田村四郎氏が日本医薬品工業を設立
薬売りの家系に生まれた創業者・田村四郎氏
富山県において医薬品卸の「富山内外新薬」と「内外医師新薬」の2社を経営していた田村四郎氏は、医薬品製造への進出を決意。1966年に日本医薬品工業(日医工)を設立して、医薬品の製造に進出した。設立時には取引先であった医師からの出資を受けた。
田村四郎氏のキャリアは薬産業が盛んな富山県と密接に関わっている。第一に、薬売りの家系に生まれた。そして、第二に、富山薬学専門学校を卒業した。第三に、田村史郎氏の兄が千葉県で経営する医薬品販売会社に勤務して、リュックに薬を詰めて売り歩いたという。すなわち、伝統的な富山の薬売りの系譜が、田村四郎氏のキャリアと重なっている。
田村氏が会社経営に携わるきっかけとなったのが、父親からの帰郷命令であったという。男4人兄弟が富山の実家を離れたため、四男であった四郎氏が富山に帰ることになった。そこで、1958年に富山内外新薬社を創業し、医薬品の販売業に参入した。
自社製品の販売に活路
田村四郎氏は富山内外新薬社を経営する中で、他社製品の販売だけではなく、自社製品の販売を行うことを考えた。そこで、1966年に日本医薬品工業を富山県で設立し、医薬品の製造に参入した。
製造に進出した理由は、田村四郎氏が「メーカーの方が、もっと儲かっている。よし、オレもやってみようか」(1993/2石垣:日本商工会議所広報部)と考えたからであった。
販売体制に特色
日本医薬品工業(日医工)はメーカーとして設立されたが、創業の系譜は「内外新薬社」という販売網が前提として存在しており(1967年に日医工が吸収合併)、販売面に特色があるメーカーであった。
1980年までに日本全国(北海道から沖縄)に57の代理店を確保し、このうち13社の代理店は日医工が100%出資する販売代理店として運用した。すなわち、代理店に対して議決権を持つことによって、経営のコントロールを掌握できることを意味した。代理店には取扱商品について、売上高ベースで80〜90%を日医工が生産した製品を扱うように要請し、結果として日医工の売上拡大に寄与した。田村史郎氏は「販売なくして企業なし」という持論を展開し、販売網の形成に傾斜投資した。
大衆薬ではなく医家向けに特化
日医工が取り扱う医薬品が、大衆向けの医薬品ではなく、医療用医薬に特化した点にも特色があった。1960年代は大衆医薬品の全盛期であり、富山の薬売りといえば「家庭用向け」が常識であった。しかし、日医工はあえて医家向けに特化。この結果、競争の激しい大衆薬を避けて、利幅を確保することにつながった。
ただし、医療用医薬品は厚生省による薬価改定による価格下落の影響を受けるため、日医工もその影響を被るビジネスモデルとなった。また、品目の多さも1980年時点の課題として存在しており、当時は120〜130品目を生産していた。この点については、田村四郎氏は「やむを得ない」として割り切っていた。
内外医師新薬株式会社を吸収合併
医薬品の製造を開始
神経痛治療薬ダイメジンがヒット
神経痛治療薬が日医工として初のヒット製品になった1960年代後半を通じて「ダイメジン」に加え、ムチ打ち症治療薬「エルホーレン」、循環系調整薬「カリクロモン」の3つの製品が主力に育った。いずれも医家向け。
株式会社田村薬品を吸収合併
名古屋証券取引所第2部に株式上場
株式上場を果たした。田村四郎(当時社長)は、技術及び直販網に対して、引き続き投資する姿勢を宣言
当社はこれからも「すぐれた医薬品を通じて社会に貢献する」の使命感に燃え、①他の追随を許さない一流の技術を持った企業、②バイタリティーの満ちあふれた強固な販売網、③品質管理のもとに独創的商品を製造する企業、④不況が来てもビク友しない筋肉質の強固な体制の企業、⑤仕事の喜びと人生の幸福が一致する企業、の5箇条を経営理念とし、世界的な企業としてより評価を高めるために努力邁進していく決意である
大阪証券取引所第2部に株式上場
新総合研究所を新設
東京医薬品工業株式会社を吸収合併
南砺工場を新設
薬価引き下げで売上低迷へ
厚生省による薬価引き下げにより、売上高は100億円前後で横ばいで推移。1990年代に至るまで、日医工の業績は長期低迷を迎えた