重要な意思決定
東証に株式上場
背景
株主希薄化によるリスク分散
1955年、ヤマハ(日本楽器製造)は二輪車製造事業を本体から切り出し、子会社としてヤマハ発動機を設立した。設立時の従業員数は約150名であり、楽器製造を担うヤマハとは法人を分けて運営された。二輪車製造は工作機械を前提とした設備投資が不可避であり、投下資本が短期間に膨らむ性質を持っていたため、ヤマハ本体の財務に直接影響を及ぼさない形が選ばれた。
創業期のヤマハ発動機は、設備投資を借入金に依存する状態で推移した。1957年前後の短期借入金は約4億円に達し、当時の資本金約3億円を上回っていた。自己資本比率は10%未満にとどまり、財務余力は限定的であった。量産体制の維持には継続的な投資が必要であり、販売数量の拡大と同時に、資本構成の調整が避けられない局面に入っていた。
決断
増資と借入調達による投資継続
この状況に対し、ヤマハ発動機は1950年代を通じて第三者割当による増資を実施し、借入金の返済と設備投資の両立を図った。借入依存を徐々に低下させることで、自己資本比率の引き上げを進めた結果、1959年10月末時点(当時非上場)で自己資本比率は33.9%まで上昇した。一方で、増資の継続により、親会社ヤマハの持株比率は45.0%まで低下し、資本関係上の位置付けは子会社から関連会社へと変化した。
その後、1961年にヤマハ発動機株式会社は東京証券取引所第一部に上場し、資本市場からの資金調達へ移行した。これに伴い、ヤマハの持分はさらに希薄化し、両社は運営面では独立性を高める方向へ進んだ。なお、設立当初から1992年まで、ヤマハ発動機の社長は川上源一(当時ヤマハ社長、戦後の事業多角化を主導した経営者)が務めており、意思決定は人的支配を通じてヤマハの影響下に置かれていた。