重要な意思決定
販売不振で減収
背景
量産競争後の需要減速局面
1955年に後発参入したヤマハ発動機株式会社は、1950年代後半にかけて量産体制を拡張し、1960年までに国内二輪車生産シェアでホンダ、スズキに次ぐ第3位に到達した。乱立していた数十社の競合が退出する中で、生産数量を引き上げた企業群に残った形である。一方で、この時点で国内市場の成長率は低下し始め、需要の増分は限定的になっていた。
1960年代に入ると、国内二輪車市場は普及期を終え、保有更新中心の需要構造へ移行した。量産設備をすでに稼働させていた先行企業の生産能力が市場を覆い、新たな数量拡大の余地は縮小した。ヤマハ発動機はシェア3位から2位へ浮上したものの、その後は順位が固定化し、国内販売数量は伸びにくい局面に入った。この環境下で、国内向け出荷の減速が業績に直接影響する状態が形成されていた。
決断
国内販売不振下での生産維持
1963年4月、ヤマハ発動機は国内販売の伸び悩みにより減収となった。量産設備を前提とした事業運営において、販売数量の低下は工場稼働率の低下を通じて収益を圧迫する要因となった。国内市場のみでは生産量を吸収できず、数量調整か、別需要の確保が必要となる局面であった。
この状況に対し、同社は国内生産体制を維持したまま、海外向け出荷を拡大する方向へ動いた。特に北米市場への輸出を増やすことで、国内工場の稼働率を確保し、生産数量を下支えした。結果として、国内市場では成熟後も生産量2位の位置を維持し、スズキとの間で続いていた2位争いは1970年代に入ってからヤマハ発動機が優位となった。ここでは、国内需要の回復を待つのではなく、生産数量を外需で補完する選択が採られていた。