重要な意思決定
19367月

協和化学研究所を発足

背景

酒造3社のカルテルから生まれた発酵化学の研究拠点

1930年代の日本では蒸留酒(工業用アルコール)の製造が重要産業のひとつであり、宝酒造・合同酒精・日本酒類の大手3社が市場を形成していた。3社は販売競争の激化を背景に「協和会」と呼ばれるカルテルを結成し、生産調整と協同販売を行っていた。1936年7月にこのカルテルの延長線上で、3社が共同出資して東京・渋谷の幡ヶ谷に「協和化学研究所」を設立し、発酵技術に関する共同研究を開始した。

協和化学研究所に宝酒造から派遣されたのが、当時市川工場長を務めていた加藤辨三郎氏であった。加藤氏は戦後の1949年に社長に就任し、1968年から会長を歴任、1983年に会長のまま逝去するまで経営トップの座にあり続けた。酒造3社の共同出資で始まった研究所は、戦後の財閥解体を経て「協和発酵工業」として独立企業となり、加藤氏が実質的な創業者として事業の方向性を定めることになる。

決断

発酵技術の軍需転用から航空機燃料の量産計画へ

加藤辨三郎氏は発酵技術を化学工業に応用する研究に着手し、糖蜜を原材料としてブタノールを製造し、さらにこれを航空機燃料であるイソオクタンに転換する技術の開発を進めた。この研究に軍部が着目したことで、発酵技術を化学に応用するという事業の方向性が確立された。協和化学研究所は酒造3社の共同研究機関という当初の性格を超え、軍需に直結する化学技術の開発拠点へと変貌を遂げた。

戦時中には航空燃料の量産体制を整備するため、富士工場を新設して触媒の生産を開始したほか、東洋紡などと共同で東亜化学興業を設立して宇部(防府)工場を稼働させた。糖蜜を原材料とする航空機燃料の大量生産が計画されたが、戦局の悪化に伴い南方からの糖蜜輸送が途絶したため量産には至らず、工場は無水アルコールの製造に転じて終戦を迎えた。軍需企業としての準備は整いつつあったが、最終製品の生産を開始する前に戦争が終結した。

結果

軍需喪失と民需転換による発酵化学メーカーへの再出発

1945年8月の終戦により、協和発酵は航空燃料の開発という基幹事業を一挙に喪失した。軍需の消滅は事業基盤の崩壊を意味し、約800名の人員整理を含む大幅な事業縮小を余儀なくされた。戦後の財閥解体と企業再建整備法の適用を経て、1949年7月に旧会社を解散し、第二会社として「協和発酵工業株式会社」を設立した。これにより酒造3社の系列から完全に離れ、加藤辨三郎氏を社長とする独立企業として再出発を果たした。

しかし戦時中に蓄積された発酵技術と化学への応用という技術的基盤は、終戦によっても失われなかった。加藤辨三郎氏は民需転換の方針として、発酵技術を医薬品や食品化学へ応用する経営指針を打ち出した。1951年にはメルク社との技術提携により結核治療薬「ストレプトマイシン」の製造を開始し、医薬品事業に本格参入した。軍需企業として出発した協和発酵が、戦後に医薬品・アミノ酸・酒類を手掛ける多角的な発酵化学メーカーへと転身する起点は、この民需転換の判断に求められる。