菱刈鉱山を開山(鹿児島県)
国内鉱山の閉鎖が進む中で1000万円で取得した未開発鉱区
高度経済成長期の九州南部には小規模な金鉱山が点在しており、三井金属が串木野において金鉱山を経営していた。その一つである鹿児島県の山田鉱山(のちの菱刈鉱山)について、1969年に住友金属鉱山の子会社に対して1000万円での鉱区売却が打診された。山田鉱山では戦前に小規模な金の産出実績があったが、採掘に伴い温泉が噴出する鉱区であり、排水技術への投資がボトルネックとなって開発が断念されていた。
鉱区売却が打診された時点で大規模な金鉱脈は発見されておらず、住友金属鉱山の経営陣は買収に消極的であった。しかし、国内鉱山の相次ぐ閉鎖によって消沈気味であった技術陣が鉱区の取得に前向きな姿勢を示したことで、最終的に菱刈鉱区の取得が決定された。技術陣にとって菱刈鉱区は、国内鉱山が閉鎖に向かう局面の中で新たな鉱山開発の可能性を追求できる案件であった。
ただし、1970年代を通じて住友金属鉱山は別子・鴻之舞といった主力鉱山の閉鎖に経営資源を投下しており、菱刈鉱区における本格的な探査に資金を充てる余裕がなかった。鉱区取得から10年以上にわたり自社での探査は進まず、菱刈鉱区は住友金属鉱山の保有資産として維持されるにとどまっていた。この状況を打開する契機となったのが、日本政府が出資する金属鉱業事業団による地質調査であった。
金属鉱業事業団の調査で全18本が金鉱脈に到達
金属鉱業事業団が菱刈鉱区における地質調査に着手し、1980年から3本のボーリング調査を実施した。1本目のボーリングで高品位の金鉱脈が発見され、当初は偶然の発見と見られた。しかし、その後1982年までに合計18本のボーリング調査を行った結果、すべてが金鉱脈にあたり、菱刈鉱区における金鉱脈の存在が確定した。18本の全数が鉱脈に到達した調査結果は、菱刈鉱区が大規模な金鉱床であることを裏付けるものであった。
金鉱脈の存在が確定したことを受けて、住友金属鉱山は菱刈鉱山の大規模な開発を決定した。鉱区取得から16年を経て、ようやく本格的な鉱山開発に踏み切ることとなった。調査の過程で金鉱脈が60度の温泉の中に存在することも判明し、鉱山開発にあたっては温泉の排水処理と並行して鉱区の開発を進める必要があった。
1985年7月に住友金属鉱山は菱刈鉱山における出鉱を開始した。出鉱開始時の実績として、4000トンの鉱石から金162グラム・銀125グラムの品位を記録し、年間7〜8トンの産金量が期待された。当時の金価格に換算すると、年間の売上高は約140億円に相当する規模であり、国内鉱山の閉鎖が相次ぐ中で菱刈鉱山は異色の金山として注目を集めた。
推定埋蔵量250トンを擁する国内唯一の稼働鉱山
1991年の時点で菱刈鉱山における推定埋蔵量は250トンと見込まれ、佐渡金山が江戸時代以降に累計で産出した76トンと比較して3倍以上の規模が期待された。日本の鉱山史においても菱刈鉱山はトップクラスの埋蔵量を有する金鉱山と位置づけられ、国内では鉱山閉鎖が相次ぐ中、商業生産ベースで稼働する数少ない鉱山として存在感を示した。
住友金属鉱山は菱刈鉱山において、開山以降一貫して年間約6トンの金を産出し、100億円から240億円の収益を安定的に確保してきた。金価格の変動に伴い収益額は年度ごとに異なるが、菱刈鉱山は住友金属鉱山の事業ポートフォリオにおいて安定的な収益源として機能し続けている。2024年時点においても菱刈鉱山は国内唯一の商業生産ベースで稼働する鉱山であり、住友金属鉱山の事業において独自の地位を占めている。
また、菱刈鉱山は住友金属鉱山における鉱山技術者の育成拠点としても活用されてきた。国内唯一の稼働鉱山として、採掘・製錬・排水処理といった実地経験を積む場を提供し、グローバルな資源開発プロジェクトに携わる技術人材を輩出する機能を担っている。菱刈鉱山は金の産出による収益貢献にとどまらず、海外鉱山の開発・運営に不可欠な技術者育成の基盤として住友金属鉱山の事業を支えている。