1970年に三菱重工業が全額出資で設立し、自動車部門を譲り渡した三菱自動車工業が起源。
1982年にSUV「パジェロ」を発売し、現在はアウトランダーPHEVやトライトンを世界6拠点で生産する。2016年からルノー・日産アライアンスに加わり、東南アジアとオセアニアを海外販売の主軸とする。
この会社は、作る力ではなく売る場所を持たないまま独立した。三菱重工業は戦前に乗用車を手がけた草分けでありながら、1960年の三菱500も、続くコルト1000もトヨタ・日産の牙城に届かなかった。足りなかったのは技術よりも販売網であり、その不足を一挙に埋める手として選ばれたのが、全米に約3000軒の販売店を持つクライスラーとの提携だった。だが借りた販売網は、借りた側の商品を進んで並べてはくれない。北米の独占販売権を渡した見返りに、三菱車は最も安い2ドア車としてCOLTの名だけで店頭に置かれ、売れば売るほど利幅が相手へ移る構造に10年以上縛られることになった。
久保富夫が1973年に社長として持ち込んだのは、その構造の外側へ自前の出口を作る作業だった。組立建築やプラスチックボートといった多角化を止めて資源を車一本へ寄せ、ギャランとミラージュで商品を立て、ギャラン系とは別にカープラザの販売チャンネルを引いた。海外では、クライスラーの手が及ばない東南アジアと豪州から先に地面を取り、インドネシアではトラック3機種に絞って1972年にトヨタを抜いている。米国の契約が改まるのは1981年、提携先が経営危機に陥ってからである。自立は交渉で勝ち取ったというより、相手の弱りを待って手に入った。
三菱重工業が乗用車市場へ本格的に踏み出したのは1960年4月、通商産業省の国民車構想に沿って小型乗用車"三菱500"を発売したときである。当時自動車部長だった守屋學治によれば、三輪車や360CCクラスでは一人前の自動車屋といえないという声が社内にあった。開発の対象は、トヨタ・日産の手がける2000CCクラスと軽自動車の中間に置かれた。ただし360CC以下を軽として自動車税で優遇する当時の税制のもとで、500CCはその枠外にあった。翌1961年にコルト600、続いてコルト1000と上位車種を重ねた。だが久保富夫はトヨタのカローラを競争相手ながら進んだ車と認め、太刀打ちできなかったと振り返っている。1946年のスクーター生産から10年をかけて代理店を増やしてきたが、有力な販売網を作れなかったことが響いた。
シェアが伸びないまま資本自由化の日程が具体化し、米ビッグスリーの上陸が取り沙汰されるようになる。通商産業省はトヨタ・日産を軸とする自動車産業の集約化構想を打ち出し、三菱重工業は業務提携でこれに応じた。1966年12月にいすゞ自動車と富士重工業が結んだ提携へ加わって交渉が進んだ。富士重工業の離脱後はいすゞ自動車との二社提携となり、トラック用エンジンの集中生産と乗用車のモデル統一にまで及んでいる。いすゞとの関係が立ち消えになったのは、重工がクライスラーを提携相手に選んだためである。その話は白洲次郎が持ち込んだもので、副社長の牧田与一郎が応じ、社内には伏せたまま並行して交渉が進められていた。社長の河野文彦は国内での協調を、牧田は外資との提携を志向しており、自動車事業部長だった久保富夫は何も知らされないまま両者の間に立たされた。久保はその立場を『ハムレットの心境だった』と述べている。
1969年3月に社長へ就任した牧田与一郎はデトロイトでクライスラーのタウンゼント会長らと会談し、合弁会社設立の覚書に調印した。骨子は、三菱重工業65%・クライスラー35%の出資による合弁会社の設立と新車の共同開発である。三菱車の輸出、クライスラー車のノックダウンと輸入販売も含む広範な内容だった。1970年4月、三菱重工業の全額出資で三菱自動車工業が設立された。同年6月に京都製作所の一部・名古屋自動車製作所・水島自動車製作所など計4製作所を譲り受けて営業を開始する。1971年にクライスラーが株式15%を取得して資本提携が成立する。段階的に出資比率を上げる当初案は結局15%で止まった。同時に結ばれた合衆国流通契約は、国内と東南アジアを除く全世界の販売権をクライスラーに独占的に与えるものだった。
