1983

電友社のソフト開発部門として事業を開始

早稲田大学に在学していた宮本雅史は、当時流行していたコンピュータソフトウェアに着目し、知り合いの学生を集めて事業を行なっていた。1987年にファイナルファンタジーを生み出したゲームデザイナーの坂口博信も、学生としてこの時期のスクウェアに参画した。

当初は、宮本雅史の親が経営する電気工事会社「電友社(徳島県本社)」の事業として運営されていたが、1986年に株式を買い取って「スクウェア」として設立し、東京銀座に本社を設置した。株式取得の経緯は不明である。

1984

ゲームソフトの開発開始

1983年7月に任天堂が発売した「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」に触発されて、スクウェアでも任天堂向けのゲーム開発を開始した。

ところが、東京銀座にある本社費用をまかなうほどの収益を持続的に生み出すことができず、経営は迷走した。

1987

ファイナルファンタジーを発売

1987年にスクウェアは、同社の社員である坂口博信が開発したRPG「ファイナルファンタジー」を任天堂のファミコン向けに開発して販売したところ、爆発的なヒット(推定50万本の販売)を記録した。

ファイナルファンタジーはシリーズすることによって、スクウェアの業績を安定的に支えるタイトルに育った。

以下、1996/5/27日経ビジネスの記事をもとにしたファイナルファンタジーの販売本数である。

1988

裁量労働制を導入。PCを活用した働き方改革を実施

【時代背景】

1988年に日本政府は労働基準法を改正し、裁量労働制を認めた。この法律改正によって、企業が従業員との間に「労使協定」を締結した場合において、労働時間を満たさなくても給料が支払われる(ただし残業代の支給は無し)ことになった。

【スクウェアの対応】

1988年にスクウェアはデザイナーや開発職において、裁量労働制の導入を実施して、日本における先発事例となった。

裁量労働制を導入したスクウェアの狙いは、従業員に対するクリエイティビティーの発揮にあった。スクウェアは開発職の内製化にこだわっており、社員のパフォーマンスの発揮が業績に直結すると考えていた。

当時の坂口副社長は1993年2月15日号の日経ビジネスで次のように述べている。

「我々はひらめきがすべてのクリエーティブ集団。夜に頭がさえる人もいれば、遊んでいる時にアイデアが浮かぶ人もいる。8時間、会社に拘束しても、何の意味も無い」「ざん新な発想が求められるビジネスには最も適した勤務手段」

また、スクウェアでは裁量労働制の実施とともに、全社員に当時はまだ高額だったパソコンを支給し、電子メールの活用を開始することで非同期コミュニケーションの体制を整えた。

このように、1980年代後半に「裁量労働制」「電子メールの活用」といった最先端の働き方を導入したことで、スクウェアに対する注目が高まった。

1992

創業者・宮本雅史が社長を退任。以後は大株主として経営に関与

スクウェアの創業者である宮本雅史は、同社の社長を退任することを決めた。その理由は、アパレル関連の事業がやりたくなったためだというが、真相は不明である。

ただし、宮本雅史氏は、1994年のスクウェアの株式上場後も一貫して同社の筆頭株主(50%以上を保有)であり、株主として同社の経営に影響力を持っていた。

2001年におけるスクウェア・ナムコ・エニックスの3社による株式の持ち合いも、大株主であった宮本雅史氏の意向が反映されている。

1994年
株式上場を果たしたが、創業者が株式の過半数を保持

ファイナルファンタジーのシリーズ化による持続的な収益により、スクウェアは高収益企業に育った。

1994年に株式上場を果たしたが、上場後も株式の過半数は、創業者である宮本氏が所有し続けた。

1996

任天堂からソニーに鞍替え。流通を独自で整備

【時代背景】

1980年代後半は任天堂の「ファミコン」「スーパーファミコン」の全盛期であり、国内における家庭用ゲーム機は任天堂の寡占状態にあった。だが、1990年代を通じてソニー子会社のSCEが「プレイステーション」を開発してゲーム機業界に参入した。

この結果、ゲーム機のハードウェアでは「任天堂」と「ソニー」の2つの陣営(「セガ」も第三勢力として成長しつつあった)が対立する形となり、ソフトウェア企業はどちらの陣営にソフトを供給するかという選択に迫られた。

【スクウェアの選択】

1996年にスクウェアは、従来の任天堂からソニーに移行することを決定。主力ソフトウェアの「ファイナルファンタジー」をソニーのプレイステーション向けに供給することを決め、任天堂の次世代機「NINTENDO 64」向けの開発を中止した。

この理由は、流通機構におけるリスク分散にあった。任天堂は「初心会」というゲーム問屋を組織していたが、問屋を介して商品が販売されるため、出荷から入金までのリードタイムが長かった。これに対して、ソニーは「CD販売網」が中心であり、任天堂の問屋中心の流通機構とは大きく異なっていた。

そこで、スクウェアは独自に「コンビニを中心とした流通網」を整備することを決定。セブンイレブン・サークルK・ファミリーマートと提携し、スクウェアの100%子会社「デジキューブ」を設立した。

しかし、任天堂が対抗策として「初心会」を解散したため、デジキューブの大義名分は失われた。2000年にデジキューブは子会社として株式上場(親子上場)を果たしたものの2006年に破産。事業としては大失敗に終わった。

【業界の反応】

スクウェアによる「任天堂離れ」と「独自流通網」の整備は、ゲーム機業界で大きな話題となった。任天堂はスクウェアの動きに激怒し、「取引停止・出入り禁止」という制裁を加えたという。

2003年に任天堂とスクウェアが取引を再開するまで、対立関係は続いた。

2001

ヒット作なく業績低迷。映画事業で巨額損失を計上

1990年代後半を通じて、スクウェアは「ファイナルファンタジー」に次ぐヒット作が生まれず、業績が低迷した。1990年代のゲーム業界では任天堂系の「ポケモン」や「遊戯王」といった、テレビアニメを連動させるメディアミックスが盛んになり、子供の可処分所得をめぐる競争環境も激しつなりつつあった。

そこで、スクウェアもメディアに進出する方針を打ち出し、ファイナルファンタジーを題材としてフルCGによるアニメ映画を制作したものの、集客が思わしくなく興行に失敗した。この結果、スクウェアは映画事業によって100億円以上の損失を計上して財務が悪化。経営危機に陥った。

このため、2001年にスクウェアは、応急処置としてソニーからの第三者割当増資を実施した。

2003

エニックスとスクウェアが経営統合

2003年にスクウェアは、エニックスとの経営統合を決定し、企業として単独存続を諦めた。

エニックスもスクウェアと同様に「ドラゴンクエスト」という大型タイトルに依存した経営をしつつも、次の収益の柱を見つけるのに苦労しており、統合の理由になった。

統合の比率は1:1(エニックス:スクウェア)ではなく、1:0.85(エニックス:スクウェア)であり、実質的に「エニックスがスクウェアを救済」した形となった。2003年4月にスクウェア・エニックスが発足し、ゲーム会社として再スタートを切る。