重要な意思決定
196610月

磐田工場を新設

背景

国内二輪車需要停滞と多角化分岐

1960年代を通じて、日本国内の二輪車市場は成長が鈍化した。所得水準の上昇により移動手段の主役が四輪車へ移行し、生活必需品としての二輪車需要は拡大しにくい状態となった。販売数量の伸びが見込めない中で、二輪車メーカー各社は既存事業の延長ではなく、「二輪車の次」を模索する局面に入っていた。

この局面において、各社の選択は分かれた。ホンダとスズキは、二輪車で得た収益を四輪車開発に投下し、自動車事業への参入を進めた。一方、ヤマハ発動機株式会社は四輪車への本格参入を見送り、相対的に設備投資負担が小さいマリン事業などへ分散した。二輪車については、国内市場の回復を前提とせず、輸出による数量確保が現実的な選択肢として意識されるようになっていた。

決断

輸出量産拠点としての磐田工場新設

1966年10月、ヤマハ発動機は二輪車への設備投資を決定し、静岡県磐田市に磐田工場を新設した。狙いは、量産拠点を拡張することで製造コストを引き下げ、北米および欧州市場向け二輪車の価格競争に対応することであった。それまでの主力工場は浜北工場であったが、敷地制約が存在し、生産能力の拡張余地は限定的であった。

磐田工場では将来の増床を前提に広大な用地が確保された。1970年時点で、浜北工場の敷地面積は6.9万㎡(建物4.4万㎡)であったのに対し、磐田工場は51万㎡(建物5.6万㎡)を有していた。工場稼働後、ヤマハ発動機は本社機能を浜北から磐田へ移転し、磐田工場を基幹工場として位置付けた。また、北米市場向けには1967年以降、RDシリーズを中心としたスポーツ用途車種の開発を本格化し、排気量50cc以上の領域に注力する方針を明確にした。

結果

輸出拡大と世界シェア2位の確立

1960年代後半以降、ヤマハ発動機は北米および欧州市場を中心に二輪車輸出を拡大した。大排気量車の投入により、輸出台数と単価の双方が上昇し、国内市場の停滞を外需で補う形となった。1967年時点で、同社はスズキを上回り、二輪車の世界シェアで2位に到達した。

北米市場では1977年度時点でシェア21.2%を確保し、シェア1位のホンダ(40.5%)に次ぐ位置となった。輸出台数はFY1965年の約4万台からFY1969年には22万台、FY1974年には80万台、FY1977年には130万台へ拡大した。工場別の従業員配置をみると、1965年時点では浜北工場に約2,000名が集中していたが、1975年には磐田工場が3,073名と主力拠点となり、生産重心は完全に移行した。磐田工場新設は、輸出数量の大幅増加をベースとした生産体制における設備投資であった。