汽車製造の所感(歴史からの教訓導出)
創業から現在までの歴史的経緯・転換点・残された教訓を、一次資料と財務データから読み解く
なぜ鉄道車両のパイオニアが、多角化に失敗して企業消滅したのか?(筆者所感)
汽車製造は1896年9月、退官直後の鉄道局長・井上勝によって大阪府西成郡川北村に創立された日本最初の本格的鉄道車両メーカーである。出資社員18人には岩崎久彌・住友吉左衛門・渋沢栄一・大倉喜八郎ら明治財界の中核と旧大藩諸侯が並び、創業時点から国策会社の性格を帯びた。1901年に民間第1号機関車「1B1形」を完成、1911年に川崎造船所が参入するまで国産機関車市場を単独で担い、戦前期には橋梁・電車・貨車・客車まで領域を拡げた。
転機となったのは1949年、国鉄電化方針によりC62形を最後に蒸気機関車製造が中止されたことである。創業以来の主力製品を失った汽車製造は、振動応用機械・ボイラ・化工機・吸収式冷凍機・ごみ焼却炉・パルププラント・水処理装置の各分野へ多角化を進めた。1962年には滋賀製作所を草津に建設し、SG蒸気発生機の専門工場として体制を確立した。だがボイラを中心とする新規分野は重電大手との競争に勝てず、軌道に乗らないまま利益化は遅れた。
戦後の業績は国鉄依存度が高く、1959年時点で車両事業の受注80%を国鉄が占めていた。1956年からは新性能電車「モハ90形」「こだま形」を製造し、国鉄電車メーカーの中核として地位を維持した。だが1968〜70年度の国鉄発注3年連続減少は専業メーカー全体を打撃し、車両依存度の高さに加えて多角化各事業が単独の競争優位性を持たなかった汽車製造は、経営資源の分散傾向による収益性低下が表面化した。1970年4月に発覚した7年間にわたる粉飾決算が決定打となり、メインバンク第一銀行の要請で同年5月の川崎重工業との業務提携、川重出身の米谷修二社長派遣、KS委員会の機種調整を経て、1972年4月1日に吸収合併・75年の独立経営に幕を下ろした。東京製作所跡地は東京都住宅供給公社が取得して南砂住宅団地3,840戸として再生され、数千人が車両製造に従事した面影は残っていない。
汽車製造75年史が示すのは、国策型重工業企業が抱える3つの構造的教訓である。第一に、国策依存型企業は政策転換(国鉄電化方針)で主力事業を一夜にして失うリスクを抱える。第二に、多角化はリスク分散にはなるが、各分野で競争優位を確立できなければ本業喪失の補填にはならず、経営資源の分散だけが残る。第三に、粉飾決算は時間稼ぎに過ぎず、市場構造の悪化を隠しきれない時点で組織解体を早める。後藤社長が1962年に「ずいぶん議論した」と語った改名議論が10年実行されなかった事実は、社会情勢を理解しつつも、実際に組織運営や経営指針として実行することを伴うことの困難さを象徴する事実であろう。