第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の経営統合とみずほ誕生(2000年成立)
なぜ三大銀行は手を結び、国内初のメガバンクはどのように生まれ、そして発足直後につまずいたのか?
エグゼクティブサマリー
- 1999年8月、第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の3行が全面統合を発表し、2000年9月に株式移転で持株会社みずほホールディングスを設立。国内初のメガバンクが誕生した案件。
- バブル崩壊後の不良債権処理で各行の体力が弱り、金融ビッグバンと国際競争の激化が再編を迫った。各行とも1兆円超の不良債権を抱え、単独での生き残りに限界を意識していた。
- 3行が共同で持株会社を設立し完全子会社となる株式移転方式。総資産約140兆円で当時世界最大規模。2002年4月に分割合併でみずほ銀行(個人・中小)とみずほコーポレート銀行(大企業)の2行体制へ再編した。
- 規模の追求が先行し、対等合併ゆえの旧3行の主導権争いとシステム統合の停滞を招いた。2002年4月の発足初日に大規模システム障害が起き、金融庁の業務改善命令に至った。
- 第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行が全面統合を発表、グループ名を「みずほ」と公表
- 株式移転で持株会社みずほホールディングスが発足、東証1部に上場
- 分割合併でみずほ銀行(個人・中小)とみずほコーポレート銀行(大企業)が発足、発足初日に大規模システム障害
- 金融庁がシステム障害を受け銀行法に基づく業務改善命令を発出
- 持株会社を再編し、みずほフィナンシャルグループ(証券コード8411)を新設
統合の背景
マクロ環境——不良債権と金融ビッグバン
1990年代後半の日本の銀行は、バブル崩壊後の不良債権処理に追われ、体力を大きく削られていた。1997年から98年にかけて北海道拓殖銀行や山一證券が破綻し、金融システムへの不安が広がるなか、政府は公的資金の注入や金融ビッグバンと呼ばれる規制緩和を進めていた。経済のグローバル化と金融の自由化で内外の競争が激しくなり[1]、護送船団方式に守られてきた邦銀は、国際的な再編の波のなかで自前の収益力と資本力を問われるようになっていた。21世紀の日本の金融を担う強力なプレーヤーの出現が求められる状況であったとされる。
3行はいずれも厳しい財務状況を抱えていた。バブル期の融資の焦げ付きで、各行とも1兆円を超える不良債権を抱えていたとされる[2]。富士銀行は融資先である芙蓉グループ各社の弱体化に直面し、親密な山一證券の破綻という痛手を負った。第一勧業銀行は1997年に総会屋への利益供与事件が発覚し、信用と経営の立て直しを迫られていた。長期信用銀行である日本興業銀行も、長信銀という業態そのものの将来像を問われていた。単独での生き残りに限界を感じた各行が、規模による生き残りへと傾いていく素地は十分にあったとみられる。
統合の発端
公表経緯——帝国ホテルでの三頭取会見
統合が公になったのは1999年8月20日である[3]。第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の3行は、共同で持株会社を設立し、傘下の銀行や証券会社を統合・再編すると発表した。記者会見は帝国ホテルで開かれ、興銀の西村正雄頭取、第一勧銀の杉田力之頭取、富士銀の山本恵朗頭取が並んだ。新グループの名称は「みずほ」とされ、3行は「我が国を代表し世界の五指に入る強力なプレーヤーとなる」ことを目標に掲げた。3行を合わせた総資産は約140兆円で、当時として世界最大規模であったと報じられている[4]。
第一勧銀の視点——3行案への収れん
統合の枠組みは、当初から3行で固まっていたわけではない。週刊ダイヤモンドの後年の検証によれば、興銀と富士銀は当初、第一勧銀との2行合併を望んでいたとされる。1999年3月31日、興銀の西村頭取が第一勧銀本店に杉田頭取を訪ね、2人だけで話し込んだのが交渉の起点になったと報じられた。これに対し第一勧銀は富士銀を除外する2行案には乗らず、3行統合を強く説いたとされる[5]。結果として第一勧銀が興銀と富士銀の間をつなぐ役回りを担い、3行統合案が受け入れられていったと伝えられている。
統合の経過
持株会社の設立——国内初の銀行持株会社
統合は段階を踏んで実現した。2000年9月29日、3行は商法に定める株式移転によって持株会社みずほホールディングスを設立し[6]、それぞれが完全子会社となった。みずほホールディングスは同日付で東京証券取引所第1部に上場している。3行が共同で持株会社を設立し、その下に3行を置く構成であり[7]、会社分割法制を活用してその後に統合・再編を進める枠組みであった。日本ではじめての本格的な銀行持株会社による統合であった。
