日清食品ホールディングス の歴史

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創業 1948年
創業者 安藤百福
創業地 大阪府泉大津市
創業
1948年9月、安藤百福氏が大阪府泉大津市汐見町で株式会社中交総社を設立した。資本金は500万円で、事業目的には魚介類の加工販売、紡績その他の繊維工業、洋品雑貨の販売、図書の出版が並んでいる。1949年9月にサンシー殖産へ商号を改めて本店を大阪市北区へ移したが、1957年、理事長を務めた信用組合の破綻処理で安藤百福氏は全財産を失った。48歳で振り出しに戻り、自宅裏の小屋で1年をかけて麺を油で揚げて乾かす製法にたどり着く。1958年8月に即席袋めん『チキンラーメン』を開発し、同年12月に商号を日清食品へ改めた。1959年12月に大阪府高槻市の工場が完成し、1963年10月には東京・大阪両証券取引所の第二部へ上場している。
決断
新しい市場を作った直後に、その市場の秩序を自ら決めにかかった。チキンラーメンの発売から数年で即席麺のメーカーは数百社まで乱立し、模倣と乱売が横行する。1962年6月、安藤百福氏は即席ラーメン製造法の特許を取得して、約110社へ無断製造の中止を通告し、警告を無視したエース食品には大阪地裁へ証拠保全を申請した。もっとも先願をめぐる係争もあり、行使は排除ではなく牽制と和解にとどまっている。1971年9月には容器が食器を兼ねるカップヌードルを発売している。袋めん30円の時代に100円を付けたため問屋は扱わず、テレビCMで調理法を伝えたうえで、開かれて間もない銀座の歩行者天国で実演販売した。1990年にはブランド別に8人のマネージャーを置いて生産から利益責任までを一人へ負わせ、先行各社に1年2か月遅れた『ラ王』を同じ250円で出して半年で65億円を売った。
現況
伸びているのは米州だが、利益の半分近くは国内の即席麺が出している。2026年3月期の連結売上高は7,881億円、営業利益は623億円である。セグメント別では日清食品が売上2,419億円・利益321億円で、報告セグメント利益681億円の47%を占める。米州地域は売上1,637億円と国内即席麺に次ぐ規模へ育ったが、利益は前期の189億円から106億円へ減り、設備投資は327億円と全セグメントで最も大きい。2006年11月に1株870円の対抗公開買付で業界2位を取得しており、その明星食品は売上483億円・利益34億円のセグメントとして残っている。安売りに乗らず自ら値を決める姿勢が、国内即席麺の高い利益率を現在まで残した。
競合
国内で守った価格が、そのまま北米での競争劣位になった。1979年、米国でカップ麺の生産を始めようとした東洋水産を特許侵害で提訴すると、東洋水産も特許無効を訴え、互いの特許使用を自由に認める和解で終わっている。その東洋水産は1994年に約100億円を投じて米国第3工場を稼働させ、低所得層の食費に収まる値付けと味へ商品を寄せ切った。日清食品はカップヌードルの価格帯を保ったまま北米へ入り、2004年の時点でも米国では東洋水産のシェアを下回り、中国では3%にとどまっていた。国内では明星食品を加えてカップめんで約6割を占め、値上げを通せる立場にある。一方で米州地域の営業利益は2026年3月期に前期の189億円から106億円へ減り、量で競う市場では価格で下支えできないことが数字に出た。
日清食品ホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 発明と、特許で業界そのものをつくった創業期 (1948年〜)

中交総社からチキンラーメンまでの十年

1948年9月、安藤百福氏は魚介類の加工販売、紡績その他繊維工業、洋品雑貨の販売、図書の出版及び販売を目的として株式会社中交総社を大阪府泉大津市汐見町に設立[1]した。資本金は500万円[2]で、翌1949年9月にはサンシー殖産株式会社へ商号を変更し、本店を大阪市北区へ移した[3]。安藤氏は1910年3月5日に台湾南部で生まれ、22歳でメリヤス製品を日本内地へ移入する事業を興した[4]のち、幻燈機の製造やバラック住宅の製造など複数の事業を手がけた。戦時中は飛行機部品の下請けを営んでいた際に憲兵隊へ連行され、出獄したのは45日目、その後60日間を大阪市北区の中央病院で過ごした[5]。戦後は泉大津で製塩業やいわしの干物作りを始めたが、大阪府警の告発でGHQに逮捕され[6]、出獄したときにはほとんどの財産を没収されていた。

  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1948年9月 株式会社中交総社を泉大津市汐見町に設立
    • [2]設立時の資本金 500万円
    • [3]1949年9月 サンシー殖産株式会社へ商号変更・本店を大阪市北区へ移転
  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
    • [4]安藤百福 1910年3月5日 台湾南部生まれ・22歳でメリヤス製品の内地移入業を創業
    • [5]戦時中の憲兵隊による連行 出獄まで45日・中央病院で60日間の療養
    • [6]戦後の泉大津での製塩業・いわしの干物作りとGHQによる逮捕・財産没収

