沿革・歴史的証言 — 1912〜2009年の年表 経営判断・組織変化と当事者の証言

年度売上高純利益年月区分出来事歴史的意義
1912
1-12月
会社設立
横田商会・吉沢商店・福宝堂・エム・パテーの4社合同により日本活動写真株式会社を創立
郷誠之助を創立委員長として既設4商社を買収合併しその一切の施設と権利を継承。映画(活動写真)の製作配給ならびに興行を目的とした。同年『忠臣蔵』を公開
わが国映画事業の統一による一大飛躍を企図した日本初の本格的映画トラスト
1913
1-12月
設備投資
東京・向島に東京撮影所が落成
1914
1-12月
経営不振により資本金を250万円に減資
設立直後の経済界不況で経営不振が続いたため(減資の実施月は資料間で4月と7月の相違あり)
1918
1-12月
設備投資
京都・大将軍に大将軍撮影所が落成
1920
1-12月
資本金を600万円に増資
第一次大戦後の好況で業績が伸長して社礎が確立し群小会社を制して映画業界の主導的地位を固めた
1923
1-12月
関東大震災により向島の東京撮影所が大将軍撮影所に合流
1928
1-12月
設備投資
京都・太秦に太秦撮影所が落成
1930
1-12月
研究開発
初のフィルム式トーキー『ふるさと』を公開
1934
1-12月
設備投資研究開発
多摩川(東京・調布)に鉄筋コンクリート造のトーキー撮影所を新設
倒産が囁かれるなか経営を掌握した堀久作が役員会の反対を押し切って全作品のトーキー化を決断(1933年11月にウェスターン・トーキーを採用)。千葉銀行の融資を得て建設しウェスチング社製トーキー・システムを導入した
無声映画からトーキーへの転換と倒産危機からの経営再建が重なった転回点
1935
1-12月
企業買収
日本興行株式会社を吸収合併
被合併会社の資本金は200万円
1942
1-12月
事業売却構造改革
戦時統制により製作部門を大日本映画製作(後の大映)へ配給部門を映画配給社へ移譲
1941年末の映画統制策に基づく企業整備。以降もっぱら興行会社として存続した。1943年3月には現物出資のため多摩川・京都の両撮影所を閉鎖
製作・配給機能を失い戦後の再出発まで興行専業を余儀なくされた転換点
1945
1-12月
社名を日活株式会社に変更し事業再建に着手
終戦直後にいち早く再建へ動き直営館の大部分を米国映画の専門劇場に転換して興行成績を急回復させた
社長交代
堀久作が社長に就任
以後四半世紀にわたり経営トップの座にあった
戦後日活の拡大と転落の両局面を規定したオーナー型経営の始まり
1946
1-12月
企業買収
博多日活を買収
戦後の劇場網拡大の第一弾
1947
1-12月
企業買収チャネル改革
京都土地興業はじめ明石日活・福知山映画劇場・小樽日活館・室蘭日活を吸収合併
京都土地興業は京都に7劇場を保有。1948年には梅田キャピトルを買収して大阪へ進出し1950年7月には立川日活・帝都座も吸収合併した
直営劇場網の全国展開による興行基盤の確立
新規事業
東京・日比谷の米軍資材置き場跡地を買収し日活国際会館の建設を決断
映画以外の収益源を求めた不動産多角化の起点
FY50
1950/1
売上高
2.68億円
当期純利益
0.26億円
株式上場
東京証券取引所に株式を上場
1982年時点では大阪・名古屋・札幌・新潟・京都・広島・福岡を含む8市場に上場していた(額面50円・1月決算)
戦後の取引所再開とともに資本市場からの調達力を獲得し劇場網拡大と撮影所建設の原資となった
FY51
1951/1
売上高
3.2億円
当期純利益
0.27億円
企業買収新規事業
日本スポーツを吸収合併しスポーツ施設経営に進出
FY52
1952/1
売上高
5.85億円
当期純利益
0.63億円
FY53
1953/1
売上高
5.89億円
当期純利益
0.75億円
FY54
1954/1
売上高
11.77億円
当期純利益
1.65億円
企業買収
日活国際会館を吸収合併しホテル・不動産事業を本格化
1954年7月には博多会館全館を賃借。ホテルは室数188・1日380人の収容能力を備え貸室・店舗・倉庫・駐車場の賃貸も展開した
映画とホテル・不動産の二本柱体制の成立
FY55
1955/1
売上高
20.2億円
当期純利益
2.31億円
設備投資業態転換
調布・多摩川畔の日活撮影所が一部竣工し14年ぶりに映画製作を再開
1953年9月に6億円を投じ「東洋一」と称された大撮影所の建設に着手。竣工と同時に製作を再開し設備拡張により月8〜9本の製作能力を確保した
興行専業から製作・配給・興行の一貫経営への復帰
チャネル改革
自社作品による全プログラム配給を開始
全国の直営館の上映を自社作品に転換し配給契約館の獲得を推進。1955年7月時点で1500館に達した
FY56
1956/1
売上高
24.46億円
当期純利益
2.46億円
石原慎太郎原作『太陽の季節』を公開し石原裕次郎がデビュー
太陽族映画として社会的賛否を巻き起こしつつ大ヒット。『狂った果実』が続き『ビルマの竪琴』は国際的評価を受けた
「現代劇の日活」の地位と石原裕次郎というスターを確立し製作再開を軌道に乗せた
FY57
1957/1
売上高
26.6億円
当期純利益
1.08億円
『嵐を呼ぶ男』が大ヒット
1959年には『渡り鳥』シリーズもヒットしアクション路線が全盛期を迎えた
FY58
1958/1
売上高
28.28億円
当期純利益
0億円
FY59
1959/1
売上高
36.68億円
当期純利益
3.08億円
株主対応
1959年1月期に1割3分を復配
以後1962年1月期まで1割〜1割2分の配当を継続した。ただしその裏で多額の回収不能の未収入金を抱えていたと後に指摘される
新規事業設備投資
登別にホテルを建設し以後天城(1961年)・小倉(1962年)と相次ぎ建設
映画斜陽化が進むなかでの膨張政策と批判された。小倉は1957年に取得した郵便局跡地に建設
FY60
1960/1
売上高
38億円
当期純利益
3.52億円
主演スターを軸とする「ダイヤモンド・ライン」「パール・ライン」を結成
堀久作
映画は、もう時代に遅れた、斜陽産業である、という声をきく

