三菱自動車 の歴史

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沿革

1970〜2026年 1970年に三菱重工業が全額出資で設立し、自動車部門を譲り渡した三菱自動車工業が起源。1982年にSUV「パジェロ」を発売し、現在はアウトランダーPHEVやトライトンを世界6拠点で生産する。2016年からルノー・日産アライアンスに加わり、東南アジアとオセアニアを海外販売の主軸とする。

沿革

1970年に三菱重工業が全額出資で設立し、自動車部門を譲り渡した三菱自動車工業が起源。

1982年にSUV「パジェロ」を発売し、現在はアウトランダーPHEVやトライトンを世界6拠点で生産する。2016年からルノー・日産アライアンスに加わり、東南アジアとオセアニアを海外販売の主軸とする。

1960年〜創業期クライスラーへの販売権譲渡と三菱重工業からの分離独立

  1. 三菱自動車を設立
  2. 三菱重工業の自動車部門を譲受け営業開始
  3. クライスラーが株式取得
  4. 岡崎工場を新設
  5. 東洋工機で四輪車生産を開始(パジェロ製造)
  6. 三菱商事と海外販売で協業
  7. SUV「パジェロ」を発売
三菱自動車売上高1982年3月期10,821億円

1983年〜安定成長期クライスラーとの合弁解消による資本自立と東証上場

  1. クライスラーと合弁基本契約を解消
  2. クライスラーと合弁で米国現地生産法人を設立
  3. 東京証券取引所第1部に株式上場
  4. ダイヤモンド・スター・モーターズ全株式を取得
  5. 米国法人でセクハラ民事訴訟
  6. 総会屋利益供与事件が発覚
  7. 河添克彦氏が社長に就任
三菱自動車売上高1997年3月期36,720億円

1998年〜不祥事ダイムラークライスラー提携とリコール隠しからの再建

  1. ボルボと資本提携・協業推進の基本合意
  2. ダイムラークライスラーと提携
  3. ロルフ・エクロート氏が社長に就任
  4. 三菱ふそうを売却
  5. リコール隠しが発覚(2回目)
  6. 財務状況が悪化・経営危機
  7. ダイムラークライスラーと提携解消
  8. プジョー・シトロエンと合弁ピーシーエムエー・ルスをロシアに設立
  9. 三菱商事と共同で広汽三菱汽車を設立
  10. 三菱商事と共同でインドネシア生産合弁を設立
  11. 現地生産を終了
三菱自動車売上高2015年3月期21,807億円

2016年〜不祥事燃費データ不正と日産との戦略的アライアンス

  1. 燃費データ不正の発覚を受け日産と戦略的アライアンスを締結(34%出資)
  2. 監査役会を廃し、社外取締役12名と三委員会に執行の監督を委ねる体制への組み替え
  3. 新中期経営計画「Small but Beautiful」を発表(欧州縮小・東南アジア集中)
  4. 最終赤字に転落
  5. 車両生産事業から撤退
  6. Mitsubishi Motors North Americaに賠償を命じる判決
  7. 日産・ホンダ・三菱自動車の経営統合を発表
  8. 岸浦恵介氏が社長兼COOに就任
  9. 五十嵐京矢氏が代表執行役副社長に就任
三菱自動車売上高2026年3月期28,965億円
長期業績の推移 1972〜2026年

業績

三菱自動車:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1979年3月期〜2026年3月期

第1章 1960年〜 クライスラーへの販売権譲渡と三菱重工業からの分離独立クライスラーへの販売権委譲から自力販売網の構築へ

筆者考察y.sugiura, author

この会社は、作る力ではなく売る場所を持たないまま独立した。三菱重工業は戦前に乗用車を手がけた草分けでありながら、1960年の三菱500も、続くコルト1000もトヨタ・日産の牙城に届かなかった。足りなかったのは技術よりも販売網であり、その不足を一挙に埋める手として選ばれたのが、全米に約3000軒の販売店を持つクライスラーとの提携だった。だが借りた販売網は、借りた側の商品を進んで並べてはくれない。北米の独占販売権を渡した見返りに、三菱車は最も安い2ドア車としてCOLTの名だけで店頭に置かれ、売れば売るほど利幅が相手へ移る構造に10年以上縛られることになった。

久保富夫が1973年に社長として持ち込んだのは、その構造の外側へ自前の出口を作る作業だった。組立建築やプラスチックボートといった多角化を止めて資源を車一本へ寄せ、ギャランとミラージュで商品を立て、ギャラン系とは別にカープラザの販売チャンネルを引いた。海外では、クライスラーの手が及ばない東南アジアと豪州から先に地面を取り、インドネシアではトラック3機種に絞って1972年にトヨタを抜いている。米国の契約が改まるのは1981年、提携先が経営危機に陥ってからである。自立は交渉で勝ち取ったというより、相手の弱りを待って手に入った。

売上高(単体) 1979年3月期〜1982年3月期(億円)

8,745 79.3 9,030 80.3 11,079 81.3 10,821 82.3
  • 1981年3月期までの伸びは、クライスラーの独占販売権が残る北米ではなく、欧州・東南アジア・豪州への自力展開が支えた。
  • 出所は証券 41巻1号(1989年)「新規上場会社紹介 三菱自動車工業株式会社」。

1960年〜国民車構想の挫折から資本自由化下の提携選択へ

国民車構想に乗って乗用車へ踏み出す

三菱重工業が乗用車市場へ本格的に踏み出したのは1960年4月、通商産業省の国民車構想に沿って小型乗用車"三菱500"を発売したときである。当時自動車部長だった守屋學治によれば、三輪車や360CCクラスでは一人前の自動車屋といえないという声が社内にあった。開発の対象は、トヨタ・日産の手がける2000CCクラスと軽自動車の中間に置かれた。ただし360CC以下を軽として自動車税で優遇する当時の税制のもとで、500CCはその枠外にあった。翌1961年にコルト600、続いてコルト1000と上位車種を重ねた。だが久保富夫はトヨタのカローラを競争相手ながら進んだ車と認め、太刀打ちできなかったと振り返っている。1946年のスクーター生産から10年をかけて代理店を増やしてきたが、有力な販売網を作れなかったことが響いた。

  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「国民車構想に乗る 守屋學治」
    • [1]1960年4月 三菱重工業が通商産業省の国民車構想に沿って小型乗用車「三菱500」を発売
    • [2]三輪車や360CCクラスでは一人前の自動車屋といえないとの声が社内にあった(守屋學治・当時自動車部長)
    • [3]トヨタ・日産が生産していた2000CCクラスの向こうを張れず360CCでは小さすぎるとして、その中間の500CCの開発に着手した
    • [4]当時の税制では360CC以下が軽自動車として自動車税を優遇され、500CCはその枠外にあった
    • [7]1946年のスクーター生産開始から約10年かけて代理店網を作ったが、有力な販売網を作れなかったことが響いた(守屋學治)
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
    • [5]1961年にコルト600、続いてコルト1000を発売し上位車種を揃えた
    • [6]久保富夫はコルト1000で対抗したトヨタのカローラを画期的な車と評し、太刀打ちできなかったと述べている
いすゞとの提携を捨ててクライスラーの資本を選ぶ

