川崎製鉄とNKK(日本鋼管)の経営統合とJFEホールディングス発足(2002年成立)
新日鉄に対抗する「2位連合」はなぜ生まれ、鉄鋼業界の2極化を起こしたのか?
エグゼクティブサマリー
- 2002年9月、業界2位のNKK(日本鋼管)と同3位の川崎製鉄が株式移転で共同持株会社JFEホールディングスを設立し、鉄鋼大手は新日鉄とJFEの2強体制に移行した案件。
- 平成不況下の設備過剰・鋼材価格下落に加え、新日鉄の協調路線からシェア拡大路線への転換、鉄鉱石・自動車という川上川下の世界的寡占化が、単独での生き残りを困難にしていた。
- 2001年4月に全面統合で基本合意。NKK1株に対しJFEホールディングス0.75株、川鉄1株に対し1.00株の比率で株式移転し、翌2003年4月に会社分割でJFEスチール・JFEエンジニアリング等へ再編した。
- 規模拡大による増収シナジーより、有利子負債削減と費用削減を主眼としたコストシナジーを狙った統合。八幡・富士合併による新日鉄誕生以来の大型再編であり、鉄鋼業界の2極化の起点となった。
- 八幡製鉄と富士製鉄が合併し新日本製鉄が誕生、大手5社体制が始まる
- NKKと川崎製鉄が鉄鋼・エンジニアリングをコアとした全面的な経営統合で基本合意
- 両社が基本合意書を締結、新グループ名を「JFEグループ」と発表(株式移転比率も公表)
- 株式移転により共同持株会社JFEホールディングスが発足、両社は完全子会社に
- 会社分割でJFEスチール・JFEエンジニアリング・JFE都市開発・JFE技研に事業別再編
- 新日鉄と住友金属が合併し新日鉄住金が発足、JFEは国内2位に
統合の背景
マクロ環境——平成不況と設備過剰
2000年代初頭の日本の鉄鋼業は、バブル崩壊後の長期不況のただ中にあった。大手ユーザーである自動車業界や電機業界が不振に陥り、国内の鉄需要は細っていく。過剰設備・余剰人員・高コスト体質に円高が重なって、業界1位の新日本製鉄と2位の日本鋼管(NKK)は平成5年度にバブル崩壊後はじめて赤字に転落した[1]。平成13年度の全国粗鋼生産量は1億206万トンと前年度を下回り[2]、鋼材在庫が積み上がって市況は内外ともに急速に悪化していた。各社は一度ならぬリストラクチャリングを迫られ、人員削減により身を削ることで不況をしのいできたが、その手法も限界に近づいていたとされる。
統合直前の平成13年度の財務状況を比べると、3社の体力差は鮮明であった。連結自己資本比率は新日鉄が22.5%だったのに対し、川崎製鉄14.4%、NKK14.8%と水を開けられていた[3]。連結剰余金は新日鉄が約3,385億円を蓄える一方、川崎製鉄は約109億円、NKKは約511億円の欠損金を抱えていたとされる。NKKの欠損は鋼材価格の値崩れによる収益悪化と子会社の破たんが重なった結果であった。粗鋼生産量はNKKが約2,022万トン、川崎製鉄が約1,333万トンで、両社を合わせれば約3,355万トンとなり、新日鉄を上回る計算になった[4]。
川上・川下の世界的寡占と新日鉄のシェア拡大路線
鉄鋼業を取り巻く環境も、内外で大きく変わりつつあった。川上の鉄鉱石業界では2001年にオーストラリアのBHPと英国のビリトンが合併してBHPビリトンが誕生し[5]、リオ・ティント、ブラジルのリオドセ(現ヴァーレ)と合わせた上位3社で原料分野の世界シェア約8割を占めるに至る。川下の自動車業界でも世界的な再編が進み、欧州では2002年にアセラリア・アルベッド・ユジノールが合併してアルセロールが生まれる[6]など、鉄鋼メーカー自身も集約に向かっていた。国内での価格支配力が崩れ、各社は世界同一価格の波にさらされるようになったとされる。高炉を持って国際市場で勝負するには粗鋼生産量2,000万トン以上が一つの目安とされ、いわゆる「2,000万トンクラブ」に届かない規模では生き残りが難しいとみられていた。
国内では、新日鉄の戦略転換が再編の引き金の一つになったとされる。それまで鉄鋼業界は新日鉄を頂点とする「護送船団方式」の協調路線で[7]、自動車や家電など大口顧客向けは長期契約に基づく「ヒモ付き」取引によって、各社のシェアが安定的に棲み分けられてきた。ところが平成5年を境に、新日鉄は協調路線からシェア拡大路線へ舵を切り、設備の集約とコスト削減で自力更生の道を歩み始める。トップメーカーが棲み分けの慣行を崩しにかかったことで、収益力に劣るNKKや川崎製鉄は単独での存立基盤を揺さぶられていったとみられる。
