1884年 長崎造船所を創業
土佐藩士から海運業を興した岩崎弥太郎が、1884年7月に工部省から長崎造船局を借り受けて長崎造船所と命名。1934年4月の三菱航空機との合併で三菱重工業が発足、戦後1950年1月の過度経済力集中排除法で3社分割の末、1964年6月に再合併で復活した。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 三菱重工業の事業系譜の起点は、1884年7月7日に岩崎弥太郎が工部省から借受の形で取得した長崎造船所にある。借受の翌1885年2月に弥太郎が没し、弟・岩崎弥之助が本格運営を継承している。1887年6月に政府から正式払下げを受け、1893年12月の三菱合資会社設立で造船事業は同社造船部に継承された。1905年神戸造船所新設、1914年彦島造船所と三拠点体制を整え、1917年10月に三菱造船株式会社として独立した。
- 1921年1月に神戸造船所電気部を三菱電機として分離、1928年に三菱航空機株式会社を別法人として設立した。1934年4月、三菱航空機と三菱造船が合併し、商号を三菱重工業株式会社に変更、本社を東京府麹町区丸ノ内に置いた。長崎造船所では1942年8月に戦艦武蔵を竣工、名古屋航空機製作所では1939年から零式艦上戦闘機を量産、1937年新設の丸子工場では戦車量産体制を構築し、太平洋戦争期の軍需生産の中核を担った。
- 1945年8月の敗戦で航空機製造が全面禁止となり民需転換を経た後、1950年1月の過度経済力集中排除法により本社を神戸市に置く中日本重工業、本社を東京都中央区に置く東日本重工業、同じく東京都中央区に置く西日本重工業の3社に強制分割された。1950年5月までに3社いずれも東京・大阪両証券取引所に株式を上場、1952年に各社が新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船へと商号を改めて「三菱」名を回復した。
- 1962年9月に3社合併の本決まりが報じられ、1963年8月の合併準備室発足、1964年1月の公正取引委員会審査通過を経て、1964年6月1日に新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船が合併し本社を東京都千代田区に置く三菱重工業株式会社が発足した。売上高3,000億円規模で再出発し、1969年12月の米クライスラー資本提携合意を受けて1970年6月1日に自動車部門を三菱自動車工業株式会社として分離、防衛・エネルギー・航空宇宙・船舶を主軸とする体制を整えた。
1884年に岩崎弥太郎が長崎造船局を借受け海運と造船を垂直統合、1893年三菱合資会社・1917年三菱造船・1934年三菱重工業と段階的に組織を整え、戦時下に艦艇・航空機・車両を一貫量産する重工業の中核となった。1950年の3社分割で組織は解体されたが1964年6月の再合併で復活、1970年に自動車部門を分離して防衛・エネルギー・船舶・航空宇宙を主軸とする体制を取った。
1884年の長崎造船所借受は岩崎弥太郎・郵便汽船三菱会社の私的事業として出発、1893年三菱合資会社(無限責任社員:岩崎家)に継承、1917年10月の三菱造船独立で資本金5000万円の株式会社化を経て、1934年の三菱重工業発足では資本金1億円規模となった。1950年5月までに分割3社いずれも東京・大阪両証券取引所に上場し、1964年6月の再合併時には合計資本金約480億円・売上3,000億円規模の公開企業として再出発した。
長崎造船所での船舶修繕・新造船から出発し、1905年神戸造船所では巡洋戦艦霧島など主力艦級の艦艇建造へと拡張、1928年三菱航空機設立で航空機・発動機を加え、1934年合併後は艦艇・航空機・車両・原動機を一貫量産した。戦時下に戦艦武蔵・零式艦上戦闘機・戦車を生産、戦後はスクーター等の民需転換を経て、1953年のF-86Fライセンス生産で防衛、1959年のYS-11共同開発、1963年のキャタピラー合弁で建機事業を加え、1970年の自動車分離で重工本体は防衛・エネルギー・船舶・産業機械の主軸となった。
創業期は自社海運(郵便汽船三菱会社・日本郵船)向けの船舶修繕・新造船が主力、明治後期から海軍が主要顧客となり巡洋戦艦霧島など主力艦の建造を担った。戦時下は陸海軍が圧倒的主力で戦艦武蔵・零戦・戦車を納入、戦後は鍋釜・スクーター等の民需と進駐軍向けの修繕で糊口をしのいだ後、1953年以降は防衛庁・電力会社・国内外の海運会社・自動車輸出市場へと顧客を再構築した。
1884年の長崎造船所借受時は数百名規模、1934年の三菱重工業発足時は3造船所と複数の航空機・車両工場を擁する数万人規模の重工業企業となり、戦時下の最盛期1944年には全国の工場群で30万人規模に達した。1950年の3社分割直後は3社合計で約6万人、1964年6月の再合併時は3社合計約9万人、1970年の自動車分離前の本体従業員は約10万人規模であった。
