重要な意思決定
1960

ロサンゼルスに現地法人を新設

背景

商社依存を回避した自社ブランド海外展開の構想

戦後のヤマハは、国内市場だけでは成長余地に限界があると判断し、早期から欧米への輸出を志向していた。日本ではピアノの普及率が低く所得水準も限られていた一方、米国や欧州には既存の音楽文化と需要基盤が存在していたためである。

川上源一社長は、商社経由ではなく自社による直接輸出を選択した。商社が競合製品も扱う構造ではブランド統制やアフターサービスの質を維持しにくいと考えたためである。耐久消費財である楽器は、部品交換やクレーム処理を含む継続的なサービスが不可欠であり、品質管理を一貫して自社で行う方針が固まった。

決断

100%子会社でのブランド主導型海外進出

1958年のメキシコ法人設立に続き、1960年に米国ロサンゼルスへ現地法人を新設した。合弁ではなく100%子会社とし、「YAMAHA」ブランドでの自社展開にこだわった。当時はOEM供給が一般的であった中で、ブランド主導の販売戦略を採用した点に特徴がある。

並行して国内では、西山工場(1963年)、掛川工場(1965年)、磐田工場(1966年)を相次いで新設し、鋳造やアップライトピアノ量産を工程別に分業化した。輸出拡大に対応する生産基盤を国内に構築し、品質と原価の両面で競争力を確保する体制を整えた。

結果

1970年にピアノ世界シェア約30%を確保

1960年時点で米国向け輸出台数は年間150台にとどまっていたが、現地法人設立後は販売網とサービス体制の整備が進み、輸出は急拡大した。1970年には米国向け輸出台数が年間1万8千台規模に達し、現地市場での存在感を高めた。

1967年にはピアノ生産台数で世界首位を確保し、1970年には世界シェア約30%を占めた。国内では60〜70%のシェアを維持しつつ、海外市場を成長源とする構造へ転換した。商社を介さず自社ブランドで直接販売する体制が、品質と価格の主導権を維持する基盤となった。