シェアが伸びないまま資本自由化の日程が具体化し、米ビッグスリーの上陸が取り沙汰されるようになる。通商産業省はトヨタ・日産を軸とする自動車産業の集約化構想を打ち出し、三菱重工業は業務提携でこれに応じた。1966年12月にいすゞ自動車と富士重工業が結んだ提携へ加わって交渉が進んだ。富士重工業の離脱後はいすゞ自動車との二社提携となり、トラック用エンジンの集中生産と乗用車のモデル統一にまで及んでいる。いすゞとの関係が立ち消えになったのは、重工がクライスラーを提携相手に選んだためである。その話は白洲次郎が持ち込んだもので、副社長の牧田与一郎が応じ、社内には伏せたまま並行して交渉が進められていた。社長の河野文彦は国内での協調を、牧田は外資との提携を志向しており、自動車事業部長だった久保富夫は何も知らされないまま両者の間に立たされた。久保はその立場を『ハムレットの心境だった』と述べている。

  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
    • [8]資本自由化が具体的日程にのぼり、米ビッグスリーの日本上陸が取り沙汰された
    • [9]通商産業省がトヨタ・日産を中心とした自動車産業の集約化構想を打ち出し、三菱重工業は生き残りのための業務提携で対応した
    • [10]1966年12月のいすゞ自動車・富士重工業の業務提携に三菱重工業が加わって交渉が進んだ
    • [11]富士重工業の離脱後はいすゞ自動車との二社提携となり、トラック用エンジンの集中生産と乗用車のモデル統一を協議した
    • [12]三菱重工業がクライスラーと提携したことで、いすゞ自動車との関係は自然消滅した
    • [13]クライスラーとの提携話は白洲次郎が持ち込み、牧田与一郎副社長が社内には極秘のうちに交渉を進めた
独立と引き換えに北米の販売権を渡す

1969年3月に社長へ就任した牧田与一郎はデトロイトでクライスラーのタウンゼント会長らと会談し、合弁会社設立の覚書に調印した。骨子は、三菱重工業65%・クライスラー35%の出資による合弁会社の設立と新車の共同開発である。三菱車の輸出、クライスラー車のノックダウンと輸入販売も含む広範な内容だった。1970年4月、三菱重工業の全額出資で三菱自動車工業が設立された。同年6月に京都製作所の一部・名古屋自動車製作所・水島自動車製作所など計4製作所を譲り受けて営業を開始する。1971年にクライスラーが株式15%を取得して資本提携が成立する。段階的に出資比率を上げる当初案は結局15%で止まった。同時に結ばれた合衆国流通契約は、国内と東南アジアを除く全世界の販売権をクライスラーに独占的に与えるものだった。

  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
    • [14]1969年3月に社長へ就任した牧田与一郎がデトロイトでクライスラーのタウンゼント会長・ボイド社長らと会談し、合弁会社設立の覚書に調印した
    • [15]覚書の骨子は三菱重工業65%・クライスラー35%の出資による合弁会社の設立と新車の共同開発
    • [16]覚書には三菱車の輸出、クライスラー車のノックダウン、クライスラー車の輸入販売も含まれていた
    • [20]当初は85対15から段階的にクライスラーの出資比率を上げる取り決めだったが、結局15%で終わった
    • [21]合衆国流通契約は国内と東南アジアを除く全世界の販売権をクライスラーに独占的に与えるものだった
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [17]1970年4月 三菱重工業の全額出資により三菱自動車工業を設立
    • [18]1970年6月 三菱重工業から京都製作所一部・名古屋自動車製作所・水島自動車製作所・他1製作所(計4製作所)を移管受け営業開始
    • [19]1971年 クライスラーが三菱自動車の株式15%を取得(資本提携成立)
参考文献[1]-[21]
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「国民車構想に乗る 守屋學治」
    • [1]1960年4月 三菱重工業が通商産業省の国民車構想に沿って小型乗用車「三菱500」を発売
    • [2]三輪車や360CCクラスでは一人前の自動車屋といえないとの声が社内にあった(守屋學治・当時自動車部長)
    • [3]トヨタ・日産が生産していた2000CCクラスの向こうを張れず360CCでは小さすぎるとして、その中間の500CCの開発に着手した
    • [4]当時の税制では360CC以下が軽自動車として自動車税を優遇され、500CCはその枠外にあった
    • [7]1946年のスクーター生産開始から約10年かけて代理店網を作ったが、有力な販売網を作れなかったことが響いた(守屋學治)
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
    • [5]1961年にコルト600、続いてコルト1000を発売し上位車種を揃えた
    • [6]久保富夫はコルト1000で対抗したトヨタのカローラを画期的な車と評し、太刀打ちできなかったと述べている
    • [8]資本自由化が具体的日程にのぼり、米ビッグスリーの日本上陸が取り沙汰された
    • [9]通商産業省がトヨタ・日産を中心とした自動車産業の集約化構想を打ち出し、三菱重工業は生き残りのための業務提携で対応した
    • [10]1966年12月のいすゞ自動車・富士重工業の業務提携に三菱重工業が加わって交渉が進んだ
    • [11]富士重工業の離脱後はいすゞ自動車との二社提携となり、トラック用エンジンの集中生産と乗用車のモデル統一を協議した
    • [12]三菱重工業がクライスラーと提携したことで、いすゞ自動車との関係は自然消滅した
    • [13]クライスラーとの提携話は白洲次郎が持ち込み、牧田与一郎副社長が社内には極秘のうちに交渉を進めた
    • [14]1969年3月に社長へ就任した牧田与一郎がデトロイトでクライスラーのタウンゼント会長・ボイド社長らと会談し、合弁会社設立の覚書に調印した
    • [15]覚書の骨子は三菱重工業65%・クライスラー35%の出資による合弁会社の設立と新車の共同開発
    • [16]覚書には三菱車の輸出、クライスラー車のノックダウン、クライスラー車の輸入販売も含まれていた
    • [20]当初は85対15から段階的にクライスラーの出資比率を上げる取り決めだったが、結局15%で終わった
    • [21]合衆国流通契約は国内と東南アジアを除く全世界の販売権をクライスラーに独占的に与えるものだった
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [17]1970年4月 三菱重工業の全額出資により三菱自動車工業を設立
    • [18]1970年6月 三菱重工業から京都製作所一部・名古屋自動車製作所・水島自動車製作所・他1製作所(計4製作所)を移管受け営業開始
    • [19]1971年 クライスラーが三菱自動車の株式15%を取得(資本提携成立)

1971年〜北米独占販売権が生んだ出血輸出と契約改訂の交渉

3000軒の看板の裏で最安値車だけを並べられる

クライスラーが独占販売権を求めた根拠は、全米に約3000軒の販売店を持ち、三菱が一から販売網を築けば莫大な費用がかかるという点にあった。ところが久保富夫が実態を調べると、力を入れて売っていたのは数百軒にすぎず、月に1台という店も少なくなかった。店頭に高級車から安価な車までを並べる米国の販売方式のもとで、最も安い三菱車は利幅が薄く販売店の力が入らない。車体にはCOLTとしか書かれず、大きな広告を打つ他の日本車のなかで三菱の名は埋没した。クライスラーは契約の定めを盾に、三菱が2ドア・4ドアを並べて生産しても安い2ドア車だけを選んで引き取り、三菱には拒む手立てがなかった。しかも引き取り値まで買いたたかれ、三菱が採算割れの輸出で赤字を積み上げる一方、大きな利益はクライスラーの側に落ちた。こうした関係を改め、米国で自社ブランドの車を自前で売る体制を築く必要がある。1978年の時点でも、久保はそう語っていた。

