CF | 2009/12 | 2010/12 | 2011/12 | 2012/12 | 2013/12 | 2014/12 | 2015/12 | 2016/12 | 2017/12 | 2018/12 | 2019/12 | 2020/12 | 2021/12 | 2022/12 |
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営業CF | 1027 | 1394 | 1430 | 1301 | 1665 | 1576 | 2662 | 2526 | 2617 | 2503 | 3216 | 2313 | 2807 | 2444 |
投資CF | -3889 | -282 | -797 | -934 | -2154 | -14737 | -2075 | -623 | -877 | -1041 | -1205 | -1339 | -1525 | -1209 |
財務CF | 2436 | -606 | 669 | -1002 | 2321 | 10779 | 65 | -877 | -1720 | -2329 | -2189 | -106 | -1783 | -1317 |
明治時代において、ワインは高級品であったため、日本国内では「ぶどう果汁」と「飲用アルコール」を調合した合成酒が「ぶどう酒」として普及していた。国内で神谷伝兵衛氏(合同酒精株式会社・現オエノンHD)が考案した「香竄葡萄酒(はちじるし・こうざん・ぶどう酒)」が薬用酒として販売されてトップシェアを確保していた。
この市場が拡大しつつある「ぶどう酒」に着眼した鳥井信治郎氏が、1889年に鳥井商店を大阪で個人創業したのがサントリーの歴史の始まりである。鳥井信治郎氏は薬種問屋に丁稚奉公していた経験があり、薬用酒を取り扱っていたことから、ぶどう酒の商売には馴染みがあった。
ぶどう酒を取り扱う発端は、鳥井信治郎氏と輸入商との偶然の出会いであった。鳥井信治郎氏は、偶然にも輸入商であったセレス兄弟商会の社長(セレス氏・神戸居住)と知り合い、スペインから樽酒の輸入に成功。大阪で瓶詰めをして「ぶどう酒」の販売を開始し、国内市場に後発参入した。
ところが、スペイン産のぶどう酒が日本人の舌に合わない問題に直面し、販売に苦戦した。明治時代の日本人からすれば、スペイン産の本格的なぶどう酒は口に合わなかった。
このため、サントリーは創業から数年の間は苦境の時期が続き、順調な創業とは言い難いスタートとなった。
1907年に鳥井信治郎氏はスペイン産のポートワインに着目し「赤玉ポートワイン」として発売した。小西儀助商店に奉公した頃に培った味ききを生かして、輸入ポートワインに、独自に甘味料を配合したぶどう酒を開発。この甘味料入りの葡萄酒を「赤玉ポートワイン」の独自ブランドとして発売した。価格は38銭(米5kg分の価格相当)に設定され、高級品として位置付けられた。
だたし、サントリーはぶどう酒市場において後発参入であったため、積極的な広告宣伝を展開して差別化を図った。大阪朝日新聞の紙面広告で「天然甘味・薬用葡萄酒!!赤玉ポートワイン」と訴求した。効能を押し出すために、医学博士による推薦文も添えるなど、マーケティングに注力することで販売を拡大した。
特筆すべきは、宣伝投資の規模であった。鳥井信治郎氏は新聞広告のコンバージョンを向上させるために、地方紙を含めて30紙の新聞にかかさずに目を通していたと言われている。広告出稿では大枠を確保できる1ページ広告を中心に実施し、掲載新聞の選択・時期・地域の決定も行っていたという。金額は非開示だが、相応の金額を宣伝費として投資したものと推定される。
なお、国内のぶどう酒市場では、戦前にサントリーが50%以上を確保したと言われ、酒類市場における広告宣伝の重要性を浮き彫りにした。
大阪市西区にて鳥井信治郎氏(当時21歳)が「鳥井商店」を個人創業して「ぶどう酒」の販売を開始した。鳥井信治郎氏は16歳の頃から「小西儀助商店(薬種問屋)」にて丁稚奉公をしており、洋酒・染料などを取り扱う経験を積んでおり、酒類の取り扱いには経験があった。
スペインから輸入したポートワインに日本人好みの「甘味」を添加。サントリー創業期のヒット商品に育つ
大阪港区八条通の埋立地にて、赤玉ポートワインの樽詰専用工場(大阪工場)を新設
大阪府東区住吉町にて「寿屋(現・サントリー)」を設立し、個人事業から株式会社に転換。資本金は200万円
大正時代を通じて赤玉ポートワインによって業容を拡大したことを受けて、創業者の鳥井信治郎氏は国産ウイスキーへの参入を決定した。ウイスキーの本場はスコットランドであり、日本を含めた東南アジアでは醸造実績がなく、未知なる分野に挑戦することを意味した。