1884年の長崎造船所を起点に、1905年神戸造船所、1914年彦島造船所、1928年名古屋航空機製作所、1937年丸子工場(戦車)、1944年最盛期の全国軍需工場群と拡張を続けた。戦後は1950年分割3社が各々の本社・主力工場を保有、1964年再合併時に長崎・神戸・横浜・下関・名古屋・広島・高砂・三原・相模原・横浜の各工場が三菱重工業株式会社の傘下に再統合され、1965年の長崎30万トンドック新設で大型タンカー建造能力を整えた。
三菱重工業 創業地の主な拠点全国 の地理(長崎造船所 → 三菱重工業本社(再合併後))
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1884年7月 なぜ岩崎弥太郎は1884年に長崎造船局を借受け造船業に踏み込んだのか? | 自社海運の船舶修繕を英国へ持ち出す非効率を解消するには国内に自前の造船所が必要であり、工部省が民間払下げを進めていた長崎造船局を岩崎が借受の形で取得して海運と造船の垂直統合に踏み切った。 岩崎弥太郎は1835年に土佐国安芸郡井ノ口村(現高知県安芸市)の地下浪人の家に生まれ、1870年に九十九商会を起こして海運業を開始した。1875年に郵便汽船三菱会社を設立し、台湾出兵と西南戦争の軍事輸送で政府船を一手に運航する地位を確保したが、運航船の修繕は英国まで持ち出さねばならない構造的な不便を抱えていた。 旧徳川幕府が1857年に開設した長崎熔鉄所を起源とする官営の長崎造船局は、1880年代に明治政府の官業払下げの対象となり、岩崎は1884年7月7日付で工部省から借受の形でこれを取得し、長崎造船所と命名して造船事業に本格参入した。三菱重工業はこの日を公式の創立日と位置付けている。借受開始の翌1885年2月に弥太郎が49歳で病没し、長崎造船所の本格運営は弟の岩崎弥之助に引き継がれた。1887年6月には政府から長崎造船所の正式払下げを受け、自社海運と造船を垂直統合する三菱財閥の重工業基盤がここに成立した。 |
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| 1934年4月 なぜ1934年に三菱航空機と三菱造船が合併して三菱重工業となったのか? | 1928年設立の三菱航空機と1917年独立の三菱造船は、艦艇と航空機の主要顧客が陸海軍で重複し、研究開発と量産投資の重複が顕在化していたため、両社合併で軍需製品を一貫量産する単一企業に再編する判断が下された。 1917年10月、三菱合資会社造船部が三菱造船株式会社として独立し、長崎・神戸・彦島の三造船所を一元運営する体制が整った。1921年1月には神戸造船所電気部を三菱電機として分離、1928年には三菱航空機株式会社を別法人として設立し、名古屋に航空機工場を新設している。1930年代に入ると満州事変・日中戦争の進展で陸海軍からの艦艇・航空機・発動機の発注が急増し、両社で研究開発と量産投資の重複が顕在化した。 1934年4月、三菱重工業発足。三菱航空機と三菱造船を合併し、商号を三菱重工業株式会社に変更した。本社は東京府麹町区丸ノ内(現千代田区丸の内)、艦艇・航空機・車両を国内で一貫量産する日本有数の重工業企業として再編された。長崎造船所では1937年から戦艦武蔵の建造に着手して1942年8月竣工、名古屋航空機製作所では1939年に零式艦上戦闘機の量産を開始、1937年新設の丸子工場(神奈川県)では戦車の量産体制を構築し、太平洋戦争期の軍需生産を中核で担う体制となった。 |
| 1950年1月 なぜ1950年に旧三菱重工業は3社に強制分割されたのか? | GHQの過度経済力集中排除法の指定を受けた旧三菱重工業は、艦艇・航空機・車両を一貫量産する単一の重工業企業を地理的に解体する方針で、本社・主要工場の所在地を基準に東日本・中日本・西日本の3社へ再編された。 1945年8月の敗戦と同時に連合国軍最高司令官総司令部の指令で航空機製造が全面禁止となり、旧三菱重工業は陸海軍向けの軍需製品の生産を停止して鍋・釜・農具・スクーターなど民需品への事業転換を余儀なくされた。1947年制定の独占禁止法と同年12月公布の過度経済力集中排除法のもと、旧三菱重工業は集中排除指定企業に指定され、単一法人としての存続が認められないとの結論に至った。 1950年1月、過度経済力集中排除法により旧三菱重工業は3社に強制分割された。本社を神戸市に置く中日本重工業株式会社、本社を東京都中央区に置く東日本重工業株式会社、同じく東京都中央区に置く西日本重工業株式会社が同月に発足し、1950年5月までに3社いずれも東京・大阪両証券取引所に株式を上場した。1952年5月に中日本重工業は新三菱重工業に商号変更、同月に西日本重工業は三菱造船に、1952年6月に東日本重工業は三菱日本重工業へと商号を改め、財閥商号制限令の緩和に合わせて「三菱」名を回復した。 |
