重要な意思決定
19704月

三菱自動車株式会社を設立

背景

三菱重工の自動車事業拡大とクライスラーの日本進出

1960年代後半、三菱重工業の自動車部門は乗用車・トラック・バスを幅広く手がけていたが、トヨタや日産と比較して乗用車の販売規模では劣勢にあった。自動車事業の拡大には莫大な設備投資と販売網の整備が必要であり、三菱重工の一部門として運営する体制では、迅速な意思決定や外部からの資本調達に限界があった。 一方、米国の大手自動車メーカーであるクライスラーは日本市場への進出を模索していた。1960年代には米GMがいすゞ自動車と、米フォードがマツダ(東洋工業)と提携しており、クライスラーとしても日本メーカーとの提携を通じた事業展開が課題となっていた。両社の利害が一致し、1969年5月に三菱重工とクライスラーは自動車事業における合弁提携で合意した。

決断

三菱重工から自動車部門を分離・合弁会社として発足

1970年4月に三菱重工業の子会社として「三菱自動車株式会社」を設立。同年6月に三菱重工から自動車部門(水島・名古屋・京都・川崎の各製作所)を譲り受けて営業を開始した。1971年にはクライスラーが三菱自動車の株式15%を取得し、三菱重工とクライスラーの共同事業として経営体制を整えた。 発足直後の1972年度における国内販売シェアは、乗用車6.6%、トラック11.4%、バス22.2%であり、大型商用車(大型トラック34.6%、大型バス37.3%)に強みを持つ構成であった。乗用車市場ではトヨタ・日産に大きく引き離されており、合弁パートナーであるクライスラーの販売網を活用した海外展開が成長の鍵と位置づけられた。

結果

「不平等条約」が北米市場の成長を制約

しかし、合弁の枠組みには三菱自動車にとって深刻な制約が内包されていた。クライスラーと締結した「合衆国流通契約」により、三菱自動車は米国市場において「2ドア車のみの販売」かつ「クライスラーによる独占販売」という条件を無期限で受け入れた。主力の4ドア小型車の輸出が封じられ、自社の販売網を形成することもできない状態となった。 クライスラーにとっては、三菱自動車を日本進出の足がかりとしつつ北米市場では自社と競合しない仕組みを確保する合理的な契約であった。しかし三菱自動車にとっては「不平等条約」と形容される制約であり、北米における事業拡大の障壁となった。この契約は1981年の改定まで続き、提携当初からクライスラーとの関係悪化の要因となった。久保富夫社長は「非常に縛られるような提携はやめるべき」と述べており、合弁パートナーとの力関係が経営を制約する構造的な問題は、のちのダイムラークライスラーとの提携においても繰り返されることとなった。