1966年に奥田耕己(当時29歳)は、勤務していた会計事務所を退職して、大阪に丸栄計算センターを設立した。コンピューターを使用した計算業務の委託業務を意図したが、実際にはデータ入力の代行ビジネスを主力に据えた。
当時はコンピューターは高額であり、コンピューターを使用した計算は資金力の豊富な大企業が大型コンピュータを導入するのが一般的で、中堅企業がコンピュータを活用することが難しい時代であった。そこで、計算業務の受託ビジネスが産業として勃興するが、いずれも参入障壁が低く倒産する企業が相次いだため、創業者の奥田はあえてデータ入力代行を主力事業に据える戦略をとった。
当時のデータ入力は、実質的にパンチカードの穴を開ける作業であり、女性従業員を雇うことで代行業務を実施していたという。
なお、データ入力代行の顧客は朝日新聞や大林組などであり、トランスコスモスは大企業受けの受託ビジネスを中心に据えていた。
また業容の拡大に合わせて、全国各地に拠点となるグループ会社を別会社として設立。1976年には東京に進出し、それ以降は北海道から九州に至るまで、全国に拠点を設置した。