  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
    • [22]クライスラーが米国での独占販売権を要求した根拠は、全米に約3000軒の販売店を持ち、三菱が一から販売網を築けば莫大なコストがかかるという点にあった
    • [23]販売店3000軒のうち実際に力を入れて売っていたのは数百軒にすぎず、月に1台という店も少なくなかった
    • [24]米国の販売は店頭に高級車から安い車まで品揃えする方式で、最も安い三菱車は利幅が薄く販売店の力が入らなかった
    • [25]三菱車はクライスラーの多くの車種に埋没しCOLTとしか表示されず、他の日本車がブランド名を大きく宣伝するなかで判別できない状況だった
    • [26]三菱はコルトの2ドア・4ドアなど複数車種を生産していたが、クライスラーは2ドアの最も安い車だけを売ろうとし、契約上それを拒めなかった
    • [27]クライスラーの引き取り価格は大きく値切られ、三菱は出血輸出となって赤字が累増する一方、クライスラーは大きな利益をあげた
  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
    • [28]久保富夫社長は1978年時点で、北米・アフリカ・中米地区の独占販売権について契約を変更し米国で自社の車を売れるようにしたいと述べている
欧州の販売権を先に取り戻す

久保富夫が三菱自動車の社長に就任したのは1973年6月である。久保が崩したかったのは米国での独占販売権で、欧州はそのための突破口という位置づけだった。欧州ではクライスラーが三菱車を実際には売っていなかったため、契約全体を一度に覆す代わりに、まずその地域の販売権の回収から着手した。欧州とその他の地域の権利は戻ったが、米国の条項は動かせなかった。クライスラーへの警告は繰り返し行われた。自前の製品を販売して利益を得ることこそ本来の事業であり、他社製の車の販売で稼ぐ方へ力を注げばその事業自体が揺らぐ、という趣旨である。外資との提携について『非常に縛られるような提携はやめるべき』とも語った久保は、環境は絶えず変わるという前提から、10年20年50年先を見据えて独占でない契約を結ぶべきだと考えていた。

  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
    • [29]久保富夫は1973年6月に三菱自動車工業の社長へ就任した
    • [30]欧州の販売権奪還は、米国での独占販売権に風穴をあける突破口として位置づけられていた
    • [31]クライスラーが欧州市場で三菱車をまったく売っていなかったため、久保富夫はまず欧州の販売権を取り戻す交渉を行った
    • [32]欧州市場その他の地域の販売権は取り戻せたが、米国の独占販売権の改訂には至らなかった
    • [33]久保富夫はクライスラーへ独占販売権への固執を繰り返し諫めていた
    • [34]メーカーが自社製品を売って儲けるのが本業であるのに他社の車を売って儲けることに力を入れれば本業自体がおかしくなる、と久保富夫はクライスラーへ伝えていた
  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
    • [35]久保富夫は外資提携について非常に縛られるような提携はやめるべきだと述べた
    • [36]久保富夫は環境が絶えず変わるとして10年・20年・50年先を見た非独占的な契約を結ぶべきだと述べた
提携先の危機に乗じて契約を改める

契約が動いたのは、クライスラーが破産寸前の経営危機に陥ってからだった。1979年の危機で三菱車の米国販売は深い傷を負い、同年6月に社長となった曽根嘉年は、米国の販売網を立て直すことを第一の課題に据えた。豪州では、それに先立つ1979年5月、クライスラー・オーストラリアに三菱自動車と三菱商事が6分の1ずつ資本を入れていた。経営不安を抱えたクライスラーが1980年4月末にその肩代わりを頼んできたため、三菱は全株式を取得し、同年10月には社名を豪州三菱自動車工業に変えた。その間、解約通告を出すか否かで久保富夫は迷っていた。通告すれば相手に致命傷を与え、日米の経済摩擦を招くおそれがあったことから、当時の安倍通商産業大臣にも経緯を伝えていた。逆に通告が遅れれば、相手が破産したときに効力を失い、持ち株の行方も見通せなくなる。合衆国流通契約が改定されたのは1981年である。

  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
    • [37]米国の独占販売権を改めるには、クライスラーの経営危機を待たねばならなかった
    • [42]解約通告はクライスラーの経営危機に決定的な打撃となり日米経済摩擦の火種になりうるとして、久保富夫は当時の安倍通商産業大臣に事情を説明した
    • [43]破産の半年以上前に解約通告を出さなければ効力を失い、クライスラーが保有する三菱株の第三者移転も止められなかった
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱自動車工業 曽根嘉年」
    • [38]1979年の資本提携先クライスラーの経営危機は三菱車の米国販売に大きな支障を与え、1979年に社長就任した曽根嘉年にとって1980年は米国販売網の強化が最大の課題となった
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号
    • [39]1979年5月 三菱自工と三菱商事がクライスラー・オーストラリアに6分の1ずつ資本参加し役員と実務担当者を送り込んだ
    • [40]1980年4月末 米クライスラーからの肩代わり要請を受け三菱自工と三菱商事が全株式を譲り受けた
    • [41]1980年10月 クライスラー・オーストラリアを「豪州三菱自動車工業」へ社名変更
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [44]合衆国流通契約は1981年に改定
参考文献[22]-[44]
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
    • [22]クライスラーが米国での独占販売権を要求した根拠は、全米に約3000軒の販売店を持ち、三菱が一から販売網を築けば莫大なコストがかかるという点にあった
    • [23]販売店3000軒のうち実際に力を入れて売っていたのは数百軒にすぎず、月に1台という店も少なくなかった
    • [24]米国の販売は店頭に高級車から安い車まで品揃えする方式で、最も安い三菱車は利幅が薄く販売店の力が入らなかった
    • [25]三菱車はクライスラーの多くの車種に埋没しCOLTとしか表示されず、他の日本車がブランド名を大きく宣伝するなかで判別できない状況だった
    • [26]三菱はコルトの2ドア・4ドアなど複数車種を生産していたが、クライスラーは2ドアの最も安い車だけを売ろうとし、契約上それを拒めなかった
    • [27]クライスラーの引き取り価格は大きく値切られ、三菱は出血輸出となって赤字が累増する一方、クライスラーは大きな利益をあげた
    • [29]久保富夫は1973年6月に三菱自動車工業の社長へ就任した
    • [30]欧州の販売権奪還は、米国での独占販売権に風穴をあける突破口として位置づけられていた
    • [31]クライスラーが欧州市場で三菱車をまったく売っていなかったため、久保富夫はまず欧州の販売権を取り戻す交渉を行った
    • [32]欧州市場その他の地域の販売権は取り戻せたが、米国の独占販売権の改訂には至らなかった
    • [33]久保富夫はクライスラーへ独占販売権への固執を繰り返し諫めていた
    • [34]メーカーが自社製品を売って儲けるのが本業であるのに他社の車を売って儲けることに力を入れれば本業自体がおかしくなる、と久保富夫はクライスラーへ伝えていた
    • [37]米国の独占販売権を改めるには、クライスラーの経営危機を待たねばならなかった
    • [42]解約通告はクライスラーの経営危機に決定的な打撃となり日米経済摩擦の火種になりうるとして、久保富夫は当時の安倍通商産業大臣に事情を説明した
    • [43]破産の半年以上前に解約通告を出さなければ効力を失い、クライスラーが保有する三菱株の第三者移転も止められなかった
  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
    • [28]久保富夫社長は1978年時点で、北米・アフリカ・中米地区の独占販売権について契約を変更し米国で自社の車を売れるようにしたいと述べている
    • [35]久保富夫は外資提携について非常に縛られるような提携はやめるべきだと述べた
    • [36]久保富夫は環境が絶えず変わるとして10年・20年・50年先を見た非独占的な契約を結ぶべきだと述べた
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱自動車工業 曽根嘉年」
    • [38]1979年の資本提携先クライスラーの経営危機は三菱車の米国販売に大きな支障を与え、1979年に社長就任した曽根嘉年にとって1980年は米国販売網の強化が最大の課題となった
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号
    • [39]1979年5月 三菱自工と三菱商事がクライスラー・オーストラリアに6分の1ずつ資本参加し役員と実務担当者を送り込んだ
    • [40]1980年4月末 米クライスラーからの肩代わり要請を受け三菱自工と三菱商事が全株式を譲り受けた
    • [41]1980年10月 クライスラー・オーストラリアを「豪州三菱自動車工業」へ社名変更
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [44]合衆国流通契約は1981年に改定

