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経営統合・合併 破談

富士銀行と三和銀行の合併構想(1970年代後半・幻の都銀大型合併)

なぜ非財閥系上位都銀どうしの合併構想は、合意に至る前に立ち消えたのか?

経営統合 合併(検討段階)
帰結 破談

エグゼクティブサマリー

  • 1970年代後半、富士銀行と三和銀行が合併を模索したと伝えられる構想。実現すれば預金量で群を抜く巨大都銀が生まれるはずだったが、正式合意や公式発表に至らないまま立ち消えたとされる。
  • 1971年に第一銀行と日本勧業銀行が合併して第一勧業銀行が発足し、長く首位だった富士銀行は預金量トップの座を失った。大蔵省は1968年の合併転換法を軸に金融効率化行政を進め、都銀再編が連鎖していた。
  • 東京地盤の富士銀行と大阪地盤の三和銀行は、ともに非財閥系の上位都銀で店舗網の補完性が高く、規模も近かったとされる。一方で構想は一次資料に乏しく、合意の具体的な時期や内容は確証が得られていない。
  • 巨大銀行の誕生が預金の寡占につながることへの当局の警戒が、再編の合理性に優先したとの見方がある。護送船団行政下では、当事者の意思だけでは大型合併が決まらなかったことを示す事例とされる。
関連する動き
  1. 金融機関の合併及び転換に関する法律(合併転換法)公布。大蔵省の金融効率化行政が本格化
  2. 第一銀行と日本勧業銀行が合併し第一勧業銀行が発足、預金量で富士銀行を抜き国内首位に
  3. 神戸銀行と太陽銀行が合併し太陽神戸銀行が発足、都銀再編が連鎖
  4. 三和銀行の第6代頭取に赤司俊雄が就任(〜1984年)。首都圏基盤の強化が経営課題に
  5. 富士銀行と三和銀行の合併構想が模索されたと伝えられるが、合意・公表に至らず立ち消えたとされる

統合の背景

制度——合併転換法と金融効率化行政

1960年代後半以降、金融行政は戦後の保護的な枠組みから、金融機関の効率化を促す方向へと舵を切っていった。その具体的な手だてが、1968年6月1日に公布された金融機関の合併及び転換に関する法律、いわゆる合併転換法である[1]。同法は異なる種類の金融機関どうしの合併や業態転換を認め、規模の経済を求める合併や提携を進めやすくする狙いをもっていた。こうした金融効率化行政のもとで、金融機関には規模拡大への強い誘因が働き、都市銀行の合併、地域金融機関どうしの提携、中小金融機関の整理が連鎖していく。大型合併が当局の方針に沿うものとされた一方で、どこまでの規模を認めるかという線引きは、最終的に大蔵省の裁量に委ねられていた。

構図——第一勧銀の誕生と首位陥落

再編の口火を切ったのは第一勧業銀行の誕生であった。1971年、預金量で中位だった第一銀行と、かつての特殊銀行である日本勧業銀行が対等合併し、預金高で富士銀行を抜いて国内首位の都市銀行が生まれる[2]。都市銀行どうしの合併は戦後初であり、両行の弱点を補い合う再編として注目を集めた。富士銀行は旧安田銀行を母体に長く首位を保ってきたが、この合併によってその座を明け渡すことになる。1973年には神戸銀行と太陽銀行が合併して太陽神戸銀行が発足し、再編は連鎖していった[3]。首位奪回を意識する富士銀行にとって、上位行どうしの組み合わせは現実的な選択肢として浮上しうる状況にあったとみられる。

統合の発端

富士銀行

富士銀行の視点——首位奪回への模索

富士銀行は、旧安田銀行を母体に1923年の大合同を経て以降[4]、預金量で長く首位の地位を保ってきたとされる。その不動とみられた座が、1971年の第一勧業銀行の誕生によって崩れた。預金量トップの座を奪われた富士銀行にとって、首位の奪回は経営上の課題として意識されるようになる。そこで浮上したのが、同じく上位都銀の一角を占める三和銀行との合併構想であったと伝えられる。両行はともに財閥を後ろ盾としない非財閥系の銀行であり、一方が他方に呑み込まれる関係になりにくい点も、組み合わせとして検討された理由とされる。ただし、この構想は当事者による公式発表を欠き、交渉の具体的な内容は確証が得られていない。