実業の日本 1960年10月15日号 1960/10

FY61
1961/1
売上高
45.94億円
当期純利益
4.45億円
FY62
1962/1
売上高
45.95億円
当期純利益
4.59億円
有償増資と公募により資本金を50億円とした
株主割当1対0.33333の有償増資(12億4000万円)と1株90円の公募を実施。未収入金や売掛金の回収を見込んだ拡大路線下の増資だった
経営危機
1962年1月期を最後に配当が途絶える
映画観客数の減少が進み業績が悪化した
FY63
1963/1
売上高
45.7億円
当期純利益
0億円
FY64
1964/1
売上高
44.78億円
当期純利益
-2.97億円
資産圧縮
丸の内日活を売却
経営悪化に伴う保有不動産売却の始まりとされる(藤井・新日鐵相談役の回想による)
FY65
1965/1
売上高
45.09億円
当期純利益
0.5億円
FY66
1966/1
売上高
38.28億円
当期純利益
0.03億円
FY67
1967/1
売上高
40.45億円
当期純利益
-0.9億円
組織再編
株主総会を前に撮影所幹部を総入れ替え
山根啓司撮影所長が顧問に退き村上覚配給部長が撮影所長に就任。企画・製作・俳優・経理・総務の各部長を人事部付・自宅待機とし江守清樹郎専務以下の辞任も取り沙汰された
拡大路線の破綻が人事面で表面化した内紛
FY68
1968/1
売上高
40.4億円
当期純利益
-1.82億円
新規事業
会津若松・千葉市原に「日活ボーリング・センター」を開館
釜石などへの新設も計画しホテル部門と並ぶレジャー多角化を進めた
FY69
1969/1
売上高
36.71億円
当期純利益
0.52億円
FY70
1970/1
売上高
34.2億円
当期純利益
14.44億円
事業売却資産圧縮
日活国際会館を三菱地所へ売却
売却益を赤字補填に充当。日比谷の一等地を手放し映画で生きる道を選んだ。「日活本丸の落城」と評された
多角化資産の喪失により後戻りのきかない映画専業へ
-
日活本丸の落城

