重要な意思決定
19253月

中外新薬商会を創業

背景

関東大震災後の東京における医薬品事業への参入判断

1923年の関東大震災は、東京の都市機能と産業活動を広範に破壊した。貿易会社に勤務していた上野十蔵は、焼失した市街地と医薬品供給の途絶を目の当たりにし、復興局面で需要が継続する医薬分野に着目した。震災後の東京では医療機関の再建と衛生環境の改善が急務であり、医薬品への需要は一時的なものではなく構造的に持続すると見込まれた。

1925年3月、上野は個人事業として中外新薬商会を創業し、ドイツの製薬企業ゲーへ社の医薬品輸入代理を開始した。輸入販売は自社に製造設備を持つ必要がなく、投下資本を抑えながら市場参入が可能であった。上野は販売活動を通じて医療現場の需要構造を把握し、取引先との信用関係を積み上げていった。

ただし、輸入依存には為替変動と通商環境の変化というリスクが内在していた。1930年代に入ると国際情勢の不安定化が進み、海外からの安定調達に対する不確実性が高まった。上野は、輸入で得た取引基盤と製品知識を足がかりに、国内での自社製造へ事業を拡張する構想を描いた。医療現場で恒常的に需要がある注射薬を製造対象に選び、供給側の参入余地がある分野から着手する判断であった。

決断

輸入代理を足がかりに注射薬の自社製造に踏み切る

1926年5月、上野は池袋に工場を新設し、医療用注射薬「ザルソブロカノン」の製造を開始した。輸入代理から製造業への転換は固定資産投資を伴うリスクテイクであり、短期の投資回収は不透明であった。それでも上野は、単一製品に経営資源を集中させる選択を行った。戦前の医薬品市場では製品ごとの需要規模が限定的であったため、多品目展開よりも単一製品の製造・品質管理・販売を一体で運営する方が合理的と判断された。

上野は後年、ザルソブロカノンを「当社の旗印」と位置づけ、売上の中核として語っている。一方で「書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です」と述懐しており、研究開発力と人材の制約が製品範囲を限定していた。この制約のもとで、上野は既存製品の市場浸透と供給量の拡大に注力し、少数製品に依存する事業構造を意図的に維持した。

その後、需要の増加に対応して設備投資を段階的に進めた。1936年には高田工場を新設して生産規模を拡大し、1943年には株式会社へ組織変更を行い資本調達の基盤を整えた。これらの判断は、販売数量の見通しに基づく供給能力の積み上げであり、多角化や研究開発投資ではなく、既存製品の製造と流通に資源を配分する方針が一貫して取られた。

結果

ザルソブロカノン一点集中がもたらした事業基盤と制約

戦前の中外製薬は、ザルソブロカノンという単一製品への集中によって製造と販売の経験を蓄積した。少数製品に資源を集約したことで品質管理と原価管理の精度を高めることが可能となり、限られた資本のもとで一定の供給体制を確立した。一方で、特定製品への依存度が高い事業構造は、需要変動に対する脆弱さを内包していた。

戦前期の同社は、製品の多角化や新規領域への参入といった選択を取ることなく、単一製品のシェア拡大と供給能力の増強を繰り返す事業運営を行った。研究開発投資は限定的にとどまり、上野自身が認識していた心臓薬・肝臓薬といった隣接領域への進出は実現しなかった。この時期に定着した「少数製品の製造と販売を一体で効率化する」という判断の型は、戦後の事業展開にも影響を与えた。

創業期に確立された事業展開の順序は、輸入代理による市場参入、製造業への転換、単一製品への集中投資、設備拡張による供給能力の段階的な積み上げであった。これらは体系的に計画されたものではなく、資本制約と市場機会に応じた逐次的な判断の積み重ねであった。この創業期の経験は、戦後のグロンサン開発において研究成果を工業化するという展開の前提条件を形成した。