三共と第一製薬の経営統合と第一三共の誕生(2005年成立)
なぜ大手2社は合併ではなく共同持株会社から始め、2年かけて完全な合併へと進んだのか?
エグゼクティブサマリー
- 2005年9月、三共と第一製薬が共同株式移転で持株会社「第一三共」を設立し、2007年4月に両社を吸収合併して事業会社へ移行した、製薬大型再編の代表例である。
- 新薬の特許切れ問題と研究開発費の高騰、内需頭打ちのなかで規模拡大が課題となり、同年は山之内×藤沢のアステラスなど大型合併が相次いだ。
- いきなりの合併ではなく、まず共同持株会社を設けて2年かけて事業を統合する2段階方式を採った。株式移転比率は三共1株に対し第一製薬1株を1.159株とした。
- 「緩やかな統合」で社風や歴史への配慮と速やかな効果の両立を図った。研究開発の選択と集中、国内営業力の強化を狙った再編であった。
- 三共と第一製薬が経営統合の基本合意を公表(2段階方式)
- 山之内製薬と藤沢薬品工業が合併しアステラス製薬が発足(同年の大型再編の先陣)
- 共同株式移転で持株会社「第一三共」を設立、東京・大阪・名古屋に上場(統合成立)
- 第一三共が三共・第一製薬を吸収合併する契約を締結
- 三共・第一製薬を吸収合併し、医療用医薬品事業を統合した事業会社へ移行
- インド大手ランバクシー・ラボラトリーズの買収を発表(後に減損・売却)
統合の背景
製薬業界を覆った「2010年問題」と規模の論理
2000年代半ばの国内製薬業界は、構造的な転換点に立たされていた。大型新薬の特許が相次いで切れる「2010年問題」が意識され[1]、後発医薬品(ジェネリック)の台頭で収益柱の侵食が見込まれた。一方で新薬一品を世に出すための研究開発費は数百億円から1000億円規模へと膨らみ、世界の上位を占める欧米メガファーマとの差は開いていた。国内市場は薬価改定の重しもあって成熟し、各社は単独での創薬と販売に限界を感じ始めていた。規模の拡大によって研究開発と営業の双方を底上げするという論理が、業界全体の共通認識となりつつあった時期である。
2005年は、日本の製薬史にあって大型再編が集中した年であった。4月には山之内製薬と藤沢薬品工業が合併してアステラス製薬が発足し[2]、10月には大日本製薬と住友製薬が一つになって大日本住友製薬が生まれている。三共と第一製薬の経営統合は、この一連の動きのただ中に位置していた。各社が相手を探し、規模で生き残りを図る連鎖のなかで、両社もまた業界上位の地歩を固める組み合わせとして互いを選んだとみられる。
両社の事情——補完しあう創薬の柱
三共と第一製薬は、ともに大正期に法人化された老舗であり[3]、得意とする領域に重なりと補完の双方を抱えていた。三共は高脂血症治療薬プラバスタチン(メバロチン)などを擁し、循環器・代謝の分野に強みを持つ。第一製薬はニューキノロン系抗菌剤レボフロキサシン(クラビット)を主力とし、感染症領域で存在感を示していた。両社の医療用医薬品を合わせれば、循環器から感染症まで幅広い疾患をカバーする品ぞろえとなる。研究開発の領域でも、選択と集中を進める余地が見込まれた。規模だけでなく、こうした製品ポートフォリオの補完性も統合を後押しした要因であったとみられる。
統合の発端
公表経緯——2段階方式という設計
両社は2005年2月、経営統合の基本合意を公表した。注目されたのは、いきなり合併に踏み切るのではなく、2段階で統合を進める設計であった。第1段階として両社が共同株式移転を行い[4]、両社を完全子会社として傘下に収める共同持株会社「第一三共」を同年10月をめどに設立する。第2段階として2007年4月を目処に、傘下の両社が営む医療用医薬品事業を統合する——という道筋である。共同持株会社による「緩やかな統合」は、それぞれの歴史・伝統・企業文化への配慮と、統合効果の早期実現を両立させる狙いがあったとされる。
統合の狙いとして両社が掲げたのは、研究開発の強化と国内営業力の拡大であった。両社合計で約1500億円規模の研究開発費とパイプラインを活用し、共通する研究領域では選択と集中を進める。国内では合算して2500人規模のMR(医薬情報担当者)を擁する体制を築き[5]、ファイザーに次ぐ販売力を目指すとされた。中期的には売上高1兆円、営業利益2000億円の達成を掲げ、企業規模の拡大によって戦略の選択肢を広げる構想であった。新会社の社長には三共の庄田隆社長が、会長には第一製薬の森田清社長が就く体制が示された[6]。
統合の経過
独占禁止法の審査——競争上の問題は限定的