サンシー殖産の時代、安藤氏は大阪華銀という信用組合の理事長[7]を引き受けていた。戦後の日本は食糧難のなかで政府が粉食を奨励し、学校給食にパンを取り入れていた[8]が、安藤氏は日本人に合うのはパンよりめん類ではないかと考え、美味栄養・調理簡便・耐保存・衛生的・廉価の五つを大衆食品の条件に置いて[9]製品を組み立てた。1年近い試行錯誤の末にたどり着いたのが油熱乾燥法[10]で、1958年8月[11]、その応用第1弾として即席袋めん『チキンラーメン』の製造販売を始めた[12]。同年12月には本店を大阪市中央区へ移すとともに、商号を日清食品株式会社へ変更[13]した。

  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
    • [7]安藤百福 大阪華銀という信用組合の理事長
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
    • [8]戦後の政府による粉食奨励・学校給食へのパン導入
    • [9]大衆食品の5大要素(美味栄養・調理簡便・耐保存・衛生的・廉価)
    • [10]油熱乾燥法の発明とその応用第1弾としてのチキンラーメン
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1958年8月 即席袋めん(チキンラーメン)の開発
    • [13]1958年12月 本店を大阪市中央区へ移転・日清食品株式会社へ商号変更
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]1958年8月からの即席チキンラーメンの製造及び販売開始
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1948年9月 株式会社中交総社を泉大津市汐見町に設立
    • [2]設立時の資本金 500万円
    • [3]1949年9月 サンシー殖産株式会社へ商号変更・本店を大阪市北区へ移転
    • [11]1958年8月 即席袋めん(チキンラーメン)の開発
    • [13]1958年12月 本店を大阪市中央区へ移転・日清食品株式会社へ商号変更
  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
    • [4]安藤百福 1910年3月5日 台湾南部生まれ・22歳でメリヤス製品の内地移入業を創業
    • [5]戦時中の憲兵隊による連行 出獄まで45日・中央病院で60日間の療養
    • [6]戦後の泉大津での製塩業・いわしの干物作りとGHQによる逮捕・財産没収
    • [7]安藤百福 大阪華銀という信用組合の理事長
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
    • [8]戦後の政府による粉食奨励・学校給食へのパン導入
    • [9]大衆食品の5大要素(美味栄養・調理簡便・耐保存・衛生的・廉価)
    • [10]油熱乾燥法の発明とその応用第1弾としてのチキンラーメン
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]1958年8月からの即席チキンラーメンの製造及び販売開始

大商社を担保にした量産と全国流通の確保

チキンラーメンは乾めんが1食20円の時代に35円[14]と高く、当初は店が引き取らなかった。安藤氏は袋に『発売元、三菱商事』[引用元]と刷り込んで問屋の信用を取りつけ[15]、現金での決済を迫った。三菱商事大阪支店の穀肥部長だった佐南正司氏が社名を外すよう頼んだ直後、安藤氏は社名入りの袋を大量に印刷所へ発注[16]しており、社長の高垣勝次郎氏から取引をやめる[17]と怒鳴られても袋は変わらなかった。原料代や設備費の支払いには手形を使った[18]ため、手元には現金が積み上がった。1959年春、安藤氏はその現金を注ぎ込んで大阪・高槻に15,000平方メートルの土地を一気に購入し、床面積6,600平方メートルの工場を建てて[19]量産を始めた。

  • 日清食品の歴史/安藤百福(2017)
    • [14]乾めん1食20円の時代にチキンラーメン35円
    • [15]袋への「発売元、三菱商事」の刷り込みによる問屋の信用と現金決済
  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
    • [16]三菱商事大阪支店穀肥部長 佐南正司の要請直後の社名入り袋の大量発注
    • [17]三菱商事社長 高垣勝次郎による取引中止の申し入れ
    • [18]原料代・設備費の手形払いによる手元現金の積み上がり
    • [19]1959年春 大阪・高槻に15,000平方メートルの土地を購入・床面積6,600平方メートルの工場を建設

工場は1959年12月に完成[20]し、日清食品は同時に本店を高槻へ移した。従業員は1961年に1,000人を超えた[21]。販売では当初から三菱商事、伊藤忠商事、東食の三社を総発売元に据え[22]、それぞれの傘下の流通機構へ製品を流すことで販売上のリスクを避けた。直売はほとんどなく、原材料の仕入も大部分[23]をこの三社に頼った。資本金は1960年3月に2,000万円、同年8月に5,000万円、同年11月に1億円、1961年6月に1億5,000万円[24]と、1年余りで30倍に増えた。1960年にはテレビCMの放映を始め[25]、取引金融機関には三和銀行と三井銀行が並んだ[26]。1962年6月にはウェーブ食品の営業権を譲り受け[27]、その地に東京工場を置いて関東の生産拠点とした。