1973年〜自動車一本への集中と東南アジアでの自力開拓

多角化を止めて車へ資源を寄せる

分離の際に背負った条件からして重く、航空機向けの設備を流用した工場は東京・名古屋・岡崎に分かれていたため、車種ごとの忙しさの差をならせず、間接費と運搬費が余計にかさんだ。高度成長期に採用を十分に行えなかったことから平均年齢は34.5歳まで上がり、一人当たりの賃金はほかの自動車メーカーと比べて際立って高かった。そこへ久保富夫の社長就任直後の石油ショックが重なって、三菱グループ内では"お荷物"扱いされ、社内の士気も落ちていた。同じころの三菱自動車は組立建築やプラスチックボートにまで参入して多角化を試みていたが、久保はそれを自動車への自信のなさの表れと受け止め、反対を押し切ってすぐにやめさせた。自動車部門の内部留保は重工側に残されたため、利益の出ない状態で借金経営から始めるほかなかった。

  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
    • [45]工場は航空機工場の流用で東京・名古屋・岡崎などに分散し、車種による繁閑を調整できず間接費・運搬費が多くかかっていた(久保富夫社長)
    • [46]高度成長期に十分成長せず若年層が少なく平均年齢34.5歳、1人当たり賃金が他の自動車メーカーに比べ極端に高かった
    • [50]重工からの分離に際し自動車部門にあった内部留保をみな重工に残したため、ゼロから出発して借金経営を続けた
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
    • [47]久保富夫の社長就任直後に石油ショックが重なり、三菱グループのなかでは「お荷物」といわれ社内は自信を失っていた
    • [48]三菱自動車は組立建築やプラスチックボートに手を出して多角化を図っていた
    • [49]久保富夫は多角化を自動車に自信がないからやっているとみて、投資が無駄になるとの反対論を押して直ちに中止させた
商品と販売チャンネルを再構築する

久保富夫がまず手を付けたのは開発である。設計出身の久保は担当常務も所長も設計者も手元に置いて自ら指揮し、平均値の車を作っても売れないと繰り返した。模型のできていたランサー・セレステを改良して1975年に発売し、翌1976年にギャラン2とギャランΛ、1978年にはFF小型車ミラージュを投入した。岡崎の工場用地は不振で着工できず地元から返還を求められていたが、ギャランの手応えを見て建設に踏み切り、1977年8月に名古屋自動車製作所岡崎工場を新設している。販売では、同じ店でギャランとミラージュを売っては効率が悪いとして、ギャラン系とは別にミラージュ専門のカープラザ網を立てた。三菱自動車販売の社長を兼務して両社の重複業務を一方へ統括し、人事交流も進めている。

  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
    • [51]設計出身の久保富夫は開発担当常務・所長・設計者を手元に置いて自ら指揮し、平均値の自動車を作っても売れないと毎日ハッパをかけた
    • [56]久保富夫は三菱自動車販売の社長を兼務して両社の同種業務を一方へ統括し、人事交流も進めてセクショナリズムを解消した
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
    • [52]模型ができていたランサー・セレステを改良して1975年に発売、1976年にギャラン2・ギャランΛ、1978年初にFF小型車ミラージュを市場へ投入した
    • [53]岡崎の工場用地は自動車の不振で着工できず地元から返還を求められていたが、久保富夫はギャランの手応えを見て工場建設に踏み切った
    • [55]同じ販売店でギャランとミラージュを売るのは効率が悪いとして、ギャラン系チャンネルとは別にミラージュ専門の「カープラザ」チャンネルを展開した
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [54]1977年8月 名古屋自動車製作所岡崎工場を新設
クライスラーの届かない市場を自力で取る

海外では、クライスラーの販売権が及ばない東南アジアで先に市場を獲得しにかかった。1970年に進出したインドネシアでは、トヨタと日産が圧倒的なシェアを占めていた。三菱は販売機種をトラックの小型・中型・大型各1つに絞り、全国へ販売とアフターサービスの拠点を置いた。1971年に日産を、1972年にトヨタを抜いて首位に立った。1973年8月には現地資本および三菱商事との共同出資で、三菱クラマユダ・モータース・アンド・マニュファクチュアリングを設立した。インドネシア政府が商業車の国産化を求めると、1978年にプレス部品の100%国産化を達成する。車全体の国産化比率は、他社の約18%に対し38%に達した。コルトは現地で乗り合いバスを指す普通名詞となり、累計販売は10万台を超えた。1979年には生産台数が100万台に達し、1982年にはパジェロを発売している。

