トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併(1982年成立)
経営危機で分けた生産と販売を、なぜトヨタは32年ぶりに一つの会社へ戻したのか?
エグゼクティブサマリー
- 1982年7月、生産を担うトヨタ自動車工業と販売を担うトヨタ自動車販売が合併し、現在のトヨタ自動車株式会社が発足した案件。1950年の工販分離から32年ぶりの一体化であった。
- 第2次石油危機後の低成長と、対米輸出自主規制に象徴される通商摩擦の激化、先進国での現地生産化を前に、生産と販売が別法人である体制では機動的な意思決定が難しくなっていた。
- 1982年1月25日に合併の覚書、3月15日に合併契約書に調印。自工が存続会社として商号をトヨタ自動車に改め、自販株1株に自工株0.75株を割り当てた。会長に豊田英二氏、社長に豊田章一郎氏が就いた。
- 経営危機を背景に分けた生産と販売を、環境変化に合わせて再び束ねた事例。吸収する側・される側という構図を避け、販売店への配慮を重ねた進め方が、円滑な統合につながったとされる。
- 経営危機の再建策として販売部門を分離し、トヨタ自動車販売を設立(工販分離)
- 豊田章一郎氏が自工副社長から自販社長に就任し、両社の連携強化に着手
- 両社が合併の覚書に調印
- 合併契約書に調印
- 自工を存続会社として合併が成立、トヨタ自動車株式会社が発足
統合の背景
1950年の工販分離——経営危機が分けた生産と販売
この合併の意味を理解するには、32年前にさかのぼる必要がある。トヨタは1950年に経営危機に陥り、日本銀行との折衝のなかで、販売資金と製造資金を峻別できる体制の確立が再建計画の基本方針とされた[2]。販売代金の回収停滞が経営悪化の大きな原因とされ、金融界のトヨタ経営に対する不信を解くためにも、販売部門の分離が再建の条件に組み込まれた。こうして同年4月3日、販売金融体制の確立と販売力の強化を目的に販売部門が分離独立し[1]、トヨタ自動車販売株式会社が設立される。初代社長には、戦前に米GMの日本法人で実績を積んだ神谷正太郎氏が就いた[3]。生産はトヨタ自動車工業、販売はトヨタ自動車販売という二社体制は、ここから始まった。
分離は、結果としてトヨタの発展に寄与したと評価されている。膨大な営業資金を必要とする販売部門と、研究開発費や設備投資を要する製造・技術部門とを切り離した[4]ことで、両社はそれぞれの担当分野に経営資源を集中投入できた。神谷氏のもとで自販は月賦販売制度や全国の販売網を整え、「販売のトヨタ」と呼ばれるほどの販売力を築いていく[5]。32年にわたり、自工と自販は生産と販売を分担しながら、業界をリードする地位を固めていった。一方で二社に分かれた体制は、年月とともに両社の間に距離も生んでいったとされる。
1980年代初頭の環境変化——低成長と通商摩擦
合併へ向かう直接の引き金は、1980年代に入っての環境変化であった。1979年の第2次石油危機を経て世界経済は低成長へと移行し、国内の新車需要も徐々に冷え込んでいく。トヨタ車の国内登録台数は1980年に前年比7.2%減となった[6]。さらに対外的には、1981年度から日本製乗用車の対米輸出自主規制や欧州共同体(EC)諸国向け輸出の自粛措置が実施され[7]、通商摩擦が激しさを増していた。輸出に制約がかかるなか、先進諸国での現地生産化が避けられない局面に入り[8]、省エネルギー・省資源を軸とした技術開発競争も本格化していた。経営の難度が増すなかで、生産と販売が別法人である体制の限界が意識されるようになる。
統合の発端
合併決断へ——「一体化した事業体への復帰」
トヨタの経営陣は、こうした難局を乗り切るには、名実ともに一体化した事業体への復帰が不可避であると判断する[9]。生産と販売がそれぞれ独立した会社として意思決定を行う体制では、市場や政策の変化に対し機動的に動きにくい。海外での現地生産という大きな投資判断や、需要構造の変化への対応を、二社の調整を経て進めるよりも、一つの会社として迅速に決めるほうが望ましいと考えられた。社史は合併の狙いを、生産・販売という表裏一体の機能をより総合的かつ機動的に発揮し、意思決定をより迅速にし、人材を一層有効に活用することにあったと記している[10]。
合併に先立つ布石として、人事面での一体化が進められた。1981年6月、自工で副社長を務めていた豊田章一郎氏が自販の社長に就任する[11]。工販が分離してから30年が経ち、両社の間にはなお距離があったとされ[12]、連携を改めて強化することが狙いであった。章一郎氏は就任にあたり、難局を乗り切るためには自工との連携を一層緊密にし、両社が持てる力を有機的かつ最大限に発揮することが必要であると述べたと伝えられる。同氏は全国各地の販売店を精力的に訪問し、信頼関係の構築に努めたとされる。