週刊東洋経済 1970年5月2日号 1970/5

FY71
1971/1
売上高
31.71億円
当期純利益
-1.23億円
業態転換
「日活ロマンポルノ」第1作を公開
大映倒産・各社製作縮小のなか低コストで集客効果のある成人映画路線へ転換し命脈を保った
一般映画からの撤退的転換であり1988年まで17年間にわたり存続の支柱となった路線
堀久作
日活も本社ビルや撮影所など不動産を売却して高利の債務を消してきた

読売新聞 1971年6月3日朝刊 1971/6

FY72
1972/1
売上高
23.07億円
当期純利益
-17.64億円
社長交代
堀久作が社長を退任
「不動産を売却して高利の債務を消してきたが消すそばからまた赤字ができる」と語った。1974年に74歳で逝去
四半世紀に及んだ堀体制の終焉
事業売却事業撤退
日活小倉ホテルを売却しホテル事業から完全撤退
FY73
1973/1
売上高
27.54億円
当期純利益
-15.17億円
FY74
1974/1
売上高
27.28億円
当期純利益
15.83億円
FY75
1975/1
売上高
24.68億円
当期純利益
-0.16億円
新規事業
「日活芸術学院」を開校
FY76
1976/1
売上高
51.54億円
当期純利益
-8.67億円
FY77
1977/1
売上高
71.9億円
当期純利益
-0.96億円
FY78
1978/1
売上高
60.61億円
当期純利益
-14.58億円
FY79
1979/1
売上高
66.46億円
当期純利益
10.21億円
経営危機
第三者割当増資と減資による資本再構成を実施
7月に額面50円・60億円の第三者割当を実施し10月に1対0.7の減資で資本金を110億円から33億円に圧縮。12月には1株355円・発行総額71億円の時価発行第三者割当を行い1980年12月にも51億円を調達した
1961年以来17年ぶりの資本異動であり再建資金の注入と累積損失の一掃を図った
社名を株式会社にっかつに変更
9月19日付
FY80
1980/1
売上高
69.11億円
当期純利益
4.51億円
FY81
1981/1
売上高
62.47億円
当期純利益
-21.55億円
FY82
1982/1
売上高
65.89億円
当期純利益
5.5億円
FY83
1983/1
売上高
77.86億円
当期純利益
-18.13億円
FY84
1984/1
売上高
85.26億円
当期純利益
2.28億円
FY85
1985/1
売上高
83.04億円
当期純利益
1.12億円
ビデオ収入が売上構成の36%に達し配給・劇場収入を上回る
1985年1月期の売上構成は映画配給23%・劇場31%・ビデオ36%・その他10%。前期のビデオ比率は23%であり家庭用ビデオの普及が収益構造を急速に変えた
劇場からビデオへの市場移行は成人映画路線の競争力を奪う構造変化でもあった
1988
1-12月
業態転換
ロマンポルノ路線に終止符を打ち「ロッポニカ」ブランドで一般映画へ路線転換
アダルトビデオの普及により成人映画の採算が悪化していた。ロッポニカは1989年に製作終了となった
17年間続いた延命路線の終焉と一般映画回帰の挫折
1989
1-12月
新規事業
日活撮影所内に通信衛星事業用地球局を開設し通信事業に参入
1990
1-12月
設備投資新規事業
東京・文京区本郷に本社社屋が完成し「チャンネルNECO」「レインボーチャンネル」を開局
1993
1-12月
経営危機上場廃止
会社更生法の適用を申請
7月1日ににっかつ本体とにっかつ撮影所・にっかつビデオなど子会社7社が東京地裁へ申請し9月30日に更生手続開始決定。株式は上場廃止となった
1912年創立の老舗映画会社の事実上の倒産。大手映画5社では大映に次ぐ2社目の破綻
1996
1-12月
更生計画認可が決定し社名を日活株式会社に復帰
1997
1-12月
企業買収
ナムコから資本を受け入れ同社の子会社となる
ナムコ会長兼社長の中村雅哉が経営支援に乗り出した
2001
1-12月
東京地裁で更生手続終結が決定
1999年以降「シネ・リーブル」劇場網を展開していた
2005
1-12月
企業買収
インデックスの子会社となる
2009
1-12月
株式異動により日本テレビ放送網が筆頭株主に
映画『ヤッターマン』が大ヒット。シネ・リーブル系映画館全館の運営で東京テアトルと業務提携した
  1. 会社設立
    横田商会・吉沢商店・福宝堂・エム・パテーの4社合同により日本活動写真株式会社を創立

