まれた原料地と、日本精糖の合併による商号の変更
日本の製糖業が近代工業として立ち上がったのは、日清戦争によって甘蔗の栽培に適した台湾を領有してからであった。政府は莫大な助成金を用意し、台湾に原料甘蔗の生産農業と砂糖製造工業を並べて建てる大企業計画を立てた。1900年12月、三井財閥の巨額の出資により、その計画に沿う大規模な新式製糖会社として台湾製糖が設立された。これを機に製糖会社の創設が相次ぎ、明治の末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖が生まれている。内地でも精製糖工場の増設が進み、北海道の甜菜糖業の復活、沖縄糖業の強化、南洋庁への新式製糖工場の新設と、国内消費の自給を目指す動きが重なった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
- [11]日清戦争によって甘蔗栽培に適した台湾を領有するに及んで、近代工業としての製糖業が生まれた。
- [12]政府は莫大な助成金をもって、台湾に原料甘蔗生産農業と砂糖製造工業の両面建ての大企業計画を立てた。
- [13]明治33年12月、三井財閥の巨額の出資により大規模な新式製糖会社として台湾製糖が設立された。これが現在の台糖の前身である。
- [14]明治の末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖等が創設され、さらに大正初期に四社の設立をみた。
- [15]国内では精製糖工場を増設、北海道の甜菜糖業の復活、沖縄糖業の強化、南洋庁に新式製糖工場の新設等、国内消費の自給を目ざして発展した。
1906年、日本精製糖は日本精糖を合併し、商号を大日本製糖と改めた。合併は日本精糖の側で渋沢栄一氏が経営の統合に合意して成り、創業者の鈴木藤三郎氏は同年11月に辞任して経営から退いた。日本精製糖は1896年1月に資本金30万円で発足してから増資を重ねており、合併はその延長線上に置かれていた。英国製の機械で1898年6月に操業を始めた日本精糖と、砂村で出発した日本精製糖とが、ここで一つの会社になった。会社を興した技術者が去り、二つの資本が一つにまとまったところから、大日本製糖という名の会社は動き出している。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
- [16]明治39年に日本精糖を合併し、商号を大日本製糖と改めた。
- [18]明治29年1月、鈴木藤三郎氏が資本金30万円をもって東京小名木川に日本精製糖を創設し、爾後増資を重ねた。
- 農畜産業振興機構 2025年1月「渋沢栄一と製糖業~日本の製糖業の変遷~」
- [17]1906年11月、日本精糖株式会社は渋沢栄一による日本精製糖と経営の統合に合意し、鈴木藤三郎が辞任して経営を退いた。
- [19]日本精糖は精糖用諸機械を英国より購入し、1898年6月15日に操業を開始した。
商号の変更と同時に、大日本製糖は事業の方針を内地精糖中心から粗糖中心へ転換した。台湾で耕地白糖の製造設備が次第に普及すると、輸入した粗糖を白砂糖へ仕上げる精製糖の価値は相対的に低落し、内地の生産高も年を追って減っていった。原料地の側に設備が整うほど、精製の工程だけに残される利幅は薄くなる。粗糖から手がけるということは、甘蔗の育つ土地へ自ら出ていくということでもあった。日清戦争によって台湾を領有してはじめて近代工業としての製糖業が生まれたという経緯からすれば、粗糖の供給地はその島のほかになかった。大日本製糖は1907年、台湾糖業の開拓へ着手した。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
- [20]明治39年に大日本製糖と改称するとともに、事業の方針を内地精糖中心から粗糖中心へと転換した。
- [23]明治40年には台湾糖業の開拓に着手した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
- [21]台湾において耕地白糖の製造設備が次第に普及するとともに、精製糖の価値が相対的に低落し、生産高も逐年減少をたどった。
- [22]日清戦争によって甘蔗栽培に適した台湾を領有するに及んで、近代工業としての製糖業が生まれた。
参考文献[11]-[23]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
- [11]日清戦争によって甘蔗栽培に適した台湾を領有するに及んで、近代工業としての製糖業が生まれた。
- [12]政府は莫大な助成金をもって、台湾に原料甘蔗生産農業と砂糖製造工業の両面建ての大企業計画を立てた。
- [13]明治33年12月、三井財閥の巨額の出資により大規模な新式製糖会社として台湾製糖が設立された。これが現在の台糖の前身である。
- [14]明治の末期までに明治製糖、塩水港製糖、新興製糖、大日本製糖、新高製糖、帝国製糖等が創設され、さらに大正初期に四社の設立をみた。
- [15]国内では精製糖工場を増設、北海道の甜菜糖業の復活、沖縄糖業の強化、南洋庁に新式製糖工場の新設等、国内消費の自給を目ざして発展した。
- [21]台湾において耕地白糖の製造設備が次第に普及するとともに、精製糖の価値が相対的に低落し、生産高も逐年減少をたどった。
- [22]日清戦争によって甘蔗栽培に適した台湾を領有するに及んで、近代工業としての製糖業が生まれた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
- [16]明治39年に日本精糖を合併し、商号を大日本製糖と改めた。
