神経痛治療薬が日医工として初のヒット製品になった1960年代後半を通じて「ダイメジン」に加え、ムチ打ち症治療薬「エルホーレン」、循環系調整薬「カリクロモン」の3つの製品が主力に育った。いずれも医家向け。

神経痛治療薬が日医工として初のヒット製品になった1960年代後半を通じて「ダイメジン」に加え、ムチ打ち症治療薬「エルホーレン」、循環系調整薬「カリクロモン」の3つの製品が主力に育った。いずれも医家向け。
株式上場を果たした。田村四郎(当時社長)は、技術及び直販網に対して、引き続き投資する姿勢を宣言
厚生省による薬価引き下げにより、売上高は100億円前後で横ばいで推移。1990年代に至るまで、日医工の業績は長期低迷を迎えた
1995年に新薬開発からの撤退を決断した。創業社長であった田村四郎氏が、会社を息子の田村友一氏に継がせるにあたって、不採算事業から撤退する考えがあったという
FY1996〜FY1998にかけて赤字転落。新薬開発の撤退や、過剰な設備投資の影響
業績不振により従業員約500名のうち約100名を解雇
田村史郎氏の息子。当時38歳
金融機関に対する有利子負債の返済を継続
旧社名:日本医薬品工業
国内医薬品工場の設備投資に充当。
欧州の大手製薬メーカーであるサノフィと共同で日医工サノフィを設立。ジェネリック医薬品の取扱品目の拡大によって、日本国内での売上高拡大を目指した
グローバル品質管理センターとして設置
医薬品の製造棟。ジェネリック医薬品の市場拡大に対応
医薬品の製造棟。ジェネリック医薬品の市場拡大に対応
日医工ファーマの静岡工場として稼働
従来は国内事業が中心だったが、グローバル展開を宣言。海外のジェネリック医薬品メーカーの日本参入を受けて、日医工は自らが海外展開することで防衛を図る
好調な国内ジェネリック医薬品に次ぐ事業として、グローバル展開を図る。資金は銀行からの借入調達による。(だが、巨額買収により財務体質が悪化し、2022年9月の日医工の債務超過の布石となった)
医薬品の製造棟。ジェネリック医薬品の市場拡大に対応
2020年2月に独立行政法人医薬品医療機器総合機構(PMDA)と富山県は共同で、日医工の富山第一工場に対して抜き打ちの査察を実施したところ、品質不正の疑いが発覚した。
日医工は不正が発覚した富山第一工場について、出荷再開が2023年秋以降になることを公表。生産品目が400品目と多く、評価試験が間に合わない事態に陥った。2021年3月の業務停止から2年以上にわたって工場が稼働できない状態へ
日医工は、買収したSagent Groupにおいて開発中であった「バイオシミラー」と「オーフォンドラッグ製剤」の2つについて、米国において承認申請が遅れる見通しを公表した。これを受けて、IFRSにおける減損テストを通じて無形資産の減損損失の計上を決めた。
また、Sagentにおける新薬の生産拠点の稼働が中止されるなど、新薬の承認を前提とした経営計画が破綻した。
減損に関しては、開発費の面では、日医工において148億円、Sagentにおいて66億円を計上する見込みとなった。加えて、Sagent買収によって日医工に計上された「のれん」も減損対象となり、2023年4月における減損損失が、日医工で342億円、Sagent Gourpで279億円という巨額に及ぶことが公表された。
財務体質が悪化したことを受けてADRを申請し、受理されたことを受けて債権者集会を実施。メインバンクは三井住友銀行。
投資ファンドJWPは日医工の経営再建に名乗りをあげた。日医工の200億円の増資を引受けて、株式の90%を取得する方針を明らかにした。資金用途は85億円を運転資金、115億円は富山第一工場の稼働に向けた設備投資に充当。また、株式90%が取得されること受けて日医工の上場廃止が確定し、株価が暴落した。
創業家のトップとして長らく社長を歴任した田村友一氏が社長を引責辞任する意向を示した。これをもって日医工は田村家による経営に終止符を打った