  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
    • [57]東南アジアと欧州はクライスラーの販売網を通さない重点市場だった(久保富夫社長)
  • 日経ビジネス 1978年10月23日号
    • [58]1970年のインドネシア進出時はトヨタ・日産が圧倒的シェアを占めており三菱は出遅れていた
    • [59]三菱はトラックの小型・中型・大型各1機種に絞り、全国的な販売およびアフターサービス体制を築いた
    • [60]三菱は1971年に日産を、1972年にトヨタを追い抜いてインドネシアで首位に立った
    • [61]1973年8月 三菱クラマユダ・モータース・アンド・マニュファクチュアリングを設立(出資比率はクラマユダ社50%・三菱自動車工業25%・三菱商事25%)、1975年1月操業開始
    • [62]インドネシア政府の商業車国産化政策に対し1978年に小型トラックのプレス部品100%国産化を達成した
    • [63]車全体の国産化比率は他社が金額換算で約18%だったのに対し三菱は38%だった
    • [64]インドネシアで「コルト」は乗り合いバスを指す普通名詞となり、累計販売台数は10万台を超えた
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱自動車工業 曽根嘉年」
    • [65]1979年に全体生産台数が100万台の大台に乗った
  • 有価証券報告書
    • [66]1982年 SUV「パジェロ」を発売
参考文献[45]-[66]
  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
    • [45]工場は航空機工場の流用で東京・名古屋・岡崎などに分散し、車種による繁閑を調整できず間接費・運搬費が多くかかっていた(久保富夫社長)
    • [46]高度成長期に十分成長せず若年層が少なく平均年齢34.5歳、1人当たり賃金が他の自動車メーカーに比べ極端に高かった
    • [50]重工からの分離に際し自動車部門にあった内部留保をみな重工に残したため、ゼロから出発して借金経営を続けた
    • [51]設計出身の久保富夫は開発担当常務・所長・設計者を手元に置いて自ら指揮し、平均値の自動車を作っても売れないと毎日ハッパをかけた
    • [56]久保富夫は三菱自動車販売の社長を兼務して両社の同種業務を一方へ統括し、人事交流も進めてセクショナリズムを解消した
    • [57]東南アジアと欧州はクライスラーの販売網を通さない重点市場だった(久保富夫社長)
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
    • [47]久保富夫の社長就任直後に石油ショックが重なり、三菱グループのなかでは「お荷物」といわれ社内は自信を失っていた
    • [48]三菱自動車は組立建築やプラスチックボートに手を出して多角化を図っていた
    • [49]久保富夫は多角化を自動車に自信がないからやっているとみて、投資が無駄になるとの反対論を押して直ちに中止させた
    • [52]模型ができていたランサー・セレステを改良して1975年に発売、1976年にギャラン2・ギャランΛ、1978年初にFF小型車ミラージュを市場へ投入した
    • [53]岡崎の工場用地は自動車の不振で着工できず地元から返還を求められていたが、久保富夫はギャランの手応えを見て工場建設に踏み切った
    • [55]同じ販売店でギャランとミラージュを売るのは効率が悪いとして、ギャラン系チャンネルとは別にミラージュ専門の「カープラザ」チャンネルを展開した
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [54]1977年8月 名古屋自動車製作所岡崎工場を新設
  • 日経ビジネス 1978年10月23日号
    • [58]1970年のインドネシア進出時はトヨタ・日産が圧倒的シェアを占めており三菱は出遅れていた
    • [59]三菱はトラックの小型・中型・大型各1機種に絞り、全国的な販売およびアフターサービス体制を築いた
    • [60]三菱は1971年に日産を、1972年にトヨタを追い抜いてインドネシアで首位に立った
    • [61]1973年8月 三菱クラマユダ・モータース・アンド・マニュファクチュアリングを設立(出資比率はクラマユダ社50%・三菱自動車工業25%・三菱商事25%)、1975年1月操業開始
    • [62]インドネシア政府の商業車国産化政策に対し1978年に小型トラックのプレス部品100%国産化を達成した
    • [63]車全体の国産化比率は他社が金額換算で約18%だったのに対し三菱は38%だった
    • [64]インドネシアで「コルト」は乗り合いバスを指す普通名詞となり、累計販売台数は10万台を超えた
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱自動車工業 曽根嘉年」
    • [65]1979年に全体生産台数が100万台の大台に乗った
  • 有価証券報告書
    • [66]1982年 SUV「パジェロ」を発売

第2章 1983年〜 クライスラーとの合弁解消による資本自立と東証上場基本契約の廃棄による自立からRV依存の拡大路線へ

筆者考察y.sugiura, author

合弁の枠組みを解くのに、三菱自動車は3つの手を順に打った。1984年10月に三菱自動車販売の営業権を引き取って開発から販売までを一つの責任へ統合し、1985年4月には17年前の三菱重工業・クライスラー基本契約そのものを廃棄し、1988年12月に株式を公開する。三菱重工業の持株は85%から32.62%へ下がり、クライスラー出身の役員は6人から1人になった。1971年に借りた資本と販売網を、17年かけて返したことになる。合弁を解いた相手のクライスラーは、1989年に保有株の4割強を自らの設備資金のために手放した。

自立が与えた自由は、しかし規模の不足という古い問題をそのまま引き継いでいた。1991年度の国内シェアは10.5%、販売台数は世界10位。パジェロが作ったRV市場の独走は、その不足を埋めてくれるように見えた。三菱自動車は2000年に世界シェア5%を掲げて海外生産を4〜5年でほぼ倍増させたが、他社が乗用車の車台でRVを作り始めると独壇場は崩れ、国内シェアは1995年の11.9%から1997年に10.1%へ戻る。他社の過剰投資を横で見ていながら、4〜5年遅れて同じ道を歩いた。

売上高(連結) 1992年3月期〜1997年3月期(億円)

30,871 92.3 31,804 93.3 29,469 94.3 34,141 95.3 35,370 96.3 36,720 97.3
  • 売上は伸び続けたが、国内シェアは1995年の11.9%を頂に1997年には10.1%へ戻った。
  • 出所は会社年鑑。

1983年〜工販統合と基本契約廃棄による合弁会社からの脱皮

工販の責任のなすり合いを統合で断つ

国内販売が振るわない時期になると、自工は相手の販売力を、自販は相手の商品力をそれぞれ弱いと言い立て、互いに責任を押しつけ合ってきた。1983年6月末に社長となった舘豊夫は、最初の仕事として三菱自動車工業と、1964年に設けられた三菱自動車販売を一つにまとめることに取りかかった。開発・生産・販売・輸出・管理を同じ会社が通して担えば、責任の所在が一本になるというのが舘の考えである。クライスラーの持株比率が変わる合併を選べば、三菱重工業とクライスラーの基本契約に触れて手間取るため、自販の営業権を自工へ譲り渡す統合の形をとった。1984年1月、舘はロサンゼルスでアイアコッカ会長と会談して了承を得てから国内の根回しに移り、統合は同年10月に実施された。たたき台は第一線の社員十人ほどのプロジェクト・チームが作った。

  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「自工の生き残り戦略 舘豊夫」
    • [67]国内で車が売れないとき自工は「販売力が弱いから」、自販は「商品力が弱いから」と責任逃れをする悪弊があった
    • [68]舘豊夫は1983年6月末に三菱自動車工業の社長へ就任した
    • [69]舘豊夫が社長就任後まず着手したのは三菱自動車工業と三菱自動車販売(1964年設立)の一体化だった
    • [70]一体化により開発から生産・販売・輸出・管理まで一貫した責任体制を取ることが統合の狙いだった
    • [71]合併方式を避けたのはクライスラーの持株比率に影響が出て三菱重工業・クライスラーの基本契約に関連し時間がかかるためだった
    • [72]一体化は合併ではなく統合で、三菱自動車販売が営業権を三菱自動車工業へ譲渡する方法を取った
    • [73]1984年1月に舘豊夫がロサンゼルスでアイアコッカ会長と会談して統合の理解を得、国内の根回しを経て1984年10月に実施した
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [74]自工・自販の統合、米国の現地生産、株式上場はいずれも第一線の社員10人ほどで編成したプロジェクト・チームにたたき台を作らせた
17年前の基本契約を破棄させる

古い基本契約書を取り寄せてその場で破ったのはアイアコッカで、調印を済ませた直後のことだったと舘豊夫は書き残している。調印は1985年4月、アイアコッカ会長の来日に合わせて行われ、契約は2つあった。1つ目は、三菱重工業とクライスラーが17年前に交わした基本契約を廃するものだった。これにより、外に閉じた合弁会社の立場を少しずつ抜け出して株式を上場し、普通の公開会社になる道が開けた。もう1つは、折半の投資でイリノイ州に乗用車の組立工場を設ける契約である。建設資金は約6億ドル、年産は24万台という構想だった。1985年10月に設立されたダイヤモンド・スター・モーターズがこれにあたり、生産車はクライスラーの販売網と三菱独自チャンネルへ折半で配分される取り決めになっていた。同じ1985年、クライスラーは出資比率を15%から20%へ引き上げている。

