富士輸送機工業株式会社を設立
内山正太郎氏が創業
終戦直後の1948年に内山正太郎氏(当時30歳)が独立し、エレベーター製造メーカーとして「富士輸送機工業」を設立し、大阪市西区に本社を構えた。大阪で創業した経緯から、創業期は関西地区を中心にエレベータの事業を拡大する。
エレベーターの修理を請け負う
内山氏は外資系のエレベーター会社である東洋オーチスに勤務した経験があり、当時はまだ普及していなかったエレベータで起業を果たした。ただし、創業当初は資本力に乏しかったため、エレベーターの製造ではなく修理を主に手掛けていた。
創業期の主な顧客は、進駐軍MP、インターナショナルスクール、三越百貨店など。特に、三越百貨店では深夜のメンテナンス作業を請け負っており、内山氏が作業を率先。過酷な労働環境であった。
1949年には乗用エレベーターを山下汽船(神戸本社)に納入し、エレベーターの製造会社に転身した。創業2年目にエレベーターを開発できた理由は、内山正太郎氏が、東洋オーチスでの勤務経験を経ており、エレベータに熟知していたためと推察される。
後発参入の不利をドブ板営業で克服
エレベータは普及途上にあったものの、既に戦前から三菱電機などの先発企業が存在しており、フジテックは後発企業であった。このため簡単に受注できる環境ではなく、フジテックは粘り強い営業努力が求められた。創業者の内山正太郎氏は、自ら率先して新築ビルをターゲットに徐々に顧客を拡大していった。
その後、高度経済成長期を通じて日本で雑居ビルが新築されたことで、後発のフジテックも売上を拡大できる余地が生まれた。
なお、フジテックにおいて、1969年9月期末時点における従業員数821名のうち、工場に約464名、支店営業所に約250名、本社に115名が配属。メーカーでありながらも営業体制を充実させた点に特色がある。
神戸営業所を設置。以後、全国に営業所を新設
販売及び保守メンテナンスのために全国に営業所を設置。神戸に続き、数年以内に名古屋、広島、福岡、東京、札幌に営業所を新設
塚本工場を新設
大阪市西淀川区に工場を新設。敷地面積は3300平方メートル。工作機械15台・工場従業員100名の体制でエレベーターを量産
東京営業所を東京支店に格上げ
本社が大阪である関係から、販売面で手薄であった関東地区への投資を開始。郵政省や日本専売公社など官公庁を顧客として開拓に成功(1969年9月期のエレベータ部門の売上のうち、官公庁向けは14.2%)
富士電機と提携
モーター製造を依頼
トランジスタ制御方式の開発を開始
欧州視察を通じて内山正太郎氏はエレベータの制御にトランジスタを応用できると判断。電子制御による高速エレベーターの研究開発を開始した