統合の発端
ゴーン・ショック——崩れた自動車向けシェア
統合へと両社を追い込んだ直接の契機は、「ゴーン・ショック」と呼ばれる自動車業界の調達革命にあったとされる。経営危機に陥った日産自動車を救済するため仏ルノーから送り込まれたカルロス・ゴーン氏(当時COO)は、「日産リバイバル・プラン」のもとで資材調達の大幅削減を指示する[8]。これにより、それまで新日鉄・NKK・川崎製鉄でおおよそ25〜30%ずつ分け合っていた自動車向け鋼板のシェアが崩れた。日産への鋼板納入シェアは、新日鉄が平成11年度の29%から平成13年度には58%へと倍増した一方、NKKは同じ芙蓉グループでありながら22%から8%へと急落し[9]、住友金属に至っては取引停止となったとされる。
最大の得意先である自動車メーカーで、業界2位とはいえNKKが日産向けのシェアを3分の1に落としたことは、死活問題であった。新日鉄が慣例を打破してシェア拡大に打って出たことで、棲み分けの構図はもはや成り立たなくなる。このままでは新日鉄に呑み込まれかねないという危機感が、NKK以下の鉄鋼メーカーは単独では生き残れないという認識を業界に広げ[10]、再編の起爆剤になったと考えられている。報道では、両社の統合構想は2001年4月の正式発表に先立って観測が伝えられていたとされるが、発端を一日単位で特定できる良質な一次資料は確認できなかった。
「対等の精神」での全面統合へ
2001年4月、両社は鉄鋼およびエンジニアリング事業をコアとし、グループ会社も含めた全面的な経営統合を行うことで基本的に合意し、具体的な検討の開始を発表する。掲げた狙いは、顧客ニーズへの世界規模での対応力強化、株主・資本市場からの高い評価の獲得、従業員にとって魅力ある職場の提供、地球環境・地域社会への貢献の4点であった。同年12月21日には基本合意書を締結し、新グループ名を「JFEグループ」と公表する[11]。「J」は日本(Japan)、「F」は鉄鋼(鉄の元素記号Fe)、「E」はエンジニアリング(Engineering)を意味し[12]、鉄鋼とエンジニアリングをコア事業とした「日本を代表する未来志向の企業グループ」(Japan Future Enterprise)であることを表すと説明された。
合意の建付けには、合併でも買収でもなく「対等の立場」での経営統合という表現が選ばれた。存続会社を立てずに共同持株会社を設け、その傘下に両社が完全子会社として並ぶ枠組みは、いずれかが他方に吸収されたという印象を避け、双方の従業員の士気を保つ意図があったとされる。新日鉄が八幡・富士の合併で誕生した経緯と対照的に、JFEは株式移転による持株会社化という手法を採った点が特徴であった。もっとも、後年の報道は、こうした「対等」の建前が実態と必ずしも一致しなかった例として、鉄鋼再編における呼称の機微を振り返っている[13]。
統合の経過
株式移転比率と独占禁止法のクリア
統合の核となる条件が、株式移転比率であった。株式移転に伴い両社の株式に割り当てられるJFEホールディングス株式は、NKK株式1株に対し0.75株、川崎製鉄株式1株に対し1.00株とされた[14]。比率はゴールドマン・サックス証券がNKKに、モルガン・スタンレー証券が川崎製鉄に、みずほ証券が両社に、それぞれ妥当である旨の意見を表明したうえで決定されている[15]。NKKが大幅赤字と欠損金を抱えていたのに対し、川崎製鉄の財務体質が相対的に良好だったことが比率の差に反映され、財務面で勝る川鉄が統合の実権を握る格好となったとされる。
2社の合計シェアが大きい鉄鋼大手どうしの統合であるため、独占禁止法上の審査も焦点となった。公正取引委員会は平成13年度の企業結合事例として本件を取り上げ、特に無方向性電磁鋼板(統合後シェア約35%・第2位)、容器用鋼板(約35%・第1位)、配管用鋼管(約45%・第1位)[16]、高抗張力鋼(約35%・第2位)の4品種を重点的に検討した。有力な競争業者の存在、自動車メーカーやゼネコンといったユーザー企業の強い価格交渉力、競合製品への代替、輸入品増加の可能性などを総合的に勘案し、結果として「競争を実質的に制限することとはならない」と判断している[17]。
持株会社設立と事業会社への再編