  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1959年12月 大阪府高槻市に工場完成・同時に本店を移転
  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
    • [21]1961年に従業員1,000人超
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [22]三菱商事・伊藤忠商事・東食の三社を総発売元とする販売
  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [23]直売がほとんどなく仕入も大部分を三社に依存
    • [24]資本金の推移 1960年3月2,000万円→8月5,000万円→11月1億円→1961年6月1億5,000万円
    • [26]取引金融機関 三和銀行・三井銀行
    • [27]1962年6月 ウェーブ食品の営業権譲受と東京工場化
  • 日清食品の歴史/安藤百福(2017)
    • [25]1960年 テレビCMの放映開始
  • 日清食品の歴史/安藤百福(2017)
    • [14]乾めん1食20円の時代にチキンラーメン35円
    • [15]袋への「発売元、三菱商事」の刷り込みによる問屋の信用と現金決済
    • [25]1960年 テレビCMの放映開始
  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
    • [16]三菱商事大阪支店穀肥部長 佐南正司の要請直後の社名入り袋の大量発注
    • [17]三菱商事社長 高垣勝次郎による取引中止の申し入れ
    • [18]原料代・設備費の手形払いによる手元現金の積み上がり
    • [19]1959年春 大阪・高槻に15,000平方メートルの土地を購入・床面積6,600平方メートルの工場を建設
    • [21]1961年に従業員1,000人超
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1959年12月 大阪府高槻市に工場完成・同時に本店を移転
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [22]三菱商事・伊藤忠商事・東食の三社を総発売元とする販売
  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [23]直売がほとんどなく仕入も大部分を三社に依存
    • [24]資本金の推移 1960年3月2,000万円→8月5,000万円→11月1億円→1961年6月1億5,000万円
    • [26]取引金融機関 三和銀行・三井銀行
    • [27]1962年6月 ウェーブ食品の営業権譲受と東京工場化

特許の行使と公開、そして二部上場

即席めんは装置が簡単で大量生産が利くため、新規参入が相次いだ[28]。1961年には130社に達し[29]、需給が崩れて乱売と粗悪品が出回った[30]。日清食品は即席めん製造法の特許を取得すると、無断で製造を続ける業者には断固たる措置を取ると発表して約110社をけん制[31]した。警告を無視したエース食品に対しては、大阪地裁へ証拠保全を申請[32]した。当時の即席ラーメンのメーカー数はセミ・インスタントを含めて全国140社を超え[33]、特許騒動は業者の去就を迷わせた。特許の先願をめぐっては、自分が最初に開発し出願したと主張する大和通商の陳栄泰氏が、日清食品の横暴だとして仮処分を申請[34]した。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [28]装置が簡単で大量生産が可能なことによる新規参入の相次ぎ
    • [30]需給の崩壊による乱売と粗悪品の横行
  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [29]1961年のメーカー数 130社
  • 日清食品の歴史/安藤百福(2017)
    • [31]特許取得直後の約110社へのけん制
    • [32]エース食品に対する大阪地裁への証拠保全申請
  • 読売新聞 1962年6月23日 朝刊p10
    • [33]セミ・インスタントを含む即席ラーメンのメーカー数 全国140社超
    • [34]大和通商の陳栄泰による先願主張と仮処分申請

日清食品は同業他社の要望を受けて特許を公開[35]し、61社と使用許諾契約を結んだ[36]。安藤氏は1959年に日本即席ラーメン協会を設立し、1964年には社団法人日本即席ラーメン工業協会[37]として品質向上と業界の共存共栄を図る組織に改めて、自ら理事長を務めた。300社を超えた業者の整理では、気心の合う者どうしを組ませてヘッドとなるメーカーを10社ほどに絞り、残りをその翼下へ入れる[38]方法を取った。メーカー数は1962年末には約50社まで減り、特許で争っていた大和通商とも和解が成立[39]した。安藤氏は後年、『私が特許をオープンにしたからこそ、この業界ができたわけです』[引用元]と振り返っている(日経ビジネス 2004年2月23日号)。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [35]同業他社の要望を受けた特許の公開
    • [37]1959年 日本即席ラーメン協会設立・1964年 社団法人日本即席ラーメン工業協会へ
  • 日経ビジネス 2004年2月23日号
    • [36]特許使用許諾契約 61社
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
    • [38]業界整理の方法 ヘッドとなるメーカー10社ほどに絞り残りを翼下へ
  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [39]1962年末のメーカー数 約50社と大和通商との和解成立