共同持株会社の設立は、独占禁止法に基づく公正取引委員会の審査を経た。同委員会は、両社が重なりを持つ医療用医薬品の分野を中心に競争への影響を検討している。ACE阻害剤では総販売金額約916億円の市場で合算25%、創傷治療剤では約124億円の市場で合算15%、非ステロイド剤では約939億円の市場で合算45%[7]といった合算シェアが対象となった。検討の結果、有力な競争事業者の存在や新規参入の見込み、購入先変更の容易性などから「一定の取引分野における競争を実質的に制限することとはならない」と判断され[8]、統合は競争法上の障害なく進むこととなった。
第一三共の設立——共同持株会社の発足
2005年9月28日、両社は共同株式移転によって持株会社「第一三共株式会社」を設立した[9]。同日付で第一三共は東京・大阪・名古屋の各証券取引所第1部に上場し、代表取締役社長には三共の庄田隆氏が就いた。株式移転比率は、三共株式1株に対し持株会社株式1株、第一製薬株式1株に対し持株会社株式1.159株とされ[10]、両社の株主は新会社の株主へと切り替わった。当初の第一三共は両社を完全子会社に置く純粋持株会社であり、事業は子会社の三共・第一製薬が引き続き担う形でスタートした。
吸収合併へ——事業会社への移行
持株会社の発足から1年余りを経た2006年11月、第一三共は子会社である三共・第一製薬を吸収合併する契約を結んだ。合併期日は2007年4月1日とされ、第一三共を存続会社として両社の医療用医薬品事業が同社へ統合された[11]。あわせて、一般用医薬品(ヘルスケア)事業はゼファーマを取り込んで「第一三共ヘルスケア」に[12]、生産機能は「第一三共プロファーマ」に、研究開発支援は「第一三共RDアソシエ」へと再編されている。当初の構想どおり、緩やかな持株会社から一体の事業会社へと、2段階を踏んで統合が完成した。
統合の帰結
国内3位への浮上と、その後の世界戦略
統合によって誕生した第一三共は、武田薬品工業、アステラス製薬に次ぐ国内有数の規模を備えた。当初の発足時には業界2位とも報じられたが、その後の再編もあって国内3位前後の位置に落ち着いていく。国内市場の頭打ちが続くなか、同社は次の成長を海外に求めた。2008年6月には、後発医薬品で世界的な事業基盤を持つインドのランバクシー・ラボラトリーズの買収を発表し[13]、同年10月に連結子会社としている。新薬と後発薬を併せ持つ「ハイブリッド型」のグローバル製薬企業を志向する大型投資であった。
苦難の道のりと、がん領域での再起
もっとも、統合後の歩みは平坦ではなかった。期待をかけたランバクシーは品質問題などで巨額の損失を計上し、最終的に2015年にインドのサンファーマへ売却される結果となった[14]。海外戦略の挫折を経て、第一三共は抗がん剤への注力へと軸足を移していく。後年には抗体薬物複合体(ADC)の開発が実を結び、がん領域での成長企業として時価総額を大きく伸ばすことになる。2005年の経営統合は、その出発点となった再編であり、規模の獲得そのものが成果を保証するわけではないことを示す事例でもあった。
「緩やかな統合」という選択
三共と第一製薬の統合が示すのは、対等に近い大型再編で持株会社という緩衝段階を置く設計の意義であろう。いきなりの合併ではなく、まず共同持株会社のもとに両社をぶら下げ、2年をかけて事業を一体化していく道筋は、それぞれの歴史や企業文化への配慮と、統合効果の実現を両立させる工夫だったとみられる。一方で、緩やかな段階を踏むことは、社内の融合や意思決定の一体化に時間を要する面もはらむ。統合の巧拙は、こうした移行設計をどれだけ速やかに実体のある一体経営へと結実させられるかにかかっているといえる。
この案件は、規模の拡大が目的の達成を約束するものではないことも示している。国内3位という地歩を得た第一三共は、次の成長を海外大型買収に求めたが、その挑戦は容易ではなかった。再編で得た体力をどの領域に振り向けるか——後年のがん領域への注力が一定の成果を見たことを踏まえれば、統合の真価は発足の瞬間ではなく、その後の戦略の選択によって決まっていくのだと読み取ることもできる。
- 第一三共株式会社 プレスリリース 2005年9月28日「第一三共株式会社の設立について」
- 公正取引委員会(平成17年度:事例4)「三共株式会社及び第一製薬株式会社による共同持株会社の設立について」
- ミクスOnline 2005年2月25日「第一・三共 経営統合を発表、07年4月医療用事業新会社へ」
- 薬事日報ウェブサイト 2006年12月1日「三共と第一製薬が正式に合併契約締結」
- 日本経済新聞 2020年1月24日「統合15年の通信簿 アステラス安定、成長は第一三共」