2002年9月27日、NKKと川崎製鉄は商法346条に基づく株式移転により共同持株会社JFEホールディングス株式会社を設立し[18]、両社はその完全子会社となった。持株会社は全グループの戦略機能を担い、リスク管理と対外説明責任を負うスリムなグループ本社と位置づけられた。八幡製鉄と富士製鉄の合併で新日鉄が誕生した1970年以来の大型再編であり、30年以上続いた大手5社体制が崩れて、鉄鋼業界は新日鉄とJFEの2強の時代に入った[19]とされる。
持株会社化の翌年、2003年4月には傘下の両社を会社分割で事業別に再編した。鉄鋼事業はJFEスチール、エンジニアリング事業はJFEエンジニアリング、都市開発事業はJFE都市開発、研究開発はJFE技研へとそれぞれ集約され[20]、企業の枠を越えた事業ごとの一体運営に移行する。同じ事業を営んでいた旧2社の機能を統合会社の単位で括り直すこの2段階の手法は、まず持株会社で資本を一つにまとめ、続いて事業を再編するという順序を踏んでいた。
統合の帰結
コストシナジーと2極化の定着
統合の狙いは、規模拡大による増収シナジーというより、コストシナジーに重きが置かれていたとされる。JFEグループの第1次中期経営計画は、安定したフロー収益力の早期確立に加え、資産圧縮と投資の厳選によってキャッシュフローを極大化し、有利子負債の削減を積極的に進めることで経営基盤を強化する方針を掲げた[21]。両社が単独では届かなかった粗鋼生産量も、統合すれば約2,500万トンの規模となり、世界市場で勝負する目安とされた「2,000万トンクラブ」に乗る計算であった[22]。大競争時代に縮小均衡では生き残れず、統合なしには新日鉄に対抗して生きていく道がないところまで来ていたとされる。
JFEの発足後、鉄鋼業界の再編は2極化を軸に進んでいく。2008年のリーマン・ショックで鉄鋼需要は急減し、JFEホールディングスは欧州債務危機や円高も重なった2012年3月期に発足後初の最終赤字を計上したと報じられた。同じ2012年10月には新日鉄と住友金属工業が合併して新日鉄住金が発足し、JFE発足以来およそ10年ぶりの大型再編となる[23]。これによりJFEは国内2位の座に移り、新日鉄住金(後の日本製鉄)を首位とする2極構造が一段と鮮明になった。当初描かれた「打倒新日鉄」の2位連合という構図は、その後の業界の縮図として残ることになった。
規模か、財務か——統合の論理を読み解く
この統合は、業界1位の戦略転換と、川上・川下の世界的な寡占化という外圧が、収益力で劣る2社を結びつけた事例として読める。新日鉄が協調路線から離れ、ユーザー側の調達革命で価格支配力が崩れるなか、単独での縮小均衡では国際競争を戦えないという認識が、再編の合理性を支えていたとみられる。狙いが増収より有利子負債の削減というコスト側に置かれていた点は、当時の鉄鋼業が置かれた守りの局面を映している。
統合比率に財務体質の差がそのまま反映され、「対等」を掲げつつ実質的には財務で勝る側が主導権を握った構図は、その後の大型再編でも繰り返し見られる論点である。存続会社を立てずに持株会社へ並ぶ手法は、双方の士気に配慮した政治的な解でもあった。経済合理性だけでなく、呼称や枠組みの設計が当事者の納得を左右することを示す一例とみることもできる。八幡・富士合併による新日鉄誕生が「安定の時代」の象徴であったとすれば、JFEの発足は国内市場の縮小と過剰生産を背景とした「停滞期」への移行を象徴する再編であったと位置づける見方もある。
- NKK・川崎製鉄 ニュースリリース(2001年12月21日)「JFEグループの創設について【NKKと川崎製鉄との経営統合に関する基本合意書の締結】」
- 公正取引委員会(平成13年度:事例4)「日本鋼管(株)及び川崎製鉄(株)の持株会社の設立による事業統合」
- 朴恩芝「『NKK』と『川崎製鉄』の経営統合に関する一考察」証券経済学会年報 第50号別冊(第83回春季全国大会報告論文)
- JFEホールディングス株式会社「JFEグループの歩み」(公式沿革)
- 週刊東洋経済 2002年11月2日号「新日鉄と二大勢力を形成、統合で鉄の復権なるか」
- M&A Online 2021年「川崎製鉄と日本鋼管(NKK)が経営統合し、JFEホールディングスに」
- 日本経済新聞 2018年5月17日「捨てた『対等』の建前 『日本製鉄』69年ぶり復活」