  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「自工の生き残り戦略 舘豊夫」
    • [75]調印を終えるとアイアコッカ会長が分厚い古い基本契約書を取り寄せ、その場で破いた
    • [76]1985年4月 アイアコッカ会長の来日を機に三菱自動車工業とクライスラーは2つの新契約に調印した
    • [77]新契約の1つは17年前の三菱重工業・クライスラー基本契約を廃棄するもので、閉ざされた合弁会社から漸次脱皮し株式を上場して公開会社を指向する道を開いた
    • [78]もう1つの契約は米国イリノイ州に三菱自動車工業・クライスラー折半投資の乗用車組立工場を設立するもので、建設資金約6億ドル・設備能力年24万台の構想だった
    • [80]ダイヤモンド・スター・モーターズの生産車はクライスラーの販売チャンネルと三菱独自チャンネルへ折半で配分される取り決めだった
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [79]1985年10月 クライスラーとの合弁会社ダイヤモンド・スター・モーターズ・コーポレーションを米国に設立
  • 有価証券報告書
    • [81]1985年 クライスラーが三菱自動車への出資比率を15%から20%に引き上げ
株主構成を組み替えて上場にこぎつける

基本契約の廃棄は、株主構成の組み替えとして現れた。1987年3月末までに三菱重工業の持株はかつての85%から32.62%へ下がり、クライスラー20%、三菱商事10%、三菱銀行5%をはじめ株主数は118社を数えるに至る。経営の体裁も変えた。舘豊夫は本社の課制を廃してほぼ全社をグループ制へ移し、部長の下にグループ長を置く構造へ組み替えている。1986年度は売上台数が128万台、売上高が1兆5587億円だった。1ドル163円まで円高が進んで約1700億円の差損が生じたが、そのうち1600億円は採算の改善で吸収した。舘は、公募増資で自己資本比率が高まったことが、社外に閉じた会社という自己認識を脱するきっかけになったと述べている。上場を果たしたのは1988年12月で、東京・大阪・名古屋の各証券取引所の市場第一部に株式が並んだ。

  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「自工の生き残り戦略 舘豊夫」
    • [82]1987年3月末で三菱重工業の持株はかつての85%から32.62%へ減少し、クライスラー20%・三菱商事10%・三菱銀行5%をはじめ株主数は118社となった
    • [84]1986年度は売上台数128万台(国内51万台・輸出77万台)・売上高1兆5587億円。前年度平均1ドル230円に対し163円の円高による差損約1700億円のうち1600億円を採算改善ではね返した
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [83]舘豊夫は本社の課制を廃止し約90%をグループ制へ移行させ、部長の下にグループ長を置く体制へ組み替えた
    • [85]1988年12月の上場時の公募増資で自己資本比率を改善、「上場によって一人前になった」と舘豊夫会長
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [86]1988年12月 東京・大阪・名古屋各証券取引所の市場第一部に株式上場
参考文献[67]-[86]
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「自工の生き残り戦略 舘豊夫」
    • [67]国内で車が売れないとき自工は「販売力が弱いから」、自販は「商品力が弱いから」と責任逃れをする悪弊があった
    • [68]舘豊夫は1983年6月末に三菱自動車工業の社長へ就任した
    • [69]舘豊夫が社長就任後まず着手したのは三菱自動車工業と三菱自動車販売(1964年設立)の一体化だった
    • [70]一体化により開発から生産・販売・輸出・管理まで一貫した責任体制を取ることが統合の狙いだった
    • [71]合併方式を避けたのはクライスラーの持株比率に影響が出て三菱重工業・クライスラーの基本契約に関連し時間がかかるためだった
    • [72]一体化は合併ではなく統合で、三菱自動車販売が営業権を三菱自動車工業へ譲渡する方法を取った
    • [73]1984年1月に舘豊夫がロサンゼルスでアイアコッカ会長と会談して統合の理解を得、国内の根回しを経て1984年10月に実施した
    • [75]調印を終えるとアイアコッカ会長が分厚い古い基本契約書を取り寄せ、その場で破いた
    • [76]1985年4月 アイアコッカ会長の来日を機に三菱自動車工業とクライスラーは2つの新契約に調印した
    • [77]新契約の1つは17年前の三菱重工業・クライスラー基本契約を廃棄するもので、閉ざされた合弁会社から漸次脱皮し株式を上場して公開会社を指向する道を開いた
    • [78]もう1つの契約は米国イリノイ州に三菱自動車工業・クライスラー折半投資の乗用車組立工場を設立するもので、建設資金約6億ドル・設備能力年24万台の構想だった
    • [80]ダイヤモンド・スター・モーターズの生産車はクライスラーの販売チャンネルと三菱独自チャンネルへ折半で配分される取り決めだった
    • [82]1987年3月末で三菱重工業の持株はかつての85%から32.62%へ減少し、クライスラー20%・三菱商事10%・三菱銀行5%をはじめ株主数は118社となった
    • [84]1986年度は売上台数128万台(国内51万台・輸出77万台)・売上高1兆5587億円。前年度平均1ドル230円に対し163円の円高による差損約1700億円のうち1600億円を採算改善ではね返した
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [74]自工・自販の統合、米国の現地生産、株式上場はいずれも第一線の社員10人ほどで編成したプロジェクト・チームにたたき台を作らせた
    • [83]舘豊夫は本社の課制を廃止し約90%をグループ制へ移行させ、部長の下にグループ長を置く体制へ組み替えた
    • [85]1988年12月の上場時の公募増資で自己資本比率を改善、「上場によって一人前になった」と舘豊夫会長
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [79]1985年10月 クライスラーとの合弁会社ダイヤモンド・スター・モーターズ・コーポレーションを米国に設立
    • [86]1988年12月 東京・大阪・名古屋各証券取引所の市場第一部に株式上場
  • 有価証券報告書
    • [81]1985年 クライスラーが三菱自動車への出資比率を15%から20%に引き上げ

1989年〜クライスラーの株式売却とRVブームの絶頂

提携先に株を手放される

資本関係は、提携先の事情によって先に薄まった。1989年7月、クライスラーは将来の設備資金の確保を理由に保有株7500万株を売却し、持株比率は21.8%から12.1%へ下がった。市場の混乱を避けるため既存株主である金融機関25社が引き取り、金融機関の持株比率は18.8%から28%へ上がって株主構成は一般の上場企業並みになる。クライスラー出身の役員は多いときで6人いたが、上場を決めた際に2人へ減り、1989年6月の株主総会で非常勤の1人となった。舘豊夫は、経営面での干渉はすでになく実質的に対等だった関係が形の上でも対等になったと説明している。1991年には合弁で設立したダイヤモンド・スター・モーターズのクライスラー持分を取得し、完全子会社としている。

  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [87]1989年7月 クライスラーが保有する7500万株を売却し持株比率は21.8%から12.1%へ低下(設備資金確保が理由と説明)
    • [88]売却株は既存株主の金融機関25社が買い増して引き取り、金融機関の持株比率は18.8%から28%へ上昇
    • [89]クライスラー出身の役員は多い時で6人いたが上場を決めた際に2人となり、1989年6月末の株主総会で非常勤の1人になった
    • [90]舘豊夫会長は経営面での干渉はなく実質的なイコール・パートナーシップだったものが形の上でもそうなったと説明
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [91]1991年 クライスラーの全持ち株を買い取りダイヤモンド・スター・モーターズを100%子会社化
パジェロで開拓した市場を独走する

