商標条例の制定を受けて、他社製品との差別化を図るために商標を制定。東京の歌舞伎で関係者1500名を集めてPRするなど、酢の販売拡大を目論んだ

商標条例の制定を受けて、他社製品との差別化を図るために商標を制定。東京の歌舞伎で関係者1500名を集めてPRするなど、酢の販売拡大を目論んだ
明治時代後半にビール醸造のブームとなり、ミツカン(4代目・中埜又左衛門)はビール事業に参入。「カブトビール」の商標で本格的な醸造所を半田に新設し、好況期には国内シェア5位を確保。だが、競争激化により撤退へ
明治時代後半に銀行を設立。酢の醸造業で稼いだ利益を活用し、半田における地域金融業に参入。だが、第二次世界大戦中の1938年に伊藤銀行(東海銀行)に吸収合併されてい消滅へ
個人事業から株式会社に組織転換
第二次世界大戦期において、酢の醸造における競合他社(マルカン)が都心部の工場を被災して営業停止となったのに対して、ミツカンは都心部から離れた半田に立地していたことで空襲による被災を最低限となった。この結果、競争優位へ
中埜又左エ門(当時30歳)が創業家7代目としてミツカンの社長に就任。以後、2002年に逝去するまでミツカンの経営に従事し、食酢の近代化、加工食品への進出、海外進出など、事業の積極展開を行なった
半田(愛知県)と尼崎(兵庫県)の2工場において、瓶詰ラインを稼働。食酢を量り売りではなく、瓶詰めにより販売することで品質を担保。1960年代のスーパーマーケットの台頭とともに、ミツカンが家庭用食酢でシェアをキープする原動力となった
関東市場に本格進出するために東京工場を新設。投資額は5億円で借入金により調達。ミツカンの純利益100年分に相当する投資であり、社運をかけた設備投資となった。
食酢から多角化するために調味料に本格参入。「味ぽん」を発売することで、食酢に頼るビジネス構造から脱却し、食品加工メーカーに転身した。
ミツカンは品質を重視する姿勢を鮮明にし、合成酢が主流だった業界に一石を投じるキャンペーンを展開。同業者から脅されつつも、醸造酢を消費者にアピールし、競合他社を牽制した。この結果、ミツカンの姿勢は消費者から支持され、食酢の販売をさらに伸ばした
1964年の味ぽんの発売以来、食酢からの多角化を進めていたが、1971年に経営方針として「超酢作戦」を策定。酢以外の加工食品の比率を向上し、全社売上高1000億円を目指すことを公表した。以後、ミツカンは、加工食品(調味料・おむすび・チラシ寿司の素・納豆)への投資に注力
ふりかけ・茶漬け領域に本格参入。先発の丸美屋食品と永谷園を追随するために、ご飯に振りかけるのではなく、お弁当のおにぎり向けに最適化した製品を展開。同時に積極的な販売促進(テレビコマーシャル)への投資を実施した。この結果初年度から年間20億円の売り上げを達成
1983年ごろまでに食酢以外の売上構成比が44%を突破。味ぽんを筆頭とする調味料や、ふりかけ「おむすび山」の販売増加が売上増を牽引。FY1983にミツカンは売上高1000億円を突破した。
納豆業界の競争激化によって債務超過に陥った朝日食品(納豆国内シェア3位)について、ミツカンは資本参加を決定。1998年に「金のつぶ」シリーズを発売し、納豆業界に本格参入した。以後、2000年代を通じてミツカンは納豆事業への投資を本格化させた
2000年前後からミツカンは米国・英国の企業買収を本格化。手始めに2000年に米国スピーコ社(食酢メーカー)を買収。国内の食品市場が人口減少により頭打ちになる中で、成長の糧を海外展開に求めた。
米国の家庭用クッキングワインのブランドを取得
ミツカンは北米でパスタ事業を本格展開するために、ユニリーバ傘下のコノプコ社からパスタソースのブランド2つ(rugaとbertolli)の取得を決定した。Raguは北米シェアNo.1であり、両ブランドによる売上高は約600億円であった。ミツカンの事業取得価格は2150億円であり、三菱UFJ銀行などの借入で捻出。なお非上場企業ミツカン(売上高約1600億円)によるグローバルな大型買収として注目を浴びた。
海外事業の巨額買収によるのれん償却で収益性が悪化。国内事業は高収益を持続するが売上成長は低迷
2002年から2014年までミツカンの社長を歴任した中埜和英氏が71歳で逝去