ウイスキーは蒸留した原酒の仕込みから、製品化までに約6年以上の貯蔵が必要なため、経営リスクを伴う事業であった。このため、ウイスキーへの参入から数年間は赤字が続くため、容易に参入できる領域ではなかった。
なお、鳥井信次郎氏はウイスキーに参入した理由を明言していないが、赤玉ポートワインが「合成酒」であったため、本格的な酒類メーカーに発展することを目論んだと推定される。
1923年にサントリーは京都の山崎にて蒸溜所を新設し、国産ウイスキーの製造を開始した。ウイスキーの初出荷は1929年であり、約6年にわたって売上0円の時代が続いた。
そして、ウイスキー参入から6年後の1929年に「サントリー白札」を出荷し、国産ウイスキーの販売を開始。ウイスキーのブランドには「サントリー」の名称が採用した。ところが、日本人にウイスキーの味は馴染みがなく販売に苦戦。1937年に味を改良した「角瓶」を発売して味の問題を克服したものの、第二次世界大戦に巻き込まれたことで嗜好品であるウイスキーは販売中止を余儀なくされた。
サントリーのウイスキーが事業として軌道に乗ったのは、1945年の終戦後であった。日本に駐留した米軍向けにウイスキーを出荷して好評を博したことや、1950年にウイスキーの販売統制が解除されたことで国内販売が軌道に乗った。
このため、サントリーは1923年のウイスキー参入から、実際にウイスキーが市販されるまでに約6年(1929年「白札」)、味が受け入れられるまで約14年(1937年「角瓶」)、市場が拡大するまで約27年(1950年「ウイスキー販売統制の解除」)を要した。
神奈川県鶴見でカスケードビールを醸造する企業が経営不振により倒産。サントリーがこの醸造所を買収して「オラガビール」のブランドで発売してビール製造に参入した。
だが、すでにキリンビールなどの先発企業が関東市場でシェアを確保しており、オラガビールは販売に苦戦した。
加えて、サントリーはキリンビールとの訴訟問題に直面した。サントリーはキリンビールが使用したビール瓶をリサイクルして無断使用(オラがビールのラベルを上貼り)したため、商標権をめぐる訴訟問題に直面。サントリーはキリンに敗訴した。
このため、1934年1月にサントリーはビール事業からの撤退を決定。鶴見の醸造所東京麦酒に売却した。
戦時中にウイスキーの販売を中止していたが、終戦後の1950年に販売統制が解除された。これを受けて、1950年にサントリーはウイスキーの販売(特級・1級・2級)を再開するとともに、新聞広告などへの積極的な広告宣伝を実施した。
終戦によって欧米の文化(バー)が日本に定着したことで、ウイスキーは嗜好品として日本でも受け入れられるようになった。また、サントリーは戦時中にウイスキーの在庫を確保したため、熟成された製品在庫が十分に存在している点が追い風となった。
商品政策の面では、1950年代を通じて、サントリーは高価格帯のウイスキーでは「オールド」、普及価格帯では「トリス」の販売による売上を拡大した。この結果、祖業である「ぶどう酒(赤玉ポートワイン)」の出荷量をウイスキーが凌駕する形となり、合成酒メーカーからウイスキー醸造に転換した。
ウイスキー販売のために支店を全国に新設。1950年代を通じて「福岡・札幌・名古屋・広島・仙台」に営業所または支店を設置した。
1950年代において、日本国内では「ウイスキー」は馴染みのない洋酒であったため、その普及を目的にPR誌「洋酒天国」を発刊。各地のバーに配布することでサントリーの知名度向上を図った。
関東市場向けの瓶詰め工場として新設。トリス・赤玉のボトリングを開始
特級ウイスキー「オールド」の好調により、ウイスキーの国内シェア(生産量ベースと推定)で70%を突破した。競合のニッカウイスキーがシェアを落とす形となり、サントリーの独走が続いた。
1977年度時点で、サントリーの全社利益の大半をウイスキー事業が稼いでおり、その大半が「オールド」の販売によるものであった。このため、オールドの利益がサントリーの多角事業の展開(清涼飲料・ビール)の原資となった。
「あまりにウイスキー依存体質、とくにオールド依存体質になっているのではないか」こういう不安が、首脳陣ばかりか、中堅社員の間からも漏れてくる。これは不安というより、むしろ強すぎる反省から来ていると言えるかもしれない。(略) サントリーはわが国の特級ウイスキーの分野では90%近いシェアを持つが、実にその70%はオールドが占めている。サントリーの全体の売り上げで見てもオールドは44%に達し、利益の大半はオールドが稼ぎ出す。まさにサントリーはウイスキーでもち、ウイスキーはオールドで持つと言って良い。
サントリーは非企業であったが、1976年3月期より決算を公開。佐治敬三社長が、競争の厳しい酒類業界においては「開かれた経営」を遂行する必要があると考えたためであった。
