重要な意思決定
19762月

富士通が救済支援・ICテスタに注力

背景

元上司・清宮博への救済要請と富士通の介入決定

1975年のオイルショックを機に赤字転落したタケダ理研は、社内クーデターによる創業者・武田郁夫氏の解任を経て深刻な経営危機に陥った。メインバンクは財務リスクを問題視して融資を拒んでおり、独力での再建は困難な状況にあった。武田氏は窮余の策として、通信省電気試験所時代の元上司であった清宮博氏に救済を要請した。清宮氏は当時、富士通の社長を務めていたが、持病の悪化により自宅で療養中の身であった。

清宮氏と武田氏の間には1950年代からの師弟関係があり、エレクトロニクス分野の研究開発をめぐって長年にわたる信頼が築かれていた。清宮氏は富士通社内の反対意見を調整し、「銀行には資金面の協力を求め、富士通は経営の指導を行う」という方針でタケダ理研の救済を決定した。富士通は同社への出資と経営人材の派遣を決め、タケダ理研は信用を回復して銀行からの救済融資も確保することができた。

清宮氏は救済が正式に決定した後、川崎の富士通病院から武田氏を呼び「いろいろ大変だったよ」と語ったという。清宮氏は翌1976年4月に逝去しており、死に至る病床にあったからこそタケダ理研の再建を推したのだという声もあった。武田氏が30歳から50歳までの20年間を注いだ会社の存続が、かつての上司の最晩年の決断に懸かっていたことになる。

決断

原価管理の確立とICテスタへの経営資源集中

1976年2月、富士通から派遣された海輪利正氏がタケダ理研の社長に就任し、実質的な経営再建が始まった。海輪氏が就任直後に直面したのは、従来のタケダ理研には原価計算が存在しないという事実であった。研究開発型ベンチャーとしての技術偏重が、採算管理の欠如という形で経営の根幹を蝕んでいたことが明らかとなった。

海輪社長はまず機種別の原価管理を導入し、営業人員による値引きを禁止するなど、原価管理と販売体制の改革を推進した。事業面では、赤字転落の一因となったミニコンピュータによる計測器事業からの撤退を決定し、経営資源をICテスタの新製品開発に集中させた。ICの技術革新が加速する中で、新製品比率の向上を最重要指標として位置づけた。

この集中投資の成果は数字に表れた。売上高に占める新製品比率(発売後1年未満の製品)は、1976年時点の4%から1981年度には45%へと急伸した。ICテスタ分野で次々と新製品を投入することで半導体メーカーの技術革新に追従する体制が整い、タケダ理研は計測器の中堅メーカーからICテスタの専業メーカーへと事業構造の転換を果たした。

結果

富士通が顧客としても再建を支えた依存構造

経営再建の過程で特徴的だったのは、富士通が出資者・経営指導者であると同時に、タケダ理研の主要顧客でもあった点である。1980年3月期の販売高のうち22.6%が富士通向けであり、富士通は自社の半導体事業にタケダ理研のICテスタを積極的に採用することで、製品の販路としても再建を下支えした。

ICテスタの販売拡大により業績は着実に改善し、タケダ理研は1983年2月に東京証券取引所第2部に株式上場を果たした。上場前の1982年3月期には、売上高の30%が日立製作所向け、26%が富士通向けであり、国内大手半導体メーカー2社が主要顧客として定着した。上場をもって富士通主導の経営再建は一つの区切りを迎えた。

この再建過程でタケダ理研は、研究開発型ベンチャーから管理体制を備えた上場企業へと脱皮を遂げた。原価計算の不在という創業期の欠陥が是正される一方、売上の過半を富士通・日立の2社に依存する顧客集中の構造が形成された。ICテスタという製品の特性上、顧客の半導体投資サイクルに業績が連動する事業構造は、この再建期に確立されたものであった。