酒粕原料による酢の醸造を開始
江戸の寿司需要に着目
初代中埜又左衛門(ミツカン創業者)は、知多半島の半田(愛知県半田市)において酒造業を営んでいた。1804年に江戸に出向いた際に寿司がヒットしているのに着目し、江戸時代後半に酢の製造を本格化した。酢の原料は日本酒の製造工程で出る「酒粕」を利用し、港町でもある知多半島の半田から江戸までを舟運で輸送することで「江戸市場向けの酢」の事業を本格化させた。
中埜又左衛門の襲名慣例
ミツカンは中埜家の事業として受け継がれ、歴代社長が「中埜又左衛門」を襲名するのが慣例となった。
ミツカンの商標制定
商標条例の制定を受けて、他社製品との差別化を図るために商標を制定。東京の歌舞伎で関係者1500名を集めてPRするなど、酢の販売拡大を目論んだ
ビール事業に参入(撤退済)
明治時代後半にビール醸造のブームとなり、ミツカン(4代目・中埜又左衛門)はビール事業に参入。「カブトビール」の商標で本格的な醸造所を半田に新設し、好況期には国内シェア5位を確保。だが、競争激化により撤退へ
銀行事業に参入(撤退済)
明治時代後半に銀行を設立。酢の醸造業で稼いだ利益を活用し、半田における地域金融業に参入。だが、第二次世界大戦中の1938年に伊藤銀行(東海銀行)に吸収合併されてい消滅へ
株式会社中埜酢店を設立
個人事業から株式会社に組織転換
戦災を回避
第二次世界大戦期において、酢の醸造における競合他社(マルカン)が都心部の工場を被災して営業停止となったのに対して、ミツカンは都心部から離れた半田に立地していたことで空襲による被災を最低限となった。この結果、競争優位へ
中埜又左エ門(7代目)が社長就任
中埜又左エ門(当時30歳)が創業家7代目としてミツカンの社長に就任。以後、2002年に逝去するまでミツカンの経営に従事し、食酢の近代化、加工食品への進出、海外進出など、事業の積極展開を行なった