1980年代に日本国内では「焼酎」が社会現象を巻き起こすブームとなり、ウイスキーの需要が低迷。洋酒部門が主力であったサントリーは影響を受け、1985年12月期に22年ぶりの減益決算となった。
特に、サントリーのウイスキーの主力であった「オールド」の販売が低迷。全盛期には売上高2000億円を確保していたが、1985年頃には約半減(1000億円以下)に落ち込んだという(1986/5 Decide)。
焼酎ブームについて、サントリーの佐治敬三社長は「ダサい文化」にやられたとして、自らの失策を嘆いた。
世はまさに、焼酎時代。オールドは1割5分も落ちるなど、ウイスキーの売り上げがめっきり減って、さすがのサントリー王国も揺れている。街に宣伝広告削減のウワサもあるが、無駄な広告は止めようということで、額は減らしていないとか。ウイスキー離れの背景について佐治敬三社長は「東京のダサい文化にしてやられた」と面白い指摘をしている。(略)「東京はダサいとこだと思うんです。ダサい文化が焼酎を支えている。とこどがダサい文化には、ダサい文化としての非常なエネルギーがあるわけです。ぼくは東京の文化とエネルギーの源はダ埼玉にあるとさえ思っている。我々のウイスキーが、ダ埼玉のダサいところへアピールしえていなかった」
日経新聞(1986/5/24)の報道によれば、1986年3月期決算でサントリーはビール部門の黒字化を公表。ただし、サントリーHDはビール事業の黒字化は2008年度と主張しており、真祖は不明
清涼飲料の販売拡大のために自販機販路への投資を積極化。1987年時点で6万台の自販機を、3年後までに10万台(+4万台)に増加させる計画を公表した。
サントリーによる自販機の設置は1995年までに全国22万台体制となり、清涼飲料の販路拡大を後押しした。
佐治社長がTBSの討論番組において遷都を議論する中で「仙台遷都などアホなこと」「東北は熊襲の産地」の旨を発言。東北を中心に視聴者の怒りを買い、サントリー製品の取り扱いを停止する飲食店も出た。このため、サントリーは謝罪文を掲載したうえで広告宣伝を一時的に自粛するなど、社長の失言によって業務上の損失を被った。(出所:1988/5とうほく財界)。
創業家から鳥井信一郎氏(当時52歳)がサントリーの社長に就任。
ビールの中国現地生産を開始
紅茶飲料「リプトン」を国内で発売
ビールおよび清涼飲料の生産を開始
サントリービバレッジプロダクツ株式会社の工場として新設。食品製造を開始
1963年に参入したビール事業について、サントリーHDは2008年度に黒字化を達成したと発表(営業利益30億円)。すなわち、45年にわたり赤字が続き、46年目で黒字転換した。
黒字転換の原動力は「プレミアムモルツ」「金麦」の販売好調や、競合のサッポロビールの経営不振による競争の緩和であった。これにより、2009年にサントリーHDは国内ビール市場においてシェア12.4%を確保し、それまで3位だったサッポロHDを抜き第3位に浮上した。
ただし、サントリーのビール事業の売上高は推定2000億円前後に対して営業利益30億円であり、2022年にはビール事業を運営する子会社「サントリービール」は営業赤字転落した。このため、サントリーのビール事業は黒字化を果たしたものの、依然として低収益であり、資本効率の悪い事業であり続けている。
フランス飲料大手メーカーのオランジーナ社の買収を決定。買収価格は約3000億円
2000年代を通じてサントリーは飲料部門でのヒット商品(伊右衛門など)の開発、ビール事業の黒字化を達成したものの、全社の国内売上高は低迷した。日本国内の人口が低迷する中で市場が伸び悩み、ヒット商品を生み出しても限られた市場でのシェア争いに巻き込まれることや、絶え間ざる競合製品の出現により、サントリーは国内事業を伸ばすのが難しい事態に直面した。
サントリー天然水南アルプス株式会社の工場として新設
サントリーの清涼飲料部門を「サントリー食品インターナショナル」として分離
サントリーHD傘下の子会社「サントリー食品インターナショナル」の株式を上場。株式上場により約3900億円を資本調達
英国グラクソ・スミスクラインの飲料部門の買収を決定。買収価格は約2100億円であった。
サントリーHDは飲料事業において、欧州を中心に買収による売り上げを確保
2014年にサントリーはビール事業について100%子会社「サントリービール株式会社」として分離。だが、ビール事業の売上高は低迷が続き、利益面でもFY2016〜22にかけて5年連続の減益(営業利益ベース)となった。2021年12月期には営業赤字に転落した。
ビール事業のコスト構造は、販管費が重い点で利益の創出が難しくなっている。売上高に占める販管費の比率は、約20%〜24%で推移しており、ビール各社の競合と対抗するためのマーケティング・販売促進によって低収益体質に陥っている。