1963年10月21日[40]、日清食品は東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第二部へ株式を上場[41]した。上場時の資本金は1億5,000万円、上場株式数は300万株、従業員は930名[42]で、大株主には安藤百福氏の158万600株に続いて安藤宏寿氏の42万株、三菱商事の12万4,000株[43]が並んだ。1963年3月期の製品別売上比率はチキンラーメンとチキンラーメンプラスカレーで89%を占め、残る11%[44]がチキンラーメンニュータッチだった。売上高は3年で10倍に伸び[45]、2件の特許取得と三菱商事・伊藤忠商事・東食を販売代理店としたこと[46]がその背景にあった。上場時の役員は社長の安藤百福氏、専務の安藤宏寿氏、常務の砥上峰次氏と有元一馬氏[47]らで、決算期は3月31日の年1回[48]だった。上場と同じ1963年6月には『日清焼そば』の製造販売を始め[49]、上場の翌年には資本金を2億2,500万円へ増資[50]した。

  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [40]上場年月日 1963年10月21日
    • [42]上場時の資本金1億5,000万円・上場株式数300万株・従業員930名
    • [43]大株主 安藤百福1,580,600株・安藤宏寿420,000株・三菱商事124,000株
    • [44]1963年3月期の製品別売上比率 チキンラーメン系89%・ニュータッチ11%
    • [47]上場時の役員 社長 安藤百福・専務 安藤宏寿・常務 砥上峰次/有元一馬
    • [48]決算期 3月31日の年1回
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [41]東京・大阪両証券取引所市場第二部への株式上場
  • 読売新聞 1963年4月9日 夕刊p4
    • [45]3年で10倍の増収
    • [46]成功の背景 2件の特許取得と大商社3社の販売代理店化
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [49]1963年6月「日清焼そば」の製造販売開始
    • [50]上場翌年の増資 資本金2億2,500万円
  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [28]装置が簡単で大量生産が可能なことによる新規参入の相次ぎ
    • [30]需給の崩壊による乱売と粗悪品の横行
    • [35]同業他社の要望を受けた特許の公開
    • [37]1959年 日本即席ラーメン協会設立・1964年 社団法人日本即席ラーメン工業協会へ
  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [29]1961年のメーカー数 130社
    • [39]1962年末のメーカー数 約50社と大和通商との和解成立
    • [40]上場年月日 1963年10月21日
    • [42]上場時の資本金1億5,000万円・上場株式数300万株・従業員930名
    • [43]大株主 安藤百福1,580,600株・安藤宏寿420,000株・三菱商事124,000株
    • [44]1963年3月期の製品別売上比率 チキンラーメン系89%・ニュータッチ11%
    • [47]上場時の役員 社長 安藤百福・専務 安藤宏寿・常務 砥上峰次/有元一馬
    • [48]決算期 3月31日の年1回
  • 日清食品の歴史/安藤百福(2017)
    • [31]特許取得直後の約110社へのけん制
    • [32]エース食品に対する大阪地裁への証拠保全申請
  • 読売新聞 1962年6月23日 朝刊p10
    • [33]セミ・インスタントを含む即席ラーメンのメーカー数 全国140社超
    • [34]大和通商の陳栄泰による先願主張と仮処分申請
  • 日経ビジネス 2004年2月23日号
    • [36]特許使用許諾契約 61社
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
    • [38]業界整理の方法 ヘッドとなるメーカー10社ほどに絞り残りを翼下へ
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [41]東京・大阪両証券取引所市場第二部への株式上場
  • 読売新聞 1963年4月9日 夕刊p4
    • [45]3年で10倍の増収
    • [46]成功の背景 2件の特許取得と大商社3社の販売代理店化
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [49]1963年6月「日清焼そば」の製造販売開始
    • [50]上場翌年の増資 資本金2億2,500万円

乱立する市場と、コメへの最初の回り道

1964年10月、即席めんの生産工場として横浜市戸塚区に横浜工場が完成[51]した。新工場ではスパゲッティー系の新製品も製造[52]し、品目を広げる計画だった。1966年3月には佐賀県鳥栖市に合弁会社の九州日清株式会社を設立し、同年9月に『和風チキン』、1967年8月に『日清ランチ』[53]を投入した。1967年12月の倍額増資で資本金は4億5,000万円[54]に達した。1968年の即席ラーメン業界はメーカー200社、年産30億食、売上高550億円[55]の規模になり、大手専業4社で7割近いシェアを占めながら、どこも完全な優位に立てない[56]状態が続いた。さかのぼって1962年実績の全国生産高は約100億円で、需要の大部分は京阪神や京浜などの大都市に集中[57]していた。