クライスラーが独占販売権を求めた根拠は、全米に約3000軒の販売店を持ち、三菱が一から販売網を築けば莫大な費用がかかるという点にあった。ところが久保富夫が実態を調べると、力を入れて売っていたのは数百軒にすぎず、月に1台という店も少なくなかった。店頭に高級車から安価な車までを並べる米国の販売方式のもとで、最も安い三菱車は利幅が薄く販売店の力が入らない。車体にはCOLTとしか書かれず、大きな広告を打つ他の日本車のなかで三菱の名は埋没した。クライスラーは契約の定めを盾に、三菱が2ドア・4ドアを並べて生産しても安い2ドア車だけを選んで引き取り、三菱には拒む手立てがなかった。しかも引き取り値まで買いたたかれ、三菱が採算割れの輸出で赤字を積み上げる一方、大きな利益はクライスラーの側に落ちた。こうした関係を改め、米国で自社ブランドの車を自前で売る体制を築く必要がある。1978年の時点でも、久保はそう語っていた。
久保富夫が三菱自動車の社長に就任したのは1973年6月である。久保が崩したかったのは米国での独占販売権で、欧州はそのための突破口という位置づけだった。欧州ではクライスラーが三菱車を実際には売っていなかったため、契約全体を一度に覆す代わりに、まずその地域の販売権の回収から着手した。欧州とその他の地域の権利は戻ったが、米国の条項は動かせなかった。クライスラーへの警告は繰り返し行われた。自前の製品を販売して利益を得ることこそ本来の事業であり、他社製の車の販売で稼ぐ方へ力を注げばその事業自体が揺らぐ、という趣旨である。外資との提携について『非常に縛られるような提携はやめるべき』とも語った久保は、環境は絶えず変わるという前提から、10年20年50年先を見据えて独占でない契約を結ぶべきだと考えていた。
契約が動いたのは、クライスラーが破産寸前の経営危機に陥ってからだった。1979年の危機で三菱車の米国販売は深い傷を負い、同年6月に社長となった曽根嘉年は、米国の販売網を立て直すことを第一の課題に据えた。豪州では、それに先立つ1979年5月、クライスラー・オーストラリアに三菱自動車と三菱商事が6分の1ずつ資本を入れていた。経営不安を抱えたクライスラーが1980年4月末にその肩代わりを頼んできたため、三菱は全株式を取得し、同年10月には社名を豪州三菱自動車工業に変えた。その間、解約通告を出すか否かで久保富夫は迷っていた。通告すれば相手に致命傷を与え、日米の経済摩擦を招くおそれがあったことから、当時の安倍通商産業大臣にも経緯を伝えていた。逆に通告が遅れれば、相手が破産したときに効力を失い、持ち株の行方も見通せなくなる。合衆国流通契約が改定されたのは1981年である。
分離の際に背負った条件からして重く、航空機向けの設備を流用した工場は東京・名古屋・岡崎に分かれていたため、車種ごとの忙しさの差をならせず、間接費と運搬費が余計にかさんだ。高度成長期に採用を十分に行えなかったことから平均年齢は34.5歳まで上がり、一人当たりの賃金はほかの自動車メーカーと比べて際立って高かった。そこへ久保富夫の社長就任直後の石油ショックが重なって、三菱グループ内では"お荷物"扱いされ、社内の士気も落ちていた。同じころの三菱自動車は組立建築やプラスチックボートにまで参入して多角化を試みていたが、久保はそれを自動車への自信のなさの表れと受け止め、反対を押し切ってすぐにやめさせた。自動車部門の内部留保は重工側に残されたため、利益の出ない状態で借金経営から始めるほかなかった。
久保富夫がまず手を付けたのは開発である。設計出身の久保は担当常務も所長も設計者も手元に置いて自ら指揮し、平均値の車を作っても売れないと繰り返した。模型のできていたランサー・セレステを改良して1975年に発売し、翌1976年にギャラン2とギャランΛ、1978年にはFF小型車ミラージュを投入した。岡崎の工場用地は不振で着工できず地元から返還を求められていたが、ギャランの手応えを見て建設に踏み切り、1977年8月に名古屋自動車製作所岡崎工場を新設している。販売では、同じ店でギャランとミラージュを売っては効率が悪いとして、ギャラン系とは別にミラージュ専門のカープラザ網を立てた。三菱自動車販売の社長を兼務して両社の重複業務を一方へ統括し、人事交流も進めている。
海外では、クライスラーの販売権が及ばない東南アジアで先に市場を獲得しにかかった。1970年に進出したインドネシアでは、トヨタと日産が圧倒的なシェアを占めていた。三菱は販売機種をトラックの小型・中型・大型各1つに絞り、全国へ販売とアフターサービスの拠点を置いた。1971年に日産を、1972年にトヨタを抜いて首位に立った。1973年8月には現地資本および三菱商事との共同出資で、三菱クラマユダ・モータース・アンド・マニュファクチュアリングを設立した。インドネシア政府が商業車の国産化を求めると、1978年にプレス部品の100%国産化を達成する。車全体の国産化比率は、他社の約18%に対し38%に達した。コルトは現地で乗り合いバスを指す普通名詞となり、累計販売は10万台を超えた。1979年には生産台数が100万台に達し、1982年にはパジェロを発売している。