1989年6月に社長へ就任した中村裕一は、三菱重工業と三菱自動車で一貫してエンジン開発に携わった技術者である。危なげな開発に金を使うのかという社内の反対を押し、3人のチームで4気筒エンジンの振動音を抑えるサイレントシャフトを開発した。1975年に実用化すると、サーブ・ボルボ・ポルシェが相次いでこの技術の導入を求めてきた。中村のもとで三菱自動車はRVブームの波に乗る。1991年度、同社のRVは販売を7割近く伸ばし、翌年にも3割の上積みが見込まれた。この追い風を最も大きく受け止めたのは販売会社だった。販社全体の1991年度の経常利益は610億円で、トヨタ系に続く2位につけ、売上高経常利益率は3%に届いた。三菱重工業時代にさかのぼれば自社のRVには半世紀以上の蓄積があり、それを拠り所に、中村はこの分野での首位は当分動かないと判断していた。

  • 日経ビジネス 1990年1月15日号
    • [92]中村裕一は三菱重工業・三菱自動車工業で一貫して自動車エンジンの開発に携わり、1989年6月に社長へ就任した
    • [93]中村裕一はエンジン設計課長時代に「危なげな開発に金を使うのか」という社内の反対のなか3人のチームでサイレントシャフトを開発した
    • [94]サイレントシャフトは1975年に実用化され、スウェーデンのサーブ・ボルボと西ドイツのポルシェが相次いでこの技術を買いに来た
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [95]1991年度に三菱のRVは70%弱伸び、1992年もさらに30%の伸びを見込むと中村裕一社長
    • [96]1991年度の三菱系販売会社全体の経常利益610億円はトヨタ系に次ぐ第2位、売上高経常利益率3%
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [97]中村裕一社長は自社のRVが三菱重工業から半世紀を軽く超える歴史を持つとし、業界首位の立場はしばらく揺るがないと語った
規模の不足を欧州で埋めにいく

好調のさなかでも、規模の不足は経営陣の共通認識だった。1991年度の軽を含む国内シェアは10.5%、販売台数は国内3位・世界10位にとどまり、国際競争に生き残るには足りないと中村裕一は述べている。中村は1991年の9月と10月の2か月だけで5回渡欧し、提携先のスウェーデン・ボルボを訪ねた。好調といっても絶対値が小さいので、いい時に飛躍しなければならないという危機感を口にしている。欧州進出は前任の舘豊夫の代から複数社と検討が続き、日本各社がこぞって選んだ英国には手を付けず大陸を見るという方針が取られていた。ダイムラー・ベンツのスペイン工場でデリカを現地生産する案は、採算が得られず見送られている。

  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [98]1991年度の軽を含む国内シェアは10.5%、販売台数は国内3位・世界10位で、規模が足りないと中村裕一社長
  • DECIDE 1991年12月号
    • [99]中村裕一社長は1991年9月・10月の2か月間に5回ヨーロッパへ出張し、提携先のスウェーデン・ボルボを訪ねた
    • [100]中村裕一社長は好調でも絶対値が小さいとして、いい時に飛躍しなければならないと述べた
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [101]舘豊夫会長は欧州進出について数社とスタディを進めており、日本メーカーが集中した英国はノータッチで大陸を見る方針だと述べた
    • [102]ダイムラー・ベンツのスペイン工場でデリカを現地生産する事業は前年まで検討したが採算が得られず見送られた
参考文献[87]-[102]
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
    • [87]1989年7月 クライスラーが保有する7500万株を売却し持株比率は21.8%から12.1%へ低下(設備資金確保が理由と説明)
    • [88]売却株は既存株主の金融機関25社が買い増して引き取り、金融機関の持株比率は18.8%から28%へ上昇
    • [89]クライスラー出身の役員は多い時で6人いたが上場を決めた際に2人となり、1989年6月末の株主総会で非常勤の1人になった
    • [90]舘豊夫会長は経営面での干渉はなく実質的なイコール・パートナーシップだったものが形の上でもそうなったと説明
    • [101]舘豊夫会長は欧州進出について数社とスタディを進めており、日本メーカーが集中した英国はノータッチで大陸を見る方針だと述べた
    • [102]ダイムラー・ベンツのスペイン工場でデリカを現地生産する事業は前年まで検討したが採算が得られず見送られた
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
    • [91]1991年 クライスラーの全持ち株を買い取りダイヤモンド・スター・モーターズを100%子会社化
    • [95]1991年度に三菱のRVは70%弱伸び、1992年もさらに30%の伸びを見込むと中村裕一社長
    • [96]1991年度の三菱系販売会社全体の経常利益610億円はトヨタ系に次ぐ第2位、売上高経常利益率3%
    • [98]1991年度の軽を含む国内シェアは10.5%、販売台数は国内3位・世界10位で、規模が足りないと中村裕一社長
  • 日経ビジネス 1990年1月15日号
    • [92]中村裕一は三菱重工業・三菱自動車工業で一貫して自動車エンジンの開発に携わり、1989年6月に社長へ就任した
    • [93]中村裕一はエンジン設計課長時代に「危なげな開発に金を使うのか」という社内の反対のなか3人のチームでサイレントシャフトを開発した
    • [94]サイレントシャフトは1975年に実用化され、スウェーデンのサーブ・ボルボと西ドイツのポルシェが相次いでこの技術を買いに来た
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [97]中村裕一社長は自社のRVが三菱重工業から半世紀を軽く超える歴史を持つとし、業界首位の立場はしばらく揺るがないと語った
  • DECIDE 1991年12月号
    • [99]中村裕一社長は1991年9月・10月の2か月間に5回ヨーロッパへ出張し、提携先のスウェーデン・ボルボを訪ねた
    • [100]中村裕一社長は好調でも絶対値が小さいとして、いい時に飛躍しなければならないと述べた

1994年〜G作戦の拡大投資とRV独占の崩壊

2000年の世界シェア5%へ投資を張る

1994年から1997年にかけて、三菱自動車は2000年に国内シェア15%・世界シェア5%を目指すG作戦を推し進めた。米国・タイ・マレーシア・オランダなどの現地工場と合弁会社で、1996年までの4〜5年間に生産実績をほぼ倍増させている。1995年7月にはダイヤモンド・スター・モーターズを、ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカへ改称した。1997年8月にはタイのエムエムシー・シティポールの株式の過半数を取得している。ただしこの拡大には土台がなかった。1980年代後半からの新工場建設競争で他社が痛手を負ったとき、三菱自動車だけが過剰投資を免れた。だがそれは需要の減退を読んだからではなく、十分な資金がなく建てたくても建てられなかった結果にすぎない。他社に4〜5年遅れて、同じ道を歩くことになった。