    郷誠之助を創立委員長として既設4商社を買収合併しその一切の施設と権利を継承。映画(活動写真)の製作配給ならびに興行を目的とした。同年『忠臣蔵』を公開

    わが国映画事業の統一による一大飛躍を企図した日本初の本格的映画トラスト
  2. 設備投資
    東京・向島に東京撮影所が落成
  3. 経営不振により資本金を250万円に減資

    設立直後の経済界不況で経営不振が続いたため(減資の実施月は資料間で4月と7月の相違あり)

  4. 設備投資
    京都・大将軍に大将軍撮影所が落成
  5. 資本金を600万円に増資

    第一次大戦後の好況で業績が伸長して社礎が確立し群小会社を制して映画業界の主導的地位を固めた

  6. 関東大震災により向島の東京撮影所が大将軍撮影所に合流
  7. 設備投資
    京都・太秦に太秦撮影所が落成
  8. 研究開発
    初のフィルム式トーキー『ふるさと』を公開
  9. 設備投資研究開発
    多摩川(東京・調布)に鉄筋コンクリート造のトーキー撮影所を新設

    倒産が囁かれるなか経営を掌握した堀久作が役員会の反対を押し切って全作品のトーキー化を決断(1933年11月にウェスターン・トーキーを採用)。千葉銀行の融資を得て建設しウェスチング社製トーキー・システムを導入した

    無声映画からトーキーへの転換と倒産危機からの経営再建が重なった転回点
  10. 企業買収
    日本興行株式会社を吸収合併

    被合併会社の資本金は200万円

  11. 事業売却構造改革
    戦時統制により製作部門を大日本映画製作(後の大映)へ配給部門を映画配給社へ移譲

    1941年末の映画統制策に基づく企業整備。以降もっぱら興行会社として存続した。1943年3月には現物出資のため多摩川・京都の両撮影所を閉鎖

    製作・配給機能を失い戦後の再出発まで興行専業を余儀なくされた転換点
  12. 社名を日活株式会社に変更し事業再建に着手

    終戦直後にいち早く再建へ動き直営館の大部分を米国映画の専門劇場に転換して興行成績を急回復させた

  13. 社長交代
    堀久作が社長に就任

    以後四半世紀にわたり経営トップの座にあった

    戦後日活の拡大と転落の両局面を規定したオーナー型経営の始まり
  14. 企業買収
    博多日活を買収

    戦後の劇場網拡大の第一弾

  15. 企業買収チャネル改革
    京都土地興業はじめ明石日活・福知山映画劇場・小樽日活館・室蘭日活を吸収合併

    京都土地興業は京都に7劇場を保有。1948年には梅田キャピトルを買収して大阪へ進出し1950年7月には立川日活・帝都座も吸収合併した

    直営劇場網の全国展開による興行基盤の確立
  16. 新規事業
    東京・日比谷の米軍資材置き場跡地を買収し日活国際会館の建設を決断
    映画以外の収益源を求めた不動産多角化の起点
  17. 株式上場
    東京証券取引所に株式を上場

    1982年時点では大阪・名古屋・札幌・新潟・京都・広島・福岡を含む8市場に上場していた(額面50円・1月決算)

    戦後の取引所再開とともに資本市場からの調達力を獲得し劇場網拡大と撮影所建設の原資となった
  18. 企業買収新規事業
    日本スポーツを吸収合併しスポーツ施設経営に進出
  19. 企業買収
    日活国際会館を吸収合併しホテル・不動産事業を本格化

