重要な意思決定
1982

二輪車増産(HY戦争)

背景

北米主導権を巡る数量競争の緊張

1970年代後半から1980年代初頭にかけて、北米二輪車市場は数量と価格の両面で競争が激化していた。ヤマハ発動機株式会社は、輸出主導の成長によって世界シェア2位を維持していたが、北米ではホンダが依然として最大シェアを握っていた。1970年代の拡張投資により、日本メーカー各社は高い生産能力を保有しており、市場需要の変動が在庫と稼働率に直結する状況にあった。

1980年代に入ると、北米・中東向け輸出の伸びは鈍化し、価格競争の比重が高まった。こうした環境下で、ヤマハ発動機は数量拡大によってシェア差を縮める戦略を選択し、二輪車生産の増産余地を国内に求めた。1982年時点で累計生産台数は2,000万台に達しており、生産能力の引き上げが現実的な選択肢として検討されていた。

決断

国内増産による首位奪取の狙い

1982年、ヤマハ発動機は二輪車の増産を決定した。実質的な意思決定社は日本楽器製造の創業家であり、ヤマハ発動機の会長である川上源一氏であった。狙いは、ホンダが北米で展開する販売体制の変化(特に北米における四輪車への積極投資による、二輪車への投資余力の減少)を機に、国内生産量を引き上げ、価格競争力と供給量で差を詰めることであった。同社は「追いつき、追い越せ」を掲げ、国内シェアでホンダと並ぶ水準まで接近した局面も生じていた。

これに対し、ホンダは川上会長に対する警戒感を強め、対抗策を明確化した。ホンダは外部コンサルティングを起用し、価格引き下げを含む大規模な販売攻勢を準備した。ホンダによる方針は、ヤマハ発動機の収益力を低下させ、長期にわたり競争行動を牽制する内容であり、北米・国内の両市場で同時に実行された。この段階で、両社は数量と価格を軸にした正面衝突に入った。

結果

販売攻勢による劣勢と経営再建局面

ホンダはヤマハの主力車種に対抗する新製品を投入し、発売初日から大幅な値引きを実施した。これにより、ヤマハ発動機は価格面での対応を迫られ、利益率は急速に低下した。加えて、北米および中東向け輸出が同時期に減速し、在庫が急増した。結果として、同社は大幅な減収減益に陥り、無配へ転落した。

国内シェアではホンダとの差を3.5%まで縮めたものの、数量競争は持続せず、ヤマハ発動機は劣勢を余儀なくされた。その後、社長であった小池久雄が引責辞任し、経営体制は刷新された。新社長となった江口秀人は、過剰生産体制の解消を優先し、年産350万台規模から150万台体制への縮小を目標に掲げた。設備投資の中止、希望退職の募集、不稼働設備の明示などが実行され、就任初年度には350億円の赤字を計上する形で損失を一括処理した。これにより、ヤマハ発動機は増産路線を終え、再建局面へ移行した。