合弁の枠組みを解くのに、三菱自動車は3つの手を順に打った。1984年10月に三菱自動車販売の営業権を引き取って開発から販売までを一つの責任へ統合し、1985年4月には17年前の三菱重工業・クライスラー基本契約そのものを廃棄し、1988年12月に株式を公開する。三菱重工業の持株は85%から32.62%へ下がり、クライスラー出身の役員は6人から1人になった。1971年に借りた資本と販売網を、17年かけて返したことになる。合弁を解いた相手のクライスラーは、1989年に保有株の4割強を自らの設備資金のために手放した。
自立が与えた自由は、しかし規模の不足という古い問題をそのまま引き継いでいた。1991年度の国内シェアは10.5%、販売台数は世界10位。パジェロが作ったRV市場の独走は、その不足を埋めてくれるように見えた。三菱自動車は2000年に世界シェア5%を掲げて海外生産を4〜5年でほぼ倍増させたが、他社が乗用車の車台でRVを作り始めると独壇場は崩れ、国内シェアは1995年の11.9%から1997年に10.1%へ戻る。他社の過剰投資を横で見ていながら、4〜5年遅れて同じ道を歩いた。
国内販売が振るわない時期になると、自工は相手の販売力を、自販は相手の商品力をそれぞれ弱いと言い立て、互いに責任を押しつけ合ってきた。1983年6月末に社長となった舘豊夫は、最初の仕事として三菱自動車工業と、1964年に設けられた三菱自動車販売を一つにまとめることに取りかかった。開発・生産・販売・輸出・管理を同じ会社が通して担えば、責任の所在が一本になるというのが舘の考えである。クライスラーの持株比率が変わる合併を選べば、三菱重工業とクライスラーの基本契約に触れて手間取るため、自販の営業権を自工へ譲り渡す統合の形をとった。1984年1月、舘はロサンゼルスでアイアコッカ会長と会談して了承を得てから国内の根回しに移り、統合は同年10月に実施された。たたき台は第一線の社員十人ほどのプロジェクト・チームが作った。
古い基本契約書を取り寄せてその場で破ったのはアイアコッカで、調印を済ませた直後のことだったと舘豊夫は書き残している。調印は1985年4月、アイアコッカ会長の来日に合わせて行われ、契約は2つあった。1つ目は、三菱重工業とクライスラーが17年前に交わした基本契約を廃するものだった。これにより、外に閉じた合弁会社の立場を少しずつ抜け出して株式を上場し、普通の公開会社になる道が開けた。もう1つは、折半の投資でイリノイ州に乗用車の組立工場を設ける契約である。建設資金は約6億ドル、年産は24万台という構想だった。1985年10月に設立されたダイヤモンド・スター・モーターズがこれにあたり、生産車はクライスラーの販売網と三菱独自チャンネルへ折半で配分される取り決めになっていた。同じ1985年、クライスラーは出資比率を15%から20%へ引き上げている。
基本契約の廃棄は、株主構成の組み替えとして現れた。1987年3月末までに三菱重工業の持株はかつての85%から32.62%へ下がり、クライスラー20%、三菱商事10%、三菱銀行5%をはじめ株主数は118社を数えるに至る。経営の体裁も変えた。舘豊夫は本社の課制を廃してほぼ全社をグループ制へ移し、部長の下にグループ長を置く構造へ組み替えている。1986年度は売上台数が128万台、売上高が1兆5587億円だった。1ドル163円まで円高が進んで約1700億円の差損が生じたが、そのうち1600億円は採算の改善で吸収した。舘は、公募増資で自己資本比率が高まったことが、社外に閉じた会社という自己認識を脱するきっかけになったと述べている。上場を果たしたのは1988年12月で、東京・大阪・名古屋の各証券取引所の市場第一部に株式が並んだ。
資本関係は、提携先の事情によって先に薄まった。1989年7月、クライスラーは将来の設備資金の確保を理由に保有株7500万株を売却し、持株比率は21.8%から12.1%へ下がった。市場の混乱を避けるため既存株主である金融機関25社が引き取り、金融機関の持株比率は18.8%から28%へ上がって株主構成は一般の上場企業並みになる。クライスラー出身の役員は多いときで6人いたが、上場を決めた際に2人へ減り、1989年6月の株主総会で非常勤の1人となった。舘豊夫は、経営面での干渉はすでになく実質的に対等だった関係が形の上でも対等になったと説明している。1991年には合弁で設立したダイヤモンド・スター・モーターズのクライスラー持分を取得し、完全子会社としている。
