ショーボンドホールディングスの歴史的意義・転換点の読み解き
ショーボンドホールディングスの歴史的意義・転換点の読み解き
なぜ接着剤メーカーが製造を子会社に渡して橋を直す会社になった67年後も補修専業から抜けられないのか(筆者所感)
1958年6月、上田昭氏が31歳で東京都世田谷区に昭和工業を設立した。設立当初は社員5名で硬質塩化ビニールの加工と配管工事を請け負う町工場だった。翌1959年、東北電力八久和ダム排水路のひび割れ補修にエポキシ樹脂を使った経験から、同年9月に高性能接着剤「ショーボンド」を自社開発し、用途別の8品種を主剤と硬化剤の整数比配合で揃えて発売した。塩ビ配管の請負業者が、ダム現場で偶然出会った樹脂補修を起点に、接着剤メーカーへ転じた。
こうして手に入れた樹脂は、1964年6月の新潟地震で落橋した昭和大橋の床版補修に建設省土木研究所の推薦で採用され、補修後50年を経た現在も供用が続いている。だが、当時の上田氏は「施工実績がないため採用していただくまでの難さは、筆舌に尽くしがたい」(橋梁1987年9月号)と述懐しており、官需では材料の性能データを揃えるだけでは採用されず、現場で直した実績がなければ次の採用に繋がらない、という業界構造を肌で知っていた。1965年の名神高速「カットオフジョイント」試験施工、1969年の建設大臣許可昇格と続き、製造部門と工事部門が同居したまま全国に営業拠点を伸ばし、自社で施工した橋梁の数を積み上げる体制を取った。
ところが、製造を抱えたままでは「接着剤メーカーとしての体質」(橋梁1975/5)が残り、官公庁向け工事会社の性格と材料メーカーの性格が一社に同居する歪みを抱えていた。1975年4月、上田氏は社名を「ショーボンド建設」へ変え、製造・研究部門をショーボンド化学として分離し、資本金を2億円から4.6億円へ増資した。総需要抑制下に、メーカーの利幅でなく工事会社の営業網で稼ぐ形へ業態を入れ替えた。1992年に二代社長へ就いた桧垣茂氏は、営業所ごとにPLとBSを持たせて所長が純利益を期初に組む独立採算を制度化し、年間7,000件・1件平均300万円の小型工事を60の営業所で消化する体制に組み替えた。
この結果として、ショーボンドは「橋梁補修」というニッチな市場においてシェアを確保した。市場規模や実際のシェア数値は非開示だが、補修工事は「年間7,000件×平均300万円」の規模感であり、大手ゼネコンからすればニッチに相当する。この市場で、ショーボンドは全国60営業所を起点として、官公庁・自治体向けの市場を抑えることで、競合他社が参入しづらい状況を作り上げている。ニッチ史上の首位だからこそ、2025年6月期の連結売上高907億円・営業利益率22.9%・ROE14.5%という高収益を実現できたのだろう。