重要な意思決定
194511月

日本建設産業を発足(現・住友商事)

背景

第一次大戦後の反動不況が生んだ「商社設立禁止宣言」の論理

住友財閥は戦前を通じて商社部門を持たない財閥であった。第一次世界大戦(1914〜1918年)の好景気で日本国内の商社は急拡大したが、戦後の反動不況で多くが経営不振に陥り、投機的な商売のリスクが顕在化した。1920年、住友財閥の総理事であった鈴木馬左也は「商社設立禁止宣言」を発令し、商社への参入を明確に禁じた。住友財閥は別子銅山に端を発する鉱工業を主軸としており、商業分野の人材が不足していたことも禁止の根拠であった。 三井財閥が三井物産、三菱財閥が三菱商事をそれぞれ擁する中で、住友財閥は「浮利を追わず」の経営理念に忠実に、商社なき財閥として事業を遂行した。鈴木の宣言は単なる方針表明にとどまらず、以後25年にわたって住友内部で商社設立を口にする者がいなくなるほどの拘束力を持った。この禁止宣言の存在が、戦後に住友商事が発足する際の組織的な緊張の源泉となる。

決断

終戦による復員社員の処遇問題が「禁じ手」の撤回を迫った構造

1945年8月の終戦により、住友財閥は存亡の危機に直面した。軍需が消滅し、外地での商売が困難になったことで、復員した社員の生活基盤を確保することが緊急の課題となった。鉱工業だけでは雇用を吸収しきれず、新たな事業領域の開拓が不可避であった。 古田俊之助総理事はこの局面で、25年間の禁令であった「商社設立禁止宣言」の撤回を決断した。1945年11月、住友財閥のグループ会社「日本建設産業」を母体として商事部門を発足させた。初代社長には住友金属工業の元部長である田路舜哉が就任し、1952年には商号を「住友商事」に変更した。 古田は後年「商事はおれが作ったのだ。しっかり頼むぞ」と語ったとされる。25年の禁令を破るという判断は、社員の生活を守るためとはいえ、住友の経営原則に対する重大な例外であり、古田個人の決断に帰するところが大きかった。

結果

「禁じ手」を破った出自がリスク回避的な経営指針を規定した構造

住友商事の発足は、財閥が明示的に禁じていた領域への参入であった。それゆえ、住友商事が業績悪化に陥ることは住友グループ全体にとって許容しがたい事態であり、「商社設立禁止」を撤回した判断そのものの正当性が問われることを意味した。 結果として、住友商事の基本的な経営指針はリスク回避に傾斜した。巨額の事業投資や投機的な取引を避け、住友グループ各社の販売機能を担う堅実な商社としての位置づけを志向した。1970年代から1980年代にかけて、三菱商事がブルネイLNG、三井物産がイランIJPCといった大型プロジェクトに乗り出す中、住友商事は大型案件への参画を見送っている。 住友商事のリスク回避姿勢は、経営理念としての選択というよりも、「禁じ手を破って生まれた会社」という出自が構造的に規定したものといえる。競合商社がロッキード事件やIJPCの巨額損失に見舞われる中で、住友商事は相対的に安定した業績を維持し、業界内での地位を高めた。