重要な意思決定
戦闘機の生産再開を決定(国内ライセンス生産)
背景
朝鮮戦争を契機とした航空機生産の再開
第二次世界大戦後、GHQの指令により日本の航空機生産は全面的に禁止されていたが、1950年の朝鮮戦争勃発を受けて米国の対日政策が転換した。1953年に米国政府は日本政府に対して航空機生産(軍需)の支援を表明し、米軍の主力戦闘機であったF-86F「Sabre」の国産化計画が立ち上がった。 三菱重工では、戦時中に航空機生産を担った名古屋製作所を中心に、航空機事業の再開を決断した。1953年に愛知県小牧市に小牧工場を新設し、戦闘機の生産に必要な製造拠点の整備に着手した。戦時中に培った航空機製造の技術と経験が、米軍戦闘機のライセンス生産に参入するための基盤となった。
決断
F-86Fのライセンス生産と防衛産業への参入
1955年に日米の政府間で航空機の国内生産が正式に決定され、同年8月に防衛庁からF-86Fの採用決定と生産発注を受けた。三菱重工では製造元の米ノースアメリカン社から技術支援を受け、1956年からノックダウンによる組立生産を開始した。F-86Fの契約は1961年までに3期に分けて実施され、合計約180億円・累計300機の生産に従事した。 F-86Fの生産を通じて防衛庁(現・防衛省)との関係性を構築した三菱重工は、以後F-104Jなど後継機の生産も受注し、戦闘機のライセンス生産を本格化した。黎明期にいち早く参入したことで市場の先行者利益を確保し、軍用航空機のライセンス国内生産市場は三菱重工業と川崎重工業の2社による寡占構造が形成された。