本田昌也(当時45歳)がジョイフル本田を設立
茨城県で本田材木店を営む家に生まれた本田昌也氏は、専務として経営に従事しており、北米で木材の買い付けなどを行なっていた。1960年代には年商50億円を突破して県内有数の材木商に育て上げたものの、1973年のオイルショックによって業績が悪化した。
本田材木店は、兄が経営を継ぐことになり、本田昌也氏は独立するために商売の種を探すことになった。ペット販売など様々なビジネスを試したのちに、材木商時代に北米出張で見かけたホームセンターに照準を合わせた。1974年に静岡県の遠藤木材店がホームセンターを開業したことを聞きつけて、この分野に進出することを決意し、遠藤木材店に頼み込んで店舗の運営を学んだ。
そして、父が残した土地を活用して、1975年に茨城県土浦市にてジョイフル本田を設立した。社名の由来は「楽しさ」を意味するJYOFULに、自身の苗字を組み合わせた「ジョイフル本田」とし、米国で流行していたホームセンターのトレンドを意識した。
茨城での店舗出店を本格化
1970年代にジョイフル本田は、売上高150億円という目標を掲げて「売り場面積4万平方メートル、アイテム数22万点、駐車場収容台数3500台」というロードサイド型の大型店舗の新設計画を立案した。
このため、開業当初は「商品が棚に埋まらない」ことも考えられたが、それでも本田昌也氏は品揃えが重要と考え、地道に取引先を開拓して品揃えを充実させる道を選択した。本田昌也氏は、ジョイフル本田の品揃えを充実するために、大規模店舗を開店する先行投資型の経営を「ガマンの経営」と呼んだ。
店舗拡大は大型店への一点集中投資を実行し、北関東のうち「茨城・千葉」をのロードサイドの郊外を中心に、ホームセンターの新設を本格化した。特定地域に特化することによって、地域内で顧客から認知を獲得することや、物流の効率化を図ることが狙いであった。
なお、北関東のうち2000年代まで群馬県に進出しなかったが、その理由は、群馬県にはベイシアグループがホームセンターの展開を進めており、強力な強豪の存在があったことが背景にある。
ジョイフル本田が1970年代から1990年代にかけて、北関東地区に新設したホームセンターは下記の通りである。
・茨城・荒川沖店(1976年〜)
・茨城・古河店(1977年〜)
・茨城・守谷店(1993年〜)
・埼玉・幸手店(1978年〜)
・千葉・八千代店(1977年〜)
・千葉・市原店(1982年〜)
・千葉・君津店(1987年〜)
・千葉・千葉店(1990年〜)
・千葉・富里店(1995年〜)
売れ筋商品だけ買ってきて並べるから売れないのであって、「こりゃ、絶対に売れんわ」と担当者が思うようなものも買ってきて並べると、その周りの商品がガンガン売れるわけです。「売れないモノを並べる」というのが一つのコツ。ここらへんが輸入品を捌いていく秘密だと思います。 次に売れない話じゃなくて売れる話をいたしましょう。「住まいと暮らしに関する物は何でも置く」というのが基本コンセプト。安さと品揃えがコンセプトです。ですからプロが買いに来るというコンセプトです。 例を出しますと、北欧フィンランドから輸入している建材があります。これは本当に当たりました。ウッドデッキなどが簡単に自分でも組み立てられて値段は格安。いわゆる開発輸入です。発注しても船で3〜4ヶ月かかりますから、必然的に大量の在庫を持つことになります。どれくらい売れるか計算して余裕のある在庫を持つ。ですから春からのシーズン前の昨年秋から冬に大量の在庫を積み上げておき、それをガンガン売っていくわけです。巨大なストックヤードになっています。本当にストックだけで巨額の資金がかかっています。 大量仕入れ、大量販売が価格的魅力の根源ですし、一方でなんでも揃えておかないといけないという宿命もある。その両方ができる当社は非常に幸せだと思っております。