1989年6月に社長へ就任した中村裕一は、三菱重工業と三菱自動車で一貫してエンジン開発に携わった技術者である。危なげな開発に金を使うのかという社内の反対を押し、3人のチームで4気筒エンジンの振動音を抑えるサイレントシャフトを開発した。1975年に実用化すると、サーブ・ボルボ・ポルシェが相次いでこの技術の導入を求めてきた。中村のもとで三菱自動車はRVブームの波に乗る。1991年度、同社のRVは販売を7割近く伸ばし、翌年にも3割の上積みが見込まれた。この追い風を最も大きく受け止めたのは販売会社だった。販社全体の1991年度の経常利益は610億円で、トヨタ系に続く2位につけ、売上高経常利益率は3%に届いた。三菱重工業時代にさかのぼれば自社のRVには半世紀以上の蓄積があり、それを拠り所に、中村はこの分野での首位は当分動かないと判断していた。
好調のさなかでも、規模の不足は経営陣の共通認識だった。1991年度の軽を含む国内シェアは10.5%、販売台数は国内3位・世界10位にとどまり、国際競争に生き残るには足りないと中村裕一は述べている。中村は1991年の9月と10月の2か月だけで5回渡欧し、提携先のスウェーデン・ボルボを訪ねた。好調といっても絶対値が小さいので、いい時に飛躍しなければならないという危機感を口にしている。欧州進出は前任の舘豊夫の代から複数社と検討が続き、日本各社がこぞって選んだ英国には手を付けず大陸を見るという方針が取られていた。ダイムラー・ベンツのスペイン工場でデリカを現地生産する案は、採算が得られず見送られている。
1994年から1997年にかけて、三菱自動車は2000年に国内シェア15%・世界シェア5%を目指すG作戦を推し進めた。米国・タイ・マレーシア・オランダなどの現地工場と合弁会社で、1996年までの4〜5年間に生産実績をほぼ倍増させている。1995年7月にはダイヤモンド・スター・モーターズを、ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカへ改称した。1997年8月にはタイのエムエムシー・シティポールの株式の過半数を取得している。ただしこの拡大には土台がなかった。1980年代後半からの新工場建設競争で他社が痛手を負ったとき、三菱自動車だけが過剰投資を免れた。だがそれは需要の減退を読んだからではなく、十分な資金がなく建てたくても建てられなかった結果にすぎない。他社に4〜5年遅れて、同じ道を歩くことになった。
ライバル各社はセダン系の乗用車に手を加えたRVを相次いで出し、同社の独占は崩れていった。その代表が本田技研工業のオデッセイで、既存車種の車台を使った乗用車ベースのRVとして1994年10月に登場し、1995年に12万5559台を販売した。これに対抗するシャリオグランディスを三菱自動車が投入したのは、3年遅れの1997年10月だった。同社の国内シェアは1995年の11.9%を頂点に1997年には10.1%まで下がり、1991年の水準に逆戻りした。開発の責任者だった遠山智常務は、河原や山道にまで分け入れる四輪駆動車こそがRVだという作り手の思い込みから脱せなかったと認めた。1995年6月に社長へ就任した塚原董久は、国内需要の伸びを微増と見て、他社からのシェア奪取を前提とする中期計画に自信を見せていた。
1996年度に経常最高益を記録した三菱自動車は、翌1997年度に一転する。国内販売は当初見込みの86万台を23万台下回る63万台弱にとどまった。1998年3月期の連結売上高は3兆7352億円と前期を上回りながら、連結最終損益は1100億円と上場以来初めての赤字に転じる。商法違反を機に企業イメージが傷ついたことも加わり、社長は3年間で3回入れ替わった。1997年11月に社長となった河添克彦は常務からの昇格で、年次が上の役員13人を追い越しての就任だった。河添は振り返って、何を売るのかという方針が定まっていなかったことを認め、作った車は販売側が黙ってさばけばいいという独りよがりな空気が技術陣を覆っていたとも語った。技術に偏り、身の丈を超えて広げたことの代償は、その後10年にわたる資本の組み替えにまで及ぶことになる。
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事実根拠:出所(三菱自動車)