統合は独占禁止法の審査も経ている。公正取引委員会の審査によれば、3行を合わせた市場シェアは、預金で都市銀行など18行ベースで約20%と第1位、貸出で約25%強と第1位[8]、社債の引受で約20%弱と第1位に達した。それでも公取委は、隣接市場からの競争圧力や複数の有力な競争業者の存在、郵便貯金やインターネット銀行の参入などを踏まえ、いずれの取引分野でも競争を実質的に制限することにはならないと判断し、統合を認めた[9]。規模の大きさにもかかわらず、競争上の問題は限定的とされたのである。
2行体制への再編とシステム統合の停滞
持株会社の設立から1年半を経た2002年4月1日、3行は分割合併という手法で2つの新銀行へと再編された。個人や中堅・中小企業の取引を担うみずほ銀行と、大企業取引を担うみずほコーポレート銀行が同時に発足する形である[10]。みずほ銀行は旧第一勧業銀行を存続会社とし、興銀のリテール部門や富士銀のリテール事業を承継した。みずほコーポレート銀行は旧富士銀行を存続会社とし、旧日本興業銀行を吸収合併したうえで第一勧銀のコーポレート事業を承継した。旧3行を業務ごとに割り振り直す複雑な再編であったとされる。
この再編の足元で、勘定系システムの統合は難航していた。日経コンピュータの検証によれば、3行はリテール分野で第一勧銀のシステム、ホールセール分野で興銀のシステムを採用し、富士銀のシステムを廃棄する方針をいったん決めた[11]とされる。しかし対等統合ゆえに旧3行の主導権争いが続き、システムの一本化は遅れ、各行のシステムをつなぐリレーコンピュータを介して当面しのぐ方式がとられた。発足を急いだ結果、十分な稼働テストの時間を確保できないまま本番を迎えたと指摘されている。後年「ボタンの掛け違い」と呼ばれた構図である。
統合の帰結
発足初日の大規模システム障害
2002年4月1日、新体制の発足初日にみずほ銀行で大規模なシステム障害が発生した。ATMが使えなくなり、口座振替の遅延や二重引き落とし、振込の遅れが相次いだ。日経コンピュータの集計によれば、口座振替の遅延は4月5日時点で約250万件に達し、二重引き落としは約3万件に上ったとされる[12]。障害発生から2週間が経過しても40万件もの口座振替が未処理のまま残ったと報じられた。生活インフラを担う銀行のシステムが止まったことで、影響は広範囲に及んだ。
障害は監督当局の処分を招いた。2002年6月19日、金融庁は銀行法第26条に基づき、みずほフィナンシャル・グループに業務改善命令を発出した[13]。同庁の発表によれば、4月1日以降、システムの不具合やデータ受付事務の混乱により、口座振替の引落遅延や委託企業への通知遅延、振込遅延、二重引落などの障害が発生したとされる。命令は、改善・対応策と責任の明確化のための措置を確実に実行し、詳細な計画を速やかに策定・提出したうえで、3か月ごとに実施状況を報告するよう求めた[14]。
規模の統合と「対等」のコスト
みずほの誕生は、邦銀が規模で世界に伍そうとした金融再編の象徴であり、その後の三菱東京UFJや三井住友といったメガバンク3極体制の先駆けともいえる。3行統合は、不良債権で傷んだ各行が生き残りをかけた合理的な選択であった面は否めない。一方で、規模の追求が先行し、業務やシステムをどう一本化するかという統合後の設計が後回しになったとみられる。対等統合という建前が旧3行の主導権争いを温存し、システム統合の停滞という形で表面化した点は、その後の障害の伏線として語られることが多い。
2002年4月の発足初日の障害は、統合の段取りそのものに無理があったことを映した出来事とみることもできる。誰がどのシステムを使い、どこに意思決定の最終責任があるのかという土台を曖昧にしたまま、発足の期日を優先したことが、十分なテスト時間を奪ったと指摘されている。巨大な統合ほど、比率や規模といった条件面よりも、統合後の組織と基幹システムをどう一つにまとめ切るかという実務の設計が成否を分けるのだろう。みずほの事例は、成立した統合であっても、その後の統合の質が問われ続けることを示しているといえる。
- 日本経済新聞 2018年8月17日「8月20日 興銀・第一勧銀・富士銀、経営統合を発表」
- 公正取引委員会(平成12年度:事例1)(株)第一勧業銀行,(株)富士銀行及び(株)日本興業銀行の持株会社の設立による事業統合
- 金融庁 2002年6月19日「みずほフィナンシャル・グループに対する行政処分について」
- 日経クロステック(日経コンピュータ)2019年7月17日 中田敦「みずほ銀行システム統合、20年前に生じた『ボタンの掛け違い』」
- 日経クロステック(日経コンピュータ)2019年7月19日 中田敦「みずほ銀行発足初日に大障害、『必然』だった2002年の二重引き落とし」
- ダイヤモンド・オンライン 2021年12月25日「【みずほ合併交渉秘録】一勧との2行合併を望んだ興銀と富士が、3行案に折れた全経緯」