統合の経過
調印から合併成立まで
合併への手続きは1982年に入って一気に進む。同年1月25日、両社は合併に合意し覚書に調印した[13]。続いて3月15日には合併契約書への調印が行われ、調印式には自工から会長の花井正八氏と社長の豊田英二氏が、自販から会長の加藤誠之氏と社長の豊田章一郎氏が出席したと伝えられる[15]。そして7月1日、合併が成立する。トヨタ自動車工業を存続会社とし、合併期日に商号をトヨタ自動車株式会社(TOYOTA MOTOR CORPORATION)へ改めた[14]。1950年の工販分離から数えて32年ぶりに、生産と販売が一つの会社へ束ねられた。
合併比率と資本の枠組みも定められた。存続会社の自工は授権株数を20億株(1,000億円)増やして総数を60億株(3,000億円)とし、トヨタ自販株1株につきトヨタ自工株0.75株の割合で新会社株式を割り当て交付した[16]。合併後の新会社の資本金は1,209億491万1,000円、従業員数は5万6,700人にのぼった[17]。役員体制では、自工社長であった豊田英二氏が会長に、山本重信氏が副会長に、自販社長であった豊田章一郎氏が社長に選任された[18]。生産側のトップが会長へ退き、販売側の社長が新会社の社長に就く形となった。
円滑な統合を支えた販売店への配慮
合併は円滑に進んだとされ、その背景には販売店(ディーラー)への配慮があったと指摘される。通常の合併では規模の大きい企業が小さい企業を吸収する形をとるが、それでは自販の取引先であるディーラーに礼を欠きかねない[19]。トヨタはこの点に気を配り、自販の社長であった章一郎氏が新会社の社長に就き、自工の社長が会長へ退くという形で合併を実現した。吸収する側・される側という構図を表に出さない進め方は、世間を驚かせたと伝えられる。もっとも、合併によってただちに両社が一心同体になったわけではなく[20]、販売改革などの課題はその後に持ち越されたとされる。
統合の帰結
新生トヨタの発足とその後
1982年7月、トヨタ自動車株式会社が発足する[21]。生産・販売という表裏一体の機能を一つの会社のなかに収めたことで、海外現地生産や通商摩擦への対応といった経営判断を、二社の調整を介さずに進められる体制が整った。社史は、合併によって意思決定の迅速化と人材の有効活用が図られたと位置づけている。1950年に経営危機の再建策として分けた生産と販売を、環境変化に合わせて再び束ねたことになり、トヨタにとって組織体制の大きな転換点であった。
合併はトヨタの一貫した競争力の土台となっていったとみられる。一方で、分離していた二社体制そのものが弱みだったわけではない。むしろ、それぞれが担当分野に経営資源を集中できたことが分離期の強みであり[22]、外部からは二社体制をトヨタの特徴とみる評価もあった。生産と販売を分けることで力を蓄え、環境が変わった局面で改めて束ねる——その判断のタイミングと進め方に、この合併の要点があったとみることができる。合併後の販売面の改革など、なお取り組むべき課題は残されたとされる。
「分ける」と「束ねる」の使い分け
この合併は、組織を「分ける」ことと「束ねる」ことが、いずれも局面に応じた選択でありうることを示している。1950年の分離は経営危機下で資金繰りと販売再建を急ぐための策であり、1982年の合併は通商摩擦と現地生産という新たな課題に機動的に対応するための策であった。同じ二社の関係でも、置かれた環境が変われば最適な形は変わる。組織設計に唯一の正解があるわけではなく、その時々の経営課題に照らして可逆的に組み替えられる対象とみることができる。
進め方の点でも示唆がある。一般に合併は規模の大小で存続・消滅が決まりがちだが、本件では販売側の社長を新会社の社長に据え、吸収する側・される側という構図を前面に出さなかった。利害関係者である販売店への配慮を重ねたことが、円滑な統合を支えたと指摘される。条件や比率といった数字の交渉だけでなく、関係者の心理や立場にまで目を配った点に、長く取引が続く事業ならではの統合の難しさと工夫が表れているとみられる。
- トヨタ自動車『トヨタ自動車75年史』第3部 第1章 第2節 第1項「合併決断へ」
- トヨタ自動車『トヨタ自動車75年史』第3部 第1章 第2節 第2項「工販合併」
- トヨタ自動車『トヨタ自動車75年史』第1部 第2章 第6節 第6項「トヨタ自動車販売の設立」
- JBpress 2010年9月2日「苦渋の『工販分離』が導いたトヨタの発展」(田中正知)
- JBpress 2010年9月30日「トヨタの工販合併はなぜ円滑に実現できたのか 世間が驚いたディーラーへの配慮」(田中正知)
- 日経クロストレンド 2019年2月21日「トヨタ『工販合併』の苦闘と豊田章男『1994年の決心』」(野地秩嘉)