| 1963〜1964年 なぜ1964年6月に3社が再合併できたのか? | 高度成長期の重化学工業化で3社それぞれが造船・建機・自動車・原動機への投資を進めた結果、グループ内で二重投資が顕在化し、輸出力強化と研究開発効率化を理由に1963年8月の合併準備室発足を経て、公正取引委員会の独占禁止法審査を1964年1月に通過して再合併に至った。 1962年9月、日経新聞は3社合併の本決まりを報じ、「合併後の新会社は半期売上高で1300億円以上(中略)と日立製作所に次ぐわが国最大級のマンモス企業となる」「新三菱と米国キャタピラー社との提携によるブルドーザー進出も、既存のブルドーザーメーカーである三菱日本重工と競合するものであり、三菱グループ内での二重投資とみられているが、これも三菱重工合併によって初めて調整がつく」(日経新聞 1962/9/19)と合併の利点を整理した。1963年7月の3社取締役会で合併共同検討の方針を決議、同年8月に合併準備室を発足した。 売上高3,000億円規模の大企業誕生となるため公正取引委員会が独占禁止法抵触の有無を慎重に審査し、1964年1月までに「付帯した要請書」で抄紙機を除き問題ない旨を回答した。1964年6月1日、新三菱重工業・三菱日本重工業・三菱造船の3社が合併し、本社を東京都千代田区に置く三菱重工業株式会社が発足した。約14年の分立を経て、艦艇・原動機・航空機の戦前来の技術系譜が再び一法人に集約され、戦後の防衛・エネルギー・航空宇宙という政策連動型事業への展開基盤が制度的に整った。 |
| 1970年6月 なぜ1970年に自動車部門を三菱自動車工業として分離したのか? | 1960年代の乗用車市場の急成長と米クライスラーとの資本提携合意で、自動車事業を独立法人として運営する条件が整い、1970年6月に三菱重工本体から自動車部門を分離して三菱自動車工業を発足させ、外資との資本提携を別法人で受け入れる体制を取った。 1964年の3社再合併時、旧新三菱重工業と旧三菱日本重工業の双方がトラック・乗用車の生産を行っており、自動車部門は再合併後の三菱重工業の中で機械事業と並ぶ重要事業となった。1960年代後半に乗用車市場が急成長し、コルト・ギャラン・デボネアといった乗用車ブランドを擁する自動車部門は、本体の重工業事業とは異なる市場リスクと投資サイクルを持つ事業として運営の独立性が求められるに至った。 1969年12月、三菱重工業と米クライスラー社は資本・業務提携で合意し、1970年6月1日付で自動車部門の営業を新設の三菱自動車工業株式会社へ譲渡した。クライスラーは三菱自動車工業の発行済株式の15%を取得し、新会社は乗用車・小型トラックを中核に独立して運営される体制となった。1884年の長崎造船所借受から数えて86年、戦前の合併・戦後の分割・1964年の再合併を経た三菱重工業は、自動車を切り離して防衛・エネルギー・航空宇宙・船舶・産業機械を主軸とする体制を本格化させた。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
三菱重工業が公式の創立日を1884年7月7日の長崎造船所借受日と位置付けた有報沿革の冒頭記述
「三菱の創業者岩崎彌太郎は、1884年7月7日、工部省から長崎造船局を借り受け、長崎造船所と命名して造船事業に本格的に乗り出した。当社は、この日をもって創立日としている」
1950年1月の旧三菱重工業の3社強制分割を有報沿革が記録した部分
「1950年1月 過度経済力集中排除法により、3社に分割され、それぞれ中日本重工業㈱、東日本重工業㈱、西日本重工業㈱の商号をもって新発足」
約14年の3社分立を経た1964年6月の再合併を有報沿革が記録した部分
「1964年6月 新三菱重工業㈱、三菱日本重工業㈱及び三菱造船㈱が合併し、三菱重工業㈱の商号をもって本社を東京都千代田区に置き発足」
1962年9月、3社合併の本決まり報道で合併後企業の規模を業界紙が示した記述
「合併後の新会社は半期売上高で1300億円以上(中略)と日立製作所に次ぐわが国最大級のマンモス企業となる」
1962年9月の合併報道で、新三菱重工業と三菱日本重工業の自動車・建機部門での二重投資解消を合併の主要利点として示した分析
「国内的にはこれまでに三菱重工がそれぞれの立場で機械部門充実を図ってきたが、各種産業機械、自動車部門(特に新三菱と三菱日本の間でトラックの生産をめぐり二重投資の危険性がでている)での二重投資を避け、投資呼応率を高めるには合併以外にないとみられている」
1963年に新三菱重工業が予定していたキャタピラー合弁が、合併で三菱グループ内のブルドーザー二重投資を整理する具体例として示された記述
「現に問題となっている新三菱と米国キャタピラー社との提携によるブルドーザー進出も、既存のブルドーザーメーカーである三菱日本重工と競合するものであり、三菱グループ内での二重投資とみられているが、これも三菱重工合併によって初めて調整がつくものである」
参考文献
- 有価証券報告書(沿革)
- 三菱重工業社史
- 岩崎弥太郎伝(東洋経済新報社)
- 読売新聞 1956/11/22
- 読売新聞 1962/1/9
- 日経新聞 1962/9/19
- 日経新聞 1960/6/24