  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1964年10月 横浜市戸塚区に横浜工場完成
  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [52]横浜工場でのスパゲッティー系新製品の製造計画
    • [57]1962年実績の即席ラーメン全国生産高 約100億円・需要は大都市に集中
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [53]1966年3月 九州日清株式会社設立・1966年9月「和風チキン」・1967年8月「日清ランチ」投入
    • [54]1967年12月の倍額増資 資本金4億5,000万円
    • [55]1968年の即席ラーメン業界 メーカー200社・年産30億食・売上高550億円
  • 読売新聞 1968年3月11日 朝刊
    • [56]1968年時点で大手専業4社が7割近いシェアを占め実力均等の状態

乱立を前に、安藤氏は新しい市場としてコメに向かった[58]。1967年に投入した『日清ランチ』がその答えだったが、ラーメンの技術で無理に切り開こうとしたため中途半端な製品[59]にとどまった。表示どおりに作れば美味しく食べられるのに、『コップ1杯の水』といってもコップの大きさが一定せず分量にばらつき[60]が出るなど、メーカーの意図が消費者へ届かなかった。撤収の決断は容易につかず、社内で進退の議論を重ねた末、5億円の損を出して引き下がった[61]。一方の即席めんは、スーパーの回転の速い目玉商品として安売り合戦の常連[62]となり、価格競争がさらに激しくなった。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [58]新市場としてのコメへの進出
    • [59]日清ランチの失敗要因 ラーメンの技術で無理に切り拓いた中途半端な製品
    • [60]「コップ1杯の水」の分量のばらつきなど調理表示が消費者へ浸透しなかったこと
    • [61]日清ランチの撤収 5億円の損失
  • 読売新聞 1968年3月11日 朝刊
    • [62]スーパーの目玉商品としての即席めんの安売り合戦
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1964年10月 横浜市戸塚区に横浜工場完成
  • 証券 1963年15(11)(174)
    • [52]横浜工場でのスパゲッティー系新製品の製造計画
    • [57]1962年実績の即席ラーメン全国生産高 約100億円・需要は大都市に集中
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [53]1966年3月 九州日清株式会社設立・1966年9月「和風チキン」・1967年8月「日清ランチ」投入
    • [54]1967年12月の倍額増資 資本金4億5,000万円
    • [55]1968年の即席ラーメン業界 メーカー200社・年産30億食・売上高550億円
  • 読売新聞 1968年3月11日 朝刊
    • [56]1968年時点で大手専業4社が7割近いシェアを占め実力均等の状態
    • [62]スーパーの目玉商品としての即席めんの安売り合戦
  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [58]新市場としてのコメへの進出
    • [59]日清ランチの失敗要因 ラーメンの技術で無理に切り拓いた中途半端な製品
    • [60]「コップ1杯の水」の分量のばらつきなど調理表示が消費者へ浸透しなかったこと
    • [61]日清ランチの撤収 5億円の損失

カップヌードルという世界共通食の設計

即席ラーメンは簡便・美味・栄養・衛生・廉価の利点を備えていたものの、箸を使い鍋で調理する必要があり、箸を使わない国では受け入れられなかった[63]。国際的に同じ形で食べられるものを探した先[64]が『カップヌードル』だった。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [63]箸と鍋を要する即席ラーメンが箸を使わない国で受け入れられなかったこと
    • [64]国際的に同じパターンで食べられる商品としてのカップヌードル

カップヌードルを国際商品にするため、日清食品は2年近くかけて市場調査[65]を行った。20,000体のモニターを動員した結果は全般に悲観的[66]で、とくに国内ではカップに麺を入れて歩きながら食べるのは良風美俗に反するという意見が強かった[67]。ところが若年層は喜んで食べると答え、外国のモニターからは美味しい・手軽だという声[68]が多く集まった。安藤氏はこの反応に将来を託し、1971年9月[69]、1個100円でカップヌードルを発売[70]した。袋めんの標準価格が30円の時代に100円という値は問屋から高過ぎると敬遠され[71]、既存の卸の流通には乗らなかった。日清食品はテレビCMで調理法を消費者へ直接伝え、始まって間もない銀座の歩行者天国で実演販売[72]した。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [65]カップヌードルの市場調査 2年近く
    • [66]20,000体のモニター動員と全般に悲観的な調査結果
    • [67]国内モニターの「歩き食いは良風美俗に反する」という意見
    • [68]外国モニターの好意的反応(美味しい・手軽)
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [69]1971年9月 カップめん(カップヌードル)の発売開始
  • 日清食品の歴史/安藤百福(2017)
    • [70]カップヌードルの発売価格 1個100円
    • [72]テレビCMによる調理法の直接告知と銀座歩行者天国での実演販売
  • 日経流通新聞 1990年4月28日 p16
    • [71]袋めん30円の時代の100円という価格と問屋の敬遠

