チキンラーメンの発明と、特許を武器にした即席麺市場の主導権確立
数百社が乱立し模倣が横行する新市場で、安藤百福社長は先行者の地位をどう守ろうとしたか
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- 概要
- 1958年に麺を油で揚げて乾かす製法で「チキンラーメン」を発明した日清食品の安藤百福社長が、1962年に製造法の特許を取得すると、これを盾に約110社の同業をけん制し、模倣業者への提訴・証拠保全申請に踏み切って、即席麺という新市場の主導権を握ろうとした判断。
- 背景
- 即席麺は発売から数年でメーカーが数百社まで乱立し、模倣と乱売が横行していた。先行して市場を開いた日清食品は、後発の追随をどう抑え、開拓者の地位を守るかという課題に直面していた。
- 内容
- 「即席ラーメン製造法」などの特許を取得した直後、無断製造を続ければ断固たる措置を取ると発表して約110社をけん制した。警告を無視したエース食品には大阪地裁へ証拠保全を申請し、特許を市場秩序の回復と品質統一のための武器として行使した。
- 含意
- 特許の先願をめぐっては別人が先に開発していたとする係争もあり、行使は競合の排除ではなく牽制と和解による秩序形成にとどまった。もっとも、訴訟を交渉のテコに使うこの型は、後年のカップヌードルの特許防衛戦で本格化する原型になったとみることができる。
特許は支配の道具か、主導権の道具か
この判断の核心は、発明そのものよりも、発明をどう囲い込んで先行者の地位に変えるかにあった。安藤百福社長は、模倣の横行する新市場で製造法の特許を取り、約110社へのけん制と提訴という強い手を打った。しかし特許の行使は、競合を排除して市場を独占するには届かず、警告と係争を通じて業界の秩序を自らに有利な形へ整える程度にとどまった。先願をめぐる混乱を抱えていた点も踏まえれば、これは無傷の勝利ではなく、係争含みの主導権確立であったとみることができる。
それでも、訴訟や権利を交渉のテコに使い、先に量産と流通を固めて後発を引き離すという型は、この時期に輪郭を得た。同じ型は、後年のカップヌードルをめぐる特許・実用新案の防衛戦でより鮮明になり、模倣を設備の作り込みで封じる戦い方へと引き継がれていく。即席麺という産業を立ち上げた発明の陰で、それを誰の主導のもとに置くかを争ったこの一件は、日清食品が技術と権利をどう経営に使う会社なのかを、早くに示していたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
廃墟の屋台から生まれた即席麺と、乱立する市場
日清食品の源流は、終戦直後の大阪でラーメンの屋台に並ぶ人々を見た安藤百福が、家庭で手軽に食べられる保存のきくめんを構想したことにある。1958年、安藤は油で揚げてめんを乾燥させる製法で「チキンラーメン」を発売した。当時の乾めんが20円だった時代に35円という高値だったため、当初は店が引き取らなかったものの、手軽さが受けて需要は広がった。やがて即席麺は新しい食品産業として一気に膨らみ、メーカーが数百社も乱立する市場になった[1]。
先行したとはいえ、まだ無名の新参メーカーであった日清食品は、問屋の信用を得る奇策から始めた。安藤百福は同業を出し抜くため、無断で「発売元、三菱商事」と袋に記載するなどして問屋からの信用を取りつけ、大量の現金を手にした。この資金で1959年に量産のための高槻工場を建てた。群雄割拠の乾めん業界で飛躍する足がかりは、発明そのものよりも、商流と資金を握る動きから作られた[2]。
決断
特許取得と、約110社へのけん制
乱立する市場で先行者の地位を守る手段として、安藤百福社長が選んだのが特許であった。1962年、日清食品は「即席ラーメン製造法」「味付け乾麺の製造」に関する特許を取得する。取得の直後、他の業者の製造はまかりならぬとして競合各社に警告し、無断製造を続ければ断固たる措置を取ると発表して、約110社の業者を一斉にけん制した。発明を市場に開くだけでなく、その製法を独占的な権利として囲い込み、後発の追随を法的な圧力で抑えにかかった[3]。
けん制はやがて法廷へ持ち込まれた。日清食品の警告に対し、エース食品は独自の製法を出願中であり束縛されないとして無視を決め込む。これに対して日清食品は、エース食品を相手に大阪地裁へ証拠保全を申請した。当時の即席麺市場は、誕生からわずか5年でメーカーが全国140社を超え、日産400万食を数えた時期もあったが、この頃はやや下り坂にあった。そこに起きた特許騒動だけに、業界への影響は深刻で、多くの業者が日清に反撃するか特許権の譲渡を受けるか、去就に迷った[4][5]。
「秩序回復」という名分と、先願をめぐる係争
日清食品が特許行使に掲げた名分は、乱売に陥った市場の秩序回復であった。同社の砥上常務は、業界が日清の特許権を認めつつあるとして、この権利を使って生産と品質を調整し、乱売ぎみの業界の秩序回復に乗り出したいと語っている。値引き競争で疲弊した市場を、特許を持つ先行者が上から整える——競合の排除というよりも、市場のルールを自らの手で握り直そうとする意図がそこにうかがえる[6]。
もっとも、その特許の土台は盤石ではなかった。即席麺を最初に開発し出願したのは自分だと主張する大和通商の陳社長は、日清が特許権をふりかざして横暴だとして仮処分を申請した。実際、戦後に即席麺を最初に開発して特許を取ったのは安藤百福ではなく別の人物であり、油の温度に関する記述ミスもあって安藤の側に先に特許がおりたとされる。先願をめぐる混乱を抱えたまま、日清食品は特許を市場支配の武器として押し出していた[7][8]。
結果
上場と大商社流通、そして独走のなかの追随
特許と量産体制を先に固めた日清食品は、1963年に東京・大阪両証券取引所の市場二部へ上場した。読売新聞はこれを「3年で10倍の増収」と報じ、即席ラーメンの製法について2件の特許を取得したことと、三菱商事・伊藤忠・東食の大商社3社を販売代理店としたことを成功の背景に挙げた。発明・特許・大手商社の販売網という三つを先に押さえたことが、後発を引き離す土台になった[9]。
ただし、特許は市場を掃討する道具にはならなかった。いち早く特許を押さえて量産体制を確立した日清食品が乾めん市場を独走した一方で、市場そのものが急激に伸びたため、エースコック・明星食品・サンヨー食品などの大手が次々と追随した。1968年の時点でも即席麺は大手専業4社で7割近いシェアを占めつつ、どこも完全な優位に立てない実力均等の状態にあった。特許は先行者の主導権を支えたものの、後発の参入を封じて独占をもたらすには至らなかった[10][11]。
- 日清食品の歴史/安藤百福(2017年)
- 読売新聞 1962年6月23日 朝刊「もつれる"即席ラーメン"」
- 読売新聞 1963年4月9日 夕刊「3年で10倍の増収」
- 読売新聞 1968年3月11日 朝刊「即席ラーメン安売り戦争」
- 日経ビジネス 1985年10月7日号「シリーズ・安藤百福 異郷でつかんだ自立の論理も長男には通じず」
- 経済春秋社編『企業の歴史(明治百年)』(1968年)