- [18]明治29年1月、鈴木藤三郎氏が資本金30万円をもって東京小名木川に日本精製糖を創設し、爾後増資を重ねた。
- [17]1906年11月、日本精糖株式会社は渋沢栄一による日本精製糖と経営の統合に合意し、鈴木藤三郎が辞任して経営を退いた。
- [19]日本精糖は精糖用諸機械を英国より購入し、1898年6月15日に操業を開始した。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
- [20]明治39年に大日本製糖と改称するとともに、事業の方針を内地精糖中心から粗糖中心へと転換した。
- [23]明治40年には台湾糖業の開拓に着手した。
1907年〜日糖事件による行き詰まりと、渋沢栄一氏が推した藤山雷太氏の招聘
台湾糖業の開拓は、大日本製糖にとって海外進展の第一歩にあたった。総生産量の8割以上を台湾産糖が占める構造は大正末期から昭和にかけて固まっていくが、その入口に立ったのが1907年の着手であった。原料の甘蔗を島で押さえられれば、内地の工場は輸入相場の上下に振り回されずに動かせる。もっとも、原料地の開拓には土地と設備と人を一度に抱える資金が要る。台湾製糖が政府の助成金と三井財閥の出資を背にして発足していたのに対し、大日本製糖には後ろ盾となる財閥がなかった。合併で生まれたばかりの会社が、内地の精製設備を抱えたまま海の向こうに農場と工場を起こすことになる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
- [24]明治42年ごろより台湾に事業地を開拓し、海外進展の第一歩を踏んだ。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
- [25]大正末期から昭和14、15年にかけてわが国糖業は著しい飛躍を遂げ、総生産量の80%以上は台湾産糖が占めていた。
- [26]明治33年12月、三井財閥の巨額の出資により大規模な新式製糖会社として台湾製糖が設立された。
1909年、大日本製糖は明治の一大疑獄と呼ばれた日糖事件によって経営が行き詰まった。株式は取引を停止され、相談役であった渋沢栄一氏は後継の役員を指名して事態の収拾にあたった。渋沢栄一氏が社長として推したのは、当時47歳の藤山雷太氏である。藤山雷太氏は1909年4月27日の株主総会で社長に就任し、会社の整理に乗り込んだ。大日本製糖を止めたのは事業の失敗ではなく、経営陣の不正であった。台湾の原料地はまだ開いたばかりで、内地の工場も動いており、失われたのは資産ではなく信用のほうである。
- 私の履歴書 経済人2「藤山愛一郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [27]大日本製糖は明治の一大疑獄といわれた日糖事件によって行詰りに陥っていた。
- [29]父が大日本製糖の再建に乗り込むときはちょうど父が47歳、私が13歳のころであった。
- [30]大日本製糖の行詰りを打開するため、藤山雷太は明治42年4月27日に社長として乗り込んだ。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
- [28]1909年4月に日糖株は取引停止となり、相談役の渋沢栄一氏が後継役員を指名して藤山雷太氏が社長に就任した。
藤山雷太氏が社長を引き受けた条件は重かった。渋沢栄一氏のほか、当時大蔵次官であった若槻礼次郎氏、首相兼外相であった桂太郎氏、豊川良平氏、早川千吉郎氏の援助を受けて、旧債と滞納税金を返済するところから再建は始まっている。友人はこぞって反対したが、長年世話になった渋沢栄一氏の依頼であり、日本の経済界への影響も大きいとして、藤山雷太氏は一身の利害を顧みなかった。私財の一切を会社へ投げ出し、失敗すれば無一物となって路頭に迷う覚悟まで決めていた。就任を決めた晩、13歳の長男愛一郎氏は寝ているところを呼ばれ、次のように言い渡されている『この会社に身を投ずる以上は、藤山一家のすべてが自分の力とすべてのものを提供してやっていかなければならない。私がこの仕事に失敗すれば路頭に迷うようなことがあるかもしれないが、お前は跡取りであるからそれだけの覚悟をもってもらいたい』。会社の整理は、旧債と滞納税金という過去の勘定を清算するところから始まった。
- 私の履歴書 経済人2「藤山愛一郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [31]藤山雷太は渋沢栄一、若槻礼次郎(当時大蔵次官)、桂太郎(当時首相兼外相)、豊川良平、早川千吉郎の各氏の援助のもとに、旧債と滞納税金を返済して大日本製糖を建て直した。
- [32]友人もこぞって反対したが、長年世話になった渋沢男爵であり、日本の経済界にも大きな影響のあることなので一身の利害を顧みる余地もないと父は語った。
- [33]父は社長を引受けると決意したときには私財一切を会社のために投出し、それで失敗した場合には無一物となって路頭にさ迷う覚悟さえしていた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
- [34]明治42年に藤山雷太氏が社長に就任し、社業の充実を図った。
1895年12月に砂村で日本精製糖として発足した会社は、この間に大日本製糖へ商号を改め、創業からの19年で、小規模な精製糖工場から原料の産地を台湾に求める会社へと変わった。藤山雷太氏は事業の中身を固めつつ、同じ時期に台湾で事業の足場を切り開き、海外へ出る最初の一歩とした。手順としては、まず債務を片づけ、事業を広げるのはその後に回した。19年の終わりには、創業者が去り、重役が一人残らず辞めるという断絶が二度訪れてもいた。会社の名前と工場は続いたが、それを動かす人はすでに入れ替わっていた。
