海軍で水上機を開発する技術者であった中島知久平氏は、第一次世界大戦中に欧米で活用されつつあった飛行機に着眼。日本国内で民間による航空機の開発および製造を行うために、1917年12月に「飛行機研究所」を創業した。創業地は中島氏の故郷である群馬県太田市であった。
1919年に陸軍から航空機の受注に成功し、日本における民間企業としての初受注となった。1920年代を通じて航空機の開発生産に従事し、業容の拡大を受けて1931年に中島飛行機株式会社として組織変更を実施。戦時中には、日本国内において三菱重工と並び、中島飛行機は大手航空機メーカーとして軍用機の生産に従事した。
企業名 | 参入年 | 備考 |
SUBARU(中島飛行機) | 1917年 | 飛行機研究所を創業 |
川崎重工 | 1918年 | 飛行機科を設置 |
立飛HD(立川飛行機) | 1918年 | 石川島飛行機製作所を設立 |
愛知時計電機(愛知時計製造) | 1920年 | 偵察機を完成 |
三菱重工 | 1922年 | 航空機の開発を開始 |
日本政府(通産省)が「国民車構想」を発表したことを受けて、富士重工では軽自動車(360cc)への参入を決定。排気量360cc以上の小型乗用車(1000ccクラス)は技術的な難易度が高く、当時の一般的な日本人の所得では購入が難しかったため、通産省では360ccの軽自動車によって国民に普及する自動車の製造を後押しした。
富士重工では技術者の百瀬晋六氏が中心となって乗用車の開発に従事。1958年に乗用車「スバル360」を開発した。富士重工としては「スバル360」によって乗用車業界に新規参入を果たし、SUBARUのブランドの利用を開始した。
1970年代を通じて富士重工は乗用車において差別化を図るために4WD(四輪駆動)の開発に集中。自動車業界では珍しい「水平対抗エンジン」の技術開発に注力した。
この結果、1972年に国内では業界初となる乗用車タイプの4WDを開発。1979年には改良型の「レオーネ」を発売し、4WDを中心とした車種の展開を本格化した。
当時の国内の4WD市場は、四輪車市場に比べて市場規模が数%と小さく、トヨタや日産などの大手完成車メーカーが注力しない領域であった。このため、富士重工は「レオーネ」によってシェアを獲得。1980年度に富士重工は国内の4WD市場において、販売台数ベースでシェア1位(38.5%)を確保した。
企業名 | 1980年度 | 1985年度 |
富士重工(SUBARU) | 38.5%(1位) | 27.5%(1位) |
トヨタ | 20.6%(2位) | 9.0%(6位) |
スズキ | 19.6%(3位) | 21.3%(2位) |
三菱重工(三菱自動車) | 11.4%(4位) | 14.6%(1位) |
ダイハツ | 1.1% | 12.5%(4位) |
ホンダ | 0.0% | 9.5%(5位) |
四輪駆動のパイオニアとして、ひたすらその道を突き進んできた富士重工。国内11社がひしめき合う自動車業界にあって、中堅どころの富士重がその存在意義を主張できたのは、4WDという突出した技術があったからにほかならない。1972年、国産初の乗用車タイプの4WD車を発売した富士重は、1979年、改良型の4WD車、新レオーネを投入。それを踏み台に押しも押されもしない4WDのトップメーカーにのしあがった。
1980年代を通じて日米貿易摩擦が深刻化し、政府機関によって自動車の国内から北米への輸出台数が制限および管理された。加えて1985年の政府間による「プラザ合意」によって円高ドル安が急速に進行したことで、日本で生産した乗用車を北米に輸出した際の採算が悪化した。
このため、北米輸出に注力してきた自動車メーカーの各社は、北米における自動車の現地生産を模索した。日産・トヨタ・ホンダといった大手完成車メーカーは、米国における販路を構築しており、現地生産の採算ラインである「年産20万台」を確保できたが、一方で富士重工では「年産20万台」に見合う販売量の確保が難し買った。このため、富士重工としては、北米現地生産における単独進出に踏み切れない事情があった。
1986年に富士重工(田島社長)といすゞ自動車は、北米に共同で乗用車量産工場の新設を決定し、北米における現地生産を行うことを発表した。両社ともに北米における販路および販売台数に乏しく、1社で年産20万台の販売量を確保するのが難しかったことから、協業によって販売台数を確保し、現地生産の採算を確保することを意図した。