    1954年7月には博多会館全館を賃借。ホテルは室数188・1日380人の収容能力を備え貸室・店舗・倉庫・駐車場の賃貸も展開した

    映画とホテル・不動産の二本柱体制の成立
  20. 設備投資業態転換
    調布・多摩川畔の日活撮影所が一部竣工し14年ぶりに映画製作を再開

    1953年9月に6億円を投じ「東洋一」と称された大撮影所の建設に着手。竣工と同時に製作を再開し設備拡張により月8〜9本の製作能力を確保した

    興行専業から製作・配給・興行の一貫経営への復帰
  21. チャネル改革
    自社作品による全プログラム配給を開始

    全国の直営館の上映を自社作品に転換し配給契約館の獲得を推進。1955年7月時点で1500館に達した

  22. 石原慎太郎原作『太陽の季節』を公開し石原裕次郎がデビュー

    太陽族映画として社会的賛否を巻き起こしつつ大ヒット。『狂った果実』が続き『ビルマの竪琴』は国際的評価を受けた

    「現代劇の日活」の地位と石原裕次郎というスターを確立し製作再開を軌道に乗せた
  23. 『嵐を呼ぶ男』が大ヒット

    1959年には『渡り鳥』シリーズもヒットしアクション路線が全盛期を迎えた

  24. 株主対応
    1959年1月期に1割3分を復配

    以後1962年1月期まで1割〜1割2分の配当を継続した。ただしその裏で多額の回収不能の未収入金を抱えていたと後に指摘される

  25. 新規事業設備投資
    登別にホテルを建設し以後天城(1961年)・小倉(1962年)と相次ぎ建設

    映画斜陽化が進むなかでの膨張政策と批判された。小倉は1957年に取得した郵便局跡地に建設

  26. 主演スターを軸とする「ダイヤモンド・ライン」「パール・ライン」を結成
    堀久作
    映画は、もう時代に遅れた、斜陽産業である、という声をきく

    実業の日本 1960年10月15日号 1960/10

  27. 有償増資と公募により資本金を50億円とした

    株主割当1対0.33333の有償増資(12億4000万円)と1株90円の公募を実施。未収入金や売掛金の回収を見込んだ拡大路線下の増資だった

    堀久作
    いま、アメリカへ来て各劇場に入ってみると、とうぜん客の入らなければならぬ時間の夕方に

    経済展望 33(6) 1961/6

  28. 経営危機
    1962年1月期を最後に配当が途絶える

    映画観客数の減少が進み業績が悪化した

  29. 資産圧縮
    丸の内日活を売却

    経営悪化に伴う保有不動産売却の始まりとされる(藤井・新日鐵相談役の回想による)

  30. 組織再編
    株主総会を前に撮影所幹部を総入れ替え

    山根啓司撮影所長が顧問に退き村上覚配給部長が撮影所長に就任。企画・製作・俳優・経理・総務の各部長を人事部付・自宅待機とし江守清樹郎専務以下の辞任も取り沙汰された

    拡大路線の破綻が人事面で表面化した内紛
  31. 新規事業
    会津若松・千葉市原に「日活ボーリング・センター」を開館

    釜石などへの新設も計画しホテル部門と並ぶレジャー多角化を進めた

  32. 事業売却資産圧縮
    日活国際会館を三菱地所へ売却

    売却益を赤字補填に充当。日比谷の一等地を手放し映画で生きる道を選んだ。「日活本丸の落城」と評された

    多角化資産の喪失により後戻りのきかない映画専業へ
    -
    日活本丸の落城

    週刊東洋経済 1970年5月2日号 1970/5

  33. 業態転換
    「日活ロマンポルノ」第1作を公開

    大映倒産・各社製作縮小のなか低コストで集客効果のある成人映画路線へ転換し命脈を保った

    一般映画からの撤退的転換であり1988年まで17年間にわたり存続の支柱となった路線
    堀久作
    日活も本社ビルや撮影所など不動産を売却して高利の債務を消してきた

    読売新聞 1971年6月3日朝刊 1971/6

  34. 社長交代
    堀久作が社長を退任

    「不動産を売却して高利の債務を消してきたが消すそばからまた赤字ができる」と語った。1974年に74歳で逝去

    四半世紀に及んだ堀体制の終焉
  35. 事業売却事業撤退
    日活小倉ホテルを売却しホテル事業から完全撤退
  36. 新規事業
    「日活芸術学院」を開校
  37. 経営危機
    第三者割当増資と減資による資本再構成を実施

    7月に額面50円・60億円の第三者割当を実施し10月に1対0.7の減資で資本金を110億円から33億円に圧縮。12月には1株355円・発行総額71億円の時価発行第三者割当を行い1980年12月にも51億円を調達した

    1961年以来17年ぶりの資本異動であり再建資金の注入と累積損失の一掃を図った
  38. 社名を株式会社にっかつに変更

    9月19日付

  39. ビデオ収入が売上構成の36%に達し配給・劇場収入を上回る

    1985年1月期の売上構成は映画配給23%・劇場31%・ビデオ36%・その他10%。前期のビデオ比率は23%であり家庭用ビデオの普及が収益構造を急速に変えた

    劇場からビデオへの市場移行は成人映画路線の競争力を奪う構造変化でもあった
  40. 業態転換
    ロマンポルノ路線に終止符を打ち「ロッポニカ」ブランドで一般映画へ路線転換

