重要な意思決定
194310月

大日本スクリーン製造所を設立

背景

銅版彫刻の将来を悲観した2代目が、写真印刷用ガラススクリーンの研究に転じた技術転換

石田旭山印刷所を継承した石田敬三は、1920年代に写真の普及を見据え、従来の銅版彫刻を前提とした事業の将来を悲観した。写真印刷では画像を微細な点の大小で表現する必要があり、その核となる部材が「ガラススクリーン」であった。ガラス面に微細な平行線を引き、化学的に蝕刻(エッチング)して黒色の不透明物質を充填するという精密加工が求められたが、当時の日本にはこの技術を持つ企業が存在せず、全量を海外からの輸入に依存していた。

石田敬三はガラススクリーンの国産化に着手したが、ガラス面のエッチングに要求される精密さは既存の技術水準を大きく上回っていた。1934年に「写真製版用網目スクリーンの蝕刻法」を開発し、商工省から工業研究奨励金7000円の交付を受けて量産研究を開始した。しかし量産工程の確立は難航し、参入決定から約20年の歳月が研究開発と生産技術の確立に費やされた。

決断

1943年に株式会社化し、軍需品としてのガラススクリーン供給を開始

1943年10月、石田敬三は株式会社として大日本スクリーン製造所を設立し、自ら初代社長に就任した。戦時中は軍が広報・宣伝のために写真を活用する需要があり、国産のガラススクリーンは軍需品として供給された。従来の輸入依存体制では戦時下の調達が困難であったため、国産化の実現はこの時期の需要と合致した。

大日本スクリーン製造の創業は、印刷職人の家業が精密加工技術を軸とする製造業へと転換する起点であった。ガラスへの化学的エッチングという基盤技術は、戦後の写真製版機器、カラーテレビ向けシャドーマスク、そして半導体製造装置へと展開される技術的な系譜の出発点となった。

結果

精密エッチング技術が戦後の多角化と半導体製造装置参入の技術的原点に

石田敬三が20年かけて確立したガラスへの精密エッチング技術は、戦後の大日本スクリーンの技術展開の基盤となった。1960年代にはソニーと共同でカラーテレビ向けシャドーマスクを開発し、1970年代には半導体製造装置(ウエハ洗浄装置)への参入を果たした。いずれも「精密な画像を化学的に加工する」というエッチング技術の応用であった。

創業者の孫にあたる石田徳次郎は「当社の数々の技術は、画像を創るミクロン単位の技術を基点として、マクロな展開を遂げた」と述べている。銅版彫刻からガラスエッチングへ、そして半導体製造装置へという技術の系譜は、祖業の危機感から生まれた技術転換が、80年後の半導体洗浄装置の世界シェア首位へとつながる構造を示している。