生産は、ライス工場の建設用に確保していた茨城県取手の土地を転用[73]した。1971年3月から10億円を投じて専用工場を建て、同年10月16日[74]に関東工場として操業を始めた[75]。カップヌードルは四種の特許で組み上げた製品[76]で、生産設備にも大きな資金が要るため、後続メーカーは容易には出てこないと見込んでいた。ところが熱気を通さない特殊な紙を使うカップの成型が追いつかず、日産20万食の第一期生産計画は実施できなかった[77]。1972年1月時点の生産は日産4万食程度[78]にとどまり、日清食品は当期の売上と利益への寄与を見込まず、ほとんどを現物宣伝とマーケティングに回した[79]。具材のためには岡山県長船町に総工費4億円・月産5トンのフリーズドライ食品工場[80]を建て、1972年3月には同県瀬戸内市に日清エフ・ディ食品株式会社を設立[81]した。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [73]ライス工場用に用意していた茨城県取手の土地の転用
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [74]1971年3月からの10億円投資と1971年10月16日の操業開始
    • [76]四種の特許によるカップヌードルの完成
    • [77]カップ成型の遅れによる日産20万食の第一期生産計画の未達
    • [78]1972年1月時点の生産 日産4万食程度
    • [79]当期の売上・利益への寄与を見込まず現物宣伝とマーケティングへ充当
    • [80]岡山県長船町のフリーズドライ食品工場 総工費4億円・月産5トン
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [75]1971年10月 茨城県取手市に関東工場完成
    • [81]1972年3月 岡山県瀬戸内市に日清エフ・ディ食品株式会社を設立
  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [63]箸と鍋を要する即席ラーメンが箸を使わない国で受け入れられなかったこと
    • [64]国際的に同じパターンで食べられる商品としてのカップヌードル
    • [65]カップヌードルの市場調査 2年近く
    • [66]20,000体のモニター動員と全般に悲観的な調査結果
    • [67]国内モニターの「歩き食いは良風美俗に反する」という意見
    • [68]外国モニターの好意的反応(美味しい・手軽)
    • [73]ライス工場用に用意していた茨城県取手の土地の転用
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [69]1971年9月 カップめん(カップヌードル)の発売開始
    • [75]1971年10月 茨城県取手市に関東工場完成
    • [81]1972年3月 岡山県瀬戸内市に日清エフ・ディ食品株式会社を設立
  • 日清食品の歴史/安藤百福(2017)
    • [70]カップヌードルの発売価格 1個100円
    • [72]テレビCMによる調理法の直接告知と銀座歩行者天国での実演販売
  • 日経流通新聞 1990年4月28日 p16
    • [71]袋めん30円の時代の100円という価格と問屋の敬遠
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [74]1971年3月からの10億円投資と1971年10月16日の操業開始
    • [76]四種の特許によるカップヌードルの完成
    • [77]カップ成型の遅れによる日産20万食の第一期生産計画の未達
    • [78]1972年1月時点の生産 日産4万食程度
    • [79]当期の売上・利益への寄与を見込まず現物宣伝とマーケティングへ充当
    • [80]岡山県長船町のフリーズドライ食品工場 総工費4億円・月産5トン

海外での回収とコメの失敗、そして戦艦型商品

海外は1970年7月の米国カリフォルニア州ガーデナ市に置いたニッシンフーズ(U.S.A.)Co., Inc.[82]から始まった。ロサンゼルスの工場は1972年2月の稼働を予定して建てられた[83]が、初年度の売れ行きは5万食[84]にとどまった。麺が長すぎ、しょう油味のくさみが米国人になじまなかったため、麺を短くし、しょう油を隠し味に回す[85]作り替えを重ねた。5年目にようやく収支が均衡し、6年目から利益が出て、7年目からは毎年倍々の伸び[86]になった。1977年には米国で1億8,000万食を売り、1978年は3億5,000万食を目標[87]に置いた。同じ時期、日清食品は英国のユナイテッド・ビスケット社へ技術を供与[88]し、輸入に頼ってきた加工食品技術の流れを逆に向けた。

  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [82]1970年7月 米国カリフォルニア州ガーデナ市にニッシンフーズ(U.S.A.)Co.,Inc.設立
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [83]ロサンゼルス現地工場 1972年2月稼働予定
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
    • [84]米国初年度の販売 5万食
    • [85]米国向けの作り替え 麺を短くしょう油を隠し味に
    • [86]米国事業 6年目から利益・7年目から毎年倍々の伸び
    • [87]米国販売 1977年1億8,000万食・1978年目標3億5,000万食
  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [88]英国ユナイテッド・ビスケット社への技術供与