    アダルトビデオの普及により成人映画の採算が悪化していた。ロッポニカは1989年に製作終了となった

    17年間続いた延命路線の終焉と一般映画回帰の挫折
  41. 新規事業
    日活撮影所内に通信衛星事業用地球局を開設し通信事業に参入
  42. 設備投資新規事業
    東京・文京区本郷に本社社屋が完成し「チャンネルNECO」「レインボーチャンネル」を開局
  43. 経営危機上場廃止
    会社更生法の適用を申請

    7月1日ににっかつ本体とにっかつ撮影所・にっかつビデオなど子会社7社が東京地裁へ申請し9月30日に更生手続開始決定。株式は上場廃止となった

    1912年創立の老舗映画会社の事実上の倒産。大手映画5社では大映に次ぐ2社目の破綻
  44. 更生計画認可が決定し社名を日活株式会社に復帰
  45. 企業買収
    ナムコから資本を受け入れ同社の子会社となる

    ナムコ会長兼社長の中村雅哉が経営支援に乗り出した

  46. 東京地裁で更生手続終結が決定

    1999年以降「シネ・リーブル」劇場網を展開していた

  47. 企業買収
    インデックスの子会社となる
  48. 株式異動により日本テレビ放送網が筆頭株主に

    映画『ヤッターマン』が大ヒット。シネ・リーブル系映画館全館の運営で東京テアトルと業務提携した

歴史的証言

堀久作
いま、アメリカへ来て各劇場に入ってみると、とうぜん客の入らなければならぬ時間の夕方に
堀久作
映画は、もう時代に遅れた、斜陽産業である、という声をきく
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日活本丸の落城
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倒産は時間の問題といわれながら生きながらえる不思議な日活
堀久作
日活も本社ビルや撮影所など不動産を売却して高利の債務を消してきた
岡田茂
大映は「グランプリをとるような映画をつくっとれば、映画の火は消えない」とか言っていたが、一番初めにつぶれちまった
堀久作日活社長
映画は、もう時代に遅れた、斜陽産業である、という声をきく。これが、外部の声ならばまだいい。ところが、同業者の社長仲間さえも「映画は斜陽だ」と自ら言っているのには驚くほかない。こういう人は自らの無能をさらけだしている以外の何物でもない。 映画はテレビに食われるというが、現在の日本映画の状態をもって「テレビに食われた」とするならば、それは経営者としての責任をまぬがれない。テレビはテレビの限界があり、映画はテレビの限界を越した企画をすれば良い。
堀久作日活社長
いま、アメリカへ来て各劇場に入ってみると、とうぜん客の入らなければならぬ時間の夕方に、しかも、二千人からの大収容力のある劇場が五百人か、せいぜい六百人位しか入っていないという悲惨な状態は、いつたいどういうわけだ、と、聞いたのです。そうしたら異口同音に、テレビジョンに食われたというのですな。
週刊東洋経済経済誌
映画は1950年代末期から1960年の初めをピークとして、1960年代は急ピッチな衰退の歴史をたどった。 映画製作者は大げさに言えば、映像文化の旗手であり、時代の最先端に立って、風俗、流行などをリードするものだ。そして確かに1950年代には映画はそうした文化現象のリーダーとしての役割を果たしていた。だが、すでにその時代は去っている。
岡田茂東映社長
大映は「グランプリをとるような映画をつくっとれば、映画の火は消えない」とか言っていたが、一番初めにつぶれちまった。 残ったのは松竹、東宝とうちだが、皆やり方が違うんだ。東宝は制作部門を切り離し、興行会社になり、芝居や洋画の配給でもうけている。うちは多角化による合理化で人もかなり出した。一時はボーリングでしのいで、すばやく手をひいてしまった。映画の方は特殊性に狙いを定めてきたんだな。

参考文献・出所

会社銀行八十年史 1955
会社年鑑 1986年版 1986
日活公式サイト 沿革
企業の歴史 明治百年 1968
資本異動総覧 1983年版 1982/11
日本経済新聞「私の履歴書」(堀久作)
経済展望 33(6) 1961/6
新日本経済 31(3) 1967/3
実業の日本 1960年10月15日号 1960/10
週刊東洋経済 1970年5月2日号 1970/5
週刊東洋経済 1973年9月8日号 1973/9
database-meian.jp 「日活の歴史/堀久作」 2017
読売新聞 1971年6月3日朝刊 1971/6
日経ビジネス 1976年11月8日号 1976/11