重要な意思決定
19504月

石炭・非鉄金属を会社分離

背景

財閥解体により旧三菱鉱業の石炭と非鉄金属を分離

戦後の財閥解体(過度経済力集中排除法)により、旧三菱鉱業は石炭と非鉄金属の事業分離を求められた。1950年に石炭事業は三菱鉱山(2代目)に継承され、非鉄金属事業は太平鉱業(のちの三菱金属)として発足した。分離直後は財閥商号の利用が許可されなかったため、1952年までは太平鉱業の商号が用いられた。1952年に商号を三菱金属鉱業に変更し、三菱グループにおける非鉄金属事業を担う体制が整った。

太平鉱業の発足時点で国内14鉱山を保有し、主力製錬所として大阪・直島・秋田の3拠点を稼働する国内大手の非鉄金属企業となった。なお、1990年に三菱金属と三菱鉱業セメント(旧三菱鉱山が商号変更した企業)が合併しているが、これは1950年に分離された旧三菱鉱業の2社が約40年を経て再合同を果たしたものであった。

決断

尾去沢・細倉・生野・明延の4鉱業所を主力に事業展開

1950年代の三菱金属における主力拠点は、尾去沢鉱業所(秋田県)・細倉鉱業所(宮城県)・明延鉱業所(兵庫県)・生野鉱業所(兵庫県)の4拠点であり、いずれも従業員数1000名を超える大規模な事業所であった。これらの鉱山では鉛・亜鉛を中心に金・銀・銅などの鉱物資源を産出し、瀬戸内海の直島製錬所などで精錬して製品化する体制が構築された。

終戦直後の三菱金属は国内鉱山における採掘を主力事業としており、各鉱山において労働集約型の操業によって資源を採掘することで収益を確保した。4つの主力鉱業所はいずれも地方に立地する大規模事業所であり、地域経済における雇用の受け皿としても機能していた。この雇用構造は、のちの国内鉱山閉鎖において従業員処遇が重要課題となる背景となった。