三和銀行の視点——首都圏基盤の弱さ

相手側とされる三和銀行は、1933年に三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の3行が合併して発足した、大阪を地盤とする非財閥系の上位都銀である[5]。関西では強固な基盤を築いていたが、首都圏での営業基盤は相対的に弱く、その克服が長年の経営課題であったとされる。1976年に第6代頭取へ就任した赤司俊雄は、首都圏基盤の強化を経営の重点に据えたと伝えられる。東京に厚みをもつ富士銀行と、関西に厚みをもつ三和銀行は、店舗網の補完性が高く、経営規模も近かったとされる。両行が互いを生き残りや成長の組み合わせとして意識する素地は存在したとみられるが、当時の記録は乏しく、交渉がどこまで具体化したかは確かめにくい。

統合の経過

当局の壁——「巨大銀行は預金の寡占を招く」

構想が前進したとしても、最後に立ちはだかるのは大蔵省であった。当時の金融業界は、当局が業界全体を護送するように歩調をそろえさせる、いわゆる護送船団方式のただ中にあった。合併転換法に象徴される金融効率化行政は再編をうながす一方で[6]、突出した規模の銀行が生まれることには慎重であったとされる。上位都銀どうしが一つになれば、預金量で他を大きく引き離す巨大銀行が出現する。それは預金の寡占につながり、銀行業界の秩序にとって望ましくない、という理屈である。富士銀行と三和銀行の合併が認可に至らなかった背景には、こうした当局の判断があったと伝えられるが、認可をめぐるやり取りそのものを記した一次資料は確認できていない。

立ち消え——合意の前に

報じられるところでは、交渉は合意に近づいた段階まで進んだともされる。しかし、当事者による経営統合の正式発表や、合併契約の締結を裏づける公式の記録は残っていない。表立った破談の宣言という形ではなく、認可の見通しが立たないなかで構想そのものが立ち消えていったと理解するのが穏当とみられる。後年、預金量で他を引き離す巨大銀行は、規模だけでなく寡占の観点からも当局の判断対象となりうる。実際、1990年代末の第一勧業・富士・日本興業の3行統合に際しては、公正取引委員会が預金・貸出のシェアや市場集中度を精査したうえで、競争を実質的に制限することとはならないと判断している[7]。当局が銀行の規模と競争を意識して再編を見るという姿勢は、1970年代の合併行政の延長線上にあるとみることもできる。

統合の帰結

その後——別々の道、そして平成の再編へ

構想が実を結ばなかった後、両行はそれぞれ別の道を歩んだ。富士銀行は1980年代を通じて上位都銀の一角を占め続け、最終的には1999年に第一勧業銀行・日本興業銀行との3行統合に合意し、みずほフィナンシャルグループの源流の一つとなる[8]。三和銀行は東海銀行・東洋信託銀行との統合を経てUFJへ、さらに三菱東京フィナンシャル・グループとの統合により三菱UFJフィナンシャル・グループへと連なっていった。1970年代に語られた富士・三和の組み合わせは実現しなかったが、両行とも平成の金融再編のなかで、より大きな枠組みへと再編されていった点では共通する。当時は当局が押しとどめた巨大銀行が、四半世紀を経てメガバンクという形で現実のものとなったとみることもできる。

筆者の見解

当局が線を引いた時代

この構想の最大の特徴は、当事者の意思や経済合理性の有無ではなく、規模そのものが障害になった点にあるとみられる。当事者にとって補完性が高く規模も近い相手であっても、生まれる銀行が突出して大きければ、当局が望ましくないと判断する余地があった。護送船団方式のもとでは、再編の可否は当事者の合意だけでは決まらず、当局が引く線の内側に収まるかどうかが問われた。再編をうながす行政と、寡占を警戒する行政が、同じ当局のなかに同居していたとも読める。

もっとも、本件は一次資料が薄く、交渉の時期や内容、認可をめぐるやり取りの多くが確証を欠く。語り継がれる「合意寸前で大蔵省が認めなかった」という筋立ては、検証可能な制度や再編の流れとは整合する一方、その細部までを裏づける良質な記録には乏しい。確かなのは、巨大銀行を生むことへの当局の警戒が当時存在したこと、そして四半世紀後にはメガバンクが現実のものとなったことである。実現しなかった構想にも、規制と再編の関係を読み解く手がかりは残されているのだろう。

yutaka sugiura

出典・参考
  • 金融機関の合併及び転換に関する法律(昭和43年6月1日法律第86号)e-Gov法令検索
  • 公正取引委員会「(平成12年度:事例1)(株)第一勧業銀行,(株)富士銀行及び(株)日本興業銀行の持株会社の設立による事業統合」
  • 富士銀行調査部百年史編さん室編『富士銀行百年史』(富士銀行、1982年3月)
  • 株式会社三和銀行『三和銀行の歴史』(三和銀行、1974年12月)
  • 菊地敏明「日本の『メガバンク』はどう誕生した? 都市銀行13行が4行に集約された大再編の歴史」PHPオンライン 2025年11月5日