  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [103]三菱自動車工業は2000年に国内シェア15%・世界シェア5%を目指す「G作戦」を推し進めた
    • [104]米国・タイ・マレーシア・オランダなどの現地工場や合弁会社で、1996年までの4〜5年間に生産実績をほぼ倍増させた
    • [107]1980年代後半から1990年代初めの新工場建設競争で他社が痛手を負うなか、三菱自動車工業だけが新工場建設を見送り過剰投資を免れた
    • [108]新工場を建設しなかったのは経営戦略ではなく、当時十分な資金がなくしたくてもできなかった結果だった
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [105]1995年7月 ダイヤモンド・スター・モーターズを「ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカ」へ社名変更
    • [106]1997年8月 タイのエムエムシー・シティポールの株式の過半数を取得
開拓した市場を乗用車ベースのRVに奪われる

ライバル各社はセダン系の乗用車に手を加えたRVを相次いで出し、同社の独占は崩れていった。その代表が本田技研工業のオデッセイで、既存車種の車台を使った乗用車ベースのRVとして1994年10月に登場し、1995年に12万5559台を販売した。これに対抗するシャリオグランディスを三菱自動車が投入したのは、3年遅れの1997年10月だった。同社の国内シェアは1995年の11.9%を頂点に1997年には10.1%まで下がり、1991年の水準に逆戻りした。開発の責任者だった遠山智常務は、河原や山道にまで分け入れる四輪駆動車こそがRVだという作り手の思い込みから脱せなかったと認めた。1995年6月に社長へ就任した塚原董久は、国内需要の伸びを微増と見て、他社からのシェア奪取を前提とする中期計画に自信を見せていた。

  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [109]ライバル各社がセダン系の乗用車を手直ししたRVを市場に投入すると三菱自動車工業の独壇場は崩れた
    • [110]本田技研工業が1994年10月に投入したオデッセイは主力車種アコードからの車台転用で、1995年に12万5559台を記録した
    • [111]三菱自動車工業はオデッセイ発売から3年遅れの1997年10月に対抗車種シャリオグランディスを発売した
    • [112]1995年に11.9%まで高まった国内シェアは1997年には10.1%と1991年と同じ水準まで低下した
    • [113]開発を統括する遠山智常務は、河原や山の中まで入っていける四輪駆動こそRVというメーカー主導の考えから離れられなかったと認めた
  • 日経ビジネス 1995年11月20日号
    • [114]1995年6月に社長就任した塚原董久は国内需要の伸びを微増とみたうえで、他社のシェア奪取を前提にした中期計画の達成に自信を見せた
相次ぐ社長交代のなかで赤字へ落ちる

1996年度に経常最高益を記録した三菱自動車は、翌1997年度に一転する。国内販売は当初見込みの86万台を23万台下回る63万台弱にとどまった。1998年3月期の連結売上高は3兆7352億円と前期を上回りながら、連結最終損益は1100億円と上場以来初めての赤字に転じる。商法違反を機に企業イメージが傷ついたことも加わり、社長は3年間で3回入れ替わった。1997年11月に社長となった河添克彦は常務からの昇格で、年次が上の役員13人を追い越しての就任だった。河添は振り返って、何を売るのかという方針が定まっていなかったことを認め、作った車は販売側が黙ってさばけばいいという独りよがりな空気が技術陣を覆っていたとも語った。技術に偏り、身の丈を超えて広げたことの代償は、その後10年にわたる資本の組み替えにまで及ぶことになる。

  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [115]三菱自動車工業は1996年度に経常最高益を記録した
    • [116]1997年度の国内販売は当初見込みの86万台を23万台下回る63万台弱に低迷した
    • [118]1998年3月期の連結最終損益は1100億円の赤字で、上場以来初めての赤字転落だった
    • [119]商法違反に端を発した企業イメージの低下と業績の急降下のなか、3年間に3回の社長交代が起きた
    • [120]1997年11月 先輩役員13人を抜いて常務から河添克彦が社長へ就任
    • [121]河添克彦社長は当社に商品戦略と呼べるものはなかったと述べた
    • [122]河添克彦社長は、技術陣に自分たちが作ったクルマを販売が黙って売っていればいいという独善的な雰囲気が蔓延していたと述べた
  • 会社年鑑
    • [117]1998年3月期の連結売上高は3兆7352億円
参考文献[103]-[122]
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
    • [103]三菱自動車工業は2000年に国内シェア15%・世界シェア5%を目指す「G作戦」を推し進めた
    • [104]米国・タイ・マレーシア・オランダなどの現地工場や合弁会社で、1996年までの4〜5年間に生産実績をほぼ倍増させた
    • [107]1980年代後半から1990年代初めの新工場建設競争で他社が痛手を負うなか、三菱自動車工業だけが新工場建設を見送り過剰投資を免れた
    • [108]新工場を建設しなかったのは経営戦略ではなく、当時十分な資金がなくしたくてもできなかった結果だった
    • [109]ライバル各社がセダン系の乗用車を手直ししたRVを市場に投入すると三菱自動車工業の独壇場は崩れた
    • [110]本田技研工業が1994年10月に投入したオデッセイは主力車種アコードからの車台転用で、1995年に12万5559台を記録した
    • [111]三菱自動車工業はオデッセイ発売から3年遅れの1997年10月に対抗車種シャリオグランディスを発売した
    • [112]1995年に11.9%まで高まった国内シェアは1997年には10.1%と1991年と同じ水準まで低下した
    • [113]開発を統括する遠山智常務は、河原や山の中まで入っていける四輪駆動こそRVというメーカー主導の考えから離れられなかったと認めた
    • [115]三菱自動車工業は1996年度に経常最高益を記録した
    • [116]1997年度の国内販売は当初見込みの86万台を23万台下回る63万台弱に低迷した
    • [118]1998年3月期の連結最終損益は1100億円の赤字で、上場以来初めての赤字転落だった
    • [119]商法違反に端を発した企業イメージの低下と業績の急降下のなか、3年間に3回の社長交代が起きた
    • [120]1997年11月 先輩役員13人を抜いて常務から河添克彦が社長へ就任
    • [121]河添克彦社長は当社に商品戦略と呼べるものはなかったと述べた
    • [122]河添克彦社長は、技術陣に自分たちが作ったクルマを販売が黙って売っていればいいという独善的な雰囲気が蔓延していたと述べた
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
    • [105]1995年7月 ダイヤモンド・スター・モーターズを「ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカ」へ社名変更
    • [106]1997年8月 タイのエムエムシー・シティポールの株式の過半数を取得
  • 日経ビジネス 1995年11月20日号
    • [114]1995年6月に社長就任した塚原董久は国内需要の伸びを微増とみたうえで、他社のシェア奪取を前提にした中期計画の達成に自信を見せた
  • 会社年鑑
    • [117]1998年3月期の連結売上高は3兆7352億円

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出典・参考 16件
出典・参考
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書 第56期(2025年3月期)【沿革】
  • 有価証券報告書
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1978年7月31日号
  • 日経ビジネス 1978年10月23日号
  • 日経ビジネス 1980年8月25日号
  • 日経ビジネス 1989年11月6日号
  • 日経ビジネス 1990年1月15日号
  • DECIDE 1991年12月号
  • 日経ビジネス 1992年7月27日号
  • 日経ビジネス 1995年11月20日号
  • 日経ビジネス 1998年4月27日号
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「国民車構想に乗る 守屋學治」
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「クライスラーとの提携秘話 久保富夫」
  • 私の三菱昭和史(日本経済新聞社、1987年)8章「自工の生き残り戦略 舘豊夫」
  • 80年代わが社の戦略(1980年)「三菱自動車工業 曽根嘉年」

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