- 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
- [35]1895年12月に東京の砂村に資本金30万円で日本精製糖を設立し、明治39年に日本精糖を合併して商号を大日本製糖と改めた。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
- [36]明治29年に東京小名木川に設立された日本精製糖を母体とし、明治39年に大日本製糖と改称、明治40年には台湾糖業の開拓に着手した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
- [37]明治42年に藤山雷太氏が社長に就任し、社業の充実を図るとともに、このころより台湾に事業地を開拓して海外進展の第一歩を踏んだ。
- 私の履歴書 経済人2「藤山愛一郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [38]藤山雷太は各氏の援助のもとに旧債と滞納税金を返済して大日本製糖を建て直した。
参考文献[24]-[38]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
- [24]明治42年ごろより台湾に事業地を開拓し、海外進展の第一歩を踏んだ。
- [28]1909年4月に日糖株は取引停止となり、相談役の渋沢栄一氏が後継役員を指名して藤山雷太氏が社長に就任した。
- [34]明治42年に藤山雷太氏が社長に就任し、社業の充実を図った。
- [37]明治42年に藤山雷太氏が社長に就任し、社業の充実を図るとともに、このころより台湾に事業地を開拓して海外進展の第一歩を踏んだ。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
- [25]大正末期から昭和14、15年にかけてわが国糖業は著しい飛躍を遂げ、総生産量の80%以上は台湾産糖が占めていた。
- [26]明治33年12月、三井財閥の巨額の出資により大規模な新式製糖会社として台湾製糖が設立された。
- 私の履歴書 経済人2「藤山愛一郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [27]大日本製糖は明治の一大疑獄といわれた日糖事件によって行詰りに陥っていた。
- [29]父が大日本製糖の再建に乗り込むときはちょうど父が47歳、私が13歳のころであった。
- [30]大日本製糖の行詰りを打開するため、藤山雷太は明治42年4月27日に社長として乗り込んだ。
- [31]藤山雷太は渋沢栄一、若槻礼次郎(当時大蔵次官)、桂太郎(当時首相兼外相)、豊川良平、早川千吉郎の各氏の援助のもとに、旧債と滞納税金を返済して大日本製糖を建て直した。
- [32]友人もこぞって反対したが、長年世話になった渋沢男爵であり、日本の経済界にも大きな影響のあることなので一身の利害を顧みる余地もないと父は語った。
- [33]父は社長を引受けると決意したときには私財一切を会社のために投出し、それで失敗した場合には無一物となって路頭にさ迷う覚悟さえしていた。
- [38]藤山雷太は各氏の援助のもとに旧債と滞納税金を返済して大日本製糖を建て直した。
- 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
- [35]1895年12月に東京の砂村に資本金30万円で日本精製糖を設立し、明治39年に日本精糖を合併して商号を大日本製糖と改めた。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
- [36]明治29年に東京小名木川に設立された日本精製糖を母体とし、明治39年に大日本製糖と改称、明治40年には台湾糖業の開拓に着手した。
筆者考察
大日本製糖の創業期を貫いているのは、砂糖という商品のどこを取るかという選択である。鈴木藤三郎氏が砂村に構えた工場も、渋沢栄一氏が調査会から起こした会社も、輸入した粗糖を白い砂糖へ仕上げる精製の工程だけを担った。原料は海の外から買えばよく、工場は東京湾の埋立地に置けたから、資本金30万円でも事業として立ち上がる。国内需要の8割を輸入糖が占める市場で、二社はいちばん資本の軽いところから入ったといえる。だがその軽さは、原料の値段も量も他人が決めるという条件と一体であった。
日清戦争で台湾が日本領になった時点で、この選択は不利のほうへ反転した。政府の助成金を背にした台湾製糖が原料の甘蔗から製品までを一貫して抱え、耕地白糖の設備が島に整うほど、内地の精製工場に残される工程は削られていく。1906年の合併で大日本製糖と名を改めた会社が、内地精糖中心から粗糖中心へ方針を移し、翌1907年に台湾糖業の開拓へ着手したのは、この反転に対する答えであった。ただし原料地を取りに行く資金は、制度の側から引き出す誘惑と隣り合っていた。1909年に全重役が辞職し、藤山雷太氏が私財を投げ出す覚悟で乗り込むまでが、この章の距離である。
出典・参考
6件
- 日糖六十五年史(大日本製糖、1960年)年表
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖「大日本製糖」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 17_製糖
- 企業の歴史 明治百年(1968年)3編 企業の歴史「大日本製糖」
- 私の履歴書 経済人2「藤山愛一郎」(日本経済新聞社、1980年)
- 農畜産業振興機構 2025年1月「渋沢栄一と製糖業~日本の製糖業の変遷~」