なお、富士重工といすゞの提携を意味したことから、北米現地生産のための協業は「IF提携」と呼ばれた。この提携は、乗用車市場におけるシェアの下位メーカー同士の協業として類例を見ないものであり、注目を集めた。
新工場建設による投資額は共同で800億円を予定し、1989年11月からインディアナ州・ラフィエットにおいて、新工場の稼働を予定した(計画通りに稼働)。生産車種および台数規模は、富士重工の4WDレオーネ(年産6万台)、いすゞの2車種「ファクター、ビッグホーン(合計年産6万台)」であり、当初は年産12万台からスタート。将来的に24万台の体制に乗せ、北米における現地生産の採算を確保することを意図した。
なお、現地生産における損益分岐点は年産15万台であったという。
北米における現地生産に先立って、富士重工といすゞ自動車は、北米で現地生産会社の設立を決定。商号は「スバル・いすゞ・オートモーティブ(SIA)」とし、出資比率は富士重工が51%、いすゞが49%であり、富士重工が経営権を握る座組とした。
なお、富士重工は日産、いすゞはGMが大株主であったが、異なる系列2社が協業した理由は、日産およびGMからの協力を得にく点にあった。日産は富士重工の北米進出を特に支援しない立場を取り、GMは北米における労使問題に直面していた。このため、富士重工といすゞは系列(大株主)の枠組みを超えて、共同するに至った。
企業名 | 車種 | 生産台数 | 備考 |
富士重工(SUBARU) | レオーネ | 6万台/年 | 4WD |
いすゞ | ファスター | 3万台/年 | 小型ピックアップトラック |
いすゞ | ビッグホーン | 3万台/年 | ジープ4WD |
残るは富士重といすゞである。日本車の米国現地生産が本格稼働すれば、カナダの鈴木-GMの生産20万台を含めると、現地生産の供給台数はゆうに年間150万台を超す。過剰生産は目に見えている。こうしたことから一時、富士重、いすゞ社内では「現地生産しないのが最も賢明な策」という消極論もあったが、円高の進展に伴って「現地生産しない限り、現状の規制台数を確保することすらできなくなる」という空気に変わってきた。これを打開するには現地生産しかない。
仮に将来、円安に転じたとしても、米議会は日本車の輸出攻勢を食い止めるため、悪名高き「ローカルコンテント」(部品の米国内調達)法案の成立に全力をあげることは目に見えている。つまり為替相場がどんな状況にあっても、現地生産は不可避なのである。現地生産を放棄することは自動車メーカーとして「座して死を待つ」ことを意味する。
だがいかんせん、両社(注:富士重工・いすゞ)とも意欲はあっても、トヨタ、日産のように単独で進出する力はない。仮に単独進出して小規模生産しても、コストが高くつき、これでは激しい競争には打ち勝てない。量産効果を発揮してリスクなき参入をはかるには、他メーカーとの提携による共同生産しかない。
1990年3月期に富士重工は単体決算で296億円の営業赤字に転落し、上場後初となる赤字決算となった。
業績悪化の要因は、米国現地生産子会社(SIA)の赤字であった。工場稼働直後に米国の景気が一時的に冷え込んだこともあり、北米におけるディーラーを介した販売に苦戦。受注に乏しかったものの、SIAとしては生産台数を確保しなければならず、結果として富士重工は在庫を抱えて赤字に陥った。
業績悪化を受けて、1990年に富士重工の田島敏弘社長が退任。富士重工の大株主は日産であったことから、日産ディーゼルの社長でであり同社の経営再建で手腕を発揮した川合勇氏が富士重工の社長に就任。川合社長の体制のもとで、富士重工の経営再建に着手した。
米国は、作る方と売る方と両方あるんです。いすゞさんと合弁で現地工場を持っているんですが、なんといっても売る方が先で、売れなきゃ作れないわけですよ。今まで現地工場の操業度を上げるために、売れる前に作っていたから在庫が増える一方だった。それじゃダメだから、まず売れる体制を作るために、販売会社であるSOA(注:Subaru of America)を100%子会社にして、担当の常務がテコ入れしています。まあ、SOAの体勢よりもむしろ、基本的にはディーラーさんのやる気なんですよね。