コメへの二度目の挑戦がカップライス[89]だった。1974年秋、企業化のめどが立った日清食品は本格発表の1年前に30億円をかけ、滋賀工場内へ日産50トンの量産プラント建設に着手[90]した。年間2万トン・200億円という売上目標[91]を掲げ、1975年にエビピラフ・さけ茶・五目寿し・ドライカレー・中華シチュー・赤飯・チキンライスの7種類[92]を発売した。ところが本格発売から5年たった1980年3月期のカップライスの売上高は2億円で、当初の計画の約100分の1[93]にとどまった。1個200円という販売価格は、コメは安いものという通念[94]に照らして高すぎた。カップヌードルが準主食として売れたのに対し、カップライスは主食のコメと正面から[95]ぶつかった。

  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [89]カップライス コメへの二度目の挑戦
    • [92]1975年発売のカップライス7種類
  • 日経ビジネス 1980年12月15日号
    • [90]1974年秋 30億円を投じ滋賀工場内に日産50トンの量産プラント着工
    • [91]カップライスの売上目標 年間2万トン・200億円
    • [93]1980年3月期のカップライス売上高2億円・計画の約100分の1
    • [94]カップライスの販売価格 1個200円とコメは安いものという通念
    • [95]準主食のカップヌードルと主食のコメに正面からぶつけたカップライスの違い

1972年8月、日清食品は東京・大阪各証券取引所の市場第一部に指定[96]された。この時期の即席ラーメン業界は全国100社・年産35億食で、うち約60社が大手5社の系列に属し、大手5社で総需要の約82%[97]を占めた。日清食品のシェアは22〜23%、年間供給量は7億食、従業員は500名[98]で、本社・横浜・関東の三工場に加えて全国18の専属工場を配して地域生産・地域販売[99]を敷いた。1973年2月には米国ダートインダストリーズ社との合弁で、滋賀県栗東市に日清ダート株式会社を設立[100]した。1973年9月に滋賀工場と食品総合研究所、1975年8月に下関工場が完成[101]し、1977年4月には本社ビルの完成に伴って本店を現在地の大阪市淀川区へ移した[102]。1978年時点の主力は『カップヌードル』『どん兵衛』『めん八珍』『UFO』の4商品[103]で、いずれも1件100億円以上の規模を持ち、細かい商品には手を出さない方針[104]を取った。1980年3月、年間売上高は1,000億円に達した[105]

  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [96]1972年8月 東京・大阪各証券取引所市場第一部への指定
    • [100]1973年2月 米国ダートインダストリーズ社との合弁で日清ダート株式会社を設立
    • [101]1973年9月 滋賀工場・食品総合研究所完成/1975年8月 下関工場完成
    • [102]1977年4月 本社ビル完成に伴い本店を現在地の大阪市淀川区へ移転
    • [105]1980年3月 年間売上高1,000億円達成
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [97]1972年の即席ラーメン業界 全国100社・年産35億食・大手5社で総需要の約82%
    • [98]日清食品のシェア22〜23%・年間7億食・従業員500名
    • [99]全国18の専属工場による地域生産・地域販売
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
    • [103]1978年の主力4商品 カップヌードル・どん兵衛・めん八珍・UFO
    • [104]主力商品は1件100億円以上・細かい商品には手を出さない方針
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [82]1970年7月 米国カリフォルニア州ガーデナ市にニッシンフーズ(U.S.A.)Co.,Inc.設立
    • [96]1972年8月 東京・大阪各証券取引所市場第一部への指定
    • [100]1973年2月 米国ダートインダストリーズ社との合弁で日清ダート株式会社を設立
    • [101]1973年9月 滋賀工場・食品総合研究所完成/1975年8月 下関工場完成
    • [102]1977年4月 本社ビル完成に伴い本店を現在地の大阪市淀川区へ移転
    • [105]1980年3月 年間売上高1,000億円達成
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
    • [83]ロサンゼルス現地工場 1972年2月稼働予定
    • [97]1972年の即席ラーメン業界 全国100社・年産35億食・大手5社で総需要の約82%
    • [98]日清食品のシェア22〜23%・年間7億食・従業員500名
    • [99]全国18の専属工場による地域生産・地域販売
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
    • [84]米国初年度の販売 5万食
    • [85]米国向けの作り替え 麺を短くしょう油を隠し味に
    • [86]米国事業 6年目から利益・7年目から毎年倍々の伸び
    • [87]米国販売 1977年1億8,000万食・1978年目標3億5,000万食
    • [103]1978年の主力4商品 カップヌードル・どん兵衛・めん八珍・UFO
    • [104]主力商品は1件100億円以上・細かい商品には手を出さない方針
  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
    • [88]英国ユナイテッド・ビスケット社への技術供与
    • [89]カップライス コメへの二度目の挑戦
    • [92]1975年発売のカップライス7種類
  • 日経ビジネス 1980年12月15日号
    • [90]1974年秋 30億円を投じ滋賀工場内に日産50トンの量産プラント着工
    • [91]カップライスの売上目標 年間2万トン・200億円
    • [93]1980年3月期のカップライス売上高2億円・計画の約100分の1
    • [94]カップライスの販売価格 1個200円とコメは安いものという通念
    • [95]準主食のカップヌードルと主食のコメに正面からぶつけたカップライスの違い

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日清食品ホールディングスの沿革1948〜2017年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1948〜1963年発明と、特許で業界そのものをつくった創業期中交総社を設立
サンシー殖産に商号変更、本店を移転
瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(「チキンラーメン」)を開発★★
本店を移転、日清食品に商号変更
工場が竣工、同時に本社を移転
チキンラーメンの発明と、特許を武器にした即席麺市場の主導権確立

1958年に麺を油で揚げて乾かす製法で『チキンラーメン』を発明した日清食品の安藤百福社長が、1962年に製造法の特許を取得すると、これを盾に約110社の同業をけん制し、模倣業者への提訴・証拠保全申請に踏み切って、即席麺という新市場の主導権を握ろうとした判断。

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★★★
エース食品に証拠保全を申請★★
東京証券取引所・大阪証券取引所市場第二部に株式上場
1964〜1980年袋めんの頭打ちと、容器内調理という作り直し即席めんの生産工場として横浜工場が竣工
カリフォルニア州ガーデナ市にニッシンフーズ(U.S.A.)Co.,Inc.を設立。(注1)★★
カップヌードル発売による即席麺の再発明

1971年9月、日清食品(安藤百福社長)は、麺・具・スープを容器に封じた即席麺『カップヌードル』を1個100円で発売した。袋めんの標準価格が30円だった時代に高価格を貫き、問屋が扱わないなかテレビCMと銀座歩行者天国での直接販売に踏み切った経営判断である。容器が食器と調理器を兼ねる調理型により、日清食品は袋めんとは別の即席麺を作り直した。

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★★★
カップめんの生産工場として関東工場が竣工
米ダートインダストリーズとの合弁で日清ダートを設立
食品総合研究所を新設
年間売上高1,000億円達成。(注3)
1981〜2008年承継のやり直しと、社内競争でしのいだ成熟期香港タイポー地区に日清食品有限公司を設立。(注1)
安藤宏基東京本社ビルが竣工、東京支社を東京本社に商号変更
安藤宏基中央研究所(食品総合研究所・食品安全研究所)完成
安藤宏基ベアトリースフーズCo.,(HK)Ltd.に資本参加。(注1)
安藤宏基ヨーク本社に資本参加。(注1)
安藤宏基ピギー食品に資本参加。(注1)
安藤宏基シスコに資本参加。(注1)
安藤宏基中国内の第一号の生産基地として、珠海市金海岸永南食品有限公司が操業開始。(注1)★★
安藤宏基「インスタントラーメン発明記念館」を開設
安藤宏基上海市閔行区に日清(上海)食品安全研究開発有限公司を設立
安藤宏基明星食品の買収——スティール・パートナーズの敵対的TOBに対するホワイトナイト参戦

2006年10月末、米投資ファンドのスティール・パートナーズが即席麺2位級の明星食品に1株700円の敵対的TOBを仕掛けた。明星の要請を受けた日清食品は、安藤宏基社長のもとでホワイトナイト(白馬の騎士)として参戦し、11月16日に1株870円の対抗TOBを開始。スティールのTOBは応募ゼロで不成立となり、明星食品は翌2007年3月の株式交換で日清食品の完全子会社となった経営判断である。

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★★★
安藤宏基持株会社制に移行★★
安藤宏基日清食品HDに商号変更
2009〜2026年三代目の登用と、値上げによる収益の作り直し安藤宏基持株会社アングルサイド Ltd.に資本参加
安藤宏基横浜みなとみらいに「カップヌードルミュージアム 横浜」を開設
安藤宏基ぼんちに資本参加。(注1)
安藤宏基新研究所「the WAVE」竣工
安藤宏基Premier Foods plcとRelationship Agreementを締結
安藤宏基日清食品有限公司が香港証券取引所メインボード市場に株式を上場
出典・参考
  • 日清食品ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 証券アナリストジャーナル 1972年 第10巻第2号(砥上峰次 日清食品常務取締役)
  • 証券アナリストジャーナル 1975年 第13巻第10号(安藤百福 日清食品社長)
  • 証券アナリストジャーナル 1978年 第16巻第5号(安藤百福 日清食品社長)
  • 日経ビジネス 1980年12月15日号
  • 日経ビジネス 1985年10月7日号
  • 日経ビジネス 2004年2月23日号
  • 読売新聞 1962年6月23日 朝刊p10
  • 読売新聞 1963年4月9日 夕刊p4
  • 読売新聞 1968年3月11日 朝刊
  • 日経流通新聞 1990年4月28日 p16
  • 証券 1963年15(11)(174)
  • 日清食品の歴史/安藤百福(2017)

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